/*/ 小田桐邸の灯 /*/
「四人分ではない。五人分だ」
小田桐主任がそう言った時、速水利章は聞き間違いを疑った。
遺跡基地最下層。
人の目を避けて確保した小部屋には、速水、伊集院、鳥居、藤原の四人が集まっていた。
机の上には、損種実験体への調製計画が広げられている。
クロノスによって体内へ植えつけられた造反防止ウイルスを無効化する。
同時に、通常の獣化兵とは異なる身体構造を作り、獣神将の精神支配から外れる。
クロノスへ反逆するために、自分たちの身体を作り替える計画だった。
成功する保証はない。
むしろ、調製途中で死亡する可能性の方が高かった。
「主任」
速水は、机に置かれた調製予定者一覧を見た。
そこには四人の名だけでなく、小田桐主任の名も記されていた。
「これは、どういうことです」
「見たままだ」
「主任まで調整を受ける必要はありません」
「必要があるかどうかを決めるのは私だ」
「しかし、この計画は我々が――」
「私が立てた計画だ」
小田桐は静かに言った。
「お前たちへ、死ぬかもしれない処置を受けさせる。その責任者である私が、安全な身体のまま後ろに立つと思ったか」
「主任が残らなければ、計画全体を指揮する者がいなくなります」
「五人とも生き残ればよい」
「それができる保証はありません」
「だから、データを調べた」
小田桐は机上の端末を操作した。
遺跡基地に保管されていた調製資料が表示される。
損種実験体の細胞変異。
臓器崩壊の原因。
造反防止ウイルスを無効化する組織変化。
通常の獣化兵が獣神将の精神支配へ接続される過程。
その接続を避けながら、変異した身体を維持する方法。
本来なら、彼らのような研究員には閲覧を許されなかった資料である。
だが、この世界ではアルカンフェルの命令によって、遺跡基地にある調製データが小田桐の研究チームへ公開されていた。
調製失敗を繰り返さないため。
調製技術の理解を深めるため。
造反防止ウィルス無効化のため。
公開の理由はそれだった。
その資料がクロノスへ反逆する計画の成功率を高めていた。
「完全な安定体にはならん」
小田桐は言った。
「損種実験体であることに変わりはない。調製後も、細胞と臓器の状態を定期的に確認する必要がある」
「調製槽での維持処置ですか」
「そうだ」
「一生?」
「この身体で生きる限りはな」
伊集院が資料を読みながら尋ねた。
「維持処置を続ければ、どれほど生存できます」
「分からん」
「推定でも」
「老化による死より、調製組織の不安定化の方が先に問題になる。逆に言えば、不安定化さえ抑え続けられれば、通常の老化速度には従わない可能性がある」
「長命化する?」
鳥居が言った。
「結果としては、そうなるかもしれん」
「主任」
速水は改めて小田桐を見た。
「それでも、受けるんですか」
「お前たちだけを実験台にして、私だけ寿命まで生きるつもりはない」
小田桐の声は変わらなかった。
「この計画が正しいと判断したのは私だ。失敗した時の責任も、成功した後の責任も、私が負う」
「五人全員が損種実験体になります」
「分かっている」
「人間へ戻れないかもしれません」
「最初から、そのつもりだ」
速水は何も言えなくなった。
小田桐は四人を見回した。
「異論があるなら、今のうちに言え」
誰も口を開かなかった。
「では、五人でやる」
/*/
五人は生き残った。
完全な成功ではなかった。
通常の獣化兵でもない。
元の人間のままでもない。
損種実験体。
本来なら失敗作として扱われる身体だった。
だが、造反防止ウイルスは無効化された。
獣神将の思念波による命令にも、服従を強制されない。
五人は自分の意思を保った。
クロノスから逃れるために手に入れた身体は、クロノスの支配下へ入らないという目的を果たした。
その代わり、身体には不安定さが残った。
細胞組織の同調に、わずかなずれが生じる。
内臓の再生速度に偏りが出る。
神経系と変異組織の接続部に、周期的な負荷が蓄積する。
放置すれば、すぐに死ぬわけではない。
だが、何年もそのままにしておけば、どこから崩れるか分からなかった。
そのため五人は、定期的に調製槽へ入った。
バイタル・メンテナンス。
診断。
細胞補正。
臓器同調。
神経系の安定化。
造反防止ウイルスの残存反応確認。
一度の処置には時間がかかった。
全身を調製槽へ沈められる感覚も、決して快適ではない。
それでも、処置を受ければ身体は安定した。
十年が過ぎた。
二十年が過ぎた。
三十年が過ぎても、五人の外見はほとんど変わらなかった。
小田桐の髪に白いものは混じっていたが、それ以上増えない。
速水たちも、遺跡基地にいた頃と大きく変わらない姿を保っている。
「長命不老などという、大層なものではない」
小田桐は言った。
「ですが、主任。四十年前とほとんど変わっていません」
速水が答える。
「壊れかける前に直しているだけだ」
「普通は、それを長命と言います」
「普通の人間は、定期的に調製槽へ入らん」
「我々は普通の人間ではありませんから」
小田桐は一瞬黙り、資料へ視線を戻した。
「それを言われると反論できんな」
/*/
世界統一後、五人が当初想定していた反逆計画は意味を失った。
クロノスは秘密結社ではなく、世界統治組織となった。
速水たちが戦おうとしていた時代のクロノスと、統一後のクロノスは、同じ名を持ちながら同じ状態ではない。
だからといって、五人がクロノスを無条件に信用したわけではなかった。
彼らは獣神将の精神支配下にいない。
クロノス内部で働きながら、クロノスを批判できる。
獣神将へ反対できる。
過去の行為を糾弾できる。
政策に問題があれば、記録と証拠を示して異議を申し立てられる。
クロノスに所属していることと、クロノスへ服従することが、彼らの中では分離されていた。
「皮肉なものですね」
ある日、速水が言った。
場所は小田桐邸の書斎だった。
世界統一後、小田桐は遺跡基地を離れ、東京都内にある旧邸宅へ戻っていた。
二階建ての立派な洋館である。
広い庭に面した応接室と食堂。
二階には寝室と客間。
屋根裏部屋。
地下の貯蔵庫と機械室。
速水、伊集院、鳥居、藤原も、次第にその屋敷で暮らすようになっていた。
「クロノスへ反逆するために、この身体になった」
速水は続けた。
「それが今では、クロノスの中でクロノスを批判するための身体になっている」
小田桐は設計図から顔を上げなかった。
「役に立っているならいいだろう」
「簡単に言いますね」
「死ぬつもりで受けた処置だ。五人とも生き残った。しかも言いたいことを言える立場まで得た。悪い結果ではない」
「主任も、その五人に入っているんですが」
「だから何だ」
「自分だけ他人事のように言わないでください」
小田桐はようやく顔を上げた。
「では、クロノスを褒めたいのか」
「まさか」
「なら、今後も批判を続けるぞ」
速水は苦笑した。
「最初からそのつもりです」
/*/
五人の本分は、政治でも行政でもなかった。
科学者である。
遺跡基地で発見された遺跡宇宙船。
その構造。
航行系統。
生体制御装置。
エネルギー供給機構。
創造主が残した技術体系。
それらを調査し、人類の科学として理解することが、彼ら本来の仕事だった。
世界統一後、巨大宇宙船《方舟》の開発が進むと、遺跡宇宙船の研究データは人類の宇宙進出へ直接利用されるようになった。
小田桐は、方舟そのものの開発部門へ移らなかった。
代わりに、遺跡宇宙船と方舟の双方から得られたデータを使い、小型宇宙船の設計研究を始めた。
方舟は巨大だった。
人員、物資、居住区、生産設備を搭載し、長期間活動するための宇宙拠点である。
だが、宇宙開発のすべてを一隻の巨大船だけで行うことはできない。
惑星と方舟を往復する連絡船。
軌道施設へ人員を運ぶ輸送船。
未調査宙域へ向かう観測船。
事故現場へ急行する救難船。
資材を運ぶ貨物船。
小人数で長期間活動する調査船。
必要とされる船は、任務ごとに異なった。
「創造主の宇宙船を小さくすればよい、という話ではない」
小田桐は共同作業室で言った。
机には複数の船体案が表示されている。
「遺跡宇宙船は、人間が設計したものではない。生体構造も制御方法も、前提が違う」
「方舟は、人類が運用できるように再構成されています」
伊集院が言った。
「しかし大き過ぎる」
「だから、両方のデータを使う」
小田桐は小型船の断面図を拡大した。
「遺跡宇宙船の技術を、そのまま模倣するのではない。方舟で実用化された技術を基準にして、人間が作れ、人間が修理でき、人間が運用できる船へ落とし込む」
鳥居が別の設計案を表示する。
「この救難艇は、方舟と同じ生体制御系を簡略化しています」
「簡略化し過ぎだ。故障時に操縦系全体が停止する」
「機械系統を残しますか」
「残せ。創造主の技術へ依存し過ぎるな」
藤原が言った。
「遺跡宇宙船の研究者が言う言葉ではありませんね」
「研究したから言っている」
小田桐は答えた。
「理解できない技術へ命を預けるな。人間の船なら、人間が直せるように作る」
五人の研究は、方舟開発部門からも高く評価された。
小型宇宙船の派生設計。
既存船の改修。
方舟搭載艇の更新。
長距離調査用船舶の設計。
技術照会は絶えなかった。
/*/
速水たち四人には、もう一つの仕事があった。
村上征樹の直属スタッフである。
村上が正式な獣神将となった後、彼には自分の判断を支える者たちが必要になった。
会議資料を整理する。
過去の記録と現在の政策を照合する。
研究、医療、軍事、行政から届く報告を精査する。
専門用語で隠された問題を見つける。
獣神将会議へ提出される政策案を事前に検討する。
そして必要であれば、村上本人へ反対する。
通常の獣化兵や職員でも、村上のスタッフにはなれる。
だが、獣神将の思念波による支配から完全に外れた者が、獣神将の直属で働く意味は大きかった。
速水たちは、村上の命令へ強制的に従わない。
村上が間違っていると思えば、正面から反対できる。
村上自身が、それを求めた。
「方舟へ移るのか」
小田桐が尋ねたのは、村上から正式な要請が届いた直後だった。
速水の前には二つの書類が置かれている。
方舟開発部門への異動要請。
村上直属スタッフへの任命案。
「科学者としては、方舟へ行くのが自然です」
速水は言った。
「そうだな」
「我々の本来の専門です」
「それも間違いない」
「しかし、村上さんのところにも、我々のような人間が必要です」
小田桐は設計端末を閉じた。
「どうするつもりだ」
「両方やります」
「簡単に言うな」
「主任に言われたくありません」
速水は方舟からの要請書を脇へ置いた。
「所属は村上さんのところへ残します。ただし、小型宇宙船の設計研究と、方舟への技術協力は続ける」
「二足の草鞋か」
「我々は四人います」
「四人とも、村上の仕事で基地へ泊まり込むことがあるだろう」
「主任がいます」
「私一人で四人分働けという意味か」
「主任なら、すでにやっています」
「それを止めるのも、お前たちの仕事ではなかったか」
速水は一瞬黙った。
「では、無理をしない範囲で」
「信用できんな」
それでも、小田桐は反対しなかった。
速水、伊集院、鳥居、藤原は、村上のスタッフとして働きながら、小田桐の宇宙船研究にも参加した。
村上の仕事では、科学顧問であり、事務スタッフであり、内部監査役だった。
小田桐の仕事では、遺跡宇宙船を知る研究者だった。
方舟から照会が届けば、設計資料を確認する。
村上から政策案が届けば、内容を精査する。
昼間はクロノス基地。
夜には小田桐邸の共同作業室。
休日には小型船の設計会議。
五人とも、働き過ぎる傾向にあった。
/*/
村上自身は、クロノス基地の居住区で生活していた。
正式な獣神将となり、会議と公務が増えてからは、基地の外へ出ない日も多い。
小田桐邸に住んでいるわけではない。
だが、休日になると、時折屋敷を訪れた。
「今日は仕事ではありません」
玄関で村上が言うと、速水は手にしていた資料を見た。
「その鞄は?」
「少し確認したい書類が入っています」
「仕事ではありませんか」
「休日中に読むだけです」
「それを仕事と言います」
村上は答えず、靴を脱いだ。
小田桐が書斎から顔を出す。
「来たのか」
「はい。御無沙汰しています」
「先月も来ただろう」
「三週間前です」
「同じようなものだ」
「違います」
村上は小田桐邸へ来ると、食事を取り、五人の研究を眺め、時には意見を求められた。
遅くなれば、そのまま泊まった。
二階の客間の一つには、村上用の寝具が常に用意されていた。
最初は着替えが一組だけだった。
やがて数が増えた。
本が置かれた。
予備の端末が置かれた。
洗面所には村上用の品が並ぶようになった。
「これは、もう客間ではないのでは?」
伊集院が言った。
「僕は基地に住んでいます」
村上は答えた。
「生活用品が一式そろっています」
「泊まることがあるので」
「月に二回は泊まっています」
「多い月だけです」
「先月は三回でした」
鳥居が記録を確認した。
「なぜ記録しているんですか」
「事務スタッフですから」
「それは公務ではありません」
「村上さんの予定管理は公務です」
小田桐は新聞端末を読みながら言った。
「本人が基地に住んでいると言っているんだ。そういうことにしておけ」
「主任は、どちらだと思っているんですか」
「家が二つあるのだろう」
「僕の家ではありません」
村上は反論した。
「なら、食事だけして帰るか」
小田桐が言う。
村上は少し考えた。
「今日は泊まります」
「そうか」
小田桐はそれ以上何も言わなかった。
/*/
小田桐邸は、人が暮らしていた。
小田桐。
速水。
伊集院。
鳥居。
藤原。
五人の損種実験体。
時折泊まる村上。
だが、生活が整っていたとは言い難い。
研究が始まれば、食事を忘れる。
方舟から技術照会が来れば、夜中まで設計図を読む。
村上の会議が続けば、速水たちは何日も基地から戻らない。
五人のバイタル・メンテナンス日程も、それぞれ異なる。
誰かが調製槽へ入っている間、残りの者がその仕事を引き受ける。
結果として、全員がさらに忙しくなる。
食堂の机には設計図が積まれた。
応接室のソファには上着が置かれた。
庭は最低限しか手入れされない。
古い洋館は、住んでいるからこそ維持されている部分と、住んでいるからこそ傷んでいる部分を抱えていた。
その状態を見たアルカンフェルは、使用人を配置すると決めた。
/*/
「必要ありません」
小田桐は即答した。
クラウド・ゲートの会議室。
使用人文化継承計画の資料を前に、小田桐はアルカンフェルと向かい合っていた。
「必要だ」
アルカンフェルも即答した。
「我々は介護を受ける老人ではありません」
「知っている」
「では、なぜ使用人を配置するのです」
「使用人文化の維持継承だ」
「それは建前でしょう」
「制度上の理由だ」
「実際の理由は?」
「五人そろって食事を忘れ、食堂を設計室にしている」
小田桐は黙った。
隣に座る速水も視線をそらした。
「バイタル・メンテナンスの前日にも、徹夜した者がいたな」
アルカンフェルが言う。
「誰のことです」
「速水だ」
「記録を確認したんですか」
「確認するまでもない。医療部門から報告が来た」
速水は何も言わなかった。
「邸宅の維持にも専門職が必要だ」
「管理業者がいます」
「定期点検だけでは、日常の維持はできん」
「我々で行えます」
「できていない」
アルカンフェルは資料を閉じた。
「家政責任者、料理人、庭師、見習い二名を配置する」
「多過ぎます」
「屋敷の規模に対しては少ない」
「拒否権は?」
「ある」
「では、拒否します」
「却下する」
「それでは拒否権ではありません」
「正当な理由がない」
「本人が不要だと言っています」
「必要だと判断した」
「誰がです」
「私がだ」
小田桐は額を押さえた。
「総帥権限の乱用では?」
「生活維持のための人員配置だ」
「獣神将でもない私の家へ、なぜ総帥権限が及ぶんです」
「歴史的建築物の維持、宇宙船研究チームの生活管理、長期的な医療予定の調整、使用人文化の実地研修先としての指定」
アルカンフェルは順に挙げた。
「理由は十分だ」
「後から揃えましたね」
「必要な理由を列挙しただけだ」
小田桐は速水を見た。
「お前からも何か言え」
「食事が安定する点は、悪くないかと」
「速水」
「主任も先週、昼食を忘れていました」
「一度だけだ」
「三度です」
アルカンフェルが言った。
「なぜ総帥が把握しているんです」
「配置は決定した」
話は終わった。
/*/
小田桐邸へ住み込むことになったのは、五名だった。
屋敷全体を管理する家政責任者。
日々の食事と保存食材を担う料理人。
庭木と外構を維持する庭師。
実地研修を兼ねた若い見習いメイドが二名。
長く使われていなかった使用人室が整えられた。
地下の貯蔵庫へ食材が入る。
庭の手入れが本格的に再開される。
傷んだ家具が修復される。
五人のバイタル・メンテナンス予定が、共有予定表へ登録された。
村上が泊まる可能性のある日は、客間が整えられた。
そして配置初日。
家政責任者は、食堂の机に積まれた設計資料を見た。
「こちらは、すべて現在使用中でしょうか」
「そうだ」
小田桐が答えた。
「いつまで使用されますか」
「設計が終わるまでだ」
「終了予定日は?」
「未定だ」
「では、隣室を共同作業室へ整えます」
「ここで問題ない」
「食堂は食事をするための部屋です」
「食事の時だけ片づければいい」
速水たち四人が、一斉に小田桐を見た。
「何だ」
「主任」
速水が言う。
「我々が同じことを言った時、主任は叱りました」
「私は家主だ」
「そういう問題ではないと言っていました」
「覚えていたのか」
「何十回も言われましたから」
家政責任者は、隣室を共同作業室へ改装する手配を始めた。
五人分の机。
設計資料を広げられる大型卓。
通信端末。
方舟の技術資料を閲覧する設備。
村上の会議資料を保管する施錠棚。
翌日には、食堂から書類が消えた。
小田桐はしばらく不満そうだった。
しかし、夕食が普通に置けるようになると、何も言わなくなった。
/*/
使用人たちが最初に警戒していたのは、五人が損種実験体であることだった。
獣神将の精神支配を受けない身体。
クロノスへ反逆するために、自らを作り替えた科学者たち。
定期的に調整槽へ入らなければ、身体の安定を維持できない。
その説明だけを聞けば、危険な者たちのように思えた。
実際に暮らし始めてみると、問題は別のところにあった。
小田桐は設計を始めると食事へ来ない。
速水は村上の資料を読みながら眠る。
伊集院は厨房へ計量器を借りに来る。
鳥居は夜食を用意されても、作業に集中して忘れる。
藤原は全員分の予定を把握しているのに、自分のメンテナンス日だけ忘れる。
世界を揺るがす反逆者というより、生活管理の苦手な研究者だった。
「小田桐様」
ある夜、家政責任者が共同作業室へ入った。
「夕食の用意ができております」
「あと十分だ」
「一時間前にも、あと十分と伺いました」
「今度は本当に十分だ」
「設計端末を一度停止してください」
「保存はしてある」
「では、食堂へ」
「この計算だけ確認してから――」
家政責任者は小田桐の後ろに立った。
「食堂へ」
小田桐は速水を見た。
速水は先に端末を閉じていた。
「諦めた方がいいですよ、主任」
「お前はどちらの味方だ」
「夕食の味方です」
/*/
村上が休日に小田桐邸へ来たのは、使用人配置から半月後だった。
玄関を開けると、見習いメイドが一礼した。
「お帰りなさいませ、村上閣下」
村上は足を止めた。
「僕は、この家の主ではありません」
「小田桐様から、村上閣下は御帰宅としてお迎えするようにと」
「主任が?」
「アルカンフェル総帥からも、同様の指示を受けております」
「どうして総帥まで関わっているんですか」
奥から小田桐の声が聞こえた。
「玄関で立っていないで入れ」
「お邪魔します」
「それでは来客扱いになるだろう」
「実際、来客です」
「客間に私物を置いている来客がいるか」
村上は反論できず、靴を脱いだ。
食堂には五人がそろっていた。
中央には料理人が用意した夕食が並んでいる。
以前のように、鍋の周囲へ設計図が積まれてはいない。
「食堂が広く見えますね」
村上が言った。
「本来の広さに戻っただけです」
速水が答えた。
「共同作業室は?」
「快適だ」
小田桐が言う。
「反対していたと聞きました」
「結果がよければいい」
「総帥と似たことを言いますね」
「誰がだ」
小田桐は不機嫌そうに答えた。
村上は空いている席へ座った。
「今日は仕事ではありません」
速水が村上の鞄を見る。
「資料が入っていますね」
「少しだけです」
「食後に確認しますか」
「休日ですから、明日にします」
四人が黙った。
「何ですか」
「村上さんが、自分から仕事を明日に回した」
鳥居が言った。
「使用人配置の効果でしょうか」
「僕はこの家に住んでいません」
村上は念を押した。
料理人が村上の前へ皿を置く。
「明朝のお食事は、何時にいたしましょうか」
「まだ泊まるとは――」
「客間は整えてあります」
見習いメイドが言った。
「着替えも、前回お預かりしたものを用意しております」
「……六時半でお願いします」
「承知しました」
小田桐が笑った。
「泊まるのではないか」
「遅くなりそうなので」
「まだ七時だ」
「ゆっくりしたいんです」
その言葉を聞いて、小田桐は何も言わなくなった。
/*/
夕食後。
村上は庭に面した窓辺のソファへ座っていた。
小田桐が向かいの椅子へ腰を下ろす。
以前なら、食後もすぐに設計端末を開いていた。
今夜は家政責任者に止められたらしい。
「研究は順調ですか」
村上が尋ねた。
「少人数での採掘船は、基本設計まで進んだ」
「小型化できそうですか」
「できる。ただし、方舟の制御系をそのまま縮小する案は捨てた」
「なぜです?」
「人間が直せん」
「方舟の整備部門から反対されませんでしたか」
「された」
「どうしたんです」
「設計上の欠陥を説明した」
「納得しましたか」
「最終的にはな」
「かなり強く言ったのでは?」
「必要なことを言っただけだ」
村上は笑った。
「変わりませんね」
「お前もな」
「僕は変わりましたよ。正式な獣神将になりました」
「立場の話ではないよ」
小田桐は窓の外を見た。
「働き過ぎるところだ」
「主任に言われたくありません」
「だから使用人を押し込まれた」
「僕まで一緒に管理されている気がします」
「泊まりに来るからだ」
「休日に会いに来ているだけです」
「なら、仕事を持ってくるな」
「今日は開いていません」
「それでいい」
庭には灯りが落ちていた。
手入れされた木々が、夜風に揺れている。
共同作業室では、速水たちが小声で何かを話している。
厨房からは、食器を片づける音が聞こえた。
小田桐邸は静かだった。
だが、無人の家の静けさではない。
人が暮らし、仕事を終え、夜を迎える家の静けさだった。
「主任」
村上が言う。
「何だ」
「長生きしてください」
小田桐は眉を寄せた。
「急に何だ」
「以前は、ここへ来られる回数に限りがあると思っていました」
小田桐は何も答えなかった。
「今は、僕も主任も、簡単には老いません」
「メンテナンスを続けられれば、だ」
「続けてください」
「お前に言われるまでもない」
「速水さんたちにも言っておきます」
「必要ない」
「五人とも、仕事を優先して予定をずらそうとするでしょう」
「……否定はせん」
「では、僕のスタッフとして管理させます」
「私まで村上の管理下に入った覚えはないぞ」
「獣神将の支配ではありません。予定管理です」
小田桐はしばらく村上を見た。
「速水に似てきたな」
「速水さんたちが僕のスタッフですから」
「悪い影響だ」
「良い影響です」
/*/
その後も、小田桐邸では同じ暮らしが続いた。
小田桐は、遺跡宇宙船と方舟のデータを使い、小型宇宙船の設計を続けた。
速水、伊集院、鳥居、藤原は、研究者として小田桐を支えた。
同時に、村上の直属スタッフとして、会議資料を整理し、政策を検証し、必要なら獣神将本人へ反対した。
五人は定期的に調製槽へ入り、バイタル・メンテナンスを受けた。
そのたび、互いの予定を確認した。
「次は主任です」
「設計審査の後だ」
「予定どおり入ってください」
「一日くらいずらしても問題ない」
「前回も同じことを言いました」
「結果として問題はなかった」
「問題が出てからでは遅いんです」
使用人たちも、容赦しなかった。
「小田桐様。明日はメンテナンスですので、今夜は早めにお休みください」
「この資料だけ――」
「端末をお預かりします」
「子供ではないぞ」
「存じております」
「なら、自分で管理できる」
「できていないため、私どもが配置されました」
小田桐は反論できなかった。
村上は基地で暮らし続けた。
だが、休日には小田桐邸を訪れた。
夕食を取り、五人と話し、時には小型船の設計案を眺めた。
泊まる回数も減らなかった。
村上用の客間には、少しずつ私物が増えていった。
本人だけが、それを生活拠点とは認めなかった。
「村上閣下。次の御帰宅予定は?」
「来訪予定です」
「承知しました。御帰宅予定として記録します」
「訂正してください」
「小田桐様からの指示です」
「主任」
「私は知らん」
「今、目をそらしましたね」
/*/
その夜も、小田桐邸の玄関灯はともっていた。
小田桐が研究施設から帰る日も。
速水たちが村上の会議へ同行して遅くなる日も。
五人の誰かが、調製槽でバイタル・メンテナンスを受けている日も。
村上が休日に訪れ、そのまま泊まる日も。
誰か一人を待つためだけの灯ではなかった。
死ぬかもしれない処置を、五人で受けた。
クロノスへ反逆するため、造反防止ウイルスと獣神将の支配から外れた。
世界統一後は、その自由を使ってクロノスを監視し、必要なら糾弾した。
科学者としては、人類の宇宙船を作り続けた。
獣神将となった村上を支えながら、村上自身にも無条件には従わなかった。
そして、研究と仕事だけでは崩れかねない彼らの生活を、使用人たちが支えた。
小田桐邸は、亡くなった主人を保存する記念館にはならなかった。
小田桐主任は生きている。
速水たちも生きている。
村上も、時折そこへ帰ってくる。
長命となった五人の科学者と、正式な獣神将となった一人の男が、仕事を終えた後に同じ食卓へ集まる。
その暮らしが続く限り、小田桐邸の灯が消えることはなかった。