柄の悪い竜と、強がりお嬢様   作:ゆゆゆい

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日常回です、いつまでも天音ちゃんのスウェットを着せておくわけにはいきませんからね

5話までお嬢様がスウェット着てたのおかしいな?


閑話

強がりお嬢様は服を選べない

 

 九条天音(くじょう・あまね)には、服がなかった。

 

 正確に言えば、まともに外へ着ていける服がほとんどなかった。

 

 雨の夜に着ていた衣服は、泥と雨水でひどく傷んでいる。洗えば着られないこともないが、袖口には裂けた跡があり、裾には落としきれない汚れが残っていた。

 

 現在身につけている灰色のスウェットは、黒瀬迅(くろせ・じん)が物置から引っ張り出してきたものだ。部屋着として使うだけなら困らないものの、袖も裾も天音には大きく、歩くたびに余った布が揺れる。

 

 その状態を見かねたのか、朝食を終えた直後、狐塚小春(こづか・こはる)が食堂の中央で両手を合わせた。

 

「じゃあ今日は、天音ちゃんの服を買いに行こうか」

 

 あまりにも軽い調子だったため、天音は味噌汁の椀を置いてから、しばらく小春の顔を見つめた。

 

「今日ですの?」

 

「うん。前から話してたでしょ?」

 

「服を買う必要があることは聞いております。ですが、日取りまでは聞いておりませんわ」

 

 天音が反論すると、向かいに座っていた三枝灯莉(さえぐさ・あかり)が、パンを持ったまま首を傾げた。

 

「昨日言ったよ。お風呂の後に、明日行こうって」

 

「……聞いたような気もしますわ」

 

「半分くらい上の空だったもんね」

 

 灯莉は責めるでもなく、ただ見たままを口にした。

 

 昨夜、天音は迅のことを考えていた。

 

 月明かりの下で光った赤い目と、人間の腕を覆った黒い鱗。背中から広がった翼は、夜の空気を押し退けるほど大きかった。

 

 朝には同じ食堂で食事ができたが、怖さがすべて消えたわけではない。迅が背後を通っただけで、身体がわずかに強張る瞬間もあった。

 

 迅はそれに気づいているはずだが、何も言わなかった。

 

「天音ちゃん?」

 

 灯莉に呼ばれ、天音は考えを振り払うように背筋を伸ばした。

 

「聞いておりますわ。服を買いに行くのでしょう。その程度、わたくし一人でも問題ありません」

 

「お金持ってる?」

 

「……」

 

「お店の場所は分かる?」

 

「……」

 

「電車は乗れる?」

 

「電車くらい知っておりますわ!」

 

 少しだけ声が大きくなった。

 

 電車の存在は当然知っている。九条家の車窓から駅や線路を見たこともあり、仕組みについても一般知識として理解している。

 

 ただ、自分で切符を買い、改札を通って乗車した経験がないだけだ。

 

「知ってるのと乗れるのは別だよ」

 

 灯莉は楽しそうに言った。

 

「少し説明が必要なだけです。できないわけではありません」

 

「それを、普通はできないって言うんじゃないかな」

 

「言いませんわ」

 

 天音がきっぱり否定したところで、食堂の入口から涼やかな声が届いた。

 

「私も行こうかしら」

 

 朽木硝子(くちき・しょうこ)が、廊下の壁へ軽く肩を預けて立っていた。その手には薄いスマートフォンがあり、画面には駅前の商業施設らしき案内が表示されている。

 

 天音は硝子の顔と、手元の端末を交互に見た。

 

「硝子さんも、そういったものをお使いになるのですか?」

 

「あら。使ってはいけない?」

 

「そういう意味ではありません。ただ、少し意外でしたの」

 

「鏡の怪異だからといって、連絡まで鏡越しにするわけではないわ。店を調べるにも、写真を撮るにも、これが一番楽だもの」

 

 硝子は何でもないことのように画面を消し、スマートフォンを鞄へしまった。

 

「それに、迅の趣味だけで天音の服を揃えたら、全部黒か灰色になりそうでしょう?」

 

「俺が選ぶ前提で話すな」

 

 台所から、すぐに迅の声が返ってきた。

 

 食後の皿を洗っていた迅は、振り返りもせずに続ける。

 

「必要なもんだけ買ってこい。金は出す」

 

「借りは必ず返しますわ」

 

 天音が言うと、迅は水を止め、肩越しにこちらを見た。

 

「返せるようになってから言え」

 

「返す意思を示しているのです」

 

「意思だけで金は増えねえよ」

 

 迅は手を拭くと、用意していた封筒を小春へ渡した。

 

 受け取った小春は中身を確認し、そのまま鞄へしまう。

 

「下着、部屋着、普段着、靴。必要なものはちゃんと揃えてくるよ」

 

「小春」

 

「何?」

 

「変なもん着せようとすんなよ」

 

 小春の笑顔が、ほんの少しだけ深くなった。

 

「変なものなんて着せないよ。似合うものを着てもらうだけ」

 

「その顔が信用できねえっつってんだよ」

 

 迅の警戒に、灯莉が吹き出す。

 

 天音は二人を見比べてから、眉を寄せた。

 

「変なものとは何ですの?」

 

「行けば分かるよ」

 

 小春はにこやかに答えた。

 

 その返事で、天音の不安はむしろ増した。

 

     ◇

 

 月見荘(つきみそう)から駅までは、歩いて十五分ほどだった。

 

 古い商店街を抜け、坂を下り、大きな通りへ出る。店先に並べられた値札、歩きながら飲み物を口にする学生、犬を連れた老人、自転車で横を通り過ぎる会社員。

 

 九条家の外にも世界があることは知っていた。

 

 だが、自分がその中を歩くことになるとは思っていなかった。

 

「天音ちゃん、もう少しこっち歩いた方がいいよ」

 

 灯莉が車道側から天音の腕を軽く引いた。

 

「自転車が通るから」

 

「見えておりますわ」

 

「見えてても、避けるの遅かったよ」

 

「距離を測っていただけです」

 

「自転車相手にも観察から入るんだ」

 

「安全確認です!」

 

 前を歩く小春が振り返り、笑いながら速度を緩めた。

 

「はいはい。駅までまだあるから、言い合いながら置いていかれないでね」

 

「言い合いではありません」

 

「会話です」

 

 天音と灯莉が、ほとんど同時に答えた。

 

 その直後、小さな撮影音が鳴る。

 

 振り返ると、硝子が何食わぬ顔でスマートフォンを下ろすところだった。

 

「硝子さん」

 

「何かしら」

 

「今、撮りましたわね?」

 

「風景をね」

 

「明らかにわたくしたちへ向けていたでしょう!」

 

「いい写真よ。言い合いながら並んで歩いている二人」

 

 硝子が画面を見せると、灯莉は素直に覗き込んだ。

 

「本当だ。天音ちゃん、すごい顔してる」

 

「消してくださいませ!」

 

「嫌よ。灯莉がよく写っているもの」

 

「私はいいんだ」

 

 灯莉は嬉しそうに笑った。

 

 天音は一人だけ納得できずに睨んだが、硝子は気にした様子もなく歩き始めた。

 

 駅へ着くと、最初の難関が待っていた。

 

 自動券売機である。

 

 小春に教えられた通り、天音は目的地までの料金を確認し、硬貨を投入した。そこまでは問題なかった。

 

 問題は、その後だった。

 

「……切符が小さすぎませんこと?」

 

「なくさないでね」

 

「この大きさでは、なくせと言っているようなものですわ」

 

「みんなそれで使ってるよ」

 

 灯莉に言われ、天音は切符を掌の上で裏返した。

 

 薄く、軽く、頼りない。

 

 九条家の通行札なら、もう少し存在感がある。少なくとも、手の中から勝手に消えそうな形はしていなかった。

 

「財布に入れた方がいいんじゃない?」

 

「すぐに改札で使うのでしょう。入れては出す手間が増えます」

 

「じゃあ、ちゃんと持っててね」

 

「当然ですわ」

 

 天音は切符をしっかりと握り、自動改札へ向かった。

 

 投入口へ差し込むと、紙片は一瞬で機械の中へ吸い込まれ、反対側から吐き出される。

 

 天音は出てきた切符と改札機を見比べた。

 

「なぜ一度飲み込んだものを返しますの?」

 

「まだ使うからだよ」

 

 灯莉は人の流れを止めないよう、天音の横へ寄った。

 

「目的地の駅を出る時に、今度は回収されるの」

 

「同じ機械なのに、状況によって返したり返さなかったりするのですか」

 

「そういう仕組みだね」

 

「一貫性がありませんわ」

 

 天音が納得できない顔で切符を見つめていると、後ろから来た乗客が少し速度を緩めた。

 

 小春が笑いながら天音の背中へ手を添える。

 

「仕組みの検証は向こうでしようね。今は先に進まないと、後ろが詰まっちゃうから」

 

「押さなくても歩けますわ。今、機械の挙動を確認していただけです」

 

「電子レンジの時も似たこと言ってたよね」

 

 灯莉に指摘され、天音は少しだけ頬を赤くした。

 

「今回は機械の意思を読もうとしているわけではありません!」

 

「そこは学習したんだ」

 

「最初から知っております!」

 

 三人の声が、駅構内の雑踏へ紛れていった。

 

 どうにか電車へ乗り込むと、昼前の車内にはいくつか空席があった。

 

 天音は小春に促されて腰を下ろしたものの、発車と同時に身体が傾き、慌てて隣の手すりを掴んだ。

 

「動きましたわ」

 

「電車だからね」

 

「思っていたより急です」

 

「最初だけだよ。すぐ慣れる」

 

 灯莉は隣で窓の外を流れる景色を眺め、小春は向かいの席で今日回る店を確認している。

 

 硝子もその隣へ腰を下ろしていた。

 

「硝子さんは、電車に乗る必要がありますの?」

 

 天音が尋ねると、硝子は顔を上げた。

 

「どういう意味かしら」

 

「鏡や反射するものを使って移動できるのでしょう? なら、目的地まで直接行けるのではありませんか?」

 

「行けるわよ」

 

「では、なぜわざわざ電車に?」

 

 硝子は少し考えるように、窓の外へ目を向けた。

 

「一人だけ先に着いても、つまらないでしょう」

 

 あまりにも普通の答えだった。

 

 天音は返事に迷った。

 

「それに、あなたが改札に負けるところも見られたもの」

 

「負けておりません!」

 

「少し止まってたよね」

 

 灯莉が口を挟む。

 

「確認していただけですわ!」

 

 電車の走行音に、三人の笑い声が混じった。

 

     ◇

 

 駅前の商業施設へ入ると、天音は思わず足を止めた。

 

 明るい照明の下に広い通路が伸び、左右には衣料品店や雑貨店、飲食店が並んでいる。色も形も違う服が隙間なく飾られ、行き交う人々はそれぞれ自分の足で店を選んでいた。

 

 九条家で服を用意される時、天音が店へ足を運ぶことはなかった。

 

 仕立屋が屋敷へ来て、家の者が用途を決め、必要な寸法を測る。天音が口を挟めるのは、窮屈かどうかを答える時くらいだった。

 

「さて」

 

 小春が両手を合わせる。

 

「まずは普段着から見よっか」

 

「何を基準に選ぶのです?」

 

「好きなもの」

 

「用途ではなく?」

 

「用途も大事だけど、今日は天音ちゃんが着たいものを探すの」

 

 小春は穏やかに言ったが、天音にはその言葉の方が難しかった。

 

 目の前には淡い色のブラウスや、短いスカート、デニム、パーカー、柄の入ったシャツが並んでいる。

 

 九条家の娘として相応しいものなら判断できる。

 

 公式の場で使えるか。家格を損なわないか。相手に軽く見られないか。そうした基準なら、いくらでもある。

 

 だが、自分が着たいものを選べと言われると、何も思い浮かばなかった。

 

「……分かりませんわ」

 

 小さく呟くと、灯莉が天音の隣へ並んだ。

 

「じゃあ、色々着てみればいいよ」

 

「試すのですか?」

 

「うん。着てみて、好きか嫌いか決めるの」

 

「似合わなければ?」

 

「戻せばいいじゃん」

 

「それだけですの?」

 

「それだけ」

 

 あまりにも簡単に言われ、天音は戸惑った。

 

 選び間違えても、別のものを試せばいい。一度で正解を出せなくても、それで終わりではない。

 

「まずはこれかな」

 

 小春が淡い色のブラウスと、膝下まであるスカートを持ってきた。

 

「天音ちゃん、こういうの似合いそう」

 

「無難ね」

 

 硝子が言う。

 

「最初から冒険させても疲れるでしょ」

 

「それもそうね」

 

 天音は差し出された服を受け取った。

 

「試着室はどちらです?」

 

「こっちだよ」

 

 小春に案内され、カーテンで仕切られた小さな空間へ入る。

 

 着替えて外へ出ると、三人の視線が一斉に集まった。

 

「似合う!」

 

 灯莉は素直に声を上げ、小春も満足そうに胸の前で手を合わせた。

 

「うん。やっぱり綺麗めの服は似合うね。これなら普段も着やすいし、洗うのも難しくないよ」

 

 小春は見た目だけでなく、布地や手入れのしやすさまで確認しているらしい。

 

「洗いやすさまで見るのですか?」

 

「着る服なら大事だよ。毎回特別な手入れが必要だと大変だからね」

 

「小春さんは、ずいぶん詳しいのですね」

 

「一人で暮らしてた時期もあるし、月見荘の服や布団をまとめて洗うこともあるから。嫌でも覚えるよ」

 

 小春は軽く笑った。

 

 その言葉の奥には、天音の知らない時間があるように感じられたが、聞き返す前に硝子が口を開く。

 

「似合うけれど、いつもの天音とあまり変わらないわね」

 

「いつものわたくし、とは?」

 

「九条家の娘として選ばれた服を着たあなた」

 

 天音の表情が少し固まった。

 

 硝子は悪意なく続ける。

 

「綺麗よ。でも、あなたが選んだようには見えない」

 

「硝子さん」

 

 小春が少しだけ窘めるように呼ぶ。

 

「意地悪で言っているわけではないわ」

 

 硝子は天音から目を逸らさなかった。

 

「これはこれで必要でしょう。でも、せっかく自分で買うなら、今まで選ばなかったものも着てみればいい」

 

 天音は鏡を見る。

 

 ブラウスもスカートも似合っている。

 

 品があり、目立ちすぎず、外聞を損なわない。九条家にいた頃なら、何の疑問も抱かなかっただろう。

 

 けれど確かに、自分で選んだ感じはしなかった。

 

「では、何を着ればよろしいのです?」

 

 天音が尋ねると、小春と灯莉の目が同時に輝いた。

 

「任せて」

 

「色々持ってくるね!」

 

「待ちなさい。なぜ二人とも楽しそうなのです!?」

 

 二人は答えず、店の奥へ消えていった。

 

 硝子はその背中を見送りながら、静かに言う。

 

「諦めた方がいいわね」

 

「何をですの?」

 

「しばらく試着室から出られないことを」

 

 その予言は、すぐに現実になった。

 

     ◇

 

 そこからは、試着の連続だった。

 

 明るい色のパーカー。

 

 細身のデニム。

 

 少し大きめのニット。

 

 丈の短い上着。

 

 動きやすいロングスカート。

 

 灯莉が選ぶ服は同年代らしく気軽で、小春が選ぶ服は少し落ち着いていて、着回しやすそうなものが多い。

 

 硝子は時々、二人が選ばないような濃い色や変わった形の服を持ってきた。

 

「これは胸元が開きすぎですわ!」

 

「そう?」

 

「そうです!」

 

「似合うと思うけれど」

 

「どこで着るのです!?」

 

「買い物とか」

 

「この服で買い物へ行く勇気はありません!」

 

 天音が突き返した服は黒く、布地の一部が透け、肩の周りに細い紐が何本も走っていた。

 

 服というより、天音には何らかの拘束具に見える。

 

「着ないと分からないわ」

 

「着なくても分かります!」

 

 硝子は残念そうでもなく、その服を元の棚へ戻した。

 

 すぐに灯莉が新しい服を両腕に抱えて戻ってくる。

 

「天音ちゃん、次これ!」

 

「なぜ増えていますの!?」

 

「ついでにこれも着てみて」

 

 小春まで、別のニットとスカートを追加した。

 

「小春さんまで!?」

 

「せっかくだしねえ」

 

 天音の腕へ、ブラウス、スカート、パーカー、デニム、ニットが次々と積まれていく。

 

 とうとう顔の半分まで服に埋もれたところで、硝子が最後に濃い色の上着をそっと一番上へ載せた。

 

「これは先ほどのものとは違いますわよね?」

 

「普通の上着よ」

 

「疑われてる」

 

 灯莉が笑う。

 

「誰のせいですの!」

 

 天音は服の山を抱えたまま、試着室へ戻った。

 

 カーテンが閉まる。

 

 しばらくして、中から小春を呼ぶ声がした。

 

「小春さん」

 

「どうしたの?」

 

「この服、背中のどこから腕を出すのです?」

 

 小春と灯莉が顔を見合わせる。

 

「それ、前後逆じゃない?」

 

 試着室の中が静かになった。

 

 ややあって、天音の低い声が返ってくる。

 

「……今の会話は忘れなさい」

 

「無理かな」

 

「忘れなさい!」

 

 灯莉はその場にしゃがみ込み、声を殺して笑っていた。

 

 試着を重ねるうちに、天音にも少しずつ好みが見えてきた。

 

 派手すぎる色は落ち着かない。

 

 短すぎるスカートも苦手だった。

 

 ただ、九条家では選ばなかった柔らかい素材のパーカーや、動きやすいデニムは思ったより嫌ではない。

 

「これなら、月見荘の近くを歩く時にも使えそうですね」

 

 小春が天音の選んだ服を確認し、頷いた。

 

「洗う時も普通のコースで大丈夫だし」

 

「洗濯機は、すでに攻略済みですわ」

 

「一回成功しただけだけどね」

 

 灯莉が口を挟む。

 

「成功は成功です」

 

「泡も出なかったしね」

 

「最初から出すつもりなどありません!」

 

 必要な普段着を一通り選んだ後、小春が部屋着の売り場へ天音を連れていった。

 

「最後はこれかな」

 

 灯莉が、どこか嬉しそうに一着の服を差し出した。

 

 濃い緑色のジャージだった。

 

 袖には白い線が入り、上下を揃えると運動部の合宿着のように見える。

 

 天音は受け取らず、まず灯莉の顔を見た。

 

「……これは」

 

「部屋着」

 

「すでにスウェットがありますわ」

 

「一着じゃ足りないでしょ」

 

 灯莉の言うことは正しい。

 

 だが、渡されたジャージはどう見ても、お嬢様が着るようなものではなかった。

 

「ほかのものはありませんの?」

 

「あるけど、これ絶対似合うと思う」

 

「似合うという言葉の意味を、一度確認した方がよろしいのでは?」

 

「いいから着てみて」

 

 天音は納得できないまま、ジャージを受け取った。

 

 着替えて鏡を見る。

 

 髪や顔立ちだけなら、確かに九条家の令嬢だ。

 

 その身体を包んでいるのは、どう見ても庶民的なジャージだった。

 

 天音はしばらく鏡を見つめてから、意を決してカーテンを開けた。

 

 三人が揃って黙る。

 

 沈黙が長い。

 

「……何ですの」

 

 天音が眉を寄せると、灯莉は口元を両手で押さえた。小春は横を向き、肩を震わせている。

 

 硝子だけは平然としていた。

 

 ただし、その手にはいつの間にかスマートフォンが握られ、撮影画面が開かれている。

 

「硝子さん」

 

「何かしら」

 

「なぜ撮影画面を開いておりますの?」

 

「記録に残す価値があると思って」

 

「ありません!」

 

 天音が一歩近づくと、硝子はスマートフォンを胸元へ引いた。

 

「安心なさい。勝手には撮らないわ」

 

「その言葉、信用してよろしいのですか?」

 

「ええ。許可は今から取るつもりだったもの」

 

「許可しません!」

 

 その横で、灯莉もそっとスマートフォンを構える。

 

「月見荘のグループに載せたら、絶対みんな笑うと思う」

 

「載せるなと言っていますわ!」

 

「千隼くん、すごい反応しそう」

 

「なおさら駄目です!」

 

 小春まで笑いながらスマートフォンを取り出した。

 

「じゃあ、私たちだけの思い出用に一枚」

 

「それも駄目ですわ!」

 

 三方向から向けられたスマートフォンを前に、天音は濃緑のジャージ姿のまま両腕を広げた。

 

「全員、今すぐしまいなさい!」

 

 買い物客の何人かが振り返る。

 

 天音はそれに気づき、顔を真っ赤にした。

 

「……見世物ではありませんわ」

 

「でも、すごく似合ってるよ」

 

 灯莉が笑う。

 

「お嬢様なのに、ものすごく部活動の合宿感がある」

 

「それは褒めておりませんわね!?」

 

「着心地はどう?」

 

 小春はまだ笑いながらも、服の袖や裾が合っているかを確認していた。

 

 天音は不満を顔に出しつつ、腕を軽く動かす。

 

 見た目はともかく、着心地は悪くない。むしろ布は柔らかく、動きやすい。袖や裾の長さも、迅から借りたスウェットより身体に合っていた。

 

「……着心地だけは、認めてもよろしいですわ」

 

「買う?」

 

 灯莉がすぐに尋ねる。

 

「もう少し品のある色はありませんの?」

 

「紺色もあるよ」

 

「そちらにします」

 

「緑も似合ってるのに」

 

「紺色にします!」

 

 天音の強い主張により、部屋着は紺色のジャージに決まった。

 

 硝子は撮影画面を閉じながら、静かに言う。

 

「一枚くらい残しておけばよかったわね」

 

「残さなくて結構です!」

 

     ◇

 

 昼食は、商業施設の中にあるファミリーレストランで取ることになった。

 

 席へ案内された天音は、テーブルの上に置かれたメニューを開き、すぐに動きを止めた。

 

「……多すぎませんこと?」

 

「何が?」

 

「料理の種類です。なぜ一つの店で、和食と洋食と甘味がすべて出てくるのです?」

 

「ファミレスだから」

 

「理由になっておりません」

 

 ハンバーグ、パスタ、ドリア、蕎麦、丼、ピザ。

 

 一冊のメニューに、統一感のない料理が並んでいる。

 

「お店の方は、すべて作れますの?」

 

「作れるからメニューにあるんじゃない?」

 

 灯莉はメニューをめくりながら答えた。

 

「専門性というものは?」

 

「迅さんも大体何でも作るよ」

 

 その一言で、天音は黙った。

 

 確かに迅は和食も洋食も作る。

 

「黒瀬迅を一般的な基準に含めてよろしいのですか?」

 

「よくはないと思う」

 

 小春が即答した。

 

 結局、天音は灯莉と同じハンバーグを注文した。

 

 料理が運ばれてくると、熱い鉄板の上でソースが音を立てている。

 

 天音は反射的に身を引いた。

 

「攻撃的な料理ですわね」

 

「跳ねるから気をつけて」

 

「なぜ料理が客に攻撃するのです?」

 

「そういうものだから」

 

「月見荘と同じ説明をしないでくださいませ」

 

 天音は慎重にナイフを入れ、ハンバーグを口へ運んだ。

 

 肉汁と濃いソースの味が広がる。

 

「……悪くありませんわ」

 

「美味しい顔してる」

 

 灯莉が即座に言う。

 

「顔で味を決めないでください」

 

「でも美味しいでしょ?」

 

「悪くないと言いました」

 

「それ、美味しい時の言い方だよね」

 

 天音は答えず、二口目を切り分けた。

 

 小春はサラダを食べながら、足元に置かれた買い物袋を確認している。

 

「必要なものは一通り揃ったかな。普段着、部屋着、靴、下着。あと、洗い替えもあるし」

 

「小春さん、本当にそういうところしっかりしてますよね」

 

 灯莉が感心したように言う。

 

「住み始めてから足りないって気づくと困るからね。私も昔、必要なものを後回しにして面倒なことになったし」

 

「昔?」

 

 天音が顔を上げる。

 

 小春は少しだけ目を細めたが、すぐに笑った。

 

「一人で何とかしようとして、失敗した時期があったってだけ。今はちゃんと人に頼るようにしてるよ」

 

 詳しく語るつもりはないらしい。

 

 それでも、いつも明るく世話を焼く小春にも、最初から何でもできたわけではない時期があったのだと分かった。

 

 灯莉はストローで飲み物を混ぜながら、少しだけ笑う。

 

「私は月見荘に来た時、ほとんど制服しかなかったなあ」

 

「制服だけ?」

 

「怪異に追いかけられて、そのまましばらく帰れなくなったから。最初は小春さんの服を借りてた」

 

「それでサイズが合わなかったんだよね」

 

 小春が懐かしそうに言う。

 

「袖が余って、天音ちゃんと同じ状態になってた」

 

「私の方がもう少し似合ってたと思う」

 

「何の勝負ですの?」

 

 天音が呆れると、二人は声を上げて笑った。

 

「硝子さんは?」

 

 天音が尋ねる。

 

「何がかしら」

 

「月見荘へ来た時です。服などは、どうしていたのです?」

 

 硝子は少しだけ目を細めた。

 

「さあ。どうだったかしら」

 

「覚えていないのですか?」

 

「覚えていることを、全部話す義務もないでしょう?」

 

 言い方は柔らかかったが、それ以上踏み込ませる気はないらしい。

 

 天音が少し気まずそうに口を閉じると、硝子は水の入ったグラスへ指を添えた。

 

「ただ、昔から服を見るのは嫌いじゃなかったわ。それで十分でしょう」

 

「……ええ」

 

「硝子さんの昔って、どれくらい昔なんですか?」

 

 灯莉が尋ねる。

 

 硝子は薄く笑った。

 

「女には秘密が多い方がいいのよ」

 

「怪異にも、の間違いではなくて?」

 

 天音が言うと、硝子は満足そうに目を細めた。

 

「少し慣れてきたわね、天音」

 

 過去そのものは、何も分からなかった。

 

 けれど硝子が答えたくないのなら、今はそれでいい。

 

 天音はそれ以上尋ねず、残っていたハンバーグへナイフを入れた。

 

     ◇

 

 昼食を終えて店を出たところで、天音は向かいの雑貨店に目を止めた。

 

 店頭には、いくつかのマグカップが並んでいる。

 

 白、青、赤、黄色。動物の絵が入ったものや、単純な模様だけのもの。

 

 月見荘の食器棚には、住人ごとの茶碗や湯呑みがある。

 

 天音が使っているのは、空いていた無地の湯呑みだった。

 

「何見てるの?」

 

 灯莉に尋ねられ、天音はすぐに視線を戻した。

 

「何でもありません」

 

「マグカップ?」

 

「見ていただけですわ」

 

「買えばいいじゃん」

 

「必要ありません。飲み物を入れる器なら、月見荘にもあります」

 

「でも、自分のはないでしょ?」

 

 天音は黙った。

 

 豪華な部屋も、服も、食器も、九条家にはあった。

 

 けれど、そのどれもが九条家の所有物だった。天音の意思とは関係なく与えられ、必要がなくなれば取り上げられるものだった。

 

「見に行こっか」

 

 小春が歩き出す。

 

「買うとは言っておりません」

 

「見るだけ見るだけ」

 

「今日、その言葉を何度聞いたと思っていますの?」

 

 それでも天音は、三人に連れられて雑貨店へ入った。

 

 最終的に選んだのは、薄い青色のマグカップだった。

 

 特別な模様はない。

 

 持ち手の近くに、小さな月の絵が一つだけ描かれている。

 

「月見荘っぽいね」

 

 灯莉が言う。

 

「偶然です」

 

「気に入ったんでしょ?」

 

「ほかよりは悪くなかっただけですわ」

 

「はいはい」

 

「はいは一回でよろしいです!」

 

 言い返した後、天音は少しだけ口元を緩めた。

 

     ◇

 

 夕方、四人は月見荘へ戻った。

 

 玄関を開けると、台所から夕食の匂いが漂ってきた。出汁と焼いた魚の香りが、買い物で歩き疲れた身体に染み込んでくる。

 

「ただいま」

 

 灯莉が最初に声を上げた。

 

「ただいま戻りました」

 

 小春が続く。

 

「帰ったわ」

 

 硝子は短く言った。

 

 天音だけが、一瞬言葉に迷った。

 

 ただいま。

 

 自分が口にしていい言葉なのか、まだ分からない。

 

 けれど、ほかに適した言葉も思いつかなかった。

 

「……ただいま、戻りましたわ」

 

 台所から迅が顔を出した。

 

「おう」

 

 それだけだった。

 

 何を買ったのか尋ねることもなく、無事に帰ったことを大げさに喜ぶこともない。

 

 けれど、その短い返事を聞いた瞬間、天音の肩から少しだけ力が抜けた。

 

「荷物置いてこい。もうすぐ飯だ」

 

「今戻ったばかりですのに、もう夕食ですか?」

 

「昼何食った」

 

「ハンバーグですわ」

 

「なら食えるだろ」

 

「どういう計算ですの?」

 

「昼に肉食ったくらいで、夜飯抜く必要ねえだろ」

 

 迅はそれだけ言って、台所へ戻った。

 

 天音は買い物袋を持ったまま、その背中を見送る。

 

 黒い翼を見た夜の記憶は、まだ胸の奥に残っている。

 

 それでも、朝より身体は強張らなかった。

 

「天音ちゃん、疲れた?」

 

 灯莉に尋ねられ、天音は首を振る。

 

「この程度で疲れるほど、軟弱ではありません」

 

「電車で手すりにしがみついてたけど」

 

「慣れていなかっただけです!」

 

「改札でも止まってたね」

 

「確認ですわ!」

 

 玄関先で再び言い合いが始まり、小春が二人の荷物を持ち直しながら笑った。

 

「はいはい。続きは荷物を置いてからね」

 

 天音の声が、夕方の玄関に明るく響いた。

 

     ◇

 

 その夜。

 

 入浴を終えた天音は、買ったばかりの紺色のジャージへ着替えた。

 

 濃緑のものよりは落ち着いた色合いで、鏡の前で見ても、まだ許容できる。九条家の娘らしさがあるかと問われれば微妙だったが、着心地はよく、借り物のスウェットより身体に合っていた。

 

 買った服をタンスへしまい終えると、天音は薄い青色のマグカップを手に一階へ下りた。

 

 食堂には誰もいなかったが、台所では迅が夕食の後片付けをしていた。水音に紛れて足音が聞こえたのか、迅が肩越しに振り返る。

 

 その視線が、天音の顔から足元までゆっくりと下りた。

 

 数秒の沈黙。

 

 次の瞬間、迅は盛大に噴き出した。

 

「ぶっ――」

 

 慌てて顔を背けたものの、もう遅い。

 

 喉の奥から漏れた笑いを堪えきれず、迅は流し台へ片手をついた。肩が大きく揺れ、もう片方の手で口元を覆っている。

 

 天音は目を見開いた。

 

「黒瀬迅」

 

「……悪い」

 

 謝ってはいるが、声は笑いで震えていた。

 

「今、明確に笑いましたわね?」

 

「笑ってねえ」

 

「噴き出しておいて、その言い訳が通ると思っておりますの!?」

 

 天音が睨みつけると、迅は一度だけ深く息を吸った。どうにか笑いを収めようとしたらしい。

 

 だが、改めて天音のジャージ姿を見た途端、また短く吹き出した。

 

「っ、は……駄目だ」

 

「何が駄目なのです!」

 

「その格好で、その喋り方は反則だろ」

 

「服装と品位は関係ありません!」

 

「そういうとこだよ」

 

 迅は顔を背けたまま、まだ笑いを引きずっている。

 

 天音は頬を赤くし、手にしていたマグカップを台へ置いた。

 

「明日の朝食に、だし巻き卵を追加しなさい」

 

「は?」

 

「慰謝料ですわ。大きめを二切れ」

 

 迅は数秒黙った後、天音の姿をもう一度見て、また口元を押さえた。

 

「その格好で、よくそんな堂々と言えるな」

 

「まだ笑いますの!?」

 

「悪い。無理だ」

 

「反省が見えませんわ!」

 

 天音が近くにあった布巾を投げると、迅は片手で受け止めた。

 

「分かった。二切れな」

 

「三切れです」

 

「何で増えんだよ」

 

「今また笑いました」

 

「面倒くせえ制度作んな」

 

 迅は呆れたように息を吐いたが、天音が紺色の袖を揺らしながら胸を張ると、また小さく噴き出した。

 

「四切れですわ」

 

「好きに食え」

 

「一本でも?」

 

「朝から食えるならな」

 

 あまりにも雑に許可され、天音の方が言葉に詰まった。

 

「……本当に一本出すおつもりですの?」

 

「お前が言ったんだろ」

 

「限度というものがありますわ!」

 

「知らねえよ」

 

 迅はまだ笑いの残る顔で、受け止めた布巾を肩へ掛け直した。

 

 騒ぎを聞きつけたのか、廊下から足音が近づいてくる。

 

 最初に顔を出した灯莉は、紺色のジャージ姿の天音と、流し台へ寄りかかって笑う迅を見比べた。

 

「あ、やっぱり笑った」

 

「やっぱりとは何ですの!?」

 

 その後ろから小春も覗き込み、迅の様子を見て目を丸くした。

 

「迅さん、そんなに?」

 

「これは無理だろ」

 

「小春さんまで納得しないでくださいませ!」

 

 少し遅れて現れた硝子は、騒がしい台所を見回した後、静かにスマートフォンを取り出した。

 

「珍しいものが二つ見られたわね」

 

「二つ?」

 

 灯莉が尋ねる。

 

「ジャージ姿の天音と、声を上げて笑う迅」

 

 硝子が撮影画面を開く。

 

「硝子さん、撮らないでくださいませ!」

 

「まだ撮っていないわ」

 

「まだ?」

 

「今から許可を取ろうと思って」

 

「許可しません!」

 

 天音の声が、夜の月見荘に響いた。

 

 迅はまだ笑っている。

 

 怖さは、消えていない。

 

 黒い鱗も赤い瞳も、記憶の中には残っている。迅が急に大きく腕を動かせば、身体がわずかに強張ることもある。

 

 それでも今、天音の胸を占めているのは恐怖ではなかった。

 

 顔から火が出そうなほどの恥ずかしさと、笑われ続けている腹立たしさの方が、ずっと大きい。

 

「黒瀬迅」

 

「何だよ」

 

「だし巻き卵は四切れですわ」

 

「一本じゃなかったのか」

 

「あなたに任せると、本当に一本出しそうですもの」

 

「食えねえなら言うな」

 

「量の問題ではありません。品位の問題です」

 

 迅はようやく笑いを収めかけていたが、紺色のジャージ姿で真剣に品位を語る天音を見て、再び噴き出した。

 

「黒瀬迅!」

 

 今度こそ、天音は布巾を二枚投げた。

 

 迅は一枚を片手で受け止め、もう一枚を顔に受けた。

 

 その瞬間、硝子のスマートフォンから小さな撮影音が鳴る。

 

 天音の動きが止まった。

 

「……硝子さん」

 

「迅を撮ったのよ」

 

 硝子は画面を天音へ見せた。

 

 そこには、布巾を顔に受けた迅が、まだ笑いを堪えきれずにいる姿が写っていた。端には、布巾を投げ終えた天音の紺色の袖だけが映り込んでいる。

 

「珍しいでしょう?」

 

 天音は写真と迅を見比べた。

 

 悔しい。

 

 だが確かに、ここまで大きく笑う迅は珍しい。

 

「……わたくしの姿が写っていないなら、今回は許しますわ」

 

「月見荘のグループに載せる?」

 

 灯莉が楽しそうに聞く。

 

「それは許しません!」

 

 夜の月見荘に、再び笑い声が広がった。

 

 棚には、天音が自分で選んだ青いマグカップが、住人たちの食器と並んでいた。

 




ジャージきてお嬢様口調でしゃべるだけで面白いのずるいよねって話
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