メガ・レイン前夜
/*/ 金星軌道 プロジェクト・ルシファー /*/
火星が五十年目を迎えた頃。
金星は、放置されていたわけではなかった。
むしろ、火星よりも長く、静かで、気の遠くなるような戦いが続いていた。
火星の敵は、寒さと乾燥だった。
金星の敵は、熱と圧力と酸だった。
かつての金星は、黄色い地獄だった。
濃硫酸の雲が空を覆い、光を遮り、地表を灼き、時速三百キロメートルを超えるスーパーローテーションの風が、大気そのものを惑星表面から剥ぎ取るように吹き続けていた。
地表は鉛も溶ける温度に近く、大気圧は深海の底のように重い。
人類が夢見る金星とは、雲の上にしかなかった。
だが、五十年。
クロノスはその雲を食わせ続けた。
アプトム便の母艦級分体が、金星軌道から白く霞む惑星を見下ろしていた。
『おいおい……あのババ色だった金星が、すっかり白っぽくなっちまって』
アプトムの声には、呆れと感心が半分ずつ混じっている。
五十年前、金星は黄色かった。
硫酸の雲が、毒の膜のように全体を覆っていた。
だが今、軌道上から見える金星は違う。
黄濁は消えつつあった。
雲は白い。
まだ厚く、まだ荒々しいが、それは濃硫酸の雲ではない。
水蒸気の雲だった。
金星大気圏上層、五十キロメートル帯。
そこには、無数の巨大な半透明生体が浮かんでいた。
空中浮遊型巨大生体中和プラント群《アムリタ》。
直径数百メートル級の、クラゲに似た調整体。
それらは金星の暴風に乗りながら、かつて惑星を覆っていた濃硫酸を吸い込み続けていた。
体内の生体触媒で硫酸を分解し、水を放ち、硫黄分を重い不溶性硫黄塩の粒子として下層大気へ落とす。
そして、その周囲には、肉眼では見えないほど小さな群れがいた。
硫酸食性空中真菌《アシド・エアロ・ミケス》。
アムリタが吐き出した分解物を苗床にし、金星の空で増え、硫酸を食い、雲を濾過し続けた微生物群。
最初の十年は、酸の囲い込みだった。
二十五年目には、連鎖的な分解が始まった。
アシド・ショック。
金星の上空五十キロメートル帯が、生化学的な巨大濾過器へ変わった年。
その頃から、黄色い霧は明らかに薄くなり始めた。
そして五十年目。
濃硫酸雲の九十五%以上が消えていた。
毒の空は、白い水蒸気の空に変わりつつあった。
だが、バルカスはそれを成功とは呼ばなかった。
『まだじゃ』
金星軌道管制室で、バルカスは投影図を睨んでいた。
『酸を食わせた。水を戻した。雲を白くした。だが、このままメガ・レインを引き起こせば、金星はただの蒸し焼き地獄から、熱湯と暴風の地獄へ変わるだけじゃ』
ヴァルキュリアが、冷静にデータを読み上げる。
『濃硫酸雲分解率、九十五・七%。水蒸気層、予測より三%高。下層大気圧、依然として過大。地表温度、危険域。スーパーローテーション、弱化傾向はあるものの健在』
アプトムが通信投影で顔をしかめる。
『水を作ったのに雨を降らせられねぇのか』
バルカスが頷いた。
『順番がある。火星でメガ・レインを降らせた時とは違う。火星は寒く、乾いておった。雨を降らせ、海を作り、熱を与えればよかった。じゃが金星は、熱すぎる。大気が厚すぎる。しかも自転が遅すぎる』
投影図が切り替わる。
金星の自転周期。
極端に遅い昼夜。
太陽加熱の偏り。
スーパーローテーションの大気流。
昼夜差と大気上層風の暴走。
『金星の一日は長すぎる。惑星表面の自転が鈍く、大気だけが先走っておる。このまま地表を冷やし、雨を降らせても、気候は安定せぬ。巨大な熱差と風が、すべてを壊す』
村上征樹が、静かに言った。
「では、火星と同じことをするんですね」
バルカスは、にやりと笑った。
『同じではない。火星より難しい』
クラウド・ゲートから接続された会議室に、アルカンフェルがいた。
彼は、白く霞む金星の投影を見つめている。
「ホーキング・コアを撃ち込む」
その一言で、管制室の空気が変わった。
李・エンツイが短く言う。
『座標固定は可能。ただし金星の大気層が厚い。転位窓は火星より広く取る必要がある』
カールレオンが続ける。
『虚数空間側への逃がし経路は用意できる。だが、金星の大気は火星より重い。自転調整時の反動は、かなり大きい』
シンが静かに言う。
『電荷制御は私が受け持つ。カー・ニューマン型として安定させるなら、磁場形成も同時に始まる』
村上は、自分の手を見た。
「火星の時は、眠っていた星を起こす感覚でした。今回は……」
「暴れている星の首根っこを掴む」
アプトムが言った。
誰も否定しなかった。
アルカンフェルは、金星を見つめたまま言った。
「メガ・レインの前に、金星の回転を整える」
バルカスが頷く。
『はい。ホーキング・コアを金星中心へ転位。カー・ニューマン・ブラックホールとして固定し、重力・電荷・スピンを制御。中心核に自転する人工コアを構築します』
ヴァルキュリアが補足する。
『目的は三つ。第一、惑星磁場の形成。第二、金星自転周期の二十四時間化。第三、スーパーローテーションの根本的抑制』
アプトムが呟いた。
『惑星の一日を作り直すってか』
バルカスが笑う。
『そうじゃ。メガ・レインを降らせる前に、金星を“昼と夜のある星”へ作り替える』
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作戦名は、二つあった。
科学局は、プロジェクト・アフロディーテと呼びたがった。
金星を、美の星へ取り戻す計画。
だが、バルカスは最初から別の名を使っていた。
プロジェクト・ルシファー。
地獄の空へ、光を落とす計画。
アルカンフェルはどちらも退けなかった。
「どちらでもよい」
彼は言った。
「名より、星を変えろ」
金星軌道上に、重力波観測群が展開した。
虚数空間漏出監視衛星。
大気圏上層に浮かぶアムリタ群。
アシド・エアロ・ミケスの分布を測る生化学観測器。
スーパーローテーション風速測定網。
李の空間転位座標窓。
シンの電荷安定化制御場。
カールレオンの虚数空間逃がし経路。
村上の重力同調核。
そして、アルカンフェル。
金星軌道に、黒い点が生まれた。
それは最初、点にすぎなかった。
だが、周囲の光が歪む。
金星の白い雲が、黒い点の周囲で輪のように曲がって見える。
アルカンフェルと村上が、重力核を同期させる。
二つの疑似重力核が連星運動を始め、事象の地平面すれすれで時空を擦り合わせる。
シンが電荷を与えた。
アルカンフェルがスピンを加えた。
カー・ニューマン型ホーキング・コア。
金星を作り替える黒い心臓。
バルカスの声が震えた。
『ホーキング・コア、形成安定。電荷、許容範囲内。スピン上昇。エルゴ領域形成』
ヴァルキュリアが即座に言う。
『観測班、感嘆符禁止。記録を優先してください』
若い物理学者の悲鳴が通信に混じった。
『こんなの感嘆符なしで記録できるか!』
『記録してください』
李が、静かに手を動かした。
『金星中心座標、固定』
カールレオンの声が重なる。
『虚数空間逃がし経路、開放。転位反動を受ける』
シン。
『電荷維持。磁場形成初期条件、固定』
村上。
『重力同調、安定。総帥、行けます』
アルカンフェルが、金星を見た。
白い雲に包まれた、酸の地獄だった星。
「エンツイ」
『転位する』
次の瞬間、黒い心臓は消えた。
金星の雲の上からでは、何も見えなかった。
ただ、観測網だけが知っていた。
黒い心臓が、金星の大気も地殻もマントルも傷つけず、惑星中心へ転位したことを。
数秒の沈黙。
そして、金星が鳴った。
音ではない。
重力波だった。
惑星中心で、カー・ニューマン・ブラックホールが回転を始める。
そのスピンが、金星の内部へ角運動量を与える。
極端に遅かった金星の自転が、外から殴られるようにではなく、内側から巻き直されるように変わり始めた。
当然、それは一瞬ではない。
だが、始まった。
金星の大気が、反応した。
スーパーローテーションの風が乱れる。
五十年間、硫酸雲を食われ続けながらも残っていた暴風の環が、惑星内部から与えられる新しい回転に引き裂かれていく。
白い水蒸気雲が、金星全球で波打った。
アムリタ群が、暴風に煽られながら姿勢を保つ。
アシド・エアロ・ミケスの分布雲が乱れ、すぐに再形成される。
プルクシュタールが通信越しに低く言った。
『風が、悲鳴を上げている』
バルカスが叫ぶ。
『自転周期、変化開始! 表層大気との相互作用、想定内! スーパーローテーション速度低下、確認!』
ヴァルキュリアが冷静に続ける。
『金星大気圏上層、乱流拡大。ただしアムリタ群の損耗は許容範囲内。酸雲残存部、追加分解反応加速』
アプトムが金星軌道上で呻いた。
『すげぇな……星の風向きが変わってやがる』
金星の白い雲は、数十年ぶりに違う形を取り始めた。
これまでは大気だけが惑星を追い越すように流れていた。
だが今、惑星そのものが新しいリズムを持とうとしている。
中心の黒い心臓が回る。
その回転が、マントルへ、地殻へ、大気へ伝わる。
昼と夜の長さが、変わっていく。
極端な長昼と長夜ではなく、二十四時間周期へ。
金星が、初めて人間の生活リズムに近い一日を持つ星へ変わろうとしていた。
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変化は、数ヶ月続いた。
自転調整は段階的に進められた。
急激に変えれば、地殻も大気も海もない金星ですら砕けかねない。
ホーキング・コアのスピン出力は慎重に上げられ、金星内部にトルクを与え、不要な反動はカールレオンの虚数空間経路へ逃がされた。
李は空間の縁を切り揃え続けた。
シンは電荷を維持し続けた。
村上は重力位相を合わせ続けた。
アルカンフェルは、金星を掴んでいた。
やがて、観測班が報告した。
『金星自転周期、三十時間台へ移行』
さらに数週間。
『二十八時間』
『二十六時間』
『二十四時間五十一分』
『二十四時間十二分』
そして。
『金星自転周期、二十四時間三分。安定範囲内』
管制室に、長い沈黙が落ちた。
金星に、一日が生まれた。
白い雲の下で、初めて人間に近い昼夜がめぐり始めた。
同時に、磁場が立ち上がっていた。
カー・ニューマン・コアの電荷と回転が、金星全体を包む惑星磁場を生む。
火星で行ったことと同じ。
だが、金星では意味が違う。
金星の大気は厚すぎるほどあった。
守るべきは、逃げる大気ではなく、これから作る新しい空だった。
太陽風から水を守る磁場。
宇宙線から未来の海を守る磁場。
そして、雲の下に降るはずのメガ・レインを、長期的に失わせないための盾。
バルカスは、目を潤ませていた。
『金星磁場、形成確認。強度、地球型惑星居住基準を大幅に上回る。スーパーローテーション、主要構造崩壊。上層風、減衰中』
アプトムが呟く。
『あの暴風が、止まり始めたのか』
プルクシュタールが答える。
『止まるのではない。風になるのだ』
その言葉通りだった。
金星の大気は、暴走した一つの巨大な機械のように回っていた状態から、昼夜差と海陸差、やがて降る雨によって循環する“気候”へ変わろうとしていた。
まだ海はない。
まだ地表は熱い。
まだ雨は降らせられない。
だが、金星はその準備を終えた。
酸の空は白くなった。
黒い心臓は中心に沈んだ。
一日が整った。
磁場が立ち上がった。
スーパーローテーションは、根から折れ始めた。
ヴァルキュリアが、最後の確認を読み上げる。
『プロジェクト・ルシファー、第二段階完了。ホーキング・コア金星中心固定。自転周期二十四時間帯へ移行。惑星磁場形成。上層硫酸雲残存率、四・一%。水蒸気層、安定。メガ・レイン誘導準備、条件達成まで残り推定三年』
三年。
金星の空に、最初の雨が降るまで。
アプトムが、金星を見下ろした。
黄色い地獄だった星は、いまや白い雲に包まれている。
その雲の下で、二十四時間の昼と夜が生まれ始めていた。
『いよいよか』
バルカスが笑う。
『いよいよじゃ。火星は眠れる星を起こした。金星は地獄を冷ます』
アルカンフェルは、静かに金星を見ていた。
かつて誰も住めないと思われた星。
だが、地球生命はもう一つの星を得ようとしている。
「雨を降らせる前に、星に一日を与えた」
村上が言う。
「火星に心臓を入れた時とは、違う感覚ですね」
「そうだ」
アルカンフェルは答えた。
「火星は目覚めさせた。金星は、まず狂気を鎮めた」
白い雲の向こうで、金星の新しい昼が始まっていた。
まだ誰もその地表に立っていない。
まだ水は雨として落ちていない。
だが、酸の空は消えかけ、暴風は砕け、一日が生まれた。
金星は、地獄から惑星へ戻りつつあった。
メガ・レイン前夜。
その白い星は、初めて静かな夜を迎えようとしていた。