/*/ クロノス日本支部 レリックスポイント基地最下層 遺跡宇宙船観測研究区画 /*/
観測研究区画の空気は、完全に死んでいた。
遺跡宇宙船の外殻観測班。
小田桐主任の直属研究員たちは、各自の管制卓や観測端末の前に座っていた。
座っていた。
座っているだけだった。
誰もキーを叩かない。
誰も資料をめくらない。
誰も咳をしない。
呼吸すら、できるだけ浅くしていた。
理由は単純だった。
聞いてしまったからだ。
アルカンフェル総帥と、バルカス博士の会話を。
ギュオー。
クルメグニク。
ハイヤーン。
カブラール。
死海調整槽。
恒星間宇宙船。
種苗船。
宇宙怪獣と戦うための足場。
外宇宙へ旅立つ獣神将。
可住惑星に人類生存圏を作る王。
耳に入ってくる単語の一つ一つが、研究員たちの処理能力を軽々と踏み潰していった。
主任。
小田桐主任。
帰ってきてください。
今すぐ帰ってきてください。
できれば村上征樹も連れてきてください。
いや、やっぱり連れてこないでください。
これ以上、部外者を巻き込んだら私たちの胃が死にます。
若い研究員の一人は、端末画面を見つめたまま硬直していた。
表示されているのは遺跡宇宙船外殻の熱反応ログである。
だが、頭の中では別の単語がぐるぐる回っていた。
死海。
調整槽。
船の胎。
獣神将を王として外宇宙へ。
それは研究計画なのか。
神話なのか。
それとも国家機密どころか、文明機密なのか。
別の研究員は、ペンを握ったまま固まっていた。
メモを取るべきか。
取ってはいけないのか。
聞かなかったことにすべきか。
聞かなかったことにした場合、今後この計画の資料が回ってきた時に「初耳です」という顔をすればいいのか。
いや、無理だ。
顔に出る。
絶対に出る。
自分は顔に出る方だ。
終わった。
人生が終わった。
隣の同僚が、声にならない口の動きで言った。
――主任、帰ってきて。
別の同僚が、同じく口だけで返す。
――無理。資料室、奥。
――呼んで。
――無理。総帥、そこ。
――死ぬ。
――もう死んでる。
だが本当に死んだような顔をしているのは、最年長の主任補佐だった。
彼は長年、遺跡宇宙船の観測をしてきた。
外殻の微細な収縮。
封印区画の変動。
船体内部に残る生体反応。
その全てを、現実の研究対象として扱ってきた。
だが今、目の前で語られているのは、観測対象の応用先だった。
死海を巨大調整槽にする。
恒星間航行可能な宇宙船を作る。
獣神将を外宇宙へ送り、人類を根付かせる。
規模が違う。
違いすぎる。
普段自分たちが見ている外殻データが、いきなり世界統一後の外宇宙植民計画に接続された。
主任補佐は、端末の端に指を置いたまま、心の中で叫んだ。
小田桐主任。
これは我々の給与等級で聞いていい話ではありません。
そして最悪なことに、アルカンフェル総帥は、こちらが聞いていることに気づいていないはずがなかった。
気づいている。
絶対に気づいている。
なぜなら、総帥は時折、ほんのわずかにこちらへ視線を流している。
そのたびに、観測班全員の背筋が伸びた。
バルカス博士の方は、完全に研究者の顔になっていた。
死海を船の胎にしてみせる、と言った。
言ってしまった。
言い切ってしまった。
それを聞いた若い研究員の一人は、口の中で小さく呟いた。
「やる気だ……」
隣の同僚が、足を踏んだ。
黙れ。
声を出すな。
死ぬぞ。
だが、もう遅い。
アルカンフェルの視線が、すっとこちらへ向いた。
研究員たちは、一斉に石になった。
端末音だけが、かすかに鳴っている。
観測区画の空調が、妙に大きく聞こえた。
アルカンフェルは、何も言わなかった。
ただ、わずかに目を細めた。
そして、バルカスへ向き直る。
「今は正式記録には残すな」
「御意」
残すな。
研究員たちの脳内に、その言葉が突き刺さった。
正式記録には残すな。
つまり、今聞いた話は正式には存在しない。
存在しないが、聞いた。
聞いたが、記録してはいけない。
記録してはいけないが、忘れてもいけない。
どうしろと。
小田桐主任。
本当に帰ってきてください。
あなたの班員が全員、概念的に死にかけています。
その時、資料室側の扉が開いた。
小田桐主任が戻ってきた。
村上征樹も一緒だった。
観測班の研究員たちは、一斉に小田桐を見た。
助かった。
主任が帰ってきた。
だが小田桐は、全員の顔色を見た瞬間、足を止めた。
「……何があった」
誰も答えない。
答えられない。
主任補佐が、震える手で眼鏡を押し上げた。
「主任」
「何だ」
「その……死海が」
「死海?」
「船に、なるそうです」
小田桐の眉間に深い皺が刻まれた。
「何を言っている」
別の研究員が、今にも泣きそうな顔で続けた。
「ギュオーが、王に……」
「ギュオー?」
「いえ、ギュオーめが、です。バルカス博士がそう……」
小田桐は目を閉じた。
ゆっくりと。
深く。
とても深く。
「……私がいない間に、何を聞かされた」
「聞かされたというか」
「聞こえてしまったというか」
「聞かなかったことにしたいというか」
「しかし忘れたら多分まずいというか」
「主任、我々は今、どの機密等級の話を聞いたんですか」
「たぶん機密等級がまだ存在していません」
「作るところからですか」
「主任、帰ってきてくださって本当にありがとうございます」
小田桐は片手で額を押さえた。
隣の村上征樹も、さすがに表情を引きつらせていた。
「死海が船になる、とは?」
村上が尋ねる。
研究員たちが一斉に首を横に振った。
聞かないで。
今それを聞かないで。
我々はまだ咀嚼できていません。
だが、アルカンフェルは平然としていた。
「いずれ話すつもりだった。少し早く聞こえただけだ」
小田桐が低い声で言う。
「総帥」
「何だ」
「うちの班員を、最高機密の余波で殺さないでいただきたい」
「死んでいない」
「顔色を見てください」
アルカンフェルは観測班を見た。
全員が青い顔をしていた。
それを見て、ほんの少しだけ考えるような顔をする。
「……休憩を許可する」
研究員たちは、動けなかった。
休憩。
この状況で。
何を飲めばいいのか。
コーヒーか。
胃薬か。
遺書か。
主任補佐が、震える声で言った。
「主任、休憩室に行ってもよろしいでしょうか」
「行け。全員行け。五分でいい。深呼吸してこい」
「五分で足りますか」
「足りなくても戻れ。ここは観測区画だ」
研究員たちは、ぎこちなく立ち上がった。
誰も走らなかった。
走ったら背中を撃たれる気がしたからだ。
いや、撃たれはしないだろう。
たぶん。
おそらく。
そう信じたい。
観測班がぞろぞろと退室していく。
最後に出ようとした若い研究員が、扉の前で振り返った。
「主任」
「何だ」
「本当に、死海を調整槽にするんですか」
小田桐は答えに詰まった。
代わりに、アルカンフェルが答えた。
「いずれな」
研究員は、泣きそうな顔で頷いた。
「分かりました。分かりたくありませんが、分かりました」
扉が閉じた。
観測区画に残ったのは、アルカンフェル、バルカス、小田桐、村上だけになった。
小田桐は深く息を吐いた。
「総帥」
「何だ」
「情報開示の段階というものを、もう少し考えていただきたい」
「考えている」
「今のは考えている者の所業ではありません」
「聞かせるつもりがなかったわけではない」
「つまり、聞かせるつもりはあったと」
「小田桐班は遺跡宇宙船の観測班だ。いずれ種苗船計画の基礎データに関わる。早めに心を折っておいた方がいい」
「折らないでください」
村上が横で、思わず小さく咳き込んだ。
笑いを堪えたのかもしれない。
小田桐は彼を睨み、それからアルカンフェルへ向き直った。
「少なくとも、彼らに説明する時間をください」
「与える」
「私から説明します」
「任せる」
「資料は」
「バルカスに渡させる」
バルカスが深く頷いた。
「必要な部分だけを整えましょう」
「博士」
小田桐が言った。
「必要な部分だけ、です。全部ではありません」
「心得ております」
小田桐は、まったく信用していない顔をした。
バルカスは涼しい顔だった。
アルカンフェルは遺跡宇宙船の外殻を見上げる。
「どのみち、彼らには必要な話だ」
「人には順序というものがあります」
「地球外から来るものは、こちらの順序を待たん」
「それは分かっています」
小田桐は苦々しげに言った。
「ですが、研究員の心臓も待ちません」
「鍛えろ」
「研究班を特殊部隊のように扱わないでください」
アルカンフェルは少しだけ考えた。
「では、胃薬を配れ」
「そういう問題でもありません」
村上が、今度こそ少しだけ笑った。
笑ってから、すぐに表情を戻す。
だが、その場の空気はわずかに緩んだ。
最下層観測区画の向こうで、休憩室へ向かった研究員たちは、今ごろ全員で小田桐主任の帰還を神に感謝しているだろう。
その神が、目の前のアルカンフェルなのかどうかは、かなり微妙だった。