/*/ 金星軌道 プロジェクト・ルシファー /*/
金星は、ようやく雨を知った。
濃硫酸の雲は九割以上が分解され、黄色い地獄は白い水蒸気の空へ変わった。
ホーキング・コアは惑星中心に固定され、極端に遅かった自転は二十四時間周期へ整えられた。
金星には、一日が生まれた。
磁場も生まれた。
そして、金星版メガ・レインが地表へ届き始めた。
だが、それでも金星はまだ、住める星ではない。
九十気圧の二酸化炭素。
四百度を超える地表温度。
岩石に炭素を噛ませる耐熱菌糸。
雨で冷やし、炭酸塩で固定し、圧を下げる。
それは始まったばかりの、数十年単位の重工業だった。
そこでバルカスは、次の図面を出した。
金星を囲む、巨大な輪。
いや、輪ではない。
複数の軌道リングが、縦に、斜めに、横に、惑星を鳥籠のように包んでいる。
クラウド・ゲート最上層の会議室に、その金色の籠が投影された瞬間、アプトムは顔をしかめた。
「おい博士。今度は金星を檻に入れる気か?」
バルカスは、嬉しそうに眼鏡を光らせた。
「檻ではない。ルーバーじゃ」
「余計分からねぇ」
「光と熱を制御する惑星規模の羽板。名付けて、軌道リング《ルシファー・ルーバー》」
投影された金星の周囲で、リングの一部が細かく開閉する。
太陽側では、巨大な遮光板が展開し、金星へ届く光を二割から三割ほど間引く。
夜側では、放射ルーバーが全開になり、惑星から上がってきた熱を宇宙へ逃がす。
同時に、太陽側のリング表面は発電パネルとして機能し、金星改造事業全体へ莫大な電力を送る。
バルカスが説明を続けた。
「金星は太陽に近い。火星とは逆じゃ。火星には熱が足りなかった。金星には熱が多すぎる。ならば、入る熱を減らし、出る熱を増やす。惑星全体をサーモスタット管理するのじゃ」
ヴァルキュリアが端末を操作する。
「単純な日傘衛星では不足です。金星の自転は二十四時間化されましたが、公転位置、太陽入射角、雲量、地表冷却進行度、大気中二酸化炭素濃度、メガ・レインの降水量によって必要な遮光率と排熱量は変化します」
投影に、三本のリングが表示される。
一つは赤道面。
一つは北極と南極を通る縦の軌道。
もう一つは、斜めに交差する太陽同期軌道。
「赤道リングだけでは太陽光を真正面から受けられません。太陽光制御の主力は、太陽同期の極軌道リングと斜交リングが担います。リング面を常に太陽へ正対させ、昼側で遮光と発電を行い、夜側で排熱する」
アプトムが、金星を囲む三重の輪を見た。
「つまり、金星を丸ごと、でかいシャッター付き発電機にするってことか」
バルカスは満足そうに頷いた。
「雑じゃが、概ね正しい」
「またかよ」
「究極的には、三連交差の籠型リングじゃ。太陽光がどの角度から来ようと、ミリ秒単位で遮光・発電・排熱を切り替える。金星を、冷やしすぎず、焼きすぎず、常に最適な熱収支へ置く」
村上征樹が投影を見ながら呟いた。
「惑星の外側に、調節可能な皮膚を作るようなものですね」
「よい例えじゃ」
バルカスが指を鳴らす。
「金星は今、裸のまま熱を受けておる。ルシファー・ルーバーは、金星に着せる最初の服じゃ」
アプトムが笑った。
「服っていうより、拘束具に見えるけどな」
ヴァルキュリアは静かに言った。
「拘束具でもあります。金星は放置すれば、また熱と大気が暴走します。美しくする前に、まず抑える必要があります」
アルカンフェルは、黙って金星の投影を見ていた。
酸の空を失い、白い雲に包まれた星。
その周囲に築かれる、巨大な光の籠。
「建てろ」
短い命令だった。
それで、金星軌道建設計画は始まった。
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ルシファー・ルーバーは、金星の空に一夜で現れたわけではない。
アプトム便が外縁天体から資材を運び、金星軌道工廠がレゴリス由来の構造材を吐き出し、作業用強殖装甲をまとった建設技術者たちが、真空の中で光学遮光板と放熱ルーバーを組み上げた。
ウラヌス遺構から解析された光学制御材。
クロノスの生体自己修復構造。
アプトム母艦級の輸送肢。
李・エンツイの空間搬送補助。
シンのバリア制御技術から派生した薄膜安定化フィールド。
金星軌道は、数年にわたり巨大な工事現場になった。
最初に完成したのは、太陽同期極軌道リングだった。
縦に金星を回るそのリングは、太陽を真正面から受けるように、軌道面を絶えず微調整する。
太陽側に回ると、巨大な羽板が淡く輝きながら開く。
光を受ける。
その一部を遮る。
残りを発電へ回す。
夜側へ回ると、裏面の放射ルーバーが黒く開く。
金星から上がる赤外線と大気熱を吸い、宇宙の冷たい闇へ放つ。
アプトムは、そのリングを見ながら呟いた。
「金星の上に、でかいブラインドが回ってるみてぇだな」
バルカスが即座に答える。
「だからルーバーと言っておろう」
「名前のまんまかよ」
続いて、斜交リングが組み上がる。
こちらは金星の公転位置と季節変動に応じて、光量の偏りを補正する。
太陽光を二十%間引く日もあれば、三十%まで遮る日もある。
ルーバーの開閉は、人間の目には静止しているように見えるほど滑らかだが、実際にはミリ秒単位で調整されていた。
金星の白い雲は、その下で少しずつ落ち着き始めた。
雲の温度が下がる。
上昇流が弱まる。
プルクシュタールの気象制御は、力ずくで押さえ込む段階から、軌道ルーバーと連動して風を整える段階へ移っていく。
プルクシュタールは、リングを見上げて静かに言った。
「空の外から、空を整えるか」
バルカスが笑う。
「お前の負担も減るぞ」
「それはよい」
「寂しいか?」
「少しな」
火星の空を手放した時と同じ声だった。
「だが、金星はまだ暴れる。寂しがるには早い」
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最後に、赤道リングが建設された。
これは日傘としての主役ではない。
赤道リングは、金星の経済圏と軌道インフラの背骨だった。
ホーキング・コアによって二十四時間自転となった金星には、地球と同程度の静止軌道が成立する。
高度およそ三万二千キロメートル。
そこに、巨大な赤道リングが組まれた。
リングは、発電、物流、軌道港、通信、気象管制、軍事ドック、外縁航路の中継点を兼ねる。
そして、その赤道リングから地表へ、四本の主柱が下ろされることになった。
金星四大主柱。
グランド・ピラー計画。
バルカスが投影を拡大する。
赤道を九十度ずつ四分割し、四本の軌道エレベーターが十字に配置される。
「一本では歪む」
バルカスは言った。
「二本では不安定。三本でも偏りが残る。四本なら、重力と遠心力とリング張力を十字に受けられる。金星の赤道リングを、自律安定させるにはこれが最もよい」
アプトムがぼやく。
「また数字が綺麗なだけで決めてねぇか?」
ヴァルキュリアが即座に否定した。
「構造力学的に妥当です。四点支持により、リング重心の偏りを抑えられます。地表側拠点も、将来の大陸配置と経済圏に対応しています」
投影に、四本の主柱名が表示される。
第1ピラー。
《ルシファー・ライジング》。
赤道基準〇度。
アフロディーテ大陸東部。
旅客と表玄関。
地球、火星、外縁航路から来る移民、高速艦、クロノス上層部のハブ。
第2ピラー。
《フォスフォラス》。
九十度。
中央海洋・大密林地帯予定区域。
バイオマス輸送。
将来、ワフェルダノス系の金星大密林が生む燃料、医薬品、生体素材を軌道へ汲み上げる柱。
第3ピラー。
《ヘスペラス》。
百八十度。
アフロディーテ西側工業区。
重工業と資源輸送。
九十気圧から固定化された炭酸塩岩、石灰岩、金属鉱物、希少元素の積み出し。
第4ピラー。
《イシュタル・ゲート》。
二百七十度。
北半球イシュタル大陸への玄関口。
研究、軍事、次世代調製生物プラント、外縁警戒艦隊ドック。
村上が投影を見上げた。
「金星は、地上が完成する前から軌道経済圏を作るんですね」
バルカスが頷く。
「火星は地上を育てる星じゃった。金星は地上を削り、冷やし、圧を抜き、資源を引き上げる星じゃ。軌道エレベーターがなければ、話にならぬ」
アプトムが頷く。
「九十気圧の中から資材を打ち上げるとか、やってられねぇしな」
「そうじゃ。重工業惑星には、上へ抜く血管が要る」
ヴァルキュリアが補足する。
「四大主柱は、入植用ではなく、まず工業用です。一般居住開始前から、地表冷却、炭酸塩固定、鉱物回収、気象制御、上層大気作業を支えるために運用されます」
アルカンフェルは、四本の柱が金星へ降りる映像を見た。
白い雲を貫き、赤道リングから地表へ伸びる線。
それは、金星という地獄へ下ろされる縄のようだった。
「金星に、柱を立てるか」
バルカスが頭を垂れる。
「はい。地獄を引き上げるための柱です」
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最初に降りたのは、《ルシファー・ライジング》だった。
赤道リングから、一本の細い光の線が下りる。
実際には細くなどない。
だが惑星規模で見れば、それは髪の毛のように見えた。
耐熱自己修復索。
重力張力制御。
バリア被膜。
大気乱流緩衝フィールド。
それらを重ねた軌道エレベーターの基礎索が、金星の白い雲へ突入する。
プルクシュタールが上層風を抑える。
李が空間の揺らぎを整える。
アプトム便が中間アンカーを運ぶ。
カールレオンが虚数空間側の余剰歪みを逃がす。
ヴァルキュリアは、全系統を監査する。
「索温度、許容範囲内」
「雲層通過」
「下降速度、計画値」
「乱流補正、成功」
「下層大気圧、想定内」
「地表アンカー予定地、冷却済み」
地表はまだ熱かった。
だが、メガ・レインと耐熱菌糸の働きによって、局所的に冷却された建設点が作られていた。
そこへ、《ルシファー・ライジング》の地表アンカーが落ちる。
金星の地表に、最初の主柱が刺さった。
アプトムが通信で呟く。
『地獄に針を通したな』
バルカスが答える。
『針ではない。柱じゃ』
『似たようなもんだろ』
『全然違う』
ヴァルキュリアが静かに言った。
「第1ピラー《ルシファー・ライジング》、地表アンカー接続確認。赤道リング張力、安定。金星軌道エレベーター第一系統、仮運用開始」
管制室で、誰かが息を吐いた。
金星に、天と地を結ぶ線が生まれた。
まだ人は降りない。
まだ一般移民は来ない。
だが、物資は降りられる。
機械は上がれる。
地表で固定された炭酸塩と鉱物は、いつかこの柱を通って軌道へ上がる。
金星の重工業時代が始まった。
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四本の主柱が完成するまで、さらに年月がかかった。
《フォスフォラス》は、将来の中央海洋予定地へ。
《ヘスペラス》は、アフロディーテ西側の工業区へ。
《イシュタル・ゲート》は、北半球高地の研究軍事拠点へ。
四本がすべて赤道リングと接続された日、金星軌道の構造体は、初めて完全な安定形を取った。
赤道リング。
極軌道ルーバー。
斜交リング。
四大主柱。
太陽光を遮り、熱を逃がし、電力を生み、物資を上下させ、気象を整える、巨大なクロノス製の惑星制御機構。
軌道上から見た金星は、白い雲に包まれた星ではなくなっていた。
金色の輪をまとい、縦と斜めの光の帯に包まれ、赤道から四本の柱を下ろした、巨大な工業神殿のように見えた。
アプトムが、しばらく黙ってから言った。
『火星は綺麗な星になった。金星は……なんつうか、すげぇ星になりそうだな』
バルカスが笑う。
「火星は揺り籠。金星は炉じゃ」
ヴァルキュリアが訂正する。
「居住可能化も目的に含まれています」
「もちろんじゃ。だが、最初に立ち上がるのは工業じゃ。金星の熱、圧力、炭素、金属、大気、太陽光。そのすべてを使い切る」
アルカンフェルは、ルシファー・ルーバーに包まれた金星を見ていた。
「火星は、人間に優しい星になった」
誰も口を挟まない。
「金星は、人間が挑む星になる」
その言葉に、アプトムが小さく笑った。
『現場の星か』
「そうだ」
アルカンフェルは頷いた。
「現場の星だ」
金星の軌道リングが、太陽光を受けて輝いている。
遮られた光は電力へ変わり、余分な熱は宇宙へ放たれ、四本の主柱は白い雲の下へ伸びている。
硫酸の地獄を越え、灼熱の大気を冷やし、二酸化炭素を石へ変える。
そのための巨大な機械が、いま金星の空に完成しつつあった。
火星が、住みやすさの理想郷なら。
金星は、クロノスの技術と労働と野心をすべて注ぎ込む、太陽系最大の重工業惑星だった。