アルカンフェル総帥の休日目撃談。
水族館。
最初にその情報が流れた時、ネットは警戒した。
「今度は水族館か」
「総帥を休日に解き放つな」
「いや休日くらい自由にさせろ」
「前回は風船」
「前々回はポテト」
「今回は何が起きたんだ」
答えは、イルカショーだった。
休日の午後。
家族連れで満席のスタンド。
前列には、濡れることを前提にレインコートを着た子供たちが並んでいる。
その中に、アルカンフェルがいた。
白い服。
隣にはヴァルキュリア。
周囲には一般客。
警備担当は既に胃を痛めていたが、今回は比較的安全だと思われていた。
イルカショーである。
爆発物もない。
政治演説もない。
上流階級もいない。
ただイルカが跳び、子供が笑い、水しぶきが上がるだけ。
そう思われていた。
イルカが大きく跳ねた。
観客席へ向けて、盛大な水しぶきが飛ぶ。
前列の子供たちは歓声を上げた。
その瞬間、アルカンフェルが反射的にバリアを張った。
透明な膜が、彼とヴァルキュリアだけでなく、周囲数列の客席まで覆った。
水しぶきは、見事に弾かれた。
誰も濡れなかった。
完璧な防御だった。
問題は、それが完璧すぎたことだった。
「……あれ?」
レインコートを着た子供が、自分の袖を見た。
濡れていない。
隣の子も濡れていない。
前の列も、後ろの列も、なぜか濡れていない。
水しぶきは来た。
確かに来た。
なのに、空中で弾かれて消えた。
子供の一人が、見るからに残念そうな顔をした。
「濡れなかった……」
その小さな声を、アルカンフェルは聞いた。
彼は、しばらく黙っていた。
そして、少しだけ考えるようにイルカプールを見た。
「……これは」
静かな声だった。
「濡れるところまで含めてのアトラクションだったか」
ヴァルキュリアが、横で小さく頷いた。
「おそらくは」
「そうか」
アルカンフェルは、子供の方を見た。
「すまないな」
そして、プールのイルカへ視線を向けた。
「もう一度だ」
その声は、大きくなかった。
だが、イルカは反応した。
調教師の合図ではない。
音楽のタイミングでもない。
次の演目でもない。
それでもイルカは、すっと向きを変えた。
調教師のお姉さんが、笑顔のまま固まった。
「あ、あれ?」
もう一頭も動いた。
さらに二頭が続く。
イルカたちは、まるで当然のようにアルカンフェルのいる客席前へ集まり、次の瞬間、勢いよく尾を振った。
水が飛んだ。
今度は、アルカンフェルはバリアを張らなかった。
前列の子供たちは、盛大に濡れた。
「きゃー!」
「冷たい!」
「すごい!」
さっき残念そうだった子供も、頭から水をかぶって笑っていた。
アルカンフェルは、それを見て小さく頷いた。
「よかった」
ヴァルキュリアは、何も言わなかった。
ただ、調教師たちの方を見ていた。
調教師のお姉さんたちは、完全に困っていた。
笑顔は保っている。
プロだからである。
だが目が泳いでいる。
イルカが勝手に動いた。
しかも総帥の言葉に従った。
演目表にない。
合図もしていない。
なのに完璧なタイミングで水しぶきを飛ばした。
観客は大盛り上がりだった。
調教師は困惑していた。
警備担当は、また胃を痛めていた。
そしてネットには、すぐに書き込みが流れた。
「総帥、水族館でイルカに指示出してた」
「は?」
「イルカが総帥の命令で水しぶき飛ばした」
「何それ」
「また休日シリーズか」
「総帥、今度はイルカショーを掌握」
「掌握するな」
「最初はバリアで水しぶきを防いだらしい」
「なぜ防ぐ」
「反射では?」
「木星圏防衛線の癖が抜けてない」
「イルカの水しぶきに対宇宙怪獣級防御を張るな」
「子供が濡れなくて残念そうにしたら、総帥がイルカに“もう一度だ”って言ったらしい」
「なにそれあざとい」
「あざといを超えて神話」
「動物にも命令通るの?」
「イルカが賢いだけでは?」
「総帥の思念波がイルカにも効いた説」
「水族館側が困るだろ」
「実際、調教師のお姉さんたちが困ってた」
「かわいそう」
「イルカも総帥に従う世界」
「後世の神話:海の獣たちは天空の王の声に従い、子らに水を与えた」
「神話化するな」
翌日、水族館は短い告知を出した。
『昨日のイルカショーにおいて、一部演目が予定と異なる順序で実施されましたが、イルカおよびお客様に怪我はありませんでした』
それだけだった。
しかし、クロノス広報局が追加で注意喚起を出した。
『総帥の私的外出時において、動物への意図的な接触、反応確認、指示の依頼等はお控えください』
当然、ネットは確信した。
「やっぱり本当にイルカが従ったんだ」
「反応確認するなって書いてある」
「総帥に動物園行ってほしい」
「行かせるな」
「ペンギン行進に総帥が紛れるの見たい」
「紛れない」
「ライオンがひれ伏すか検証したい」
「検証するな」
「人類に抜け道を与えてはいけない」
水族館の調教師たちは、後日、内部研修でこう説明された。
『総帥が来館された場合、イルカ・シャチ・アシカ等の大型海獣が通常と異なる反応を示す可能性があります。ショー進行中に総帥が動物へ発話された場合、演目が変更される可能性があるため、落ち着いて対応してください』
若い調教師が手を上げた。
「あの、落ち着いて対応とは、具体的に」
上司は沈黙した。
「……笑顔を保ってください」
「それだけですか」
「それだけです」
その頃、例の濡れなかった子供は、家で嬉しそうに語っていた。
「総帥がね、もう一回って言ったらね、イルカがばしゃーってしてくれた!」
親は困った顔で頷いた。
「よかったね」
「うん!」
子供にとって、それはただ楽しい出来事だった。
濡れなかった。
総帥が気づいてくれた。
イルカがもう一度やってくれた。
今度はちゃんと濡れた。
それだけである。
だが大人たちは、そう単純には受け止められなかった。
アルカンフェルは、反射的に周囲を守った。
子供が残念そうにしたことに気づいた。
自分の判断が間違っていたと認めた。
そしてイルカに頼んだ。
結果、水族館の演目は乱れた。
しかし、子供は笑った。
誰かが、まとめの投稿にこう書いた。
「総帥の休日その三。
イルカショーで水しぶきをバリアで防いだ。
子供が残念そうだったので、イルカにもう一度頼んだ。
イルカは従った。
調教師は困った」
返信がついた。
「情報量が多い」
「全部おかしい」
「でもいい話」
「いい話なのが一番困る」
「総帥、休日のたびに好感度イベントを発生させるな」
「本人にその気がないのが余計に強い」