それ以外は、正しかった
/*/ 始まりだけは、正しくなかった /*/
二〇二〇年八月十七日。
テレビでは、クロノスによる世界統一三十周年の特別番組が流れていた。
画面に映っているのは、三十年前の東京だった。
首都上空を編隊飛行するクロノスの航空部隊。
官庁街へ展開する獣化兵。
国会議事堂、首相官邸、警視庁、自衛隊の主要司令部。
それらを短時間で制圧したクロノスが、旧日本政府へ統治権の移譲を宣言させた日の記録映像である。
「今見ても、やっぱり怖いな」
深町晶が、テレビを見ながら呟いた。
「世界中の政府が、一日のうちにクロノスへ従ったんだものね」
隣に座る妻の瑞紀が答える。
向かいには、瀬川哲郎となつきの夫婦が座っていた。
四人は同じ高校に通っていた。
ただし、世界統一の日は夏休みだった。
同じ教室で、同じ緊急放送を見たわけではない。
それぞれの家で、それぞれ異なる形で、世界が変わったことを知った。
「私は昼の臨時ニュースから見ていたわ」
瑞紀が言った。
「最初は、どこかの国でクーデターでも起きたのかと思ったの。そうしたら日本の官庁街まで映り始めて、海外の政府も次々にクロノスへ従うって発表して……」
「うちも同じだ」
哲郎が頷く。
「父さんがテレビの前から動かなかった。ニュース番組を録画しながら、新聞とラジオまで確認していたよ。どの情報源も同じ内容を伝えていることの方が、かえって怖かったな」
「うちは母が買い物から帰ってきて、慌ててテレビをつけたのよ」
なつきが言った。
「近所の人が、東京に怪物の軍隊が出たって騒いでいたらしくて。最初は何を大げさなと思ったけど、本当に獣化兵が官庁街を歩いていた」
三人の視線が、晶へ向いた。
「晶は?」
「夕方まで気づかなかった」
「本当に?」
瑞紀は知っている話なのに、改めて呆れたように尋ねた。
「父さんは仕事に出ていたし、家には俺一人だったからね。昼はテレビをつけていなかった」
「夏休みなのに、何をしていたんだ」
哲郎が聞く。
「掃除と洗濯。それから夕飯の買い物」
「世界が征服されている最中に?」
「知らなかったんだから仕方ないだろ」
晶は苦笑した。
父子家庭だった深町家では、父親が仕事へ出ている間、晶が家事をすることも珍しくなかった。
昼頃から臨時ニュースが流れ続けていたが、晶はテレビをつけなかった。
商店街へ買い物に出ても、普段より人が集まっていることには気づいたが、事故か何かだと思った。
家へ戻る。
米を研ぐ。
夕食の下ごしらえをする。
それから、ようやくテレビをつけた。
画面には、クロノスへの統治権移譲を発表する旧政府の代表者が映っていた。
「番組の途中から見たから、最初は何が起きたのか全然分からなかった」
晶が言う。
「最初に見たのが、総理大臣がクロノスへ従うと発表している映像だったんだ」
「それは混乱するわね」
なつきが言った。
「その後に獣化兵が映って、ようやく事態が分かった。父さんが帰ってくるまで、一人でずっとテレビを見ていたよ」
「電話をくれればよかったのに」
瑞紀が言う。
「当時は今みたいに、いつでも簡単に連絡できたわけじゃないだろ。それに電話も混んでいた」
「次の日、みんなで会ったわよね」
瑞紀が懐かしそうに言った。
「学校ではなく、いつもの公園で」
「夏休み中だったからな」
哲郎が答える。
「学校からは、自宅待機とも登校せよとも連絡が来なかった。先生たちも、何を指示すればいいか分からなかったんだろう」
「私たちは、公園に集まって世界の終わりについて話していた」
なつきが笑う。
「大げさじゃなく、本当に終わると思っていたもの」
戦争が始まる。
自衛隊とクロノスが市街地で戦う。
獣化兵が一般市民を襲う。
捕まった者は、全員怪物へ変えられる。
高校生だった四人には、流れてくる噂の真偽を判断する材料などなかった。
ただ、テレビに映る圧倒的な力を見て、自分たちの日常はもう戻らないのだと思った。
実際には、電車もバスも止まらなかった。
水道も電気も維持された。
商店は翌日も開いた。
旧政府の省庁も、地方自治体も、警察署も、職員の大部分はそのまま仕事を続けた。
夏休みが終われば、学校も予定どおり再開した。
「世界征服のあとに、普通に二学期が始まったのよね」
瑞紀が言った。
「校門にクロノス日本地域行政庁の通達が貼ってあった」
哲郎が思い出す。
「教育課程は従来どおり継続する。教職員と生徒は平常どおり登校せよ、だったかな」
「世界中の政府を従わせておいて、宿題の提出期限は変えなかった」
なつきが言う。
「そこだけ聞くと、妙に腹が立つな」
晶が笑った。
「クロノスにとっては、世界を壊したつもりはなかったんだろう」
哲郎が答えた。
「行政も学校も企業も、使えるものはそのまま使った。上にいる統治者だけを入れ替えた」
「武力でね」
なつきの言葉に、笑いが消えた。
そこだけは、三十年が過ぎても変わらなかった。
クロノスは人類に選択を求めなかった。
自分たちこそが世界を統治すべきだと判断した。
各国政府が拒否できない状況を作り、その上で力によって従わせた。
市民の犠牲が少なかったとしても、平和的な政権交代ではない。
「やっぱり、あの始め方だけは正しかったとは思えない」
晶が言った。
「そうね」
瑞紀も頷く。
「被害を抑えたことと、人類の同意を得たことは別だもの」
「選挙も国民投票もなかった」
哲郎が続ける。
「クロノスは、自分たちなら正しく統治できると決めて、世界を奪った」
「でも、その後は?」
なつきが尋ねた。
「武力で統一したことを除けば、その後にやったことまで間違っていたと思う?」
誰も、すぐには答えなかった。
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テレビの画面が、世界統一直後の映像から、一九九〇年代の日本経済再編へ移った。
地価と株価の下落。
銀行の不良債権。
土地転がしと架空融資。
地上げ屋と暴力団。
政治家、銀行、不動産会社の癒着。
クロノスは、それらを短期間で処理した。
担保価格の水増しを認めない。
不良債権を強制的に開示させる。
投機と不正融資で利益を得ていた経営者や政治家の資産を接収する。
銀行経営者や投資家を救うため、一般の預金者や若い世代へ損失を押しつけることも認めなかった。
「やり方は怖かったわよ」
瑞紀が言った。
「不正融資や地上げに関わった人たちが、一斉に逮捕された。逃げようとした人も、ほとんど逃げられなかった」
「クロノスが相手では、証拠を隠すことも難しかったからな」
哲郎が答える。
「だが、不良債権を十年も隠して、銀行も企業も弱らせ続けることはなかった」
「土地を右から左へ動かしていた会社は潰れた」
晶が言った。
「でも、工場やそこで働く人間まで一緒に潰したわけじゃない。設備と技術者は、別の事業へ移された」
当時の経営者や企業名を、すべて守ったわけではない。
同じ製品を、似た設備で、複数の企業が赤字を出しながら作っているなら統合した。
経営陣は退任させても、技術者と製造設備は残した。
特に半導体は、単なる民間商品とは扱われなかった。
通信。
医療。
軍事。
行政網。
宇宙開発。
気象制御。
獣化兵と調整体の管理。
将来のあらゆる基幹技術に必要になると判断されていた。
テレビには、一九九〇年代前半の半導体再編を説明する図が映った。
重複していたDRAM部門の統合。
フラッシュメモリ、画像処理、高性能演算、組み込み制御への分業。
技術者の長期雇用。
設備投資の継続。
企業名を残すことより、技術と生産能力を残すことが優先された。
「半導体産業を救ったのは、核融合発電だけじゃなかったんだよな」
晶が言った。
「核融合が始まったのは二〇〇一年だ」
哲郎が頷く。
「その前の十年間に技術者を解雇せず、設備投資を止めず、量産部門を整理したことの方が大きい。二〇〇一年まで何もしなかったら、安い電力が手に入った時には、もう作る人間も工場も残っていなかった」
「会社を全部そのまま残したわけでもないのよね」
なつきが言う。
「必要なのは企業の看板ではなく、技術と働く人間だって」
「経営者には厳しいけど、技術者には甘かった」
瑞紀が言った。
「甘いというより、使える人材を捨てなかったんだろう」
晶が答えた。
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世界統一後も、四人は高校生活を続けた。
受験勉強をした。
大学を選んだ。
クロノスが進路を指定したわけではない。
成績と希望に応じて学校を選び、自分たちの意思で将来を決めた。
哲郎は半導体と制御技術を学んだ。
晶も製造業につながる技術系の進路を選んだ。
瑞紀となつきも大学を卒業し、それぞれ企業へ就職した。
四人が大学へ通っていた頃、日本の実業再編はすでに進んでいた。
核融合炉建設へ向けて、超伝導線材、精密バルブ、耐熱素材、制御半導体、真空設備などの需要が急増していた。
大企業だけではない。
地方の工場。
中小企業。
町工場。
設計会社。
保守企業。
それまで大企業の下請けとして価格を削られていた技術者にも、長期契約の仕事が流れ込んだ。
「就職活動はしたけど、就職先が一つもないことまでは心配していなかったな」
晶が言った。
「希望する会社へ入れるかは別だったけど」
「卒業しても正規の仕事が見つからない、という話はほとんど聞かなかったものね」
瑞紀が答える。
「企業側も、不況になったからといって新卒採用を何年も止めることは認められなかった」
哲郎が言った。
「十年後も必要になる職種なら、今から採用して育てろという方針だったからな。目先の決算だけを良くするために、次の世代を採らないという選択は許されなかった」
「毎日同じ仕事をさせているのに、契約だけ短くして安く雇うことも制限された」
なつきが続ける。
「恒常的な仕事なら、恒常的な雇用にしなければならない。私も最初から正規職員だったわ」
晶と瑞紀は結婚した。
哲郎となつきも結婚した。
それぞれ仕事を続け、住宅を購入し、子供を育てた。
「給料は、正直それほど伸びなかったけどな」
晶が苦笑した。
「初任給から今までに、何倍にもなったわけじゃない」
「物価も同じようには上がらなかったでしょう」
瑞紀が答える。
「収入だけを見れば、派手な成長ではなかった。でも、生活に必要な支出も増えなかった」
「むしろ二〇〇一年以降は、下がった費用も多い」
哲郎が言った。
二〇〇一年。
全世界で、商用核融合炉による発電が開始された。
日本でも発電設備は順次核融合炉へ置き換えられ、電気そのものはほとんど無料に近い社会基盤となった。
家庭が支払うのは、発電に使った燃料費よりも、送電網、変電設備、蓄電設備、保守管理に必要な費用だった。
「今の電気料金なんて、使用量より設備維持費を払っているようなものよね」
なつきが言う。
「子供に電気を無駄遣いするなと言っても、経済的な意味では通じにくい」
「学生の頃は、冷房をつけたまま寝ると怒られたのにな」
哲郎が笑った。
「今は空調を止めて熱中症になる方が、行政から注意される」
電気料金が下がれば、安くなるのは家庭の光熱費だけではない。
工場の製造費。
冷蔵・冷凍設備。
鉄道運行。
上下水道。
海水淡水化。
廃棄物処理。
建物の冷暖房。
金属精錬。
燃料と樹脂の再合成。
電力を使う、ほとんどすべての産業が恩恵を受けた。
製造と輸送の基礎費用が下がれば、商品価格も下がる。
地価も投機資産ではなく、居住と生産のために使う資源として管理された。
土地を持っているだけで価格が上がることを期待するより、実際に住宅や工場として使うことが優先された。
「俺たちは、特別に高い給料をもらっていたわけじゃない」
晶が言った。
「それでも、この家を買えた」
晶と瑞紀が暮らす、郊外の一戸建て。
壁には、二人の結婚式と、子供たちの成長を記録した写真が並んでいた。
「毎月の固定費が小さかったもの」
瑞紀が言う。
「電気代はほとんどかからない。水道や交通費も安い。医療費や教育費で生活が壊れる心配も少なかった」
「うちも同じだ」
哲郎が言った。
「給料が大きく増えなくても、二人で普通に働いていれば家を持ち、子供を育てられた」
「哲郎は仕事のたびに、給料が増えないと文句を言っていたけどね」
なつきが言う。
「研究設備は毎年良くなるのに、俺の給与だけ変わらないと」
「そこまで言っていない」
「言っていたわよ」
「少しは言ったかもしれない」
四人が笑った。
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テレビでは、若い世代への街頭インタビューが流れていた。
『クロノスの統治には、政治的な自由がないと思いませんか』
取材を受けた若い男性が答える。
『クロノスを倒せと書いた本も普通に売っています。総帥を暗殺する小説もありますよ』
『反クロノス思想を持つこと自体は、処罰されないのですか』
『されません。許可を受けて登録した武器なら、クロノスを支持していない人間でも所持できます』
別の女性が続ける。
『違法に武器を集めたり、人を襲ったり、施設を攻撃したりすれば捕まります。でも、それは頭の中でクロノスを嫌っているからではなく、実際に法律を破り、誰かへ危害を加えたからでしょう』
「ここは、昔から誤解されやすいわね」
なつきが言った。
「クロノスを倒せと考えただけで、すぐ連行されると思われている」
「思想だけでは処罰されない」
哲郎が答える。
「武器も、適法に登録して保管しているだけなら犯罪ではない。違法な入手や具体的な襲撃準備、実際の危害行為が問題になる」
「総帥を殺す小説も、普通に出版されているものね」
瑞紀が言った。
「クロノス批判の評論もある」
「クロノスが見ているのは、思想より行為なんだろう」
晶が言う。
「少なくとも平時は、そこを分けている」
「平時は、ね」
なつきが付け加えた。
世界議会もある。
地域行政庁も、裁判所も存在する。
地方行政を担う者を選ぶ選挙もある。
クロノスを批判する新聞や本も出版できる。
だが、最終的な統治権は総帥アルカンフェルにある。
総帥を選挙で退任させる制度はない。
世界議会の決定も、アルカンフェルが否定すれば覆る。
法律はアルカンフェルを一定程度拘束する。
しかし、人類存続に必要だとアルカンフェル自身が判断した時、その法律を無視する権能まで完全に奪う制度は存在しなかった。
「独裁者の気分一つで、明日から全部変わる」
なつきが言った。
「三十年前から、ずっとそう言われてきた」
「制度上の不安としては、本当にそうだ」
哲郎が認める。
「総帥を強制的に退任させたり、総帥の権限を最終的に否定したりする機関はない」
「明日、総帥が全市民の財産を没収すると言い出しても、制度だけでは完全には止められない」
瑞紀が言った。
「それでも、三十年間そんなことはしなかった」
晶が答える。
テレビでは、世界統一直後の記者会見が再放送されていた。
『総帥が将来、暴君にならないという保証はあるのですか』
若い記者の問いに、クロノスの広報官が答える。
『ありません』
「今聞いても、安心させる気がない回答ね」
なつきが呆れた。
『我々が提示できるのは、総帥が少なくとも四百年にわたりクロノスを準備し、その間、一時の感情によって長期方針を変更しなかったという実績だけです』
三十年前の映像が終わる。
「その実績が、さらに三十年増えた」
晶が言った。
「晶は、クロノスを信用しているの?」
瑞紀が夫へ尋ねる。
「信用とは少し違うと思う」
「じゃあ、何?」
「評価している」
晶は答えた。
「総帥が絶対に暴君にならないとは思っていない。これから先も、永遠に同じ判断を続ける保証はない。いつか後継者が立つなら、その人間が同じように統治する保証もない」
「でも、少なくともこの三十年は、気分で規則を変えなかった」
哲郎が続ける。
「自分の好き嫌いで企業を潰したり、市民の家を奪ったりもしなかった」
「クロノスの幹部が、総帥との関係を利用して行政へ圧力をかけることも認めなかった」
なつきが言う。
「忠誠を、特権にしなかったのよね」
「武力で世界を統一したこと以外は、正しかったと思う」
瑞紀が静かに言った。
晶が妻を見る。
「かなり言い切るな」
「だって、そうでしょう」
瑞紀は壁の家族写真へ目を向けた。
「バブルの失敗を、私たちの世代へ押しつけなかった。大学へ進学できた。卒業後に就職できた。結婚しても仕事を続けられた。家を買えた。子供を育てられた」
一つずつ、確かめるように言葉を重ねる。
「給料は、それほど増えなかった。でも物価も抑えられた。核融合発電が始まってからは、生活に必要なものの値段も下がった。毎月払う固定費が減ったから、普通の収入でも家庭を持てた」
「半導体産業を早い段階で再編したことも、核融合炉を世界中に建てたことも、間違いではなかった」
哲郎が頷く。
「企業の看板より実業を残し、技術者を育て、若者を正規雇用した。結果が良かっただけではない。政策としても合理的だった」
「問題は、始める時に誰にも選ばせなかったこと」
なつきが言った。
「クロノスは、人類に相談しなかった。自分たちが正しいと決めて、力で世界を取った」
「そこだけは、正しくなかった」
晶が答えた。
「どれだけ結果が良くても、武力による世界統一まで正当化はできない」
「でも、その後まで間違っていたと言う必要はない」
瑞紀が晶の手へ、自分の手を重ねた。
「私たちが生きてきた三十年は、本物だもの」
晶は頷いた。
「そうだな」
◇
テレビの中では、世界統一後に生まれた若者たちが取材を受けていた。
『世界統一直後には、日本でも新卒採用が大幅に減ると予想されていたんですよね』
『電気料金を払えず、夏でも冷房を我慢する家庭があったというのは本当ですか』
『家を買うために、三十年や四十年も住宅ローンを払い続けるのが普通だったんですか』
四人にとって、自分たちの若い頃からつながっている話も、彼らの子供たちにとっては歴史だった。
「今の子供たちは、クロノス以前を知らないのよね」
瑞紀が言った。
「総帥がいる世界が、最初から普通なんだ」
晶が答える。
「私たちは、高校生として世界統一を見た」
なつきが呟いた。
「始まりがどういうものだったかを覚えている」
「だからこそ、両方を残す必要がある」
哲郎が言う。
「クロノスが武力で世界を奪ったことも、その後の統治が成功したことも。片方だけを消せば、歴史ではなく宣伝になる」
「始まりは正しくなかった」
晶が言った。
「でも、それ以外は正しかった」
瑞紀が続ける。
「少なくとも、私たちが高校を卒業して、大学へ行って、働いて、結婚して、子供を育てた三十年間の、大きな方向については」
なつきは腕を組んだまま、しばらく考えていた。
やがて小さく息を吐く。
「気に入らない言い方だけど、否定はできないわね」
「総帥を好きになる必要はない」
哲郎が言った。
「クロノスを崇拝する必要もない」
「でも、正しかったことまで、独裁だからという理由だけで間違いにする必要もない」
なつきが答えた。
窓の外では、住宅地の家々に明かりがともり始めていた。
夕食を作る家。
子供を風呂へ入れる家。
仕事から帰る家族を待つ家。
どの家も、核融合炉から送られる、ほとんど無料に近い電力によって明るく照らされている。
空の高みには、三重軌道リングの光が細く伸びていた。
あの日、高校生だった四人は、世界が終わると思った。
だが、翌日も商店は開いた。
電車は走った。
夏休みが終われば、二学期が始まった。
その後、四人は大学へ行き、働き、結婚し、子供を育てた。
クロノスによる世界統一は、正しい手段ではなかった。
人類の同意を得ず、圧倒的な武力によって各国政府を従わせた。
その事実は、三十年の善政によって消えるものではない。
同時に、その後に築かれた社会まで、始まりが間違っていたという理由だけで否定されるものでもなかった。
四人は総帥を信仰していない。
独裁という仕組みへの不安も失っていない。
アルカンフェルが未来永劫正しいと信じてもいない。
ただ、信用できるという保証がないことと、三十年間の実績を評価できないことは別だった。
始まりだけは、正しくなかった。
だが、その後に自分たちが生きてきた三十年まで、間違いではなかった。
それが、一九九〇年八月十七日を夏休み中の高校生として迎え、その後のすべてをクロノス統治下で生きてきた四人の、率直な評価だった。