/*/ 金星地表 プロジェクト・ルシファー /*/
雨は、降っていた。
いや、降っているという言葉では足りない。
金星の空そのものが、崩れていた。
かつて濃硫酸の雲だったものは、いまや白い水蒸気の天蓋となり、そこから絶え間なく水が落ちている。
だが、その水は地球の雨ではない。
火星のメガ・レインとも違う。
金星の雨は、地表に触れた瞬間、叫ぶように蒸発した。
水が岩を打つ。
爆ぜる。
白い蒸気が噴き上がる。
次の雨が、その蒸気の中へ突き刺さる。
また爆ぜる。
また白くなる。
地表は見えない。
空も見えない。
右も左も、ただ白い。
視界は数メートル。
それも、生身の目なら一瞬で潰れる。温度は二百五十度を下回り始めているとはいえ、まだ生命にとっては十分すぎる地獄だった。気圧は下がった。だが、それは地球の海面気圧に近づいたという意味ではない。九十気圧の二酸化炭素地獄が、超高圧の水蒸気サウナへ置き換わり始めたというだけだった。
金星は、冷え始めた。
だが、まだ生き物が立てる星ではない。
そこへ降りていたのは、人間ではなかった。
作業用強殖装甲をまとった獣化兵たちだった。
彼らの装甲は、戦闘用ではない。
メガスマッシャーも、ソニックバスターもない。
だが、真空、放射線、高温、高圧、酸性残留物、粉塵、熱水蒸気に耐えるための厚い外皮と、融殖組織による自己修復機能を備えている。
通常の宇宙服なら、数分で焼け、潰れ、継ぎ目から蒸気を吸って死ぬ。
作業用強殖装甲は違った。
全身を覆う生体外骨格が、外界の熱を拒み、内部の体液を守り、センサーで白い闇を読む。装甲表面では雨水が触れるたびに膜状の蒸気が弾け、まるで全身から常に白い煙を吹いているように見えた。
先頭を進む獣化兵が、足を止めた。
彼の名はガルドン。
元は戦闘用の重装甲型獣化兵だったが、戦後に作業用へ再調整された男である。今の彼の背中には生体掘削ユニット、両腕には炭酸塩固定用の散布ノズル、腰にはワフェルダノス由来の耐熱岩石菌糸の胞子嚢が積まれている。
『視界ゼロ。熱流、右前方から上昇。足元、玄武岩質。表面温度二百八十一度』
彼は短く報告した。
声は強殖装甲の内部通信を通して、周囲の班員へ届く。
『冷えたな』
後方の獣化兵が言った。
『これで冷えたって言うのかよ』
『半年前は四百超えていた』
『地獄の単位で慰めるな』
彼らは笑わなかった。
笑えば、集中が切れる。
足元の岩盤は、雨で冷やされているが、まだ深部から熱を吐き続けている。表面だけが冷えた薄い皮の下に、巨大な石焼き窯が眠っているようなものだ。
下手に踏めば、脆くなった岩殻が割れる。
割れれば、下から高圧蒸気が噴き上がる。
それは間欠泉ではない。
白い槍だった。
数百気圧の熱水蒸気が、岩の割れ目から噴き出し、作業用強殖装甲の表面を抉る。装甲なら耐えられる。だが、足場を失えば谷底へ落ちる。落ちた先が冷えた岩とは限らない。
金星のサウナ期は、まだ地面すら信用できない時代だった。
『ビーコン確認。第一固定点まで二百メートル』
上空から、アプトム便の声が降ってきた。
だが姿は見えない。
母艦級分体は厚い水蒸気層の上にいる。そこから生体レーダーと重力波測位で、地表班を誘導しているのだ。
『お前ら、そこから左へ十七度。まっすぐ行くと蒸気孔だ』
ガルドンは即座に進路を修正した。
『了解。左十七度』
白い闇の中で、班員たちが一列に並ぶ。
彼らの足跡は残らない。
降り続く熱い雨と蒸気が、すぐにすべてを隠してしまう。
雨粒が装甲に叩きつけられるたび、じゅっ、じゅっ、と音がした。
その音が、絶え間なく続く。
地表そのものが、巨大な鍋の底だった。
アプトムがぼやく。
『火星の連中は夜の海岸を散歩して、こっちは白い蒸し風呂で菌まきか。格差がひどいな』
ガルドンは答えた。
『火星も最初は地獄だったと聞いている』
『あっちはロマンがあった。こっちは現場臭しかねぇ』
『現場だからな』
その時、班の右側で岩盤が鳴った。
低い音。
地鳴りというより、腹の底で石が割れるような響き。
『伏せろ!』
ガルドンが叫ぶ。
次の瞬間、白い蒸気柱が斜めに噴き上がった。
圧力で岩片が飛ぶ。
強殖装甲の肩に、赤黒い岩が叩きつけられ、砕ける。
蒸気の槍が班員の一人をかすめた。
装甲の外皮が焼け、融殖組織が即座に泡立つように再生する。
『二番、損傷』
『自力歩行可能』
『熱傷は』
『装甲外皮のみ。内部影響なし』
『下がるか』
『続行可能』
その声に、ガルドンは短く頷いた。
『続行』
彼らは進んだ。
金星では、撤退判断は慎重でなければならない。
だが、少し損傷するたびに戻っていては、何もできない。
作業用強殖装甲は、そのためにある。
死なないためではない。
死ぬほど危険な場所で、仕事を続けるためにある。
第一固定点が見えた。
正確には、見えたのではない。
センサーが、白い蒸気の中に冷えた岩盤の広がりを描き出した。
そこは、メガ・レインが最初に地表へ到達した地点の一つだった。数ヶ月にわたり雨に打たれ続けたため、周囲より少しだけ温度が低い。岩盤表面には、すでに自然反応で生まれた薄い炭酸塩の膜がある。
だが、それだけでは足りない。
金星の九十気圧の二酸化炭素を削るには、自然反応など遅すぎる。
ここに、ワフェルダノスの娘たちを撒く。
『固定点到達。胞子嚢、準備』
班員たちが背中の容器を開いた。
中から出てきたのは、種子でも菌糸でもない。
濡れた黒い繊維塊だった。
それは熱に震え、雨に打たれながら、かすかに脈動している。
耐熱岩石菌糸。
高温、高圧、二酸化炭素過多、金属成分を含む岩盤表面で活動するために、ワフェルダノスから分化させられた生体インフラ。
火星で森を作った臣毛とは違う。
これは、森のための根ではない。
石を食う根だった。
ガルドンがノズルを地面へ向ける。
『散布開始』
黒い繊維塊が、雨に打たれる岩盤へ撒かれた。
最初は、ただ黒い泥のように見えた。
だが数秒後、それは動き出した。
菌糸が岩へ食い込む。
細い糸が亀裂へ入り、鉱物表面へ張りつき、岩石中のカルシウムとマグネシウムを引き出す。
上から降る雨は、二酸化炭素を大量に溶かした炭酸水だった。
その炭素を、菌糸が掴む。
岩から引き出した金属イオンと結びつける。
白い膜が生まれた。
炭酸塩。
石灰岩の種。
それは薄く、儚く、熱い雨に削られそうに見える。
だが、次の瞬間、その膜の下にさらに菌糸が伸びた。
白が広がる。
黒い岩の上に、薄い白の網が這っていく。
ワフェルダノスの声が、低く通信に入った。
『噛んだ』
ガルドンは、地面を見下ろした。
白い蒸気の中で、黒い岩が少しずつ白く染まっていく。
まるで、地獄の皮膚に最初のかさぶたができたようだった。
『第一固定点、反応確認』
ヴァルキュリアの声が軌道上から入る。
『炭酸塩生成、継続。二酸化炭素固定量は微量。ただし反応速度、予定値を上回っています』
バルカスの声が重なる。
『よい! 固定点を広げろ! 白い膜を切らすな! 雨が降っているうちに岩へ噛ませ続けるのじゃ!』
アプトムが呆れる。
『博士、現場の熱気より声が暑苦しいぞ』
『現場はもっと熱いわい!』
『それはそう』
ガルドンたちは次の散布点へ移動した。
数メートル先すら白く曇っている。
しかし、足元には確かに変化があった。
さっきまで黒く焼けた岩だった場所に、薄い白い網が残っている。
雨がそれを叩く。
蒸気がそれを包む。
それでも、菌糸は離れない。
金星の大気を、石へ変える。
その最初の仕事が、今、彼らの足元で始まっていた。
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作業は十時間続いた。
地球なら、人間の肉体がとうに限界を迎える。
ここでは、作業用強殖装甲と獣化兵の体力があっても、十時間が限界だった。
装甲外皮は何度も焼け、再生し、熱で硬化した部分を自動剥離した。
内部冷却液は循環し続け、排熱器官は白い蒸気を吐いた。
獣化兵たちの心拍は高く、神経は張り詰めていた。
生身なら一秒で死ぬ場所に、十時間立ち続けたのだ。
『第一班、撤収』
ヴァルキュリアの指示が出た。
『第二班と交代してください』
ガルドンは、白い闇の向こうに見える回収ビーコンへ向かった。
アプトム便の降下輸送肢が、蒸気を裂いて降りてくる。
その影は巨大だった。
救いの手というより、地獄から作業員を引き上げる怪物の触腕だった。
輸送肢が彼らを包む。
外気遮断。
圧力調整。
熱洗浄。
残留化学物質除去。
蒸気と雨で曇っていた視界が、ようやく開けた。
ガルドンは、回収室の中で強殖装甲の一部を解除した。
熱気が抜ける。
内部の空気は冷たく感じた。
実際には、まだ相当な高温だ。
だが、金星地表から戻った身体には、涼風に思えた。
アプトムの声が通信に入る。
『生きてるか、現場組』
ガルドンは、少しだけ笑った。
『生きている』
『感想は』
『火星が羨ましい』
『正直でよろしい』
別の班員がぼやいた。
『あれはサウナじゃない。惑星サイズの圧力鍋だ』
『次の報告書に書いとけ』
『ヴァルキュリア監察官に消される』
そのヴァルキュリアが、通信に入った。
『不正確ですが、現場感覚としては記録に残します』
『残すのかよ』
『士気維持資料として有用です』
バルカスが笑った。
『よくやった。第一固定区画、炭酸塩化反応は生きておる。お前たちの散布した菌糸が、金星の二酸化炭素を食い始めたぞ』
ガルドンは、回収室の窓越しに金星の白い地表を見た。
まだ何も見えない。
白い蒸気。
雨。
沸騰する岩盤。
だが、センサー表示には、確かに小さな白い反応域が描かれている。
それは火星の緑のように美しくはない。
アレス・シラーの楽園のような華やかさもない。
小魚が跳ねる海でも、子供が走る芝生でもない。
黒い岩に食い込む白い菌糸。
二酸化炭素を石へ閉じ込める、泥臭い化学反応。
だが、それが金星の第一歩だった。
ガルドンは低く言った。
『噛ませたぞ、金星に』
アプトムが笑う。
『ああ。地獄に歯形がついた』
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軌道上から見る金星は、まだ白い。
サウナ期は終わっていない。
メガ・レインは降り続け、大気は水蒸気で膨れ、地表は冷えながらも深部から熱を吐き返している。
数ヶ月で気温は落ちた。
気圧も一時的に落ちた。
だが、これは勝利ではない。
冷え始めたにすぎない。
ここから何年も、雨を降らせる。
何年も、熱を奪う。
ルシファー・ルーバーで太陽光を間引き、放射ルーバーで熱を宇宙へ捨てる。
ワフェルダノスの娘たちは、岩を噛み続ける。
作業用強殖装甲をまとった獣化兵たちは、白い湯気の地獄へ何度も降りていく。
金星は、火星のような美しい復活ではなかった。
これは、工事だった。
惑星規模の解体と冷却と固定化。
地獄を少しずつ、現場に変える作業だった。
バルカスは、軌道管制室から金星を見下ろした。
「フォッフォッフォ。始まったな」
ヴァルキュリアが隣で記録する。
「金星サウナ期、第一固定点形成。作業用強殖装甲班、損耗軽微。炭酸塩化反応継続。次回降下は六時間後です」
アプトムが呻く。
『六時間後かよ。休ませろよ、地獄の宅配便にも労基ってもんがあるだろ』
ヴァルキュリアは淡々と答えた。
『休息時間は規定内です』
『そういう問題じゃねぇ』
アルカンフェルは、白い金星を見ていた。
火星は、青と緑の星になった。
金星は、まだ白い湯気の中で煮えている。
だが、その底で、最初の岩が二酸化炭素を噛み始めた。
「続けろ」
総帥は静かに命じた。
「この星も、いずれ息をする」
白い蒸気の下で、金星の雨は降り続けていた。