/*/ 金星軌道 プロジェクト・ルシファー /*/
金星の空は、白くなった。
五十年前、濃硫酸の黄色い雲に覆われていた惑星は、いまや厚い水蒸気の雲に包まれている。
硫酸のヴェールは剥がれた。
金星上空五十キロメートル帯で、空中浮遊型巨大生体中和プラント《アムリタ》と、硫酸食性空中真菌《アシド・エアロ・ミケス》が五十年かけて雲を食い、中和し、水へ戻した。
軌道上から見れば、それは勝利に見えた。
毒々しい黄色は薄れ、白い雲が惑星を覆う。
太陽光が、かつてより深く金星へ届く。
酸の空は、終わろうとしている。
だが、クラウド・ゲート最上層の会議室で、バルカスは笑っていなかった。
金星全球モデルの表示は赤い。
上層雲の酸性度は改善している。
濃硫酸雲分解率、九十六・四%。
高度五十キロメートル帯の酸性度、地球の雨水レベルまで低下。
ホーキング・コアは金星中心に固定され、自転周期は二十四時間帯へ移行した。
スーパーローテーションも、根本から折れ始めている。
だが、地表の表示は地獄のままだった。
地表温度、四百度超。
大気圧、九十気圧。
大気主成分、二酸化炭素。
硫酸の雲が消えたことで、金星の真の絶望が剥き出しになっていた。
ヴァルキュリアが、端末を操作しながら言った。
「博士、硫酸の雲の分解効率は予定通り九十六・四%を記録。上空の酸性度は管理可能域まで低下しました」
彼女は、次の表示を指し示す。
「ですが、ここからが本番です」
投影されたのは、金星地表の熱分布だった。
赤では足りない。
白熱に近い色で、全球が染まっている。
「濃硫酸雲が消えたことで、太陽光は深く差し込み始めました。しかし、大気の大半を占める二酸化炭素による温室効果は健在です。地表温度は依然として四百度以上。大気圧は九十気圧。現状は、酸の地獄から、超高圧の灼熱サウナへ移行しただけです」
アプトムの通信投影が、嫌そうに顔をしかめた。
『酸を食わせて、やっと白い雲になったと思ったら、今度は蒸し焼きかよ』
バルカスが、そこでようやく笑った。
「フォッフォッフォ。分かっておる。酸のヴェールが剥がれた今こそ、プロジェクト・ルシファー第二段階――金星版メガ・レインの引き金を引く時じゃ」
投影図が切り替わる。
金星上空には、硫酸分解の副産物として発生した膨大な水蒸気層がある。
地球の海水量に匹敵し、あるいはそれを上回る水が、まだ雨ではなく雲として空に閉じ込められていた。
降らせればよい。
単純に聞こえる。
だが、それが難しい。
現在の金星で雨を降らせても、雨粒は地表へ届く遥か手前で蒸発する。
超高温の大気が水滴を焼き、蒸発した水は上昇気流となり、再び雷雲へ戻る。
雨は降っているのに、地表へ届かない。
水はあるのに、海にならない。
金星は、空の中で雨を閉じ込める地獄だった。
アルカンフェルは、静かに金星を見つめていた。
「地表へ届かせる必要がある」
「はい」
ヴァルキュリアが頷く。
「一度でも全球規模で降水が地表へ到達すれば、熱収支が変わります。蒸発、凝結、降雨、地表冷却の循環が始まる。逆に届かなければ、金星は永遠に雲の中で雨を空回りさせるだけです」
バルカスが通信を開いた。
「プルクシュタール、準備はよいな?」
金星軌道上、気象制御艦隊。
火星の気象ルーチン化を終え、火星の空から手を離した神将プルクシュタールが、今度は金星の白い地獄を見下ろしていた。
彼の目が静かに光る。
『承知いたしました』
その声は落ち着いていたが、どこか楽しげでもあった。
『火星の雲を整えるより、この金星の荒れ狂う水蒸気を地表へ叩き落とす方が、私の力の使い甲斐がある』
アプトムが呆れたように言う。
『神将様方は地獄を見ると元気になるのか?』
『空が荒れていれば整えたくなるだけだ』
『同じことだろ』
バルカスは続ける。
「ワフェルダノス、お前の“娘たち”も出番じゃぞ」
通信に、低い声が入った。
火星の臣毛網から意識を引き抜き、再び自由な神将となったワフェルダノス。
だが彼は、火星から何も持たずに戻ったわけではない。
火星で臣毛網を自律神経化した経験は、金星用の新しい生体インフラを生んでいた。
耐熱岩石菌糸。
高温、高圧、二酸化炭素濃度の異常な環境で生き、玄武岩質の岩盤へ食い込み、カルシウムやマグネシウムを引き出し、大気中の二酸化炭素を炭酸塩として固定する、ワフェルダノス由来の分化生体群。
バルカスはそれを、彼の娘たちと呼んだ。
『地表が冷えた場所から這わせる』
ワフェルダノスの声は、火星の森を語る時より重かった。
『九十気圧の二酸化炭素を、すべて石灰岩の鎧へ変える。だが、数十年では終わらぬぞ、バルカス』
「望むところじゃ」
バルカスは笑った。
「火星が完璧な揺り籠なら、この金星はクロノスが総力を挙げて組み替える最大の重工業惑星よ。熱、圧力、炭素、大気、岩石、すべてが材料じゃ」
アプトムが生体輸送肢を展開しながら、やれやれと肩をすくめた。
『へいへい。今度は沸騰するお湯の中でも死なねぇ菌糸のデリバリーか? 火星のガキどもにアレス・プライドなんて生意気言わせてる間に、こっちは金星の地獄めぐりってわけだ』
少し間を置いて、彼は笑った。
『……悪くねぇよ。やってやろうじゃねぇか』
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金星版メガ・レインは、火星とは違う。
火星では、空に水を満たし、冷やして降らせればよかった。
金星では、まず空に閉じ込められた雨を、熱の壁を突破させなければならない。
プルクシュタールの気象制御が始まった。
金星全球の雲が、震えた。
厚い水蒸気層の上部で、冷却帯が形成される。
通常なら、雨粒は落下中に蒸発し、上昇気流へ巻き戻される。
だがプルクシュタールは、降水帯を一点に任せなかった。
全球規模で、同時に冷たい下降流を作る。
赤道上空。
中緯度帯。
極域。
大気層の上下を貫くように、巨大な冷却柱が形成されていった。
金星の白い雲が、内側から暗くなる。
雷が走った。
火星のメガ・レインで見た稲妻とは比べものにならない。
金星の雲は厚く、熱く、重い。
そこに溜め込まれた電荷が、惑星規模で放出される。
白い雲の内部が、紫色に光った。
アプトムが軌道上から呻く。
『雲の中で戦争してるみてぇだな』
ヴァルキュリアが答える。
『比喩としては不正確ですが、エネルギー規模としては近いです』
『そこは否定しろよ』
プルクシュタールの声が、通信に響く。
『第一降水帯、形成。まだ届かぬ』
金星の雲から、雨が落ち始めた。
だが、それは地表に届かない。
超高温大気の層へ入った瞬間、雨は蒸発し、白い蒸気爆発のように広がる。
蒸発した水が上昇し、再び雲へ戻ろうとする。
プルクシュタールは、それを押さえ込んだ。
『戻るな』
彼の精神波が、金星の大気を貫いた。
『落ちろ』
下降流が強くなる。
雨粒は蒸発する。
だが、蒸発するたびに周囲の熱を奪う。
金星大気の一部が冷える。
次の雨粒は、もう少し下まで届く。
また蒸発する。
また熱を奪う。
雨は地表に届かないまま、大気の中で冷却の階段を作り始めた。
それは、空から水を落とすというより、金星の大気そのものへ巨大な冷却杭を打ち込む作業だった。
バルカスが叫ぶ。
『よい! 蒸発冷却層、形成! 高度四十キロから三十五キロへ降下!』
ヴァルキュリアが追う。
『下降流安定。上昇再循環を抑制。アムリタ群、退避高度へ移行完了。アシド・エアロ・ミケス分布、再編中』
アプトム便の母艦級分体が、金星大気上層へ次々と生体カプセルを投下していく。
耐熱岩石菌糸の休眠胞子嚢。
高圧大気に耐える炭酸塩固定菌。
冷却後の岩盤へ食い込むための鉱物分解生体。
まだ地表へは届かない。
だが、雨が届く前に、それらは下層大気の安全域へ待機配置される。
『アプトム便、投下完了』
「よし」
バルカスが笑う。
「金星が冷えた瞬間に、娘たちを這わせるぞ」
ワフェルダノスが答えた。
『冷えた岩は、すぐに食わせる』
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雨は、三日降った。
ただし、その三日間、地表へは届いていない。
金星の大気の中で、雨は蒸発し続けた。
だが、金星は冷え始めた。
地表温度ではない。
まず大気だ。
高度三十キロ。
二十五キロ。
二十キロ。
蒸発冷却層が、少しずつ下がっていく。
金星の大気は九十気圧の怪物である。
簡単には冷えない。
だが、一度冷え始めると、その熱容量の大きさゆえに、変化は巨大だった。
四日目。
観測班が叫んだ。
『降水粒子、高度十キロ突破!』
会議室が静まり返る。
そこから先は、未知だった。
高度十キロより下は、灼熱の大気だった。
だが、三日間の蒸発冷却で、温度は下がっていた。
まだ人間の感覚では地獄である。
それでも、雨が落ちるには十分に冷えつつあった。
五日目。
『高度五キロ』
六日目。
『高度二キロ』
七日目。
通信に、誰かのかすれた声が入った。
『雨滴、地表到達を確認』
沈黙。
それから、管制室全体が音を立てた。
金星に、雨が届いた。
最初の雨は、地表に落ちた瞬間、爆ぜた。
高温の岩盤に叩きつけられ、水は一瞬で蒸気へ変わる。
だが、今度は違う。
完全には戻らない。
次の雨が降る。
また蒸発する。
岩盤が冷える。
さらに次の雨が降る。
金星の地表に、初めて水が触れた。
雨はまだ川にならない。
海にもならない。
だが、灼熱の岩を叩き、熱を奪い、地表を冷やし、岩盤表面に薄い化学変化の膜を作り始めた。
そこへ、ワフェルダノスの娘たちが降りた。
耐熱岩石菌糸の胞子嚢が、冷え始めた玄武岩質の地表へ落ちる。
通常の生命なら死ぬ。
だが、これは生命というより、生きた鉱物処理装置だった。
岩に食い込む。
水分を掴む。
大気中の二酸化炭素を取り込む。
岩石から金属イオンを引き出す。
炭酸塩を作る。
白い微細な膜が、黒い岩の上に生まれた。
まだ小さい。
見えないほど薄い。
だが、それは九十気圧の二酸化炭素へ向けられた、最初の刃だった。
ワフェルダノスが低く言った。
『噛んだ』
バルカスが目を見開く。
「炭酸塩固定、開始!」
ヴァルキュリアが続ける。
「金星地表、第一固定点形成。二酸化炭素吸収は微量。ただし反応継続を確認」
アプトムが笑った。
『ようやく一口目か』
ワフェルダノスが答える。
『一口目だ』
金星の空では、雨が強くなっていた。
最初は地表に触れるだけで蒸発していた雨が、少しずつ滞留時間を伸ばしていく。
熱い岩の上を、水が這う。
すぐに蒸発する。
だが、また降る。
また冷やす。
また菌糸が噛む。
大気の二酸化炭素を、少しずつ岩へ閉じ込めていく。
九十気圧の地獄を、一気に消すことはできない。
数十年どころではないかもしれない。
だが、始まった。
金星の大気を石へ変える、途方もない重工業が。
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軌道上から見れば、金星は白いままだった。
だが、その白の内側で、雨が地表へ届き始めている。
大気の底で、岩が冷え、炭酸塩の薄い膜が広がり、二酸化炭素がわずかに削られている。
火星のメガ・レインが、青い海を生む雨だったなら。
金星のメガ・レインは、地獄の大気を石へ変える雨だった。
アルカンフェルは、金星を見ていた。
「火星より長いな」
バルカスが頷く。
「はい。火星は水を起こす星でした。金星は炭素を沈める星です。時間がかかります」
「どれほどだ」
「居住可能域の形成まで、最短でも数十年。完全な大気圧低下と安定化には、さらに長い年月を見込むべきです」
アルカンフェルは、静かに言った。
「よい」
全員が彼を見る。
「時間がかかるなら、続ければよい」
その言葉に、バルカスは深く頭を下げた。
金星の白い雲の下で、雨が降っている。
濃硫酸の雲を食い尽くした後に残った、九十気圧の二酸化炭素。
その圧倒的な大気を、雨と菌糸と岩石化学で削り始めた。
プロジェクト・ルシファー第二段階。
金星版メガ・レイン。
それは、楽園を作る雨ではない。
地獄を冷やし、圧力を削り、大気を石へ変える、重工業の雨だった。
アプトムは金星を見下ろし、サングラスを押し上げた。
『火星はリゾート。金星は現場だな』
ヴァルキュリアが答える。
『その表現は、概ね正確です』
『珍しく認めたな』
『今回は適切です』
バルカスが笑った。
「金星はクロノス最大の現場じゃ。さて、忙しくなるぞ」
白い金星の下で、雨は降り続ける。
それは、何年も、何十年も続く作業の、最初の雨だった。