柄の悪い竜と、強がりお嬢様   作:ゆゆゆい

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ちょっと書き方を変えてみました、今までの方が見やすかったらごめんなさい


第六話

こちらから手を出さなければ

 

 翌朝の食卓には、だし巻き卵が出た。

 

 九条天音(くじょう・あまね)は、並べられた朝食を前に、しばらく箸を取れずにいた。

 

 白米、味噌汁、焼き魚、小鉢。そこまでは、ここ数日で見慣れつつある月見荘(つきみそう)の朝食だった。問題は、その横に置かれた小皿である。

 

 薄く湯気を立てる、黄色いだし巻き卵。

 

 しかも、四切れ。

 

 昨夜、自分で要求した数と同じだった。

 

「……本当に作りましたのね」

 

 思わず出た声は、自分でも分かるくらい複雑だった。

 

 要求したのは天音だ。昨夜、紺色のジャージ姿を笑われた慰謝料として、四切れ要求した。だから出てくること自体はおかしくない。

 

 おかしくないのだが、本当に出されると、どう反応すればいいのか分からない。

 

 九条家では、こういうやり取りは存在しなかった。冗談めかして要求したものが、翌朝、本当に食卓に並ぶ。しかも、それを作った本人が悪びれもせず台所から顔を出す。

 

 天音の知っている食卓では、あり得ないことだった。

 

「言ったのお前だろ」

 

 黒瀬迅(くろせ・じん)は、当然のように言った。

 

「言いましたけれど」

 

「なら食え」

 

「そういう問題ではありませんわ」

 

 天音は小皿を見下ろした。

 

 だし巻き卵は、形が崩れていない。箸を入れれば、柔らかく沈みそうなほどしっとりしている。表面には薄く焼き色がつき、切り口からは出汁の香りが立っていた。

 

 悔しいが、美味しそうだった。

 

 非常に悔しい。

 

「慰謝料だからな」

 

 迅はそう言って、何事もなかったように自分の席へ座った。

 

「慰謝料と言いながら、なぜあなたの方が偉そうなのです?」

 

「朝から卵焼き四切れも巻かされたからだよ」

 

「あなたが笑ったせいでしょう」

 

「お前があの格好で下りてくるからだろ」

 

「服装と品位は関係ありません!」

 

 反射的に言い返すと、迅の口元がわずかに動いた。

 

 それは、ほんの少しの変化だった。

 

 だが、天音には分かった。

 

 今、この男は昨日の自分の姿を思い出して笑いかけている。

 

 月見荘へ来てから、天音は迅の顔を以前より少しだけ読めるようになってきた。機嫌が悪い時。面倒くさがっている時。本気で怒っている時。そして、笑いを堪えている時。

 

 できれば、最後の判別能力だけは身につけたくなかった。

 

「黒瀬迅」

 

「何だよ」

 

「今、笑いましたわね?」

 

「笑ってねえ」

 

「笑いました」

 

「卵焼き冷めるぞ」

 

「話題を逸らさないでくださいませ!」

 

 向かいの席で、三枝灯莉(さえぐさ・あかり)が肩を震わせていた。

 

「天音ちゃん、朝から元気だね」

 

「元気ではありません。尊厳の問題です」

 

「ジャージの?」

 

「灯莉さん」

 

「ごめん」

 

 謝ってはいるが、灯莉の顔は完全に笑っていた。

 

 天音は抗議の視線を向ける。けれど灯莉は、悪びれずに笑うだけだった。昨日、商業施設で服を選んだ時から、灯莉はこういう時に遠慮がない。

 

 不思議なことに、その遠慮のなさは嫌ではなかった。

 

 馬鹿にされている、という感じがしないからだろうか。

 

 九条家で笑われる時は、必ず値踏みがあった。失敗作がまた失敗した。役に立たない娘が、またおかしなことをした。そういう視線が、笑いの奥に混ざっていた。

 

 灯莉の笑いには、それがない。

 

 ただ面白いから笑っている。

 

 ただ、天音と同じ食卓にいるから笑っている。

 

 その違いを、天音はまだうまく言葉にできなかった。

 

 隣の狐塚小春(こづか・こはる)も、口元に手を当てながら味噌汁を飲んでいる。隠す気があるのかないのか分からない。

 

「小春さんまで」

 

「ごめんね。思い出しちゃって」

 

「忘れてくださいませ!」

 

「無理かなあ」

 

 小春は悪びれずに微笑んだ。

 

 食堂の端では、朽木硝子(くちき・しょうこ)が静かに茶を飲んでいた。彼女だけは声に出して笑っていない。

 

 ただし、その目は明らかに楽しんでいた。

 

 天音は、最近この女の穏やかな微笑みが必ずしも優しさだけでできていないことを学びつつある。

 

「硝子さん」

 

「何かしら」

 

「あなたも昨夜のことを思い出している顔ですわ」

 

「そう見える?」

 

「見えます」

 

「では、そうなのでしょうね」

 

「否定くらいしてくださいませ!」

 

 硝子は薄く笑っただけだった。

 

 天音は深く息を吐き、だし巻き卵を一切れ箸で取る。

 

 口へ運ぶと、出汁の味がじゅわりと広がった。

 

 柔らかい。

 

 甘すぎず、しょっぱすぎず、朝食としてちょうどいい味だった。

 

 悔しい。

 

 本当に悔しい。

 

 九条家の料理人が作る整った料理とは違う。器も高価ではないし、盛り付けも特別ではない。けれど、目の前のだし巻き卵は温かく、今の天音のために作られたものだった。

 

 それをおいしいと認めるのは、何だか負けた気がした。

 

「……悪くありませんわ」

 

「美味しい時の言い方だ」

 

 灯莉が即座に指摘した。

 

「悪くないと言ったのです」

 

「だし巻き卵、四切れ全部食べる?」

 

「慰謝料ですので」

 

「気に入ってるじゃん」

 

「気に入ってはおりません!」

 

 天音が強めに否定したところで、食堂の入口から小さな足音がした。

 

 烏丸千隼(からすま・ちはや)が、眠そうな顔で入ってくる。髪は跳ね、服も少し乱れていたが、食卓に並ぶ朝食を見た途端、目だけが鋭くなった。

 

「お、卵焼きあるじゃん」

 

 千隼の視線が、天音の小皿へ吸い寄せられる。

 

 天音は無言で皿を自分の方へ引き寄せた。

 

 その動きは、自分でも少し素早かったと思う。

 

 けれど、これは慰謝料である。守る権利がある。

 

「……何だよ」

 

「これは、わたくしのです」

 

「四切れもあんじゃん。一個くらい」

 

「一切れたりとも渡しません」

 

「けち」

 

「慰謝料ですわ」

 

「何の?」

 

 千隼が首を傾げると、灯莉が一瞬で顔を輝かせた。

 

「聞きたい?」

 

「聞かないでくださいませ!」

 

 天音が止めるより早く、小春が笑いながら口を挟む。

 

「千隼くん、昨日の天音ちゃんのジャージ姿がね」

 

「小春さん!」

 

「ジャージ?」

 

 千隼の目がさらに興味を持った。

 

 迅が味噌汁を飲みながら、ぼそりと言う。

 

「聞いたら朝飯抜くぞ」

 

「何で俺だけ!?」

 

「うるせえから」

 

「理不尽だろ!」

 

「なら黙って食え」

 

 千隼は不満そうにしながらも、席へ着いた。

 

 その間に天音は、だし巻き卵の残りを守るように皿の位置を調整する。

 

 それを見た迅が、またわずかに口元を緩めた。

 

 天音は箸を止める。

 

「黒瀬迅」

 

「今度は何だよ」

 

「また笑いましたわね?」

 

「卵焼き増やさねえぞ」

 

「まだ何も言っておりません!」

 

「顔が言ってた」

 

「人の顔を勝手に読まないでくださいませ!」

 

 食堂に、灯莉と小春の笑い声が広がる。

 

 騒がしい。

 

 行儀も何もない。

 

 それなのに、だし巻き卵は温かく、味噌汁は湯気を立てている。

 

 天音は少しだけ、箸を持つ手の力を緩めた。

 

 少し遅れて、白峰律(しらみね・りつ)が食堂へ入ってきた。

 

 手には小さなノートを持っている。

 

 律は空いている席へ座る前に、天音の小皿を一度見た。

 

「卵焼き、四切れ」

 

「何ですの?」

 

「慰謝料としては、やや妥当」

 

「評価しないでくださいませ」

 

「でも、だし巻きなら妥当だと思う。手間がある」

 

「律さんまで真面目に考えないでください!」

 

 律は表情をほとんど変えずに頷いた。

 

「次からは、要求品目を事前に分類するといい。主菜、甘味、温かいもの」

 

「次がある前提で話さないでくださる!?」

 

「あると思う」

 

 律があまりにも平然と言うので、天音は反論の言葉を失った。

 

 朝から騒がしい。

 

 九条家の食卓では、あり得ない光景だった。

 

 誰かが寝癖のまま入ってきて、誰かの皿を狙い、管理人が雑に脅し、周りが笑う。礼儀も静粛さも品格もあったものではない。

 

 それなのに、不思議と息がしやすい。

 

 だし巻き卵は、四切れ目まできっちり食べた。

 

     ◇

 

 その日の夕方、灯莉は少し遅れて帰ってきた。

 

 玄関の戸が開く音がして、廊下に軽い足音が響く。食堂で青いマグカップを両手に包んでいた天音は、無意識にそちらへ顔を向けた。

 

「ただいまー」

 

 灯莉の声はいつも通り明るかった。

 

 小春が台所の方から顔を出す。

 

「おかえり、灯莉ちゃん。今日は遅かったね」

 

「ちょっと寄り道してた。商店街で新しいたい焼き屋さん見つけたんだよ」

 

「買ってきた?」

 

「買ってない。お財布が寒かった」

 

「それは残念」

 

 会話は普通だった。

 

 少なくとも、そう見えた。

 

 灯莉の笑顔も、声の調子も、いつもと大きく変わらない。廊下の奥から千隼が「たい焼き?」と顔を出し、灯莉が「ないよ」と返す。その軽いやり取りも、普段と同じに見えた。

 

 迅は台所の奥で何かを刻んでいる。包丁がまな板を叩く音が、一定の間隔で続いていた。硝子は窓際で茶を飲んでいる。律はもう自室へ戻ったらしく、食堂にはいない。

 

 誰も、灯莉の様子を気にしているようには見えなかった。

 

 なら、自分の見間違いなのかもしれない。

 

 天音はそう思おうとした。

 

 けれど、灯莉が右手首を押さえた瞬間、胸の奥に小さな引っかかりが残った。

 

 ほんの一瞬。

 

 袖を直しただけ、と言われればそう見える程度の仕草だった。けれど、その後も灯莉は何度か同じ場所へ指をやった。笑っているのに、視線だけが少し落ち着かない。

 

 九条家で見てきた怪我や呪いとは違う。

 

 もっと薄く、もっと曖昧で、言葉にすれば笑われてしまいそうな違和感。

 

 それでも、見なかったことにするには、灯莉の笑顔はほんの少し遅れていた。

 

「灯莉さん」

 

「ん?」

 

 灯莉が振り返る。

 

 笑顔だった。

 

 ただ、返事がほんの少しだけ遅い。

 

「右手、どうかしましたの?」

 

「右手?」

 

 灯莉は自分の手を見下ろし、それから笑った。

 

「ああ、ちょっと引っかけただけ。大丈夫だよ」

 

 大丈夫。

 

 灯莉はそう言った。

 

 きっと、何度も使ってきた言葉なのだろう。軽くて、明るくて、相手にそれ以上踏み込ませないための言葉。

 

 天音は、その響きを知っていた。

 

 大丈夫です。問題ありません。お気になさらず。

 

 九条家で、何度も自分が口にしてきた言葉だった。痛くても、怖くても、悔しくても、そう言えば話は終わった。終わったことにされた。

 

 だから、灯莉の「大丈夫」をそのまま受け取る気にはなれなかった。

 

「何に引っかけたのです?」

 

「えっと、たぶん、どこか」

 

「たぶん?」

 

「歩いてたら、知らないうちに」

 

 灯莉はそう言って、軽く肩をすくめた。

 

 小さな嘘ではない。

 

 しかし、全部を言っていない。

 

 天音には、そう見えた。

 

「見せてくださいませ」

 

「え、大丈夫だって」

 

「大丈夫かどうかは、見てから判断します」

 

「天音ちゃん、お嬢様なのに保健委員みたいなこと言うね」

 

「茶化さないでください」

 

 天音が少し声を強めると、灯莉は困ったように笑った。

 

 それは、いつもの灯莉の笑い方に似ていた。

 

 けれど、似ているだけだった。

 

 天音の胸の奥に残った引っかかりは、消えない。

 

「……ちょっと、手洗ってくるね」

 

 灯莉は食堂の外へ視線を逃がし、それだけ言って、足早に廊下へ出た。

 

 天音はしばらくその背中を見送った。

 

 誰も、灯莉を追いかけない。

 

 小春は鍋の様子を見ている。千隼はたい焼きがないことにまだ少し不満そうだった。迅の包丁の音は止まらない。硝子は湯呑みを持ったまま、窓の外を見ている。

 

 やはり、自分の気にしすぎなのかもしれない。

 

 灯莉は怪異に好かれやすいと聞いたことがある。月見荘の住人たちは、そういうことに慣れているのかもしれない。天音だけが、些細な仕草に過剰に反応しているだけかもしれない。

 

 それに、天音にはまだ分からないことが多すぎる。

 

 怪異の見分け方も、月見荘の常識も、灯莉たちが普段どの程度の危険を「よくある」と呼んでいるのかも。

 

 けれど、灯莉が廊下へ出る直前、足元の影がほんの少しだけ遅れて動いたように見えた。

 

 天音は立ち上がった。

 

     ◇

 

 洗面所には、灯莉一人がいた。

 

 蛇口から水が流れている。

 

 灯莉は右手首を水に当てていた。洗っているというより、冷やしているように見える。鏡には灯莉の顔が映っていたが、その表情は食堂で見せていた笑顔よりずっと疲れていた。

 

 天音は入口で足を止めた。

 

 声をかけるべきか、迷った。

 

 ここで踏み込めば、灯莉は困るかもしれない。余計なことをしているのは自分かもしれない。月見荘に来てまだ間もない自分が、灯莉の「よくあること」に口を出していいのかも分からない。

 

 けれど、鏡の中の灯莉は、笑っていなかった。

 

 それを見てしまった以上、引き返せなかった。

 

「灯莉さん」

 

 天音が声をかけると、灯莉ははっと顔を上げた。

 

「天音ちゃん」

 

「やはり、何かありましたのね」

 

「……大丈夫だよ」

 

「その言葉は、もう聞きました」

 

 天音は洗面所へ入った。

 

 灯莉は水を止めようとして、少し手間取った。右手がうまく動かないのか、左手で蛇口をひねる。

 

 その仕草を見て、天音の胸が冷えた。

 

「見せてください」

 

「本当に、そんな大したことじゃないんだって」

 

「大したことがないなら、見せられるはずです」

 

「天音ちゃん、けっこう強引だね」

 

「あなたが隠すからです」

 

 灯莉は笑おうとした。

 

 けれど、今度はうまく笑えなかった。

 

 少しの沈黙の後、灯莉は袖をめくった。

 

 手首には、薄い黒い跡があった。

 

 傷ではない。

 

 痣でもない。

 

 糸のようなものが、皮膚の上に浮いている。けれど、瞬きをすると消えそうなほど薄い。水に濡れたせいで、ただの影がそう見えているだけ、と言われればそう思えなくもなかった。

 

 だが、天音は見間違いだとは思えなかった。

 

 見た瞬間に、腹の底が冷えるような感覚があった。

 

 それは九条家で術式の失敗を告げられた時の冷たさとは違う。もっと生理的で、もっと近い。誰かの皮膚の上に、そこにあってはいけないものがあると分かってしまう冷たさだった。

 

「これは……」

 

「帰り道で、ちょっと変なのに絡まれた」

 

 灯莉は小さな声で言った。

 

「変なの?」

 

「うん。たぶん怪異。駅の近くの細い道で、視線みたいなのがあって。見ないようにしたんだけど、ついてきちゃったみたい」

 

「ついてきた?」

 

「よくあるんだよ」

 

 灯莉は困ったように笑った。

 

「私、そういうのに見つかりやすいから。大体は、気づかないふりしてればそのうち離れるんだけど」

 

「そのうち、ですか」

 

「うん。だから大丈夫。今も、ちょっと重いだけだし」

 

「重い?」

 

「手というか、影というか。変な感じ。でも痛いわけじゃないから」

 

 灯莉は軽く言った。

 

 軽く言おうとしていた。

 

 天音には、それが分かった。

 

 自分が怖がれば、灯莉はもっと隠す。

 

 自分が騒げば、灯莉は「やっぱり言わなければよかった」と思う。

 

 だから、天音は息を整えた。

 

 怯えているのは自分だけではない。

 

 そう思えば、少しだけ声の震えを押さえられた。

 

「よくあるから、我慢するのですか?」

 

「我慢ってほどじゃないよ」

 

「では、なぜ隠しましたの?」

 

 灯莉は答えなかった。

 

 洗面所の鏡の中で、灯莉の影がわずかに揺れた。

 

 天音はそれを見た。

 

 今度は、はっきりと。

 

 灯莉本人は動いていない。

 

 なのに、鏡に映る灯莉の足元だけが、ゆっくりと伸びた。

 

 黒い影が、床から灯莉の手首へ向かって細く絡んでいる。

 

 天音の喉が鳴った。

 

 怖い。

 

 今すぐ食堂へ戻って、迅か硝子を呼びたい。

 

 きっと、その方が正しい。

 

 迅なら、すぐに終わらせられるかもしれない。硝子なら、天音には分からない方法でどうにかできるかもしれない。

 

 でも、灯莉はそれを避けたから隠したのではないか。

 

 大げさにしたくなくて、迷惑をかけたくなくて、慣れているふりをして、ここまで持ってきたのではないか。

 

 天音がここで逃げれば、灯莉はきっとまた笑う。

 

 大丈夫、と言う。

 

 そして、本当に大丈夫ではないものを一人で抱える。

 

「灯莉さん」

 

「何?」

 

「これは、大したことないものではありません」

 

「でも」

 

「少なくとも、わたくしにはそう見えません」

 

 天音は一歩近づいた。

 

 灯莉は反射的に右手を引きかけたが、天音はその手首ではなく、左手を取った。

 

 冷たい手だった。

 

 その冷たさに、天音は胸を締めつけられた。

 

 灯莉はずっと、こんな手を隠して笑っていたのだ。

 

「天音ちゃん?」

 

「わたくしに、何ができるかは分かりません」

 

 声は少し震えた。

 

 それでも、天音は灯莉の目を見た。

 

「ですが、あなたが一人で我慢しているのを見なかったことにはできません」

 

 灯莉の表情から、笑みが消えた。

 

 驚いたように、少しだけ泣きそうなように、天音を見る。

 

「……怖くないの?」

 

「怖いですわ」

 

 天音は即答した。

 

 強がって否定しても、きっと声で分かってしまう。

 

 それに、ここで怖くないと言うのは、灯莉が怖がっているかもしれないことまで軽く扱う気がした。

 

「ですが、あなたを放っておく方が嫌です」

 

 灯莉は何か言おうとして、言えなかった。

 

 水の止まった洗面所に、二人分の呼吸だけが残る。

 

 鏡の中で、黒い影がゆっくりと蠢いた。

 

 天音は灯莉の手を握ったまま、もう一度息を吸った。

 

「灯莉さん。わたくしに、助けさせてください」

 

「……うん」

 

 灯莉は小さく頷いた。

 

「お願いしてもいい?」

 

「もちろんです」

 

 言ってから、天音は急に緊張した。

 

 もちろん、などと簡単に言ってしまった。

 

 できる保証はない。失敗すれば、灯莉を傷つけるかもしれない。そもそも天音は、怪異を祓えるような術者ではない。

 

 九条家で対人外の知識を教えられてはきたが、それは天音が有能だったからではなかった。むしろ、できないことを突きつけられるための知識だった。

 

 天音は、強い結界を張れない。

 

 怪異を一撃で祓う力もない。

 

 相手を封じる術も、九条家の基準では半端だった。

 

 けれど、灯莉の手に絡む黒いものから目を逸らすことはできない。

 

 天音は灯莉の手を両手で包み込んだ。

 

 結界。

 

 虫よけ。

 

 壊さない。

 

 寄せつけない。

 

 分ける。

 

 九条家で天音の術は役に立たないと言われた。小さすぎる。弱すぎる。攻撃に使えない。封じるには足りない。

 

 けれど、月見荘で硝子は言った。

 

 壊さない術だ、と。

 

 天音は灯莉の手首の黒い跡を見つめる。

 

「灯莉さんに、触れないで」

 

 小さく呟いた。

 

 淡い光が、天音の指先から広がった。

 

 それは強い光ではない。

 

 炎のようでも、雷のようでもない。

 

 薄い膜のような、柔らかな光。

 

 灯莉の手首を包み、黒い筋と皮膚の間へゆっくり入り込んでいく。

 

 黒い筋が、一度だけ強く脈打った。

 

「っ」

 

 灯莉の肩が跳ねる。

 

 天音の心臓も同じように跳ねた。

 

「痛いですか?」

 

「ちょっとだけ。でも大丈夫」

 

「大丈夫では済ませません。痛かったら言いなさい」

 

「うん」

 

 天音は力を強めようとして、すぐに思い直した。

 

 強くすればいいわけではない。

 

 九条家で求められたのは、常に強い術だった。強く祓う。強く封じる。強く退ける。天音ができないものばかりだった。

 

 けれど、今必要なのはそれではない。

 

 壊すものではない。

 

 剥がす。

 

 ほどく。

 

 灯莉から、少しだけ距離を取らせる。

 

 光の膜が、手首から床へ伸びた。

 

 灯莉の影の縁へ触れる。

 

 重く濡れたように見えていた影が、わずかに震えた。

 

 その瞬間、黒い筋が手首から少しだけ浮いた。

 

「離れた……?」

 

 天音は思わず呟いた。

 

 灯莉も息を呑む。

 

「本当?」

 

「まだ少しです。動かないでください」

 

「うん」

 

 天音の額に汗が滲む。

 

 術そのものは大きくない。だが、相手が灯莉と繋がっているせいで、雑に扱えない。薄い糸を一本ずつ解くような緊張が続く。

 

 灯莉の手が、天音の手を握り返した。

 

「天音ちゃん」

 

「何ですの?」

 

「ありがと」

 

「終わってから言いなさい」

 

「うん」

 

 灯莉は素直に頷いた。

 

 その素直さが、天音には少し怖かった。

 

 信じられている。

 

 たぶん、今、灯莉は天音を信じようとしている。

 

 九条家で天音に向けられていた視線は、いつも逆だった。失敗するだろう。どうせ足りないだろう。期待するだけ無駄だろう。そんな視線を受けながら、天音は何度も術を使ってきた。

 

 だから、信じられることに慣れていない。

 

 失敗した時、その信頼が失望に変わるのが怖い。

 

 それでも、灯莉の手は冷たく、黒い影はまだ絡みついている。

 

 天音はさらに光を伸ばした。

 

 床に落ちた影の縁から、黒いものが少しずつ剥がれていく。細い糸が何本も絡まったような塊だった。灯莉の影に張りつき、離れまいとしている。

 

 その形が、ふと変わった。

 

 人の指のように見えた。

 

 小さな獣の爪のようにも見えた。

 

 灯莉の影を掴み、引き戻そうとする。

 

「灯莉さん!」

 

「大丈夫、まだ平気」

 

「平気ではありませんわ!」

 

 天音は咄嗟に、もう片方の手も重ねた。

 

 光が少し強くなる。

 

 黒いものが嫌がるように震えた。

 

 灯莉の影から、さらに剥がれる。

 

 あと少し。

 

 そう思った瞬間、黒い塊がぱくりと口を開けた。

 

 口に見えた。

 

 あるいは穴だったのかもしれない。

 

 そこから、湿った息のようなものが漏れる。

 

 洗面所の空気が冷えた。

 

 天音の背筋に、ぞわりと寒気が走る。

 

 灯莉の手を引こうとする力が、急に強くなった。

 

「っ、重い……!」

 

 灯莉が歯を食いしばる。

 

 天音は灯莉の手を離さなかった。

 

 光の膜が軋む。

 

 薄い結界に、黒い指のようなものが何本も食い込んでくる。壊そうとしているのではない。すり抜けようとしている。灯莉の影へ戻ろうとしている。

 

 天音の腕が震えた。

 

 怖い。

 

 気持ち悪い。

 

 今すぐ逃げたい。

 

 けれど、灯莉の手を離したら、この黒いものは灯莉へ戻る。

 

 それだけは嫌だった。

 

「戻りなさい」

 

 天音は言った。

 

 声が震えていた。

 

 それでも言った。

 

「灯莉さんは、あなたの居場所ではありません」

 

 黒いものが、さらに強く暴れた。

 

 床の影が波打ち、洗面所の鏡がかすかに震える。天音は息を止めそうになり、慌てて吸った。

 

 吸う。

 

 吐く。

 

 呼吸を整える。

 

 九条家で習った術式の呼吸とは違う。ただ、自分が逃げないための呼吸だった。

 

 もう一度、灯莉の手を見る。

 

 灯莉は怖がっている。

 

 それでも、天音を見ていた。

 

 信じるように。

 

 天音は奥歯を噛みしめた。

 

 光の膜を、広げるのではなく、細くする。

 

 黒いものを包むのではなく、灯莉との間へ差し込む。

 

 切るのではない。

 

 押し返すのでもない。

 

 灯莉に触れさせない。

 

 ただ、それだけを考える。

 

 黒い塊が、灯莉の影から剥がれた。

 

 完全に。

 

 床の上に落ちたそれは、一瞬だけ小さな影の塊に見えた。

 

 だが、灯莉から離れた途端、形が膨れ上がる。

 

 黒い毛のようなものが伸び、口のような穴がいくつも開き、細い腕が床を掻いた。

 

 洗面所の空気が一気に重くなる。

 

 灯莉が息を呑む。

 

「え、こんな大きかったの……?」

 

「大したことないと言ったのは誰ですの!」

 

「ごめん、思ったより育ってた」

 

「育てないでくださいませ!」

 

 言い返せたのは、ほとんど反射だった。

 

 そうでもしなければ、悲鳴が出ていたかもしれない。

 

 天音は灯莉を背に庇うように、一歩前へ出た。

 

 足が震えている。

 

 それでも前に出た。

 

 黒い怪異が、ずるりと床を這う。

 

 灯莉から剥がれたことで、狙いが変わったのかもしれない。穴のような口が、今度は天音へ向く。

 

 天音は小さな結界を張る。

 

 薄い光の膜が、灯莉と自分の前に広がった。

 

 怪異がぶつかる。

 

 結界が歪む。

 

 腕に負担が走り、天音は思わず膝を折りかけた。

 

「天音ちゃん!」

 

「まだ、大丈夫ですわ!」

 

 声は強く出した。

 

 だが、結界は長く保たない。

 

 天音にも分かっていた。

 

 怪異を灯莉から離すことはできた。

 

 けれど、倒す力はない。

 

 壊すための術ではない。

 

 それが今、はっきりと突きつけられている。

 

 途中まではできた。

 

 けれど、最後まではできない。

 

 九条家で何度も言われた言葉が、頭の奥で蘇りそうになる。

 

 不完全。

 

 半端。

 

 役に立たない。

 

 天音は首を振る余裕もなかった。ただ結界を支えた。

 

 黒い怪異がもう一度、結界へ体当たりする。

 

 膜が大きく揺れる。

 

 ひびのような光が走った。

 

 その時、洗面所の鏡に映っていた天井が、黒く沈んだ。

 

「そこまでね」

 

 硝子の声がした。

 

 穏やかで、静かな声だった。

 

 次の瞬間、怪異の足元が黒く沈む。

 

 床ではない。

 

 床に映った影でもない。

 

 もっと深い、鏡の奥のような場所が、怪異の下に開いていた。

 

 怪異が暴れる。

 

 細い腕を伸ばし、結界へしがみつこうとする。

 

 天音は反射的に灯莉を抱き寄せた。

 

 黒い腕は、天音たちへ届かなかった。

 

 硝子が、洗面所の入口に立っていた。

 

 いつからそこにいたのか、分からなかった。

 

 天音には、彼女が扉から入ってきた記憶がない。足音も聞こえなかった。ただ、気づいた時にはそこにいて、鏡の奥の黒さを当たり前のように従えていた。

 

 硝子が指先を軽く払う。

 

 怪異の身体が、ずるりと沈んだ。

 

 水に落ちるようでもなく、穴に落ちるようでもない。映っていたものが、画面の向こうへ戻されるように、黒い塊は反射の奥へ引きずり込まれていく。

 

 最後に残った口が、何かを言おうとした。

 

 声にはならなかった。

 

 洗面所の鏡が、一度だけ小さく震える。

 

 それで終わった。

 

 天音の結界が、ふっと消える。

 

 膝から力が抜けた。

 

 倒れる前に、誰かの手が肩を支えた。

 

 迅だった。

 

「そこまでやりゃ十分だ」

 

 いつの間に近くに来たのか分からなかった。

 

 迅は片手で天音を支え、もう片方の手を軽く振る。指先に、黒い鱗が一瞬だけ浮かんでいた。

 

 反射の奥へ沈みかけていた怪異の残滓が、ぱきりと音もなく砕ける。

 

 それ以上、何も出てこない。

 

 迅はすぐに手を下ろした。

 

 鱗も消えた。

 

 天音は息を荒くしながら、迅を見上げる。

 

「今のは……」

 

「残りカスだ」

 

「あなた、いつから」

 

「飯作ってた」

 

「嘘ですわね」

 

「半分はな」

 

 迅は悪びれもせず言った。

 

 その横で、硝子が鏡の前からゆっくりとこちらへ近づいてくる。

 

 いつも通りの微笑みだった。

 

 けれど天音は、鏡の奥に広がった黒さを思い出して、少しだけ背筋を冷やした。

 

 月見荘には、こういうものがいる。

 

 穏やかに茶を飲んで、冗談を言い、何事もない顔で食卓にいる。けれど、いざとなれば、天音が理解できない場所へ怪異を落とす。

 

 怖くない、と言えば嘘になる。

 

 ただ、今はその怖さより先に、胸の奥へ落ちてくるものがあった。

 

 自分では、終わらせられなかった。

 

「硝子さんも」

 

「何かしら」

 

「いつから気づいておりましたの?」

 

「灯莉は隠すのが下手だから」

 

「最初からではありませんか!」

 

「そうね」

 

 硝子は否定しなかった。

 

 天音は言葉に詰まる。

 

「では、なぜ何も」

 

「あなたが気づいたでしょう」

 

 硝子は穏やかに言った。

 

「それに、灯莉はあなたに見つけられた方が、逃げにくそうだったもの」

 

「……わたくしは、試されていたのですか?」

 

「いいえ」

 

 硝子は少しだけ首を傾ける。

 

「あなたが自分で見つけたものを、邪魔しなかっただけよ」

 

 天音はすぐには返せなかった。

 

 迅も硝子も、気づいていた。

 

 それでも、天音が動くまで手を出さなかった。

 

 怒るべきなのか、呆れるべきなのか、分からない。

 

 けれど、それ以上に、胸の奥が静かに沈んでいた。

 

 最後は、自分ではどうにもできなかった。

 

 怪異は灯莉から離れた途端に膨れ上がり、天音の結界はあっさり軋んだ。硝子が来なければ、迅が残りを砕かなければ、きっと押し切られていた。

 

 結局、自分はまた助けられただけではないのか。

 

 九条家で何度も突きつけられた感覚が、足元から這い上がってくる。

 

 途中までできた。

 

 でも、最後までできなかった。

 

 なら、それはできなかったのと同じではないのか。

 

「灯莉さん」

 

 天音は振り返る。

 

 灯莉は洗面台に寄りかかりながら、申し訳なさそうに笑っていた。

 

「ごめんね、天音ちゃん。巻き込んじゃって」

 

「……謝るところではありません」

 

「でも、怖かったでしょ」

 

「怖かったです」

 

 天音は正直に言った。

 

 それから、少しだけ目を伏せる。

 

「それに、結局わたくしは、何もできませんでした。最後は硝子さんと黒瀬迅に助けられただけです」

 

 灯莉は目を瞬かせた。

 

「何もできなかった?」

 

「ええ」

 

 自分で口にすると、思ったより重かった。

 

 灯莉の前でそんなことを言うべきではない、とも思った。助けたいなどと言っておきながら、結局は自分の無力さに沈んでいる。

 

 けれど、天音にはうまく取り繕えなかった。

 

「そんなわけないよ」

 

 灯莉は即答した。

 

 天音は思わず顔を上げる。

 

 灯莉はまだ少し震える右手を持ち上げ、黒い跡の消えた手首を天音へ見せた。

 

「天音ちゃんが気づいてくれなかったら、私、まだ隠してた。大したことないって言って、たぶん部屋まで持って帰ってた」

 

「ですが」

 

「それに、離してくれたのは天音ちゃんだよ」

 

 灯莉の声は、いつもの軽い調子ではなかった。

 

 少し疲れていて、けれど真っ直ぐだった。

 

「私、一人じゃ言えなかった。天音ちゃんが言ってくれたから、見せられた。手を取ってくれたから、ちゃんと怖がれた」

 

「怖がれた?」

 

「うん。私、慣れてるふりしてたけど、普通に怖かったみたい」

 

 灯莉は困ったように笑った。

 

「だから、助かったよ」

 

 天音は何も言えなかった。

 

 助かった。

 

 その言葉が、自分に向けられているとは、すぐには思えなかった。

 

 助かったと言われるようなことを、自分がしたのだろうか。

 

 灯莉の手を取ったのは確かだ。

 

 でも、最後は硝子と迅がいなければどうにもならなかった。

 

 そう考える天音の中へ、灯莉の声はすぐには入ってこない。けれど、完全に弾き返すこともできなかった。

 

「黒瀬迅」

 

 天音は迅を見上げる。

 

「あなたが最初から動いていれば、もっと早く終わったのではありませんか」

 

「場合による」

 

「場合?」

 

「灯莉にくっついたまま潰すわけにはいかねえだろ」

 

 迅は洗面所の壁に背を預け、面倒くさそうに続けた。

 

「お前が剥がした。硝子が引いた。俺が残りを割った。それだけだ」

 

「……わたくしが剥がした?」

 

「そう言ってんだろ」

 

「でも、わたくしの結界は途中で」

 

「途中までやったなら、途中までは役に立ってんだよ」

 

 迅は雑に言い切った。

 

「全部できなきゃ無意味、みてえな顔すんな。面倒くせえ」

 

 天音は唇を結ぶ。

 

 言い方は相変わらず最悪だった。

 

 けれど、否定の言葉ではなかった。

 

 途中まででも、意味がある。

 

 九条家では、そんな考え方をしたことがなかった。最後までできなければ不完全。不完全なら欠陥。欠陥なら不要。

 

 そういう順番で、天音の価値はいつも決められてきた。

 

 だから、迅の言葉は乱暴で、ぶっきらぼうで、あまりにも雑なのに、どこか受け止め方が分からなかった。

 

 硝子は鏡の前に立ち、何事もなかったように微笑んでいる。

 

「硝子さん」

 

「何かしら」

 

「あなたがいなければ、わたくしは押し切られていました」

 

「そうね」

 

 あっさり認められて、天音の胸が沈む。

 

 しかし硝子は、そのまま続けた。

 

「でも、あなたが灯莉から離してくれなければ、私は掴めなかったわ」

 

「掴めなかった?」

 

「映っていないものは、こちらへ引けないもの」

 

 硝子は鏡へ視線を向ける。

 

 そこにはもう、ただの洗面所が映っているだけだった。

 

「灯莉に張りついたままだったら、あれは灯莉の一部として映っていた。あなたが分けたから、私はあれだけを落とせた」

 

「……わたくしの術が」

 

「ええ。役に立ったわ」

 

 硝子は柔らかく笑った。

 

「壊さない術は、こういう時に便利ね」

 

 天音は、自分の手を見下ろした。

 

 まだ指先が少し震えている。

 

 灯莉の手を包んだ感触。

 

 怪異の冷たさ。

 

 薄い結界が軋んだ感覚。

 

 どれも、はっきり残っていた。

 

 うまくやれたとは思えない。

 

 怖かった。

 

 途中で限界になった。

 

 最後は迅と硝子に助けられた。

 

 それでも、灯莉は助かったと言った。

 

 迅は役に立ったと言った。

 

 硝子は、掴めたと言った。

 

 その三つを、全部なかったことにするには、少しだけ難しかった。

 

 洗面所の外は、まだ静かだった。

 

 食堂からは小春の声も、千隼の声も聞こえてこない。騒ぎは、思ったより広がっていないらしい。

 

 灯莉がほっとしたように息を吐いた。

 

「小春さんたち、気づいてないかな」

 

「たぶんな」

 

 迅が短く答える。

 

「ここで大声出さなきゃ、知らねえままだ」

 

「……言わなくてよろしいのですか?」

 

 天音が尋ねると、灯莉は少し迷ってから首を振った。

 

「あとで小春さんには言う。怒られると思うし」

 

「怒られるのですか?」

 

「うん。隠したから」

 

 灯莉は苦笑した。

 

「でも、今はちょっとだけ、天音ちゃんに助けてもらったってことにしておきたい」

 

「……実際には、わたくしだけではありません」

 

「でも、最初に見つけてくれたのは天音ちゃんだよ」

 

 灯莉はそう言って、右手を軽く握った。

 

「それは、ちゃんと覚えてる」

 

 天音は胸の奥がくすぐったくなって、少しだけ目を逸らした。

 

 褒められるより、厄介な感覚だった。

 

 否定したいのに、灯莉の手首から黒い跡が消えているのが見える。役に立っていないと言いたいのに、灯莉が助かったと言う。

 

 天音には、まだそれを素直に受け取ることはできない。

 

 けれど、完全に拒むこともできなかった。

 

「……次に何か絡まれたら、すぐに言いなさい」

 

「うん」

 

「よくある、で済ませるのは禁止です」

 

「分かった」

 

「大したことない、も禁止です」

 

「それも?」

 

「それもです」

 

 灯莉は少し困ったように笑った後、小さく頷いた。

 

「じゃあ、言う。天音ちゃんにも」

 

「当然です」

 

 天音は胸を張った。

 

 まだ足には少し力が入らない。

 

 指先も、かすかに震えている。

 

 それでも、胸は張った。

 

 迅が洗面所の入口へ歩きながら、ぼそりと言う。

 

「飯、食えんのか」

 

「食べますわ」

 

「なら戻るぞ。冷める」

 

「今の騒動の後に、普通に夕食ですの?」

 

「腹は減るだろ」

 

 その答えに、天音は呆れた。

 

 呆れたけれど、否定はできなかった。

 

     ◇

 

 夕食の後、天音は食堂に残された。

 

 小春と千隼は、それぞれの用事で席を外している。灯莉は小春に連れられて風呂場へ行った。手首の跡は消えたが、念のため温めて休ませるらしい。律も夕食の後は早々に自室へ戻っていたが、去り際に灯莉の手首を一度だけ確認し、「問題なさそう」と短く言い残していた。

 

 食堂には、天音と迅、硝子だけが残っていた。

 

 天音は青いマグカップを手元に置いたまま、どこか落ち着かない気持ちで座っていた。夕食は食べた。味も分かった。迅の料理は、相変わらず悔しいほどおいしかった。

 

 けれど、胸の奥にはまだ、洗面所での感触が残っている。

 

 灯莉の冷えた手。

 

 黒い影。

 

 自分の結界が軋んだ音。

 

 そして、助かったと言われた時の、返せなかった言葉。

 

 天音がそれを整理できずにいると、迅が食器を片付けた後、濡れた手を布巾で拭きながら戻ってきた。

 

 そして、天音の前へ紙とペンを置いた。

 

 唐突だった。

 

「何ですの、これは」

 

「書け」

 

「何をです?」

 

「お前ができる術」

 

 天音は紙と迅の顔を見比べた。

 

 今日は、理解が追いつかないことが多すぎる。

 

「なぜ急にそのような話になるのです?」

 

「お前、実はまだ黙ってる便利な術あんだろ」

 

「黙っているとは何ですの」

 

「さっさと吐け」

 

「尋問ですの!?」

 

「確認だ」

 

 迅は椅子に雑に腰を下ろす。

 

「虫よけ、洗濯物の湿気避け、灯莉から変なの剥がしたやつ。ああいう、地味で妙に使える術が他にもあるだろ」

 

 天音は言い返そうとして、口を閉じた。

 

 地味で妙に使える。

 

 褒められているのか、馬鹿にされているのか、判断に困る言い方だった。

 

 ただ、完全に馬鹿にされているわけではないことは、少しだけ分かるようになっていた。

 

「……役に立つようなものではありませんわ」

 

 それでも、口から出たのは慣れた言葉だった。

 

 天音自身がそう思っているというより、そう言う癖がついている。

 

 自分の術について話す時、期待される前に価値を下げる。期待されなければ、失望されることも少ない。

 

 九条家で身についた、あまり良くない癖だった。

 

「それは九条家での話だろ」

 

 迅は即座に言った。

 

 天音の胸が、少しだけ詰まる。

 

 そこを簡単に切り分けられるとは思っていなかった。

 

「ここでは違うのですか?」

 

「違う」

 

 迅は短く答えた。

 

「祓い屋としては半端でも、便利屋としては使える」

 

「もう少し言い方というものがありませんの!?」

 

「事実だろ」

 

 硝子が窓際から静かに口を挟む。

 

「壊さない術は、案外需要があるわよ。派手に祓うと困る場所もあるもの」

 

「困る場所?」

 

「商店の裏口、古い倉庫、子供部屋、寝室。怪異がいるかもしれないけれど、大事なものまで壊されたくはない場所」

 

 硝子は湯呑みを手にしたまま、続ける。

 

「それに、怪異そのものを殺したいわけではない相談もあるわ。近づかないようにしてほしい、まとわりついたものだけ離してほしい、夜だけ静かにしてほしい。そういうものね」

 

 天音は、すぐには頷けなかった。

 

 怪異は祓うもの。

 

 封じるもの。

 

 討つもの。

 

 九条家で教わった分類は、分かりやすかった。だからこそ、天音には向かなかった。強く祓えない。封じられない。討てない。ならば役に立たない。

 

 けれど、硝子の言う相談は少し違う。

 

 近づかないようにする。

 

 傷つけずに離す。

 

 眠れるようにする。

 

 それは、天音の知っている「成果」とは形が違っていた。

 

 けれど、灯莉の手首から黒い跡が消えた時のことを思い出すと、完全に無意味だとも思えなかった。

 

 迅が頷く。

 

「月見荘の連中の知り合いに、そういう相談はちょいちょいある。虫よけでも、人払いでも、弱い怪異避けでも、金払う奴はいる」

 

「……それは、仕事ということですか?」

 

「家賃払う気あんだろ」

 

「ありますわ」

 

「なら働け」

 

 あまりにも雑だった。

 

 けれど、天音はすぐに否定できなかった。

 

 九条家では、天音の術は役に立たないものだった。

 

 弱く、半端で、家の名前に見合わないもの。

 

 けれど月見荘では、それを必要とする人がいるかもしれない。

 

 灯莉の手首から怪異を剥がした時の感触が、まだ掌に残っている。

 

 怖かった。

 

 うまくできたとも思えない。

 

 それでも、灯莉は助かったと言った。

 

「……考えておきますわ」

 

「考える前に、できること書き出せ」

 

「今ですの?」

 

「忘れるだろ」

 

「忘れません!」

 

 迅はペンを紙の上に転がした。

 

「虫よけ」

 

「勝手に一つ目を書かないでくださいませ!」

 

「じゃあ自分で書け」

 

 天音は紙を睨んだ。

 

 けれど、ペンを取らない理由も見つからなかった。

 

 硝子は何も言わず、湯呑みの向こうから天音を見ている。

 

 その視線は、急かすものではなかった。

 

 ただ、映すような目だった。

 

 天音はしばらく迷った後、紙の一番上に小さく書いた。

 

 虫よけ結界。

 

 その文字は、九条家で価値がないと言われた術の名前だった。

 

 幼い頃、庭で試したことがある。夏の虫を寄せつけないように張った、小さな結界。術としては弱く、範囲も狭く、何の評価にも値しないとされた。

 

 けれど月見荘では、それを聞いた迅が「飯時に使える」と言った。

 

 その違いが、まだ不思議だった。

 

 迅が横から覗き込む。

 

「他」

 

「急かさないでくださいませ」

 

「時間かけたら価値が増えんのか?」

 

「あなたは本当に口が悪いですわね」

 

「知ってる」

 

 天音は唇を尖らせながら、次の行へ目を落とした。

 

 虫よけ。

 

 湿気避け。

 

 弱い人払い。

 

 小さな防護。

 

 音を少しだけ遠ざける結界。

 

 匂いを薄める結界。

 

 そして、今日使ったばかりの、まとわりついたものを対象から少しだけ離す術。

 

 どれも、九条家では評価されなかったものだ。

 

 大きな怪異を祓えない。

 

 強い結界を張れない。

 

 相手を封じられない。

 

 攻撃にも使えない。

 

 そういう理由で、使えないとされたものばかり。

 

 けれど、紙に一つずつ書いていくと、それらは思ったより数があった。

 

 天音は少しだけ戸惑った。

 

 できないことばかりを数えてきた。

 

 できることを並べるのは、慣れていない。

 

「……こんなものですわ」

 

 天音はペンを置いた。

 

 迅は紙を取り上げ、ざっと目を通す。

 

「結構あんじゃねえか」

 

「どれも些細なものです」

 

「些細なもんに困ってる奴はいる」

 

 迅は紙をテーブルへ戻した。

 

「最初は簡単なやつからだな。小春の知り合いに、裏口に小さいのが寄る店がある。あとは硝子の方でも何かあんだろ」

 

「あるわね」

 

 硝子は涼しい顔で頷く。

 

「眠る前だけ窓の外に何か立つ、という相談なら聞いたことがあるわ。派手に祓うほどでもないけれど、眠れないそうよ」

 

「その時点で十分怖いですわ」

 

「でも、あなたの人払いなら合うかもしれない」

 

 硝子は柔らかく笑った。

 

「怖がらせず、壊さず、近づきにくくする。あなた向きでしょう?」

 

 あなた向き。

 

 その言葉に、天音は小さく息を止めた。

 

 向いている。

 

 そんな言い方をされたことは、あまりなかった。

 

 できないことなら、いくらでも指摘された。

 

 足りないものなら、何度も数えられた。

 

 だが、自分の術が何かに向いていると言われるのは、まだ慣れない。

 

「……失敗するかもしれませんわ」

 

「その時は俺が後始末する」

 

 迅が即座に言った。

 

「軽く言わないでください」

 

「重く言えば安心すんのか?」

 

「それはそれで嫌です」

 

「面倒くせえな」

 

 迅はそう言いながら、紙を天音の前へ戻した。

 

「仕事にするなら、失敗しねえ範囲からやる。最初から一人で行かせねえ。金の話は俺がする」

 

「あなたが?」

 

「お前に任せたら、値切られて終わりだろ」

 

「失礼ですわね!」

 

「否定できんのか」

 

 天音は口を開きかけ、閉じた。

 

 正直、相場など分からない。

 

 迅はそれを見て、鼻で笑う。

 

「ほらな」

 

「腹立たしいですわ……」

 

 硝子が楽しそうに目を細めた。

 

「よかったじゃない。家賃を払う道が見えてきたわ」

 

「まだ払えると決まったわけではありません」

 

「でも、働く気はあるのでしょう?」

 

「それは……あります」

 

 天音は小さく答えた。

 

 居候のまま、与えられるだけではいたくない。

 

 返せるものがあるなら、返したい。

 

 役に立てるものがあるなら、役に立ちたい。

 

 そう思うこと自体が、まだ少し怖い。

 

 期待して、失敗して、不要だと突きつけられるのは、もう嫌だった。

 

 けれど今日、灯莉は助かったと言った。

 

 迅は役に立ったと言った。

 

 硝子は便利だと言った。

 

 その言葉を、全部なかったことにするのは、少しだけもったいない気がした。

 

 天音は紙を見下ろす。

 

 虫よけ結界。

 

 湿気避け。

 

 弱い人払い。

 

 小さな防護。

 

 その一つ一つが、九条家で価値がないと言われた術だった。

 

 けれど今は、少しだけ違って見えた。

 

「黒瀬迅」

 

「あ?」

 

「仕事を受けるなら、報酬の一部は借金の返済に充てます」

 

「好きにしろ」

 

「それから、だし巻き卵は別です」

 

「何でだよ」

 

「慰謝料は慰謝料ですわ」

 

「まだ言うか」

 

 迅は呆れたように息を吐いた。

 

 硝子が静かに笑う。

 

 天音は胸を張った。

 

 まだ自信はない。

 

 それでも、紙の上には自分にできることが並んでいる。

 

 小さくて、弱くて、派手ではない術ばかり。

 

 けれど、誰かが困っている些細なことに届くなら。

 

 それはもう、何もできないのと同じではないのかもしれない。

 

 天音はそう思いながら、紙の端にもう一つだけ書き足した。

 

 怪異を傷つけず、対象から剥がす補助。

 

 文字は少し震えていた。

 

 けれど、消さなかった。

 




天音ちゃんニート卒業!ニート卒業!!ニート卒業!!!

これからは芋ジャージニートお嬢様なんて言われなくなります、アイデンティティの危機?
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