/*/ クラスにひとり /*/
二〇六四年の春。
中学二年生になった佐伯美緒は、玄関の姿見で制服の後ろを確認していた。
「お母さん、襟、曲がってない?」
「大丈夫よ」
台所から答えた母親のウマ耳が、美緒の声を拾ってこちらへ向いた。
腰の後ろでは、栗色の尻尾がゆっくりと揺れている。
「後ろも?」
「曲がってないわよ」
「本当に?」
「あなたは尻尾がないんだから、後ろをそんなに気にしなくてもいいでしょう」
「みんなが確認してると、私も気になるの」
美緒の制服には、尻尾を通すための開口部がない。
注文票でも、ウマ娘用ではなく人娘用を選んでいる。
ただし、それは美緒が未調整の両親から生まれたことを意味しなかった。
母親はウマ娘。
父親は獣化兵因子を受け継いだ男性だった。
父親は成人後も獣化訓練を受けていないため、獣化することはできない。
外見も、調整形質を持たない男性と変わらなかった。
美緒には、母親のウマ娘形質が外見上は発現しなかった。
頭の上にウマ耳はない。
腰に尻尾もない。
そのため、学校では人娘として扱われている。
だが、二〇六〇年代における人娘とは、必ずしも未調整の家系に生まれた女子を意味しない。
母親や祖母がウマ娘であっても、ウマ耳と尻尾が発現しない女子はいる。
父親や祖父から獣化兵因子を受け継いでいる可能性もある。
人娘という呼び名が示すのは、あくまで外見だった。
「今日、クラス写真を撮るんだっけ?」
父親が食卓から尋ねた。
「うん」
「一番前か?」
「背の順なら前から三番目」
「ウマ耳がないから前に出されるんじゃないのか」
「そんな並べ方しないよ」
母親が笑った。
「でも、後ろに立つと美緒だけ頭の上が空いて見えるわね」
「お母さんまで言わないで」
「悪い意味ではないのよ」
「分かってるけど」
美緒のクラスには女子が十六人いる。
十五人がウマ娘。
人娘は美緒一人だった。
隣のクラスには人娘がいない。
学年全体でも、人娘は美緒を含めて三人しかいなかった。
一方、男子は全員、外見上は普通の人間だった。
獣化兵因子を継承している男子もいる。
因子を持っていない男子もいる。
しかし、成人前の男子が獣化することはない。
獣化兵因子を持って生まれても、人型のまま成長し、成人後に正式な訓練を受けなければ自発的な獣化はできない。
したがって学校の教室を見渡しても、男子の誰が獣化兵因子を持っているのか、外見だけでは分からなかった。
「人娘がクラスに一人なの、やっぱり気になる?」
母親が尋ねた。
「少しは」
「何か言われたの?」
「別に。珍しがられるだけ」
「それが嫌なのか?」
父親が聞いた。
「ずっとだから慣れてる。でも、人娘だからって、両親まで未調整だと思われるのは面倒」
先日も、同級生から聞かれた。
両親とも人間なのか。
家族にウマ娘はいないのか。
獣化兵因子も入っていないのか。
美緒はそのたびに、
「お母さんはウマ娘だよ」
と答えなければならなかった。
「昔は、人娘の両親も人娘と普通の男性であることが多かったのよ」
母親が言った。
「今は違うでしょう」
「そうね。未調整同士の夫婦自体が少なくなったもの」
二〇六〇年代には、父母とも調整形質をまったく持たない夫婦は珍しくなっていた。
母親がウマ娘。
父親が獣化兵因子継承者。
あるいは父親自身が成人後に獣化訓練を受けた獣化兵。
そうした家庭が一般的になっている。
そのため、人娘が生まれても、
> 未調整の家系がそのまま残った。
とは限らない。
ウマ娘形質が外見上発現しなかった。
ただ、それだけの場合も多かった。
「美緒は、耳が欲しかった?」
母親が自分のウマ耳へ触れながら聞いた。
「小さい頃は欲しかった」
「やっぱり?」
「お母さんと同じのが欲しかったから」
母親の耳がわずかに伏せられた。
「でも今は?」
「今は、どっちでもいい」
「そう」
「耳がなくても聞こえるし」
「お母さんよりは聞こえないでしょう」
「そこは比べてない」
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教室へ入ると、何人ものウマ耳が一斉に美緒の方へ向いた。
「美緒、おはよう」
「おはよう」
声をかけてきたのは、前の席の竹内奈々だった。
奈々は黒鹿毛のウマ耳と尻尾を持つウマ娘である。
「今日、写真撮影だって」
「知ってる」
「美緒、私の隣ね」
「どうして?」
「耳の高さが違うから、並ぶと分かりやすい」
「何が分かりやすいの?」
「人娘とウマ娘」
「写真を見れば分かるでしょう」
「じゃあ私の隣が嫌?」
「嫌とは言ってない」
奈々は満足そうに耳を立てた。
教室の座席は、女子用だけ二種類あった。
ウマ娘用の椅子は、座った時に尻尾を圧迫しない構造になっている。
人娘用は、以前からある普通の椅子だった。
男子用も人娘用とほとんど同じである。
美緒が席へ座ると、後ろの男子が話しかけてきた。
「佐伯って、本当にウマ娘因子を持ってないの?」
「知らない」
「検査してないの?」
「必要がないから、詳しくは調べてない」
「お母さん、ウマ娘なんだろ?」
「そうだよ」
「だったら、耳が出なかっただけかもしれないのか」
「そうかもしれないし、違うかもしれない」
「お父さんは?」
「獣化兵因子を持ってる」
「獣化できるの?」
「訓練を受けてないから、できない」
「成人なのに?」
「成人したら自動で獣化できるようになるわけじゃないよ。訓練が必要なの」
「そうだった」
男子自身も、父親から獣化兵因子を受け継いでいる。
しかし、そのことで今すぐ何かが変わるわけではなかった。
他の男子と同じ制服を着ている。
同じ授業を受ける。
同じ体育を行う。
成人後に獣化訓練を希望するかどうかは、まだ決めていないという。
「俺も訓練を受けなかったら、ずっとこのままなんだよな」
「そうでしょう」
「父さんは受けろって言うけど」
「まだ先の話じゃない」
「佐伯のお父さんは、受けなかったんだろ?」
「仕事で必要ないからって」
「そういう人も普通にいるのか」
「いるでしょう。因子を持っている男子全員が獣化兵になるわけじゃないよ」
美緒が答えると、男子は納得したようにうなずいた。
獣化兵因子を受け継ぐことと、獣化兵として生きることは同じではない。
因子を持つ男子は、人型のまま成人する。
その後、本人が必要と判断し、正式な訓練を受けて初めて獣化能力を使えるようになる。
訓練を受けなければ、生涯一度も獣化せずに暮らすこともできる。
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昼休み。
奈々が弁当を食べながら、美緒の頭を見つめていた。
「何?」
「いや、本当に何もないなと思って」
「何が?」
「耳」
「朝から知ってるでしょう」
「毎日見てるけど、たまに不思議になる」
「私は奈々の耳がある方を不思議に思うことがあるよ」
「そうなの?」
「クラスの女子全員に耳があるのに?」
「私にはないから」
「なるほど」
奈々は自分の耳を指でつまんだ。
「触る?」
「いつも触ってるでしょう」
「今日は写真撮影記念」
「何の記念なの」
隣の席のウマ娘が笑った。
「美緒は、学年で最後の人娘になるかもしれないんだよね」
「最後ではないよ。ほかに二人いる」
「一年生には一人もいないって」
「来年入ってくるかもしれないでしょう」
「人娘って、これからもっと減るのかな」
美緒は少し考えた。
「分からない」
「だって、未調整同士の夫婦が少ないんでしょう?」
「人娘は未調整同士の夫婦からしか生まれないわけじゃないよ」
「あ」
「お母さんがウマ娘でも、私みたいに耳と尻尾が出ないことはある」
「そうだった」
「私を見ながら忘れないで」
「美緒が普通にいすぎるから」
「それは褒めてる?」
「褒めてる」
二〇六〇年代の子供たちにとって、女子にウマ耳と尻尾がある光景は日常だった。
女子生徒の大半はウマ娘。
男子生徒は全員人型。
その中に、ウマ耳も尻尾も持たない女子が一人だけいる。
珍しくはある。
しかし、知らない存在ではない。
人娘は昔の人類を保存した特別な存在でもなければ、調整社会から取り残された存在でもない。
ウマ娘の母親から生まれることもある。
獣化兵因子を持つ父親から生まれることもある。
家系の中に複数の調整形質がありながら、外見上は人娘として生まれることもある。
耳と尻尾が発現しなかった女子。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
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放課後、クラス写真の撮影が行われた。
前列に座った女子たちのウマ耳が、撮影者の指示に合わせて前を向く。
「耳を動かさないでください」
撮影担当者が言った。
「動かしてません」
「右から三人目の方、後ろの声を聞かないでください」
「勝手に向くんです」
「撮りますよ」
美緒は奈々の隣に立った。
写真の中で、奈々の頭には黒いウマ耳がある。
その隣にいる美緒の頭には何もない。
昔の集合写真なら、美緒の方が普通だった。
今では、美緒だけが少し違って見える。
「美緒」
奈々が小声で言った。
「何?」
「やっぱり頭の上が空いて見える」
「笑うところじゃないからね」
「笑ってないよ」
奈々の耳が、美緒の方へ傾く。
「でも、見つけやすい」
「それはそうかも」
撮影者が合図を出した。
「はい、撮ります」
ウマ耳と尻尾を持つ十五人の女子。
ウマ耳も尻尾も持たない一人の女子。
外見上は全員普通の男子。
その男子の中には、獣化兵因子を受け継いでいる者も、受け継いでいない者もいる。
だが、写真だけでは区別できない。
それが二〇六〇年代の、ごく普通の学級写真だった。
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夕食の後、撮影された写真が家庭端末へ送られてきた。
母親は美緒をすぐに見つけた。
「ここね」
「早い」
「耳がないから分かりやすいわ」
「奈々と同じこと言ってる」
父親も写真をのぞき込んだ。
「女子は十六人か」
「うん」
「人娘は美緒だけ?」
「そう」
「父さんの頃は、ウマ娘の方が一人いるかいないかだった」
「何度も聞いた」
「時代が変わったな」
「お父さんの同級生の男子は、獣化兵因子を持ってなかったの?」
「持っている者は少なかった。今の子供ほど多くはない」
「お父さんは持ってるのに、どうして訓練を受けなかったの?」
「必要がなかったからだ」
「一度くらい獣化してみたいと思わなかった?」
「訓練は見物のために受けるものではない」
「真面目」
「それに、獣化できなくても生活には困らない」
父親は写真の男子生徒たちを指した。
「この中にも、因子を持っている子がいるんだろう?」
「何人かいるよ」
「全員が訓練を受けるわけではない」
「うん」
「美緒も同じだ。ウマ耳と尻尾がないからといって、何かを選び損ねたわけではない」
「分かってる」
母親が美緒の横へ座った。
「でも、クラスに一人だと寂しくない?」
「たまには、もう一人くらいいればと思うよ」
「そうよね」
「制服の予備を貸し借りできないし」
「そこなの?」
「ウマ娘用は尻尾のところが違うから借りられないんだよ」
「人娘にも人娘なりの不便があるのね」
「あるよ」
「来年はいるといいわね」
「一人くらいは」
美緒は写真を拡大した。
耳のない自分の隣で、奈々のウマ耳がわずかにこちらへ傾いている。
クラスに一人いるか、いないか。
それが二〇六〇年代の人娘だった。
未調整の家系だから、人娘なのではない。
調整形質から切り離されているわけでもない。
母親がウマ娘であることもある。
父親が獣化兵因子を持つこともある。
兄や弟が成人後に獣化訓練を受けることもある。
その家族の中で、ただ一人、ウマ耳と尻尾が発現しなかった女子。
それでも学校へ行き、友人と話し、制服の貸し借りに困り、集合写真では少し見つけやすい。
人娘が少数になった時代にも、一般家庭の日常は、その程度の違いの積み重ねで続いていた。