クロノス統治下で、ひとつ奇妙な問題が起きていた。
総帥アルカンフェルが、あまりにも質素だったのである。
人類を統べる新秩序の頂点。旧国家を超え、世界を一つに束ねる存在。にもかかわらず、その生活ぶりは驚くほど簡素だった。
経済局は頭を抱えた。
総帥が贅沢をしない。
最高権力者が浪費をしない。
それ自体は美徳である。
だが、クロノス支配下に組み込まれた旧上流階級、財界、職人、芸術家、伝統産業、建築業界にとっては、それが別の意味を持っていた。
「総帥が何も求められないため、上流消費が萎縮しています」
経済局長は、会議の場でそう告げた。
アルカンフェルは、まるで意味がわからぬという顔をした。
「私は必要なものを持っている」
「総帥にとってはそうでしょう。しかし、人間社会はそう単純ではありません。最高権力者が何を用い、何を食し、何を身につけ、どこに住むか。それ自体が経済の方向性を示します」
「面倒だな」
「面倒なのが文明です」
その結果、妥協案として、みなかみ市のレリックスポイント近くの山中に、総帥の別荘を建てることになった。
豪奢な宮殿ではない。
平屋の、こじんまりとした山荘である。
ただし、アルカンフェルはひとつだけ条件を出した。
「千年住むつもりだ。千年持つ家を作れ」
その命を受けた宮大工たちは、しばらく沈黙した。
やがて棟梁が、深く頭を下げた。
「千年持つ建物なら、我らの先達は建ててまいりました」
そして、総帥を見上げる。
「ですが、本当に千年住めるお方から、千年住む家を命じられたのは初めてです」
そこから職人たちの目の色が変わった。
釘を使わない木組み。
雪と湿気に耐える構造。
百年後、三百年後、五百年後の修繕まで見越した材の選定。
木を殺さず、木の癖を読み、山の気候と共に呼吸する家。
総帥の別荘は、質素でありながら、最高の技を注ぎ込まれることになった。
さらに家に入れる食器、家具、調度品も選ばれた。
「私は普通の物で構わん」
「構います」
「誰がだ」
「経済がです」
漆器、陶器、硝子、刃物、織物、畳、建具、灯具。
旧世界では衰退しかけていた職人たちに、次々と発注が飛んだ。
それらは飾り立てるための贅沢品ではなかった。
千年使い、直し、受け継ぐことを前提にした実用品だった。
完成予想図を見たアルカンフェルは、短く言った。
「これで良いか」
経済局長は即答した。
「足りません」
「……まだか」
「はい。これは総帥の私的な住居です。必要なのは、クロノスの威を示し、格式高く客を迎えるための迎賓館です」
「既存の施設で良いのではないか」
「必要です」
「なぜだ」
「クロノスの時代が始まったことを、建築物として示す必要があります。晩餐会、会談、叙勲、旧国家代表の接遇、各地域統治者の招集。それらを行う場が要ります」
アルカンフェルは少し考えた。
「ならば南極に建てるか」
「地質学者が反対します」
「ならば人類発祥の地とされるアフリカにでもするか」
「環境局、文化保護局、宗教局、旧国家調整局が一斉に反対します」
「人間は、山中に家を建てるだけでなぜこれほど揉める」
広報局長が、疲れた声で答えた。
「総帥が建てるからです」
「私が建てると何が違う」
「千年残ります」
その言葉に、会議室が静まり返った。
アルカンフェルはしばらく黙っていた。
やがて、何かを思いついたように言った。
「ならば、チェルノブイリ原発跡を除染せよ」
空気が止まった。
経済局長が、慎重に聞き返す。
「チェルノブイリ、ですか」
「そうだ。旧時代の人類が制御できず、処理しきれなかった最悪の事故の現場だ。そこを洗浄し、人が集い、食事をし、儀礼を行える場に変える」
アルカンフェルは淡々と続けた。
「荒廃と恐怖の象徴を、クロノスの迎賓館に変える。それ以上に、我らの力を示す場所があるか」
広報局長の表情が引き締まった。
「総帥。それは極めて強烈な政治的意味を持ちます」
「だから良い」
「被害者感情、周辺地域の反応、旧時代の記憶、環境問題、放射線管理、地下水、封じ込め構造物、すべてが問題になります」
「処理せよ」
「地質学者も呼ぶ必要があります」
「呼べ」
「原子力、放射線医学、環境再生、生態系管理、建築、警備、交通網、すべてを統合する大事業になります」
「ならばちょうど良い」
アルカンフェルの声に、揺らぎはなかった。
「旧時代の傷を、恐怖の記念碑として放置する必要はない。人類は失敗を拝むために生きているのではない」
彼は静かに言った。
「洗い清め、使えるものに戻す。それが統治だ」
誰もすぐには反論しなかった。
そこに迎賓館を建てる。
それは、単なる建築ではなかった。
旧人類文明の失敗を、クロノスが処理する。
かつて人が近づくことすら恐れた場所で、晩餐を開く。
毒と荒廃の地を、格式と秩序の場へ変える。
広報局は、その意味を理解した。
これは贅沢ではない。
これは宣言だ。
経済局長もまた、別の意味を理解していた。
除染。建築。調度品。輸送網。宿泊施設。警備体制。式典運営。周辺都市の再整備。
莫大な資金と人員が動く。
総帥は浪費を望まない。
だが総帥が「そこに建てろ」と命じるだけで、世界経済は動く。
アルカンフェルは最後に、平然と言った。
「千年保つものにしろ」
会議室にいた全員が、今度こそ完全に沈黙した。
みなかみの山中には、千年住むための静かな家が建つ。
そしてチェルノブイリには、千年客を迎えるための館が建つ。
旧世界の傷跡の上に、新たな秩序の迎賓館が築かれる。
それはクロノスの威を示す建築であり、同時に、アルカンフェルという存在の厄介なまでの本質を示していた。
彼は豪奢を望まない。
ただし、彼が必要だと認めたものは、千年単位で世界の形を変える。
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みなかみ市の山中に、総帥の平屋は完成した。
釘を使わぬ木組み。
雪と湿気に耐える屋根。
百年後、五百年後の修繕まで見越した材。
千年住む者のために、千年持つよう作られた家。
派手さはない。
だが、柱一本、敷居一つ、障子の紙、炉の灰、庭石の置き方に至るまで、選び抜かれていた。
経済局は満足した。
広報局も満足した。
職人たちは誇りに燃えた。
地域経済は動き出し、伝統産業には久方ぶりに大きな仕事が回った。
そして肝心のアルカンフェルは。
忙しかった。
「……使っていないな」
完成から数か月後、総帥は報告書を眺めながら言った。
経済局長は姿勢を正した。
「はい。現在までのご滞在は、落成式後の二時間四十分のみです」
「やはり無駄では?」
「無駄ではありません」
即答だった。
アルカンフェルは少し不思議そうに経済局長を見た。
「私は住んでいない」
「あることが重要なのです」
「家は住むためのものではないのか」
「通常はそうです。しかし総帥の御別荘は、単なる居住施設ではありません。総帥がこの地に私的な居を持つ、という事実そのものが経済的、政治的、文化的意味を持ちます」
「面倒だな」
「文明です」
「便利な言葉だな、それは」
経済局長は否定しなかった。
アルカンフェルは報告書を閉じた。
「私は、ゲームをして食事が取れれば、別に場所には拘らないのだがな」
その場にいた経済局の若い官僚が、ぴくりと反応した。
「ゲームをなさるのであれば、総帥、ぜひ最高級のPCを組んで下さい」
「CS機で足りる」
「……」
会議室に、微妙な沈黙が落ちた。
広報局長が目を閉じる。
経済局長が額を押さえる。
情報局の技術担当者だけが、何か言いたげに震えていた。
アルカンフェルは眉を動かした。
「何だ」
経済局長が、慎重に言葉を選んだ。
「総帥。世界最高権力者が、一般販売の家庭用ゲーム機のみで満足しているというのは、やや問題が」
「遊べるなら同じだろう」
「同じではありません」
「何が違う」
「市場への影響が違います」
アルカンフェルは黙った。
またそれか、という顔だった。
経済局長は畳みかけた。
「総帥専用機として、最高級の演算処理装置、冷却機構、映像環境、音響設備、入力装置を備えた特注PCを発注すれば、半導体、冷却技術、ディスプレイ、音響、家具、電源設備、通信回線、すべてに波及します」
「ゲームをするだけだぞ」
「だからこそです」
「だからこそ、とは」
「総帥が日常的に使うものに、世界が注目するのです」
アルカンフェルは少し考えた。
「つまり、私は茶碗だけでなく、遊戯用の機械にも気を遣わねばならんのか」
「はい」
「人類の統治より面倒ではないか」
「統治の一部です」
情報局の技術担当者が、とうとう我慢できずに口を開いた。
「総帥。もしお許しいただけるなら、入力遅延を極限まで抑えた専用環境を構築いたします。反応速度において、家庭用機とは比較になりません」
「反応速度なら私の方が速い」
「存じております。ですから機械側が追いつく必要があります」
その言葉に、アルカンフェルは少しだけ興味を示した。
「……なるほど」
経済局長は内心で勝利を確信した。
広報局長も小さく頷いた。
だが、アルカンフェルは次の瞬間、こう言った。
「では執務室に置け」
経済局長の顔から表情が消えた。
「総帥」
「何だ」
「みなかみの御別荘に置いて下さい」
「なぜだ。私は執務室にいる時間の方が長い」
「それでは別荘経済が動きません」
「別荘経済とは何だ」
「今作りました」
「作るな」
会議室の空気が、わずかに崩れた。
それでも経済局長は諦めなかった。
「月に一度で構いません。総帥がみなかみの御別荘に滞在され、そこで食事を取り、ゲームをなさる。それだけでよいのです」
「それで何が変わる」
「周辺の警備、補給、食材、調度品の管理、通信設備、道路整備、宿泊需要、視察需要が生まれます」
「私は一人で行ける」
「行かないで下さい」
「なぜだ」
「経済が困ります」
アルカンフェルは深く沈黙した。
しばらくして、諦めたように言った。
「……月に一度だ」
経済局長は即座に頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ただし、長時間の式典は不要だ」
「承知しました」
「晩餐会も不要だ」
「それは別途相談させて下さい」
「不要だと言っている」
「相談させて下さい」
アルカンフェルは、また面倒そうに目を伏せた。
千年住むための家。
だが当面の用途は、月に一度、総帥が静かに飯を食い、最高級PCでゲームをする場所となった。
それだけのために、職人と技術者と官僚たちは全力を尽くした。
そして経済局の報告書には、真面目な顔でこう記された。
総帥御滞在に伴う高付加価値消費導線の創出に成功。