/*/ 死海沿岸 クロノス死海調整槽研究施設 /*/
死海の色が変わっていた。
かつては高濃度の塩分を含む、生命を拒む湖だった。
だが今、その水は違う。
クロノスの調整技術によって、湖水成分は第二段階へ移行していた。
塩分濃度。
ミネラル比。
有機基質。
微細な生体触媒。
遺跡宇宙船由来の生体構造因子。
そのすべてが、通常の海水でも、淡水でも、単なる培養液でもないものへ変わりつつある。
巨大な羊水。
死海そのものを、宇宙船を育てるための調整槽へ変える。
その狂気じみた計画は、すでに実行段階に入っていた。
死海湖畔に築かれた研究施設の中で、バルカスは巨大な培養槽を見上げていた。
槽の中では、淡い光を帯びた生体組織がゆっくりと脈動している。
それは、まだ船ではない。
だが、ただの肉塊でもない。
レリックスポイントの生きている遺跡宇宙船から採取した破片。
そこから培養された、宇宙船調整時の核となる部分。
箱舟の心臓。
箱舟の脳。
箱舟の胎芽。
どの呼び方も正確ではないが、どれも間違いではなかった。
「湖水成分、第二段階への移行を確認」
研究員が報告する。
「塩分濃度、規定値内。生体基質反応、安定。微小生体触媒の定着率、六二パーセント。あと数日で羊水としての最低条件をクリアします」
別の研究員が続けた。
「核組織の培養も順調です。現時点で成長率四一パーセント。外殻形成用の原基も確認されています」
バルカスは満足げに頷いた。
「よろしい。このまま維持せよ。三か月もあれば七割までは育つ」
「七割で起動可能なのですか」
「完全体でなくとも試運転には差し支えない」
バルカスの声は、静かだった。
だが、研究員たちはその静けさの奥にある熱を知っている。
この老博士は、今、人生最大級の玩具を前にしている。
死海。
遺跡宇宙船。
十二神将。
ゾアクリスタル。
恒星間航行可能な生体宇宙船。
これほど巨大で、これほど異常で、これほどクロノスらしい計画はなかった。
「ただし、起動には十二神将のゾアクリスタル共振が必要である」
バルカスは培養槽を見上げたまま言った。
「単独の神将では足りぬ。十二の結晶が揃って初めて、箱舟一番艦は自らを船として認識する」
研究員が息を呑む。
「全長五十一キロメートル級の生体宇宙船、ですか」
「そうだ」
バルカスは、当然のように答えた。
「全長五十一キロメートル。内部に独立した生態系を形成し、自給自足可能な居住空間を持つ。農業区画、淡水循環、森林区画、都市区画、研究区画、調整槽群、工業生産区画、重力制御中枢、恒星間航行器官。そのすべてを一つの生命体として統合する」
研究員たちは黙った。
規模が大きすぎた。
船というより、移動する国だった。
いや、国どころではない。
生きた大陸。
星間航行する生態系。
「そして」
バルカスは低く続けた。
「一番艦だけでは終わらぬ」
研究員たちの視線が集まる。
「最終的には十二番艦まで建造する。十二神将それぞれに、一艦ずつ与えられる」
施設内の空気が揺れた。
十二神将に一艦ずつ。
それは、ただの艦隊ではない。
十二の王国。
十二の種苗船。
十二の未来人類圏。
その意味に気づいた研究員たちは、誰も軽々しく声を出せなかった。
背後の扉が開いた。
アルカンフェルが入室する。
バルカスは即座に振り返り、深く頭を垂れた。
「閣下」
「状況は」
「死海の湖水成分は第二段階に移行しております。しばらくすれば、羊水としての条件をクリアします。核組織の培養も順調。三か月ほどで七〇パーセントには届きましょう。試運転には差し支えございません」
「そうか」
アルカンフェルは培養槽を見上げた。
胎動する、船の核。
死海の湖水。
世界統一によって投入可能になった資源。
そして、十二神将。
すべてが、ようやく線でつながり始めていた。
「浮上後は」
「衛星軌道へ投入し、太陽エネルギーを吸収させます」
バルカスが答える。
「死海では核と基礎外殻までを育てる。内部生態系と居住空間の本格形成は、軌道上で行うのがよろしいでしょう。太陽光、宇宙線、軌道上資材、月面資源。それらを使えば、船は自ら内部を育てられます」
「船というより、胎児だな」
「ええ。ゆえに、死海は羊水でございます」
アルカンフェルは少しだけ笑った。
「ウラヌスが見れば、何と言うだろうな」
「おそらく、設計外と」
「だろうな」
設計外。
失敗作。
廃棄対象。
ウラヌスは地球生命をそう扱った。
だが、その失敗作たちは今、死海を胎に、星間航行する箱舟を育てようとしている。
アルカンフェルは静かに言った。
「では、始めよう」
バルカスが頷く。
「十二神将への招集は完了しております」
その日、死海の湖畔に十二神将が集まった。
ギュオー。
クルメグニク。
ハイヤーン。
カブラール。
シン。
プルクシュタール。
他の神将たちも、それぞれの表情で巨大な湖を見ていた。
死海の湖面は、淡く光っている。
かつて生命を拒んだ水が、今は巨大な生命を孕もうとしている。
アルカンフェルは、湖畔の起動台へ立った。
「これより、箱舟一番艦を起動する」
十二神将が、それぞれのゾアクリスタルを輝かせる。
共振。
一つでは足りない。
二つでも足りない。
十二の結晶が、同じ拍動を刻む。
空気が震えた。
死海の湖面に波紋が広がる。
湖底深くで、巨大な何かが目を覚ました。
バルカスが管制卓へ叫ぶ。
「共振率、上昇! 十二結晶波、同調範囲内! 核組織、反応開始!」
死海が光った。
湖そのものが、内側から発光する。
水面が盛り上がる。
泡ではない。
波でもない。
巨大な生体外殻が、湖面を押し上げていた。
全長五十一キロメートル。
まだ完全な船ではない。
外殻も未完成。
内部も七割に満たない。
だが、それは確かに船だった。
箱舟一番艦。
クロノスが地球統一後、初めて人類の前に示す、宇宙時代の象徴。
湖面から、巨大な船体がゆっくりと浮かび上がる。
死海の水が滝のように流れ落ちる。
船体表面は、金属ではない。
生体外殻。
白く、銀色に光り、ところどころに透明な膜状構造を持つ、巨大な生命の皮膚。
十二神将のゾアクリスタルがさらに強く輝く。
船体が応えるように脈動した。
「起動確認!」
「重力制御器官、反応!」
「浮上開始!」
箱舟一番艦が、死海から離れた。
湖面が大きく割れ、周囲の研究施設が振動する。
だが、破壊的な揺れではない。
巨大な生命が、生まれた時の震えだった。
やがて、箱舟はゆっくりと空へ昇った。
地上の人々が見上げる。
死海沿岸の都市。
研究施設。
報道ヘリ。
クロノスの中継ドローン。
すべてのカメラが、その姿を捉えていた。
生きた宇宙船が、空へ昇っていく。
そして、その映像は全世界へ流された。
クロノス統治一周年を迎えようとしていた人類にとって、それは初めて見る未来だった。
ニュースキャスターは、震える声で伝えた。
『現在、死海上空でクロノスの箱舟一番艦が浮上を開始しました。全長五十一キロメートル。内部に独立した生態系と自給自足可能な居住空間を形成する、生体恒星間宇宙船です』
別の映像では、船体が大気圏上層へ向かっている。
『箱舟一番艦はこの後、衛星軌道へ入り、太陽エネルギーを吸収しながら内部構造の形成を続ける予定です。クロノス統治機構は、今後同型艦を十二番艦まで建造し、人類の他天体進出と恒星間航行の基盤にすると発表しています』
世界中で、人々が画面を見上げていた。
恐怖する者もいた。
祈る者もいた。
歓声を上げる者もいた。
子供たちは、単純に目を輝かせた。
宇宙船。
巨大な箱舟。
自分たちが生きているうちに、星の海へ出られるかもしれない。
その希望は、クロノスの支配がもたらしたものとしては、あまりにも眩しかった。
『また、クロノス統治機構は箱舟計画に関わる第一次乗組員募集を開始しました。医師、技術者、生態系管理者、農業従事者、教育者、建築技師、航宙管制員、調整技術者、そして一般移民候補者も含まれるとのことです』
画面に募集要項が映る。
年齢。
健康状態。
専門技能。
心理適性。
長期閉鎖環境への耐性。
未調整者、調整済みゾアノイド、双方応募可能。
家族単位での応募も一部受け付ける。
『クロノスは、この計画を“人類が惑星国家から宇宙種へ移行するための第一歩”と位置づけています』
死海上空から、箱舟一番艦が衛星軌道へ向かう。
青い地球を背に、巨大な生体宇宙船が光を浴びる。
太陽エネルギーを吸収し、船体表面が淡く発光する。
その内部では、まだ空洞だった居住区画に、少しずつ森の原基が形成されていく。
水循環管が伸びる。
空気精製膜が育つ。
重力区画が開く。
都市の骨格が生えていく。
船は、軌道上で自分の内側を作り始めていた。
地上でその映像を見ていた者たちは、誰もが理解した。
クロノスは世界を征服した。
それは事実だ。
だが、クロノスは人類に空も見せた。
国境のない地球。
病と飢餓から解放されつつある世界。
そして、死海から生まれた五十一キロメートルの箱舟。
恐怖と希望が、同じ画面の中に並んでいた。
死海湖畔の管制施設で、アルカンフェルは上昇していく箱舟一番艦を見上げていた。
隣に立つバルカスが、静かに言う。
「第一段階、成功でございます」
「ああ」
「世界は、希望を見るでしょう」
「見せるために上げた」
アルカンフェルは淡々と言った。
「地球はクロノスに支配された。だが、支配された先に宇宙があると見せなければ、人類は息が詰まる」
「乗組員募集も始まります」
「集まるだろうな」
「恐怖よりも、希望に?」
「両方だ」
アルカンフェルは空を見上げる。
「人間は、恐怖だけでは進まない。希望だけでも進まない。両方が要る」
箱舟一番艦は、雲を抜けた。
やがて衛星軌道へ入る。
太陽を浴び、自らの内側に森と都市を育て始める。
それは宇宙怪獣と戦うための足場であり、外宇宙へ人類を運ぶ種苗船の試作でもあり、クロノス統治の正当性を世界へ示す巨大な宣伝でもあった。
そして何より。
ウラヌスに否定された地球生命が、自ら星の海へ出るための第一歩だった。
アルカンフェルは小さく呟いた。
「見ていろ、ウラヌス」
その声は、誰にも届かないほど静かだった。
「お前たちが捨てた星は、まだ終わらん」