みなかみの平屋に、アルカンフェルが月に一度ほど滞在する。
ただそれだけの話だった。
少なくとも、本人にとっては。
だが、その「ただそれだけ」は、統治局と経済局にとっては、まったく別の意味を持っていた。
総帥が来る。
総帥が食事を取る。
総帥がその土地の器を使い、その土地の食材を口にし、その土地の職人が作った椅子に座る。
それだけで、地方経済は動いた。
みなかみ周辺では道路や通信設備が整備され、警備関係者の宿泊需要が生まれた。
地元農産物や畜産品が総帥府向けに選定される。
木工品。
陶磁器。
織物。
家具。
庭園管理。
郷土料理。
それまで小規模だった発注が増えた。
さらに。
「総帥閣下がお使いになった器!」
「総帥閣下が召し上がった野菜!」
「総帥閣下がお泊まりになった地域!」
と民間が勝手に騒ぎ始めた結果、広報局は、
**「総帥御用達」という表現を、事実確認なしに使用しないこと。**
という通達まで出す羽目になった。
そして。
その経済波及報告を見た各地域代表が、黙っているはずもなかった。
「我が地域にも、総帥の御別荘を」
「欧州にも必要ではありませんか」
「アフリカ大陸にも象徴的な滞在拠点を」
「南米には迎賓館とは別に、総帥の私的滞在施設をぜひ」
「中東に総帥の離宮がないのは、地域均衡上いかがなものか」
「北米も候補地を提出いたします」
「オセアニアにも必要でしょう」
会議の席でそれらの要望を聞いたアルカンフェルは、しばらく無言だった。
そして率直に言った。
「住み切れん」
会議室が静まり返った。
「私は一人だ」
アルカンフェルは続ける。
「みなかみの家にすら、月に一度程度しか滞在していない。世界中に家を作られても、使わぬ建物が増えるだけだ」
経済局長が何か言おうとした。
だが、アルカンフェルが先に手を上げた。
「しかし、意味は理解した」
各地域代表の目が変わった。
「各大陸、各文化圏に一件程度ならば認める」
広報局長が即座に確認した。
「総帥。各国単位ではなく、各大陸および主要文化圏単位という理解でよろしいでしょうか」
「そうだ」
「各国ごとに一件では?」
「却下だ」
「しかし経済効果が」
「私は家に泊まるために世界を巡ることになる」
「それはそれで大きな経済効果が――」
「却下だ」
経済局長が少し残念そうな顔をした。
アルカンフェルは世界地図を見る。
「土地ごとに意味のある場所を選べ」
「はい」
「ただし、政治的な争奪にするな」
「はい」
「私の寝床を奪い合うな」
広報局長が端末へ入力しながら言った。
「“寝床”という表現は公式文書では調整いたします」
「好きにしろ」
/*/ 千年保つ家 /*/
こうして。
総帥地域滞在施設整備計画が始まった。
日本。
みなかみの山中。
雪と森林に囲まれた、木組みを主体とする低い平屋。
欧州。
古い王宮をそのまま転用するのではなく、戦争を越えて残った都市文化と地域工芸を取り入れた静かな館。
アフリカ。
植民地支配の象徴となる建築様式を避け、乾いた高原の風と石、日射を利用する家。
北米。
巨大な豪邸ではなく、森と湖に沿う低層建築。
南米。
既存の迎賓施設とは競合しない、雨と緑を受け入れる滞在所。
中東。
水と日陰を尊び、中庭と風の流れを生かす家。
オセアニア。
海風と星空を見るための、外へ開かれた住まい。
さらに欧州圏内部でも、文化保存上の意味から複数の施設が認められた。
イギリスではマナーハウス。
フランスではシャトー形式の館。
ドイツでは歴史的城郭を現代設備と共存させた古城型施設。
スペインでは中庭と回廊を生かした宮殿型施設。
ただし。
すべてに共通する条件があった。
アルカンフェルは設計担当者たちへ言った。
「千年保つものにしろ」
最初。
何人かの建築家は、比喩だと思った。
千年使えるほど価値あるものを。
その程度の意味だと。
だが。
発注者はアルカンフェルである。
本当に千年後にも使う可能性がある。
設計者たちは、途中でその事実に気づいた。
「……総帥閣下、千年後もここに泊まる可能性があるんだよな」
「ある」
「設計寿命百年では駄目なのか」
「駄目なんだろうな」
「設備交換前提?」
「構造体は残す」
「基礎から考え直せ」
各地の建築思想が変わった。
交換可能な設備。
修復可能な構造。
失われた技術があっても保守できる単純性。
百年単位の配管更新。
将来規格への対応。
修復記録の永久保存。
部材の産地。
職人の名前。
施工法。
すべてを残す。
こうして。
総帥用の別荘を造っていたはずが。
いつの間にか、
「千年後へ技術を受け渡すための建築実験」
になっていた。
経済局は満足した。
文化局は狂喜した。
建築家は燃えた。
広報局は胃を痛めた。
そしてアルカンフェル本人だけが、どこか納得しきれない顔をしていた。
「結局、私は何軒の家を持つことになる」
経済局長が資料を確認した。
「初期計画で十一件です」
「多い」
「各国の要望をすべて認めた場合は百三十七件でした」
「少ない方を褒めるべきなのか」
「はい」
「そうか」
アルカンフェルは深く息を吐いた。
「文明は面倒だ」
経済局長は穏やかに答えた。
「総帥が住むだけで、文明が動くのです」
「ならば」
アルカンフェルは少し考えた。
「せめて、どこでも同じゲーム環境を用意しろ」
情報局の技術担当者が即座に顔を上げた。
「全十一拠点へ共通仕様の最高級PC環境を構築いたします」
「CS機で足りる」
「総帥」
「何だ」
「十一拠点分の最高級PCです」
経済局長が静かに頷いた。
「大変よい経済効果です」
「CS機では駄目なのか」
「駄目ではありません。両方設置しましょう」
「増えたではないか」
「ゲーム関連産業への波及効果があります」
アルカンフェルはしばらく黙った。
「……好きにしろ」
その日。
高級建築。
家具。
工芸。
通信。
半導体。
音響。
映像機器。
ゲーム機。
ネットワーク設備。
世界各地に、新しい需要が生まれた。
名目は厳粛だった。
総帥地域滞在施設整備計画。
実態は。
アルカンフェルが世界各地で静かに飯を食い、少しゲームをするための家である。
ただし。
その家々は千年残る。
/*/ 総帥のいない総帥別荘 /*/
そして完成後。
新しい問題が起きた。
主人が来ない。
いや。
まったく来ないわけではない。
しかし、頻度が低すぎる。
みなかみですら月に一度程度。
海外施設となれば、一年に一度使えば多い方だった。
総帥が一度も来ていない施設すらある。
それでも。
現地職員は常駐する。
庭園は整備する。
厨房も維持する。
寝具も交換する。
ゲーム機も更新する。
ネットワークも最新状態に保つ。
千年保つための建物が。
誰にも使われず。
完璧な状態で待ち続けていた。
ある日の総帥府会議。
アルカンフェルは、施設稼働率の報告書を見た。
「世界各地に作られた私の別荘だが」
「はい」
「私が使うことはほとんどない」
ヴァルキュリアが頷いた。
「想定より稼働率は低くなっています」
「ならば、別の者にも使わせよう」
ヴァルキュリアの入力する手が止まった。
「別の者、と申しますと」
「その土地へ赴いた神将メンバーに使わせればよい」
会議室が静かになった。
アプトムが最初に口を開いた。
「総帥別荘を神将用宿舎にするのか?」
「宿舎ではない」
「保養所?」
「公務で赴いた者が休む場所だ」
「だいたい保養所じゃねぇか」
「名称はどうでもよい」
ヴァルキュリアが慎重に尋ねる。
「閣下ご自身が滞在される場合、先に利用している神将は退去させますか」
「部屋が足りるなら、その必要はない」
「同時滞在を認められるのですか」
「同じ建物に神将が二人いることの何が問題だ」
「警備計画、接遇順位、使用区画、現地政府の対応が変わります」
「ならば決めておけ」
「承知しました」
アプトムが笑う。
「思いついた後の処理は全部そっちだな」
「必要だと思ったから提案した」
「否定はしてねぇよ。空き家にしとくよりはいい」
バルカスも頷いた。
「建築物は使用されなければ劣化に気づきにくい。定期的に人を入れた方が、設備不良も発見しやすいでしょう」
「そうだろう」
「ただし、アプトムを滞在させる際は、構造材との生体融合を禁止すべきです」
「何で俺だけ名指しなんだよ」
「以前、輸送艦の内壁と融合したでしょう」
「あれは整備を手伝ったんだ!」
「建物は輸送艦ではありません」
/*/ 意味を見つける人間 /*/
村上征樹は、端末に表示された施設一覧を見た。
「制度としては合理的ですが、少し問題があります」
「何だ」
「“総帥閣下の私邸をどの神将が使ったか”という情報に、勝手な政治的意味を付ける人間が出ます」
「なぜだ」
「たとえば」
村上は適当に例を挙げた。
「プルクシュタール閣下がドイツ施設を三回使用した」
「うむ」
「すると、“総帥は欧州統治をプルクシュタール閣下へ任せる意思を示した”」
「示していない」
「さらに四回使う」
「うむ」
「“次期後継者候補としてプルクシュタール閣下が浮上”」
「浮上していない」
アプトムが横から笑う。
「五回目で後継指名だな」
「私は後継者を宿泊回数で決めぬ」
「普通はそうなんです」
村上が疲れた顔で答えた。
「ですが人間は、空白があると意味を埋めたがります」
「くだらぬ」
「そのくだらない分析記事が世界中に出ます」
アルカンフェルは少し考えた。
「ならば、私個人の私邸という扱いを弱めろ」
「所有区分を変更しますか」
「総帥府の地域滞在施設としろ」
ヴァルキュリアが顔を上げる。
「総帥府施設として神将利用を正式制度化する、と」
「そうだ」
「閣下の専用区画は残しますか」
「寝る場所が一つあればよい」
「残します」
「なぜ聞いた」
「必要だからです」
「そうか」
/*/ 運用規則 /*/
数日後。
ヴァルキュリアが運用規則案を提出した。
総帥府文化保存滞在施設運用規則
一、各施設はアルカンフェル総帥の滞在を優先する。
二、総帥不在時は、公務、視察、療養、休養その他合理的な理由による神将級構成員の利用を認める。
三、施設の恒久的占有、私有化、専用区画化を認めない。
四、現地政府、企業、団体による利用者への政治的接待および過度な贈答を禁止する。
五、利用者は施設固有の文化保存方針および現地職員の専門判断を尊重する。
六、無許可の軍事設備、生体設備、研究設備、実験設備を持ち込んではならない。
七、施設利用実績を神将間の序列、総帥からの信任、後継指名その他政治的人事と関連づけて解釈してはならない。
八、アプトム氏は、建物の構造材、家具、庭木、調理設備、浴室設備その他施設を構成する物品と融合してはならない。
アプトムが読み終えた。
「最後だけ俺個人じゃねぇか」
「必要と判断しました」
「庭木まで?」
「庭園保存担当者からの要望です」
「俺は庭木なんか食わねぇぞ」
「食用の有無は問題ではありません」
「浴室設備って何だよ」
「念のためです」
「何を想定してんだよ!」
アルカンフェルは規則を一通り読んだ。
「これでよい」
「最後もか?」
「守れば問題ない」
「総帥までそっちにつくのかよ」
/*/ プルクシュタール、古城に泊まる /*/
最初に正式利用申請を出したのは、プルクシュタールだった。
欧州防衛網の監査。
ドイツ方面で三日間の公務がある。
移動時間と警備負担を減らすため、古城型施設へ三泊。
申請理由は極めて実務的だった。
だが。
現地職員は緊張した。
「総帥閣下ではなく、プルクシュタール閣下が来られる」
「食事の好みは?」
「寝具の硬さは?」
「執務机は?」
「古城修復計画を説明する時間はいただけるか?」
実際に到着したプルクシュタールは。
最初の夜。
古城修復記録を読み始めた。
二時間後。
「この西壁だが」
「はい」
「十九世紀の補修材を残しているのか?」
「はい。当時の修復履歴そのものも歴史資料と判断しました」
「なるほど」
「こちらの石材は?」
「地元採石場が閉鎖されているため、成分分析の上で近似材を用いております」
「原材の在庫は?」
「保存庫にあります」
「見せてくれ」
「はい!」
現地保存担当者は感動した。
後日。
「総帥閣下は建物をご覧になって『良い』と仰った」
「プルクシュタール閣下は石材の産地まで質問してくださった」
「どちらも名誉だが、会話量が違う」
という職員談話が内部報告に載った。
アルカンフェルはそれを読んだ。
「プルクシュタールの方が建築に詳しいのだから当然だろう」
ヴァルキュリアは、その発言を公開記録から外した。
翌日の比較記事が目に見えていた。
/*/ シン、普通に泊まる /*/
次にシンが、スペインの宮殿型施設を利用した。
地中海沿岸の民政会議。
終了後、一泊。
現地側は歓迎晩餐会を計画した。
だが。
「規則第四条に抵触します」
統治局から止められた。
「神将閣下を歓迎するだけです」
「公費による特別接待は禁止されています」
「地域文化の紹介です」
「通常の保存事業として予定されている範囲で行ってください」
「では舞踏団を」
「以前から予定されていた公演なら認めます」
「神将閣下専用演目を追加――」
「認めません」
結局。
シンは他の利用者にも公開される通常の保存公演を見た。
特別席もなかった。
公演後。
演者から感想を求められた。
シンは短く答えた。
「良かった」
翌日。
地域紙の一面に、
神将シン閣下、伝統舞踏を「良かった」と高く評価。
と載った。
規則では。
そこまでは止められなかった。
/*/ 村上はそもそも家が二つある /*/
「村上も使えばよい」
ある日、アルカンフェルが言った。
「僕もですか」
「神将メンバーだろう」
「分類上はそうですが」
村上征樹は少し困った顔をした。
彼には、すでに二つの生活拠点がある。
公務の比重が高い時期には、《クラウド・ゲート》内の神将用居住区。
日本側での活動や小田桐主任たちとの連携が必要な時期には、小田桐邸。
日程によって、その二つを往復して生活していた。
「クラウド・ゲートに部屋があります」
「ああ」
「日本では小田桐邸にも滞在しています」
「知っている」
「つまり、今でも二拠点生活なんです」
「三つ目が増えても大差あるまい」
「あります」
即答だった。
アプトムが笑う。
「総帥の感覚だと一軒も三軒も同じなんじゃねぇの?」
「使える場所が増えるだけだろう」
「そういう考え方だから世界中に家が増えたんですよ」
村上が言った。
アルカンフェルは少し考えた。
「みなかみは休養に向くぞ」
「分かっています」
「温泉もある」
「ありますね」
「食事も良い」
「知っています」
「ならば使え」
「公務で必要なら使います」
「休養でもよい」
「クラウド・ゲートの居住区で休めます」
アプトムが口を挟む。
「お前、クラウド・ゲートにいると広報局に捕まるだろ」
村上が黙った。
「小田桐邸に行けば?」
「主任たちの相談を受けるだろ」
村上がさらに黙った。
アプトムが笑う。
「休めてねぇじゃん」
「余計なことを言わないでください」
アルカンフェルは村上を見る。
「ならば、みなかみに行け」
「総帥?」
「公務を入れずに」
「それは――」
「休養命令とする」
村上が固まった。
「誰が出すんですか」
「私だ」
「もう出ていますね、それ」
「ああ」
アプトムが肩を揺らした。
「逃げ道塞がれたな」
「あなたが余計なことを言うからでしょう!」
「でも休めよ」
「……それは否定しませんが」
後日。
村上は本当にみなかみへ送られた。
公務端末の接続権限は最低限。
広報局からの直接連絡は禁止。
小田桐邸からも、緊急案件以外は連絡を入れない。
アプトムが言っていた。
「割烹着の職員に飯出してもらって、温泉入って寝てこい」
村上は反論する気力もなかった。
/*/ 掲示板反応 /*/
【制度変更】世界各地の総帥滞在施設、神将級構成員にも開放
1:名無しの市民
総帥の別荘、ほとんど使ってなかったの?
2:名無しの一般人
知ってた。
3:名無しの市民
世界各地に家あるのに本人は公園とか牛丼屋行ってるからな。
4:名無しの調整体
別荘より街歩きの方が使用頻度高そう。
5:名無しの獣化兵
神将用の出張宿泊施設にもなったらしい。
6:名無しの市民
福利厚生が強い。
7:名無しの一般人
神将の福利厚生を心配する必要ある?
8:名無しの獣化兵
神将だって長期出張は疲れるだろ。
9:名無しの市民
プルクシュタール閣下がドイツの古城に泊まった。
10:名無しの一般人
似合いすぎる。
11:名無しの市民
しかも修復記録二時間読んだらしい。
12:名無しの一般人
観光客より詳しく見てる。
13:名無しの市民
シン閣下はスペイン宮殿。
14:名無しの調整体
これも似合う。
15:名無しの一般人
感想「良かった」
16:名無しの市民
短い。
17:名無しの一般人
地域紙一面。
18:名無しの市民
重い。
19:名無しの一般人
村上神将は?
20:名無しの村上神将に同情する者
普段はクラウド・ゲート神将用居住区と小田桐邸を往復。
21:名無しの市民
二拠点生活か。
22:名無しの一般人
総帥
「なら三つ目が増えても大差あるまい」
23:名無しの市民
大差あるわ。
24:名無しのアプトム観察班
でもクラウド・ゲートにいると広報局に捕まる。
25:名無しの市民
小田桐邸では?
26:名無しの一般人
主任たちの相談に乗る。
27:名無しの市民
休めてなくね?
28:名無しの村上神将に同情する者
だから総帥命令でみなかみに送られた。
29:名無しの市民
強制湯治。
30:名無しの一般人
世界総帥による休養命令。
31:名無しの市民
逆らえない。
32:名無しの獣化兵
休め。
33:名無しの一般人
規則第八条、何だこれ。
34:名無しの市民
「アプトム氏は建物と融合してはならない」
35:名無しの調整体
必要なんだろうな。
36:名無しのアプトム観察班
必要なんだろうな。
37:名無しの市民
庭木も駄目。
38:名無しの一般人
浴室設備も駄目。
39:名無しの市民
何を警戒されてるんだ。
40:名無しの獣化兵
アプトム。
41:名無しの市民
説明になってるのが嫌だ。
/*/ 建物が生き始める /*/
制度が始まってしばらくすると。
現地職員側にも、明確な変化が出た。
それまでの施設は。
いつ来るか分からない総帥のため。
完璧な状態で保存され続けていた。
厨房は動作確認だけ。
浴室は保守運転だけ。
客室は整えられるだけ。
書斎の本は並べられるだけ。
ゲーム機だけは定期的に更新される。
だが。
神将たちが利用するようになる。
厨房が使われる。
料理への感想が返る。
浴室が使われる。
寝具の不具合が見つかる。
椅子の座り心地が評価される。
書斎の本が読まれる。
庭園を歩く者がいる。
伝統料理について質問される。
建築の修復履歴について議論される。
施設が。
展示物ではなくなった。
ある施設管理者は年次報告に記した。
総帥閣下のために保存することと、誰にも使わせず停止させることは同義ではない。
技術も建物も、実際に使用されることで生きた文化となる。
アルカンフェルは、その報告を読んだ。
「最初からそうすればよかったな」
ヴァルキュリアが答える。
「閣下の別荘として整備したからこそ、各地域が本気で千年残そうとした面もあります」
「では、最初の役目は果たしたのだろう」
「はい」
「ならば、今後は使え」
「承知しました」
/*/
こうして。
アルカンフェルのために世界各地へ建てられた別荘群は。
いつしか。
総帥府文化保存滞在施設という、少し堅い名前へ変わった。
総帥が泊まる。
神将が泊まる。
文化を保存する。
技術を残す。
地域産業を支える。
公務の中継拠点になる。
時には休養所にもなる。
一つの建物に、いくつもの役割が重ねられていった。
それでも。
どの施設にも。
アルカンフェルの部屋だけは常に整えられていた。
主人を待つためではない。
来た時に。
何の準備もなく、そのまま泊まれるようにするためだった。
そして。
当のアルカンフェルは。
その頃。
世界各地に十一件もある最高級滞在施設のどこにもいなかった。
みなかみの駅前で弁当を買い。
白い服のまま。
山道を一人で歩いていた。
情報局が用意した最高級PCは、平屋の部屋で待機している。
アルカンフェルが帰ってくれば。
少しゲームをするかもしれない。
それだけのために。
世界中の建築家と職人と技術者が本気を出した家々は。
千年後まで残る。
そして遠い未来の研究者は、おそらくこう記録する。
クロノス時代に世界各地へ建設された総帥府滞在施設群は、単なる離宮ではなかった。
それは、各文明圏が自らの技術と美意識を、千年後にも生きているかもしれない一人の統治者へ提示することで、未来へ残そうとした建築群である。
ただし。
その発端は。
総帥が月に一度。
みなかみの平屋で飯を食い。
ゲームをして帰っていたことである。