/*/ 金星地表 /*/
金星は、まだ住める星ではなかった。
空は白い。
雨は降っている。
だが、その雨は地表に触れるたびに沸き、爆ぜ、白い蒸気へ戻る。
地表温度は二百五十度から三百度。
気圧はなお数十気圧。
二酸化炭素と水蒸気に満たされた、惑星規模の高圧サウナ。
普通のテラフォーミングなら、ここはまだ「人類が待つべき地獄」だった。
冷えるまで待つ。
気圧が下がるまで待つ。
大気が落ち着くまで待つ。
それから工場を建てる。
だが、クロノスは待たなかった。
バルカスは金星軌道リング《ルシファー・ルーバー》と四本の軌道エレベーター、グランド・ピラーの投影を前に、会議室で笑っていた。
「フォッフォッフォ。地球人なら、まず冷やしてから工場を建てるじゃろうな」
アプトムが通信投影で腕を組む。
『普通はそうだろ。二百五十度の数十気圧サウナに工場建てる馬鹿がいるか』
「ここにおる」
『自覚あるんだな』
「これは馬鹿ではない。合理じゃ」
バルカスは金星地表の断面図を指差した。
「地球で高圧釜を作るには、加熱し、加圧し、維持し、冷却する必要がある。膨大なエネルギーが要る。だが金星はどうじゃ?」
投影された金星地表では、白い蒸気が渦巻いている。
熱い。
重い。
高圧。
腐食性残留物あり。
視界不良。
通常の人間なら一瞬で死ぬ環境。
バルカスはそれを、宝の山を見る目で見ていた。
「外に置いておくだけで勝手に熱され、勝手に圧力がかかる。惑星そのものが高圧反応炉じゃ。しかもルシファー・ルーバーと四大主柱で、電力と物流はすでにある。ならば、冷え切るまで待つ方が無駄じゃろう」
ヴァルキュリアは端末を確認しながら言った。
「金星初期型極限環境工業。通称、サウナ・インダストリー。危険評価は最高段階ですが、理論上の製造効率は極めて高いです」
『名前が軽すぎるだろ』
アプトムがぼやく。
「現場でそう呼ばれ始めています」
『現場の連中、もう壊れてねぇか?』
「金星現場ですので」
バルカスは、さらに楽しそうに三つの工業計画を表示した。
「第一。超結晶・新素材育成」
金星地表アンカーの周囲に、骨組みだけの巨大な施設が表示される。
密閉されていない。
壁も少ない。
外気を遮るどころか、金星の熱と圧力をそのまま取り込む構造だった。
「人工ダイヤモンド、炭化ケイ素、次世代半導体用単結晶、超伝導素材。地球では巨大な炉と高圧設備が必要な結晶育成を、金星では地表環境そのものを炉として使う」
作業用強殖装甲をまとった獣化兵たちが、白い蒸気の中で結晶種を設置している映像が映る。
骨組みだけの塔。
磁場制御リング。
高周波レーザー精錬器。
白い湯気の中で、透明な結晶の柱がゆっくりと育っていく。
「電力は加熱ではなく、制御に使う。磁場で成長方向を整え、レーザーで不純物を焼き、成長パターンをナノm単位で誘導する。地球なら莫大なエネルギーを使う工程が、ここではほぼ環境任せじゃ」
アプトムが映像を見て、少しだけ感心した。
『工場というより、地獄で水晶育ててるみてぇだな』
「詩的じゃな」
『褒めてねぇ』
「第二。大気由来高分子素材合成」
次の投影では、金星大気そのものが素材として表示された。
二酸化炭素。
水蒸気。
熱。
電力。
「金星の空は、炭素、水素、酸素の巨大な貯蔵庫じゃ。水蒸気を電気分解して水素を得る。二酸化炭素と反応させ、炭化水素を作り、さらに高分子化する」
投影内で、サバティエ反応、フィッシャー・トロプシュ合成、高分子重合ラインが連なる。
原油を使わない。
地中から掘り出さない。
空気から炭素を取り、雨から水素を得て、プラスチック、合成繊維、炭素繊維、樹脂、装甲材、建築材を作る。
「ポリエチレン、ポリプロピレン、カーボンファイバー、耐熱樹脂、生体工学用ポリマー。金星の大気を削りながら、太陽系中で必要な素材を作れる」
ヴァルキュリアが補足する。
「大気中二酸化炭素削減と工業生産を同時に行うため、テラフォーミング事業と輸出産業が直結します。ただし、大気固定量をごまかして素材生産だけを優先することは禁止します」
バルカスは不満げに眉を動かす。
「そこを疑うか」
「疑います」
『疑われて当然だろ』
アプトムが言った。
バルカスは咳払いして、第三の計画を表示した。
「第三。炭酸塩セラミック・人工岩盤工業」
投影には、金星の黒い岩盤を白く這うワフェルダノス由来の耐熱岩石菌糸が映った。
菌糸は二酸化炭素を取り込み、岩石中のカルシウムやマグネシウムと結合させ、炭酸塩を作る。
通常なら、これはただの大気圧低下工程である。
だがクロノスは、その炭酸塩化した岩をそのまま資源化する。
「二酸化炭素を石に固定するだけではない。固定した炭酸塩岩、シリカ、酸化物、金属成分を分離し、セラミック、耐熱タイル、建材、軌道リング補修材、人工大陸基盤へ加工する」
金星地表に、巨大な白い帯が広がる映像。
それを作業用強殖装甲の獣化兵たちが切り出し、グランド・ピラー《ヘスペラス》へ送る。
ヘスペラスの地表基地から、資材コンテナが軌道リングへ吸い上げられていく。
黒い地獄の大地から、白い建材が生まれる。
「金星の大気圧を下げるために作る石が、そのまま金星の都市と軌道インフラの素材になる。無駄がない」
村上征樹が静かに言った。
「地獄を材料にして、地獄を変えるんですね」
「その通りじゃ」
バルカスは満足そうに頷いた。
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最初のサウナ工場は、《ヘスペラス》地表アンカーの周囲に建てられた。
建てられた、と言っても、地球や火星の工場とは違う。
壁はない。
屋根もない。
密閉もされていない。
白い蒸気の中に、黒い骨組みだけの塔が立っている。
その塔の内側に、結晶種が吊るされていた。
周囲には磁場制御リングが並び、強殖装甲をまとった獣化兵たちが、灼熱の白い闇の中で作業している。
雨が降る。
蒸気が立つ。
装甲の表面で水が爆ぜる。
それでも、塔の中の結晶は育っていた。
金星の熱。
金星の圧力。
ルシファー・ルーバーから供給される電力。
高周波レーザーが不純物を焼き、磁場が格子欠陥を抑え、結晶は地球の炉では不可能なサイズへ成長していく。
『第一結晶塔、成長率予定値の一二八%』
現場主任の獣化兵が報告した。
『内部欠陥率、検出限界以下。磁場補正継続』
アプトム便が上空から通信を入れる。
『つまり、金星の蒸し風呂でダイヤモンドが勝手にでかくなってるってことか』
『勝手にではありません。制御しています』
ヴァルキュリアの声が即座に入る。
『でも熱と圧力はタダだろ?』
『金星環境由来です。タダではなく、危険を引き受けています』
『うまい言い方するな』
別の工区では、大気取り込み塔が唸っていた。
金星の濃い二酸化炭素と水蒸気を吸い込み、内部で水を電気分解する。
得られた水素が二酸化炭素と反応し、炭化水素へ変わる。
その先の重合ラインで、黒い炭素繊維が糸のように吐き出されていた。
金星の空が、素材になっていく。
白い大気を削り、黒い繊維を作る。
その繊維は束ねられ、焼かれ、圧縮され、軌道エレベーター用の補修材として《ヘスペラス》へ送られる。
現場の作業員が、半ば呆れた声で言った。
『空気から柱の材料を作るって、冷静に考えるとおかしいな』
別の獣化兵が答える。
『ここは金星だ。冷静に考えたら降りてこない』
『それもそうだ』
さらに外側では、耐熱岩石菌糸が白い膜を広げていた。
金星の黒い岩を噛み、二酸化炭素を石に変える。
その白い炭酸塩層を、作業用強殖装甲の大型獣化兵が切り出す。
削るたびに蒸気が噴き、岩片が弾ける。
だが、切り出された白い塊は、すぐに仮設精錬ラインへ送られ、セラミック建材へ変わった。
大気を削る。
石にする。
建材にする。
軌道へ上げる。
地獄の中で、工場は動いていた。
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クラウド・ゲートの会議室で、バルカスは成果報告を投影していた。
「第一サウナ工業区、試験生産開始。超大型単結晶、欠陥率極小。大気由来高分子素材、予定生産量を突破。炭酸塩セラミック、ヘスペラス補修材として使用可能」
アプトムが言った。
『住めないうちから輸出品ができたわけか』
「そうじゃ」
バルカスは胸を張る。
「金星はまだ居住惑星ではない。だが、もう工業惑星ではある」
ヴァルキュリアが補足する。
「環境改善と工業生産が直結しています。二酸化炭素削減、地表冷却、炭酸塩固定、素材生産、軌道インフラ補修が同時に進行。効率は高い。ただし現場危険度も極めて高いです」
村上は、白い蒸気に包まれた金星工業区の映像を見ていた。
「火星とは本当に違いますね」
アルカンフェルが頷く。
「火星は、人が暮らすために整えた」
映像の中で、作業用強殖装甲の獣化兵が白い蒸気の中を歩いている。
背後では結晶塔が育ち、大気反応炉が唸り、炭酸塩菌糸が黒い岩を白く染めていた。
「金星は、働きながら変えていく星だ」
アプトムが小さく笑った。
『火星は働く者の理想郷。金星は働かないと星にならない現場、か』
ヴァルキュリアが言う。
「現時点では、一般入植は認められません。金星地表居住資格は、極限環境作業資格、強殖装甲運用資格、または遠隔工業管制資格を持つ者に限定されます」
『つまり、観光客はお断り』
「当然です」
バルカスが笑う。
「観光するには、まだ少し暑いからの」
『少し?』
アプトムが呆れる。
アルカンフェルは、白い金星を見ていた。
酸の雲が消えた。
雨が降った。
ホーキング・コアが回った。
ルシファー・ルーバーが光と熱を制御し始めた。
四本のグランド・ピラーが地獄と軌道を結んだ。
そして今、その地獄の熱と圧力を使って、金星は自分自身を変える材料を作り始めている。
これはテラフォーミングであると同時に、工業だった。
惑星を冷やすための工場。
大気を削るための工場。
未来の金星都市を作るための工場。
金星は、住めるようになってから働く星ではない。
働きながら、住める星になっていく。
「続けろ」
アルカンフェルは言った。
「金星は、この熱を無駄にするな」
白い蒸気の下で、サウナ・インダストリーは動き続けていた。
金星の地獄は、クロノスの工場になった。