/*/ アララト山頂 /*/
アララト山頂に、十二の影が並んでいた。
雪と岩。
薄い大気。
雲海の向こうに広がる、夜明け前の空。
その高みに、クロノスの十二神将が集結している。
地上では、すでに全てが終わりつつあった。
北アメリカ制圧完了。
南アメリカ制圧完了。
東ヨーロッパ制圧完了。
西ヨーロッパ制圧完了。
東アジア制圧完了。
西アジアはほぼ完了。
オーストラリア侵攻は最終段階。
各国政府は沈黙し、軍は武装解除され、通信網はクロノスの管理下に入った。
国境線は、まだ地図の上には残っている。
だが、それはもう主権の線ではない。
管理区分だ。
行政単位だ。
人類が自分たちの歴史の中で積み上げてきた国家という枠組みは、この日をもって、クロノスの下位構造へ組み込まれた。
風が吹いた。
誰も寒さを気にしない。
十二神将にとって、この程度の環境は意味を持たない。
だが、その場の空気は重かった。
勝利の場であるはずなのに、浮かれた者はいない。
ギュオーでさえ、珍しく口を開かなかった。
山頂中央に、アルカンフェルが立っていた。
白い衣。
静かな眼差し。
その背後に、まだ昇らぬ太陽の光が薄く滲んでいる。
バルカスが一歩前へ出た。
老博士の顔に疲労はある。
だが、その声はよく通った。
「閣下」
彼は深く頭を垂れる。
「北アメリカ制圧、完了」
別の神将が続ける。
「南アメリカ制圧、完了」
「東ヨーロッパ制圧、完了」
「西ヨーロッパ制圧、完了」
「東アジア制圧、完了」
「西アジア、主要抵抗拠点沈黙。制圧はほぼ完了しております」
「オーストラリア方面、侵攻中。現地軍の組織的抵抗は崩壊。残存抵抗も時間の問題です」
報告が重なっていく。
淡々と。
正確に。
人類史上最大の軍事的・政治的転換が、まるで定例会議の議題のように処理されていく。
最後にバルカスが言った。
「全域制圧、完了致しました」
その瞬間、山頂の空気が変わった。
十二神将が、一斉にアルカンフェルを見る。
地上の全てを手にした王。
いや。
アルカンフェル自身が言った通り、王ではない。
地球生命の指揮個体。
ウラヌスに作られ、ウラヌスに否定され、それでも地球に残ったもの。
その存在が、ついに現生人類の全てを掌握した。
アルカンフェルは、しばらく何も言わなかった。
眼下に広がる雲海を見ている。
その下には、都市がある。
道路がある。
学校がある。
病院がある。
貧民街がある。
研究所がある。
兵士がいる。
子供がいる。
獣化兵にされた者がいる。
これから獣化兵にされる者もいる。
そして、何も知らず、今日から世界が変わったことだけを知らされる大多数の人間がいる。
アルカンフェルは、ゆっくりと口を開いた。
「ご苦労」
短い言葉だった。
十二神将が頭を垂れる。
「今日から」
アルカンフェルの声が、山頂に響く。
「この惑星は、我々クロノスが統治する」
誰も歓声を上げなかった。
不要だった。
これは祝祭ではない。
開始の宣言だった。
「諸国家は、本日をもってクロノス統治機構の下位行政単位へ移行する。軍は解体し、再編成する。核兵器、生物兵器、化学兵器、軌道兵器、すべてクロノス中央管理へ移す」
神将たちは黙って聞いている。
「反乱は許すな。虐殺も許すな。無駄な略奪も許すな。抵抗者は処理しろ。だが、都市を壊すな。民を飢えさせるな。インフラを止めるな」
ギュオーがわずかに目を細める。
ハイヤーンが口元に薄い笑みを浮かべる。
シンは微動だにしない。
バルカスは静かに頭を垂れている。
「我々の目的は、地球を支配することではない」
アルカンフェルは言った。
「支配は手段だ」
雲海の向こうで、朝日が昇り始めた。
赤い光が、雪を照らす。
「これより、地球は戦時統治へ移行する。地上の統一。宇宙監視網の再編。軌道防衛施設の建造。獣化兵技術の体系的運用。人造コントロールメタル計画。死海調整槽計画。すべてを進める」
何人かの神将が、わずかに反応した。
まだ聞かされていなかった計画名が混じっていたからだ。
だが、誰も口を挟まない。
この場で問うべきではないと理解している。
あるいは、問えば答えを聞かされると分かっている。
「ウラヌスは地球生命を否定した」
アルカンフェルの声が、低くなる。
「だが、私は否定しない」
朝日が、彼の横顔を照らした。
「現生人類も、獣化兵も、ゾアロードも、動物も、植物も、微生物も、この星で生まれた生命はすべて私の責任の範囲にある」
その言葉に、十二神将の中で反応が分かれた。
忠誠。
畏怖。
野心。
疑念。
理解。
不理解。
それらが入り混じる。
アルカンフェルは、それを気にしない。
「この星を食わせはしない」
静かな声だった。
だが、その一言だけは、山より重かった。
「我々は地球を守る。そのために、現生人類を統治する。そのために、必要な者を調製する。そのために、必要ならば外宇宙へも出る」
バルカスが深く頭を下げた。
「御意」
シンも続いた。
「御意」
やがて、他の神将たちも頭を垂れる。
ギュオーだけは一拍遅れた。
だが、彼も膝を折った。
その目の奥には、まだ野心がある。
アルカンフェルはそれを見ていた。
潰すべき野心。
使える野心。
地球の王座に向けられれば危険な火。
だが、外宇宙へ向ければ、種苗船の王を生む火。
今はまだ、言わない。
その時が来るまでは。
「十二神将に命じる」
アルカンフェルは宣言した。
「各方面の統治へ戻れ。現地行政を安定させよ。軍備を再編せよ。研究施設を接収せよ。天文台、宇宙機関、原子力施設、巨大加速器、軌道通信網を優先管理下に置け」
そして、少しだけ声を冷たくした。
「民衆に勝利を見せるな」
神将たちが顔を上げる。
「見せるべきは秩序だ。食料が届くこと。水が出ること。病院が動くこと。暴徒が消えること。戦争が終わったこと。まずそれを見せろ」
バルカスが目を細めた。
シンは静かに頷く。
「クロノスが来たから世界が終わった、と思わせるな」
アルカンフェルは言った。
「クロノスが来たから、明日も生活が続くと思わせろ」
それは、悪の組織の総帥の言葉だった。
同時に、統治者の言葉でもあった。
そして、おそらくは、地球防衛の責任者の言葉だった。
朝日が完全に顔を出す。
アララト山頂を、赤い光が染めた。
アルカンフェルは最後に言った。
「諸君」
十二神将が顔を上げる。
「これより、人類史はクロノス暦へ移行する」
風が吹いた。
「世界征服は終わった」
アルカンフェルの視線は、空へ向いていた。
「次は、地球防衛だ」
その空の向こうから、まだ誰も知らないものが近づいている。
地上の王座を得たその日、アルカンフェルは一度も勝利に酔わなかった。
彼にとって、この日は終着点ではない。
ようやく、準備を始める資格を得た日だった。