/*/ 死海上空 箱舟一番艦起動後 /*/
クロノス死海調整槽研究施設 神将会議区画
箱舟一番艦は、すでに空へ昇っていた。
全長五十一キロメートル。
死海を羊水として生まれた、生体恒星間宇宙船。
その巨体は衛星軌道へ向かい、太陽エネルギーを吸収しながら内部構造を形成し始めている。
世界中の通信網は、その映像を流し続けていた。
人類は歓声を上げた。
恐怖した。
祈った。
泣いた。
応募フォームには、すでに膨大な数の志願者が殺到している。
箱舟計画。
人類の宇宙進出。
惑星国家から宇宙種へ。
表向きには、そう報じられている。
だが、死海湖畔の神将会議区画に集められた十二神将にだけは、別の映像が開示されていた。
暗い宇宙。
恒星を覆う影。
通常の彗星群として観測されている接近物体群。
だが、拡大された解析映像には、尾を引く氷塊ではなく、生体組織に似た外殻構造が映っている。
群れ。
巨大な群れ。
その一つ一つが、宇宙空間を航行する生物兵器だった。
バルカスが静かに言った。
「ウラヌス由来の星系制圧生物兵器群。閣下は、これを便宜上、宇宙怪獣と呼称しておられます」
ギュオーが、低く笑った。
「宇宙怪獣、か。随分と子供じみた名だな」
だが、その声に余裕は薄かった。
画面に示される推定質量、推定数、移動速度、進路予測、増殖痕跡。
それらは、獣神将であっても笑い飛ばせるものではなかった。
カブラールは無言で端末を覗き込んでいる。
クルメグニクは腕を組んだまま、目だけを鋭くしていた。
ハイヤーンは薄く笑っているが、その指先はわずかに動いている。
シンは表情を変えない。
プルクシュタールも沈黙していた。
そして、会議区画の奥。
アルカンフェルが立っていた。
彼は、世界統治を宣言した時と同じように静かだった。
勝利の余韻はない。
箱舟一番艦の成功への高揚もない。
ただ、地球生命の指揮個体として、十二神将を見渡していた。
「これが、我々の本当の敵だ」
アルカンフェルは言った。
会議区画に、低い声が響く。
「ウラヌスが別星系で作り出した、星系制圧生物兵器。すでに制御は失われている。ウラヌス自身の命令下にもない。進路を見れば明らかだ。奴らは太陽系へ向かっている」
ギュオーが口を開く。
「迎撃は可能なのか」
「可能か不可能かで言えば、可能だ」
アルカンフェルは答えた。
「勝てるかどうかで言えば、分からん」
その言葉に、空気が変わった。
アルカンフェルが、勝利を保証しない。
それだけで、十二神将にとっては異常だった。
「絶望的な戦いだ」
アルカンフェルは続けた。
「守り切れるとは限らん。寧ろ、負ける公算が強い」
誰も声を出さなかった。
ギュオーですら、軽口を叩かなかった。
アルカンフェルは、淡々と現実を告げている。
地球を統一したクロノス。
十二神将。
獣化兵軍団。
人造コントロールメタル。
ギガンティック。
箱舟。
それら全てをもってしても、なお勝利は確実ではない。
「だが、私は地球生命の責任者として、この星を離れるつもりはない」
アルカンフェルの声は、そこでわずかに低くなった。
「私は地球を守る。一歩も引かん。最後までこの星に残る」
シンが静かに頭を垂れた。
バルカスも同じく深く頭を下げる。
だが、アルカンフェルは彼らだけを見てはいなかった。
ギュオー。
カブラール。
クルメグニク。
ハイヤーン。
野心を持つ者たち。
王になりたい者たち。
地球という一つの王座を狙えば危険な者たち。
だが、別の場所なら、必要になる者たち。
「だが、お前たち現生人類は、守られるだけの種ではない」
アルカンフェルは言った。
「お前たちは開拓者でもある」
カブラールが顔を上げた。
ギュオーの目がわずかに動く。
「箱舟は、単なる避難船ではない。種苗船だ」
巨大な船体構造図が表示される。
内部生態系。
居住区画。
調整槽群。
農業区画。
工業区画。
遺伝子バンク。
教育機関。
医療施設。
生体宇宙船の中枢。
そして、乗員収容計画。
「一番艦は地球防衛の前進拠点として使う。宇宙怪獣と戦うための足場だ。だが、二番艦以降は違う」
アルカンフェルは十二神将を見渡した。
「お前たちに与える」
沈黙。
その意味を最初に理解したのは、カブラールだった。
次にギュオー。
次にクルメグニク。
会議区画の空気が、変わる。
「与える、だと」
ギュオーが低く言った。
「我々に、あの船を?」
「そうだ」
「艦長でもしろと言うのか」
「違う」
アルカンフェルははっきりと言った。
「王になれ」
ギュオーの顔から、表情が消えた。
「種苗船を指揮し、遥かな旅路の果てに、新たな星で始祖となれ」
その言葉は、会議区画の全員に刺さった。
艦長ではない。
行政官ではない。
逃亡者でもない。
始祖。
新しい人類圏の王。
「必要なものは全て積み込んでやる」
アルカンフェルの声が続く。
「人員。資材。調整槽。医療設備。教育機関。遺伝子バンク。動植物の種。微生物群。工業プラント。農業基盤。航宙技術者。調整技術者。教師。医師。兵士。子供。家族」
画面に、乗員選抜計画が展開される。
「人間も五十億いるのだ。好きなだけ連れていけ」
(作中の40年前1980年代後半は世界総人口約50億人の頃です)
その言い方は、ひどく大雑把だった。
だが、その中身は大雑把ではない。
五十億という現生人類の母数。
そこから、各種苗船へ数百万、数千万単位で人員を分散させる計画。
専門職。
家族単位。
未調整者。
調整済みゾアノイド。
子供。
文化保持者。
技術継承者。
生態系管理者。
それらを、船ごとに独立した文明の種として積み込む。
「地球が勝てば、それでよい」
アルカンフェルは言った。
「お前たちの船は、外宇宙への開拓船となる。新しい人類圏を作れ」
そこで、ほんのわずかに声が重くなる。
「地球が負ければ、お前たちの船が人類の墓標ではなく、続きになる」
会議区画は静まり返っていた。
ギュオーの喉が、かすかに鳴った。
カブラールの目が、異様な光を帯びている。
クルメグニクは笑っていない。
ハイヤーンも、今は沈黙していた。
「アルカンフェル」
ギュオーが言った。
呼び方に、わずかな棘がある。
「それは、地球の王座を諦めろということか」
「そうだ」
即答だった。
ギュオーの目が鋭くなる。
「代わりに、船の王座をやる」
アルカンフェルは続けた。
「地球ではない。だが、一隻の種苗船と、その中の人類圏を与える。さらに、可住惑星へ到達した暁には、そこがお前の王国だ」
「首輪付きの王ではないのか」
「当然、首輪は付ける」
ギュオーの表情が険しくなる。
アルカンフェルは構わず言った。
「積荷の人類を絶やすな。遺伝子バンクを破壊するな。航行中枢を壊すな。地球へ砲を向けるな。他の種苗船を無許可で攻撃するな。それらの基幹制約は刻む」
「それで王と呼べるか」
「民を守れない者を王とは呼ばん」
ギュオーが黙った。
「お前は王になりたいのだろう、ギュオー」
アルカンフェルの声は静かだった。
「ならば、民を背負ってみせろ。逃げるなら、王として逃げろ。生き延びるなら、民を連れて生き延びろ。新しい星で、始祖となれ」
ギュオーは答えなかった。
怒り。
屈辱。
だが、それだけではない。
誘惑。
それも確かにあった。
地球の王座は、アルカンフェルが渡さない。
だが、外宇宙にはまだ誰のものでもない星がある。
そこへ人類を連れていき、自分の名を最初の王として刻む。
その誘惑は、ギュオーの野心に深く刺さった。
「カブラール」
アルカンフェルが次に名を呼ぶ。
「お前には研究区画の比率を大きくした船を与える。未知の惑星環境、生態系、適応調整。好きなだけ試せ。ただし、積荷の人類を滅ぼすな」
カブラールが低く笑った。
「随分と魅力的な餌を垂らす」
「餌だ」
「隠しもしないのか」
「隠してどうする」
カブラールは肩を揺らした。
不快さと興味が混ざった笑いだった。
「クルメグニク。ハイヤーン。お前たちも同じだ」
アルカンフェルは言った。
「地球に残って私の背を刺すか。外宇宙へ出て始祖となるか。選ぶ時が来る」
クルメグニクが静かに問う。
「我々が地球に残ることを選んだ場合は?」
「残れば戦力として扱う」
「拒めば?」
「敵対すれば潰す」
単純だった。
単純だからこそ、分かりやすい。
ハイヤーンが微笑む。
「ひどい選択肢だ」
「選択肢があるだけマシだ」
アルカンフェルはそう言った。
「私は地球を捨てない。だが、お前たちに地球と共に死ねとは言わん」
そこで、十二神将の何人かが反応した。
その言葉には、支配者の命令とは別のものがあった。
「お前たちは現生人類から生まれた。私とは違う。お前たちには、地球を離れ、新しい星で人類を根付かせる資格がある」
バルカスが静かに頭を垂れた。
老博士の表情は見えない。
だが、その肩はわずかに震えていた。
この計画は、逃亡ではない。
敗北に備えた、人類存続の布石。
そして同時に、野心ある神将たちを地球の外へ向ける配置でもある。
アルカンフェルは、それを隠さなかった。
「私は地球で戦う」
アルカンフェルは言った。
「お前たちは、地球の外へ道を作れ」
箱舟一番艦の軌道映像が再び表示される。
青い地球を背に、巨大な生体宇宙船が太陽光を浴びている。
「全十二隻」
アルカンフェルは告げた。
「一番艦は地球防衛拠点。二番艦以降は、種苗船として順次建造する。各艦の指揮個体は、十二神将の中から割り当てる」
ギュオーが低く問う。
「私にも、本当に与えるのだな」
「ああ」
「私が裏切るとは思わんのか」
「思っている」
即答だった。
ギュオーの頬が引きつる。
「だが、裏切るなら地球を割る裏切りではなく、人類を外へ運ぶ裏切りにしろ」
アルカンフェルは言った。
「お前が王になりたいというなら、王として人類を生かせ」
ギュオーは、しばらくアルカンフェルを見ていた。
やがて、低く笑った。
「面白い」
それは承諾ではない。
忠誠でもない。
だが、興味は確かに生まれていた。
カブラールも、すでに端末に表示された船内研究区画案を見ている。
クルメグニクは腕を組み、ハイヤーンは何かを考えていた。
アルカンフェルは、その全員を見渡した。
「覚えておけ」
声が低くなる。
「これは希望ではない。保険だ」
誰も動かない。
「だが、保険であっても、人類にとっては未来だ」
会議区画の向こう、モニターの中で、箱舟一番艦が太陽光を浴びて発光している。
死海から生まれた巨大な生命体。
人類が星の海へ出るための船。
地球が敗れても、地球生命が終わらないための種。
「お前たちは、その未来の王になれ」
アルカンフェルは言った。
「私が地球に残る代わりに、お前たちは人類を連れて星の海へ行け」
その命令は、勝利の命令ではなかった。
敗北を想定した命令だった。
だが、だからこそ重かった。
十二神将は初めて、アルカンフェルが地球防衛の勝利だけを見ていないことを知った。
地球を守る。
だが、地球が滅びても地球生命を終わらせない。
その二重の覚悟を、知った。
アルカンフェルは最後に、静かに言った。
「以上だ。質問は、今のうちに聞こう」
その場で、最初に口を開いたのはギュオーだった。
「私の船には、どれだけの兵力を積める?」
アルカンフェルは、ほんの少しだけ笑った。
「そういう質問を待っていた」