5話までお嬢様がスウェット着てたのおかしいな?
強がりお嬢様は服を選べない
正確に言えば、まともに外へ着ていける服がほとんどなかった。
雨の夜に着ていた衣服は、泥と雨水でひどく傷んでいる。洗えば着られないこともないが、袖口には裂けた跡があり、裾には落としきれない汚れが残っていた。
現在身につけている灰色のスウェットは、
その状態を見かねたのか、朝食を終えた直後、
「じゃあ今日は、天音ちゃんの服を買いに行こうか」
あまりにも軽い調子だったため、天音は味噌汁の椀を置いてから、しばらく小春の顔を見つめた。
「今日ですの?」
「うん。前から話してたでしょ?」
「服を買う必要があることは聞いております。ですが、日取りまでは聞いておりませんわ」
天音が反論すると、向かいに座っていた
「昨日言ったよ。お風呂の後に、明日行こうって」
「……聞いたような気もしますわ」
「半分くらい上の空だったもんね」
灯莉は責めるでもなく、ただ見たままを口にした。
昨夜、天音は迅のことを考えていた。
月明かりの下で光った赤い目と、人間の腕を覆った黒い鱗。背中から広がった翼は、夜の空気を押し退けるほど大きかった。
朝には同じ食堂で食事ができたが、怖さがすべて消えたわけではない。迅が背後を通っただけで、身体がわずかに強張る瞬間もあった。
迅はそれに気づいているはずだが、何も言わなかった。
「天音ちゃん?」
灯莉に呼ばれ、天音は考えを振り払うように背筋を伸ばした。
「聞いておりますわ。服を買いに行くのでしょう。その程度、わたくし一人でも問題ありません」
「お金持ってる?」
「……」
「お店の場所は分かる?」
「……」
「電車は乗れる?」
「電車くらい知っておりますわ!」
少しだけ声が大きくなった。
電車の存在は当然知っている。九条家の車窓から駅や線路を見たこともあり、仕組みについても一般知識として理解している。
ただ、自分で切符を買い、改札を通って乗車した経験がないだけだ。
「知ってるのと乗れるのは別だよ」
灯莉は楽しそうに言った。
「少し説明が必要なだけです。できないわけではありません」
「それを、普通はできないって言うんじゃないかな」
「言いませんわ」
天音がきっぱり否定したところで、食堂の入口から涼やかな声が届いた。
「私も行こうかしら」
天音は硝子の顔と、手元の端末を交互に見た。
「硝子さんも、そういったものをお使いになるのですか?」
「あら。使ってはいけない?」
「そういう意味ではありません。ただ、少し意外でしたの」
「鏡の怪異だからといって、連絡まで鏡越しにするわけではないわ。店を調べるにも、写真を撮るにも、これが一番楽だもの」
硝子は何でもないことのように画面を消し、スマートフォンを鞄へしまった。
「それに、迅の趣味だけで天音の服を揃えたら、全部黒か灰色になりそうでしょう?」
「俺が選ぶ前提で話すな」
台所から、すぐに迅の声が返ってきた。
食後の皿を洗っていた迅は、振り返りもせずに続ける。
「必要なもんだけ買ってこい。金は出す」
「借りは必ず返しますわ」
天音が言うと、迅は水を止め、肩越しにこちらを見た。
「返せるようになってから言え」
「返す意思を示しているのです」
「意思だけで金は増えねえよ」
迅は手を拭くと、用意していた封筒を小春へ渡した。
受け取った小春は中身を確認し、そのまま鞄へしまう。
「下着、部屋着、普段着、靴。必要なものはちゃんと揃えてくるよ」
「小春」
「何?」
「変なもん着せようとすんなよ」
小春の笑顔が、ほんの少しだけ深くなった。
「変なものなんて着せないよ。似合うものを着てもらうだけ」
「その顔が信用できねえっつってんだよ」
迅の警戒に、灯莉が吹き出す。
天音は二人を見比べてから、眉を寄せた。
「変なものとは何ですの?」
「行けば分かるよ」
小春はにこやかに答えた。
その返事で、天音の不安はむしろ増した。
◇
古い商店街を抜け、坂を下り、大きな通りへ出る。店先に並べられた値札、歩きながら飲み物を口にする学生、犬を連れた老人、自転車で横を通り過ぎる会社員。
九条家の外にも世界があることは知っていた。
だが、自分がその中を歩くことになるとは思っていなかった。
「天音ちゃん、もう少しこっち歩いた方がいいよ」
灯莉が車道側から天音の腕を軽く引いた。
「自転車が通るから」
「見えておりますわ」
「見えてても、避けるの遅かったよ」
「距離を測っていただけです」
「自転車相手にも観察から入るんだ」
「安全確認です!」
前を歩く小春が振り返り、笑いながら速度を緩めた。
「はいはい。駅までまだあるから、言い合いながら置いていかれないでね」
「言い合いではありません」
「会話です」
天音と灯莉が、ほとんど同時に答えた。
その直後、小さな撮影音が鳴る。
振り返ると、硝子が何食わぬ顔でスマートフォンを下ろすところだった。
「硝子さん」
「何かしら」
「今、撮りましたわね?」
「風景をね」
「明らかにわたくしたちへ向けていたでしょう!」
「いい写真よ。言い合いながら並んで歩いている二人」
硝子が画面を見せると、灯莉は素直に覗き込んだ。
「本当だ。天音ちゃん、すごい顔してる」
「消してくださいませ!」
「嫌よ。灯莉がよく写っているもの」
「私はいいんだ」
灯莉は嬉しそうに笑った。
天音は一人だけ納得できずに睨んだが、硝子は気にした様子もなく歩き始めた。
駅へ着くと、最初の難関が待っていた。
自動券売機である。
小春に教えられた通り、天音は目的地までの料金を確認し、硬貨を投入した。そこまでは問題なかった。
問題は、その後だった。
「……切符が小さすぎませんこと?」
「なくさないでね」
「この大きさでは、なくせと言っているようなものですわ」
「みんなそれで使ってるよ」
灯莉に言われ、天音は切符を掌の上で裏返した。
薄く、軽く、頼りない。
九条家の通行札なら、もう少し存在感がある。少なくとも、手の中から勝手に消えそうな形はしていなかった。
「財布に入れた方がいいんじゃない?」
「すぐに改札で使うのでしょう。入れては出す手間が増えます」
「じゃあ、ちゃんと持っててね」
「当然ですわ」
天音は切符をしっかりと握り、自動改札へ向かった。
投入口へ差し込むと、紙片は一瞬で機械の中へ吸い込まれ、反対側から吐き出される。
天音は出てきた切符と改札機を見比べた。
「なぜ一度飲み込んだものを返しますの?」
「まだ使うからだよ」
灯莉は人の流れを止めないよう、天音の横へ寄った。
「目的地の駅を出る時に、今度は回収されるの」
「同じ機械なのに、状況によって返したり返さなかったりするのですか」
「そういう仕組みだね」
「一貫性がありませんわ」
天音が納得できない顔で切符を見つめていると、後ろから来た乗客が少し速度を緩めた。
小春が笑いながら天音の背中へ手を添える。
「仕組みの検証は向こうでしようね。今は先に進まないと、後ろが詰まっちゃうから」
「押さなくても歩けますわ。今、機械の挙動を確認していただけです」
「電子レンジの時も似たこと言ってたよね」
灯莉に指摘され、天音は少しだけ頬を赤くした。
「今回は機械の意思を読もうとしているわけではありません!」
「そこは学習したんだ」
「最初から知っております!」
三人の声が、駅構内の雑踏へ紛れていった。
どうにか電車へ乗り込むと、昼前の車内にはいくつか空席があった。
天音は小春に促されて腰を下ろしたものの、発車と同時に身体が傾き、慌てて隣の手すりを掴んだ。
「動きましたわ」
「電車だからね」
「思っていたより急です」
「最初だけだよ。すぐ慣れる」
灯莉は隣で窓の外を流れる景色を眺め、小春は向かいの席で今日回る店を確認している。
硝子もその隣へ腰を下ろしていた。
「硝子さんは、電車に乗る必要がありますの?」
天音が尋ねると、硝子は顔を上げた。
「どういう意味かしら」
「鏡や反射するものを使って移動できるのでしょう? なら、目的地まで直接行けるのではありませんか?」
「行けるわよ」
「では、なぜわざわざ電車に?」
硝子は少し考えるように、窓の外へ目を向けた。
「一人だけ先に着いても、つまらないでしょう」
あまりにも普通の答えだった。
天音は返事に迷った。
「それに、あなたが改札に負けるところも見られたもの」
「負けておりません!」
「少し止まってたよね」
灯莉が口を挟む。
「確認していただけですわ!」
電車の走行音に、三人の笑い声が混じった。
◇
駅前の商業施設へ入ると、天音は思わず足を止めた。
明るい照明の下に広い通路が伸び、左右には衣料品店や雑貨店、飲食店が並んでいる。色も形も違う服が隙間なく飾られ、行き交う人々はそれぞれ自分の足で店を選んでいた。
九条家で服を用意される時、天音が店へ足を運ぶことはなかった。
仕立屋が屋敷へ来て、家の者が用途を決め、必要な寸法を測る。天音が口を挟めるのは、窮屈かどうかを答える時くらいだった。
「さて」
小春が両手を合わせる。
「まずは普段着から見よっか」
「何を基準に選ぶのです?」
「好きなもの」
「用途ではなく?」
「用途も大事だけど、今日は天音ちゃんが着たいものを探すの」
小春は穏やかに言ったが、天音にはその言葉の方が難しかった。
目の前には淡い色のブラウスや、短いスカート、デニム、パーカー、柄の入ったシャツが並んでいる。
九条家の娘として相応しいものなら判断できる。
公式の場で使えるか。家格を損なわないか。相手に軽く見られないか。そうした基準なら、いくらでもある。
だが、自分が着たいものを選べと言われると、何も思い浮かばなかった。
「……分かりませんわ」
小さく呟くと、灯莉が天音の隣へ並んだ。
「じゃあ、色々着てみればいいよ」
「試すのですか?」
「うん。着てみて、好きか嫌いか決めるの」
「似合わなければ?」
「戻せばいいじゃん」
「それだけですの?」
「それだけ」
あまりにも簡単に言われ、天音は戸惑った。
選び間違えても、別のものを試せばいい。一度で正解を出せなくても、それで終わりではない。
「まずはこれかな」
小春が淡い色のブラウスと、膝下まであるスカートを持ってきた。
「天音ちゃん、こういうの似合いそう」
「無難ね」
硝子が言う。
「最初から冒険させても疲れるでしょ」
「それもそうね」
天音は差し出された服を受け取った。
「試着室はどちらです?」
「こっちだよ」
小春に案内され、カーテンで仕切られた小さな空間へ入る。
着替えて外へ出ると、三人の視線が一斉に集まった。
「似合う!」
灯莉は素直に声を上げ、小春も満足そうに胸の前で手を合わせた。
「うん。やっぱり綺麗めの服は似合うね。これなら普段も着やすいし、洗うのも難しくないよ」
小春は見た目だけでなく、布地や手入れのしやすさまで確認しているらしい。
「洗いやすさまで見るのですか?」
「着る服なら大事だよ。毎回特別な手入れが必要だと大変だからね」
「小春さんは、ずいぶん詳しいのですね」
「一人で暮らしてた時期もあるし、月見荘の服や布団をまとめて洗うこともあるから。嫌でも覚えるよ」
小春は軽く笑った。
その言葉の奥には、天音の知らない時間があるように感じられたが、聞き返す前に硝子が口を開く。
「似合うけれど、いつもの天音とあまり変わらないわね」
「いつものわたくし、とは?」
「九条家の娘として選ばれた服を着たあなた」
天音の表情が少し固まった。
硝子は悪意なく続ける。
「綺麗よ。でも、あなたが選んだようには見えない」
「硝子さん」
小春が少しだけ窘めるように呼ぶ。
「意地悪で言っているわけではないわ」
硝子は天音から目を逸らさなかった。
「これはこれで必要でしょう。でも、せっかく自分で買うなら、今まで選ばなかったものも着てみればいい」
天音は鏡を見る。
ブラウスもスカートも似合っている。
品があり、目立ちすぎず、外聞を損なわない。九条家にいた頃なら、何の疑問も抱かなかっただろう。
けれど確かに、自分で選んだ感じはしなかった。
「では、何を着ればよろしいのです?」
天音が尋ねると、小春と灯莉の目が同時に輝いた。
「任せて」
「色々持ってくるね!」
「待ちなさい。なぜ二人とも楽しそうなのです!?」
二人は答えず、店の奥へ消えていった。
硝子はその背中を見送りながら、静かに言う。
「諦めた方がいいわね」
「何をですの?」
「しばらく試着室から出られないことを」
その予言は、すぐに現実になった。
◇
そこからは、試着の連続だった。
明るい色のパーカー。
細身のデニム。
少し大きめのニット。
丈の短い上着。
動きやすいロングスカート。
灯莉が選ぶ服は同年代らしく気軽で、小春が選ぶ服は少し落ち着いていて、着回しやすそうなものが多い。
硝子は時々、二人が選ばないような濃い色や変わった形の服を持ってきた。
「これは胸元が開きすぎですわ!」
「そう?」
「そうです!」
「似合うと思うけれど」
「どこで着るのです!?」
「買い物とか」
「この服で買い物へ行く勇気はありません!」
天音が突き返した服は黒く、布地の一部が透け、肩の周りに細い紐が何本も走っていた。
服というより、天音には何らかの拘束具に見える。
「着ないと分からないわ」
「着なくても分かります!」
硝子は残念そうでもなく、その服を元の棚へ戻した。
すぐに灯莉が新しい服を両腕に抱えて戻ってくる。
「天音ちゃん、次これ!」
「なぜ増えていますの!?」
「ついでにこれも着てみて」
小春まで、別のニットとスカートを追加した。
「小春さんまで!?」
「せっかくだしねえ」
天音の腕へ、ブラウス、スカート、パーカー、デニム、ニットが次々と積まれていく。
とうとう顔の半分まで服に埋もれたところで、硝子が最後に濃い色の上着をそっと一番上へ載せた。
「これは先ほどのものとは違いますわよね?」
「普通の上着よ」
「疑われてる」
灯莉が笑う。
「誰のせいですの!」
天音は服の山を抱えたまま、試着室へ戻った。
カーテンが閉まる。
しばらくして、中から小春を呼ぶ声がした。
「小春さん」
「どうしたの?」
「この服、背中のどこから腕を出すのです?」
小春と灯莉が顔を見合わせる。
「それ、前後逆じゃない?」
試着室の中が静かになった。
ややあって、天音の低い声が返ってくる。
「……今の会話は忘れなさい」
「無理かな」
「忘れなさい!」
灯莉はその場にしゃがみ込み、声を殺して笑っていた。
試着を重ねるうちに、天音にも少しずつ好みが見えてきた。
派手すぎる色は落ち着かない。
短すぎるスカートも苦手だった。
ただ、九条家では選ばなかった柔らかい素材のパーカーや、動きやすいデニムは思ったより嫌ではない。
「これなら、月見荘の近くを歩く時にも使えそうですね」
小春が天音の選んだ服を確認し、頷いた。
「洗う時も普通のコースで大丈夫だし」
「洗濯機は、すでに攻略済みですわ」
「一回成功しただけだけどね」
灯莉が口を挟む。
「成功は成功です」
「泡も出なかったしね」
「最初から出すつもりなどありません!」
必要な普段着を一通り選んだ後、小春が部屋着の売り場へ天音を連れていった。
「最後はこれかな」
灯莉が、どこか嬉しそうに一着の服を差し出した。
濃い緑色のジャージだった。
袖には白い線が入り、上下を揃えると運動部の合宿着のように見える。
天音は受け取らず、まず灯莉の顔を見た。
「……これは」
「部屋着」
「すでにスウェットがありますわ」
「一着じゃ足りないでしょ」
灯莉の言うことは正しい。
だが、渡されたジャージはどう見ても、お嬢様が着るようなものではなかった。
「ほかのものはありませんの?」
「あるけど、これ絶対似合うと思う」
「似合うという言葉の意味を、一度確認した方がよろしいのでは?」
「いいから着てみて」
天音は納得できないまま、ジャージを受け取った。
着替えて鏡を見る。
髪や顔立ちだけなら、確かに九条家の令嬢だ。
その身体を包んでいるのは、どう見ても庶民的なジャージだった。
天音はしばらく鏡を見つめてから、意を決してカーテンを開けた。
三人が揃って黙る。
沈黙が長い。
「……何ですの」
天音が眉を寄せると、灯莉は口元を両手で押さえた。小春は横を向き、肩を震わせている。
硝子だけは平然としていた。
ただし、その手にはいつの間にかスマートフォンが握られ、撮影画面が開かれている。
「硝子さん」
「何かしら」
「なぜ撮影画面を開いておりますの?」
「記録に残す価値があると思って」
「ありません!」
天音が一歩近づくと、硝子はスマートフォンを胸元へ引いた。
「安心なさい。勝手には撮らないわ」
「その言葉、信用してよろしいのですか?」
「ええ。許可は今から取るつもりだったもの」
「許可しません!」
その横で、灯莉もそっとスマートフォンを構える。
「月見荘のグループに載せたら、絶対みんな笑うと思う」
「載せるなと言っていますわ!」
「千隼くん、すごい反応しそう」
「なおさら駄目です!」
小春まで笑いながらスマートフォンを取り出した。
「じゃあ、私たちだけの思い出用に一枚」
「それも駄目ですわ!」
三方向から向けられたスマートフォンを前に、天音は濃緑のジャージ姿のまま両腕を広げた。
「全員、今すぐしまいなさい!」
買い物客の何人かが振り返る。
天音はそれに気づき、顔を真っ赤にした。
「……見世物ではありませんわ」
「でも、すごく似合ってるよ」
灯莉が笑う。
「お嬢様なのに、ものすごく部活動の合宿感がある」
「それは褒めておりませんわね!?」
「着心地はどう?」
小春はまだ笑いながらも、服の袖や裾が合っているかを確認していた。
天音は不満を顔に出しつつ、腕を軽く動かす。
見た目はともかく、着心地は悪くない。むしろ布は柔らかく、動きやすい。袖や裾の長さも、迅から借りたスウェットより身体に合っていた。
「……着心地だけは、認めてもよろしいですわ」
「買う?」
灯莉がすぐに尋ねる。
「もう少し品のある色はありませんの?」
「紺色もあるよ」
「そちらにします」
「緑も似合ってるのに」
「紺色にします!」
天音の強い主張により、部屋着は紺色のジャージに決まった。
硝子は撮影画面を閉じながら、静かに言う。
「一枚くらい残しておけばよかったわね」
「残さなくて結構です!」
◇
昼食は、商業施設の中にあるファミリーレストランで取ることになった。
席へ案内された天音は、テーブルの上に置かれたメニューを開き、すぐに動きを止めた。
「……多すぎませんこと?」
「何が?」
「料理の種類です。なぜ一つの店で、和食と洋食と甘味がすべて出てくるのです?」
「ファミレスだから」
「理由になっておりません」
ハンバーグ、パスタ、ドリア、蕎麦、丼、ピザ。
一冊のメニューに、統一感のない料理が並んでいる。
「お店の方は、すべて作れますの?」
「作れるからメニューにあるんじゃない?」
灯莉はメニューをめくりながら答えた。
「専門性というものは?」
「迅さんも大体何でも作るよ」
その一言で、天音は黙った。
確かに迅は和食も洋食も作る。
「黒瀬迅を一般的な基準に含めてよろしいのですか?」
「よくはないと思う」
小春が即答した。
結局、天音は灯莉と同じハンバーグを注文した。
料理が運ばれてくると、熱い鉄板の上でソースが音を立てている。
天音は反射的に身を引いた。
「攻撃的な料理ですわね」
「跳ねるから気をつけて」
「なぜ料理が客に攻撃するのです?」
「そういうものだから」
「月見荘と同じ説明をしないでくださいませ」
天音は慎重にナイフを入れ、ハンバーグを口へ運んだ。
肉汁と濃いソースの味が広がる。
「……悪くありませんわ」
「美味しい顔してる」
灯莉が即座に言う。
「顔で味を決めないでください」
「でも美味しいでしょ?」
「悪くないと言いました」
「それ、美味しい時の言い方だよね」
天音は答えず、二口目を切り分けた。
小春はサラダを食べながら、足元に置かれた買い物袋を確認している。
「必要なものは一通り揃ったかな。普段着、部屋着、靴、下着。あと、洗い替えもあるし」
「小春さん、本当にそういうところしっかりしてますよね」
灯莉が感心したように言う。
「住み始めてから足りないって気づくと困るからね。私も昔、必要なものを後回しにして面倒なことになったし」
「昔?」
天音が顔を上げる。
小春は少しだけ目を細めたが、すぐに笑った。
「一人で何とかしようとして、失敗した時期があったってだけ。今はちゃんと人に頼るようにしてるよ」
詳しく語るつもりはないらしい。
それでも、いつも明るく世話を焼く小春にも、最初から何でもできたわけではない時期があったのだと分かった。
灯莉はストローで飲み物を混ぜながら、少しだけ笑う。
「私は月見荘に来た時、ほとんど制服しかなかったなあ」
「制服だけ?」
「怪異に追いかけられて、そのまましばらく帰れなくなったから。最初は小春さんの服を借りてた」
「それでサイズが合わなかったんだよね」
小春が懐かしそうに言う。
「袖が余って、天音ちゃんと同じ状態になってた」
「私の方がもう少し似合ってたと思う」
「何の勝負ですの?」
天音が呆れると、二人は声を上げて笑った。
「硝子さんは?」
天音が尋ねる。
「何がかしら」
「月見荘へ来た時です。服などは、どうしていたのです?」
硝子は少しだけ目を細めた。
「さあ。どうだったかしら」
「覚えていないのですか?」
「覚えていることを、全部話す義務もないでしょう?」
言い方は柔らかかったが、それ以上踏み込ませる気はないらしい。
天音が少し気まずそうに口を閉じると、硝子は水の入ったグラスへ指を添えた。
「ただ、昔から服を見るのは嫌いじゃなかったわ。それで十分でしょう」
「……ええ」
「硝子さんの昔って、どれくらい昔なんですか?」
灯莉が尋ねる。
硝子は薄く笑った。
「女には秘密が多い方がいいのよ」
「怪異にも、の間違いではなくて?」
天音が言うと、硝子は満足そうに目を細めた。
「少し慣れてきたわね、天音」
過去そのものは、何も分からなかった。
けれど硝子が答えたくないのなら、今はそれでいい。
天音はそれ以上尋ねず、残っていたハンバーグへナイフを入れた。
◇
昼食を終えて店を出たところで、天音は向かいの雑貨店に目を止めた。
店頭には、いくつかのマグカップが並んでいる。
白、青、赤、黄色。動物の絵が入ったものや、単純な模様だけのもの。
月見荘の食器棚には、住人ごとの茶碗や湯呑みがある。
天音が使っているのは、空いていた無地の湯呑みだった。
「何見てるの?」
灯莉に尋ねられ、天音はすぐに視線を戻した。
「何でもありません」
「マグカップ?」
「見ていただけですわ」
「買えばいいじゃん」
「必要ありません。飲み物を入れる器なら、月見荘にもあります」
「でも、自分のはないでしょ?」
天音は黙った。
豪華な部屋も、服も、食器も、九条家にはあった。
けれど、そのどれもが九条家の所有物だった。天音の意思とは関係なく与えられ、必要がなくなれば取り上げられるものだった。
「見に行こっか」
小春が歩き出す。
「買うとは言っておりません」
「見るだけ見るだけ」
「今日、その言葉を何度聞いたと思っていますの?」
それでも天音は、三人に連れられて雑貨店へ入った。
最終的に選んだのは、薄い青色のマグカップだった。
特別な模様はない。
持ち手の近くに、小さな月の絵が一つだけ描かれている。
「月見荘っぽいね」
灯莉が言う。
「偶然です」
「気に入ったんでしょ?」
「ほかよりは悪くなかっただけですわ」
「はいはい」
「はいは一回でよろしいです!」
言い返した後、天音は少しだけ口元を緩めた。
◇
夕方、四人は月見荘へ戻った。
玄関を開けると、台所から夕食の匂いが漂ってきた。出汁と焼いた魚の香りが、買い物で歩き疲れた身体に染み込んでくる。
「ただいま」
灯莉が最初に声を上げた。
「ただいま戻りました」
小春が続く。
「帰ったわ」
硝子は短く言った。
天音だけが、一瞬言葉に迷った。
ただいま。
自分が口にしていい言葉なのか、まだ分からない。
けれど、ほかに適した言葉も思いつかなかった。
「……ただいま、戻りましたわ」
台所から迅が顔を出した。
「おう」
それだけだった。
何を買ったのか尋ねることもなく、無事に帰ったことを大げさに喜ぶこともない。
けれど、その短い返事を聞いた瞬間、天音の肩から少しだけ力が抜けた。
「荷物置いてこい。もうすぐ飯だ」
「今戻ったばかりですのに、もう夕食ですか?」
「昼何食った」
「ハンバーグですわ」
「なら食えるだろ」
「どういう計算ですの?」
「昼に肉食ったくらいで、夜飯抜く必要ねえだろ」
迅はそれだけ言って、台所へ戻った。
天音は買い物袋を持ったまま、その背中を見送る。
黒い翼を見た夜の記憶は、まだ胸の奥に残っている。
それでも、朝より身体は強張らなかった。
「天音ちゃん、疲れた?」
灯莉に尋ねられ、天音は首を振る。
「この程度で疲れるほど、軟弱ではありません」
「電車で手すりにしがみついてたけど」
「慣れていなかっただけです!」
「改札でも止まってたね」
「確認ですわ!」
玄関先で再び言い合いが始まり、小春が二人の荷物を持ち直しながら笑った。
「はいはい。続きは荷物を置いてからね」
天音の声が、夕方の玄関に明るく響いた。
◇
その夜。
入浴を終えた天音は、買ったばかりの紺色のジャージへ着替えた。
濃緑のものよりは落ち着いた色合いで、鏡の前で見ても、まだ許容できる。九条家の娘らしさがあるかと問われれば微妙だったが、着心地はよく、借り物のスウェットより身体に合っていた。
買った服をタンスへしまい終えると、天音は薄い青色のマグカップを手に一階へ下りた。
食堂には誰もいなかったが、台所では迅が夕食の後片付けをしていた。水音に紛れて足音が聞こえたのか、迅が肩越しに振り返る。
その視線が、天音の顔から足元までゆっくりと下りた。
数秒の沈黙。
次の瞬間、迅は盛大に噴き出した。
「ぶっ――」
慌てて顔を背けたものの、もう遅い。
喉の奥から漏れた笑いを堪えきれず、迅は流し台へ片手をついた。肩が大きく揺れ、もう片方の手で口元を覆っている。
天音は目を見開いた。
「黒瀬迅」
「……悪い」
謝ってはいるが、声は笑いで震えていた。
「今、明確に笑いましたわね?」
「笑ってねえ」
「噴き出しておいて、その言い訳が通ると思っておりますの!?」
天音が睨みつけると、迅は一度だけ深く息を吸った。どうにか笑いを収めようとしたらしい。
だが、改めて天音のジャージ姿を見た途端、また短く吹き出した。
「っ、は……駄目だ」
「何が駄目なのです!」
「その格好で、その喋り方は反則だろ」
「服装と品位は関係ありません!」
「そういうとこだよ」
迅は顔を背けたまま、まだ笑いを引きずっている。
天音は頬を赤くし、手にしていたマグカップを台へ置いた。
「明日の朝食に、だし巻き卵を追加しなさい」
「は?」
「慰謝料ですわ。大きめを二切れ」
迅は数秒黙った後、天音の姿をもう一度見て、また口元を押さえた。
「その格好で、よくそんな堂々と言えるな」
「まだ笑いますの!?」
「悪い。無理だ」
「反省が見えませんわ!」
天音が近くにあった布巾を投げると、迅は片手で受け止めた。
「分かった。二切れな」
「三切れです」
「何で増えんだよ」
「今また笑いました」
「面倒くせえ制度作んな」
迅は呆れたように息を吐いたが、天音が紺色の袖を揺らしながら胸を張ると、また小さく噴き出した。
「四切れですわ」
「好きに食え」
「一本でも?」
「朝から食えるならな」
あまりにも雑に許可され、天音の方が言葉に詰まった。
「……本当に一本出すおつもりですの?」
「お前が言ったんだろ」
「限度というものがありますわ!」
「知らねえよ」
迅はまだ笑いの残る顔で、受け止めた布巾を肩へ掛け直した。
騒ぎを聞きつけたのか、廊下から足音が近づいてくる。
最初に顔を出した灯莉は、紺色のジャージ姿の天音と、流し台へ寄りかかって笑う迅を見比べた。
「あ、やっぱり笑った」
「やっぱりとは何ですの!?」
その後ろから小春も覗き込み、迅の様子を見て目を丸くした。
「迅さん、そんなに?」
「これは無理だろ」
「小春さんまで納得しないでくださいませ!」
少し遅れて現れた硝子は、騒がしい台所を見回した後、静かにスマートフォンを取り出した。
「珍しいものが二つ見られたわね」
「二つ?」
灯莉が尋ねる。
「ジャージ姿の天音と、声を上げて笑う迅」
硝子が撮影画面を開く。
「硝子さん、撮らないでくださいませ!」
「まだ撮っていないわ」
「まだ?」
「今から許可を取ろうと思って」
「許可しません!」
天音の声が、夜の月見荘に響いた。
迅はまだ笑っている。
怖さは、消えていない。
黒い鱗も赤い瞳も、記憶の中には残っている。迅が急に大きく腕を動かせば、身体がわずかに強張ることもある。
それでも今、天音の胸を占めているのは恐怖ではなかった。
顔から火が出そうなほどの恥ずかしさと、笑われ続けている腹立たしさの方が、ずっと大きい。
「黒瀬迅」
「何だよ」
「だし巻き卵は四切れですわ」
「一本じゃなかったのか」
「あなたに任せると、本当に一本出しそうですもの」
「食えねえなら言うな」
「量の問題ではありません。品位の問題です」
迅はようやく笑いを収めかけていたが、紺色のジャージ姿で真剣に品位を語る天音を見て、再び噴き出した。
「黒瀬迅!」
今度こそ、天音は布巾を二枚投げた。
迅は一枚を片手で受け止め、もう一枚を顔に受けた。
その瞬間、硝子のスマートフォンから小さな撮影音が鳴る。
天音の動きが止まった。
「……硝子さん」
「迅を撮ったのよ」
硝子は画面を天音へ見せた。
そこには、布巾を顔に受けた迅が、まだ笑いを堪えきれずにいる姿が写っていた。端には、布巾を投げ終えた天音の紺色の袖だけが映り込んでいる。
「珍しいでしょう?」
天音は写真と迅を見比べた。
悔しい。
だが確かに、ここまで大きく笑う迅は珍しい。
「……わたくしの姿が写っていないなら、今回は許しますわ」
「月見荘のグループに載せる?」
灯莉が楽しそうに聞く。
「それは許しません!」
夜の月見荘に、再び笑い声が広がった。
棚には、天音が自分で選んだ青いマグカップが、住人たちの食器と並んでいた。
ジャージきてお嬢様口調でしゃべるだけで面白いのずるいよねって話