/*/ クロノス世界制圧達成日 日本行政区 巻島邸 /*/
クロノスが世界制圧を宣言した日、巻島顎人は一人でニュースを見ていた。
テレビ画面には、各国首脳が次々とクロノスへの協力を表明する映像が流れている。
旧アメリカ。
旧ロシア。
欧州共同行政区。
中華行政区。
日本行政区。
軍隊は接収され、警察機構は再編され、企業は忠誠を誓い、金融市場はクロノス標準へ移行していく。
世界は、思っていたよりも静かに終わった。
もっと混乱するかと思っていた。
もっと血が流れるかと思っていた。
もっと、英雄や革命家や抵抗組織が現れるかと思っていた。
だが、現実は違った。
力の差がありすぎた。
クロノスは、世界を征服した。
そして、世界はそれを受け入れた。
「この世は力が全て……か」
顎人は、低く呟いた。
その言葉を、彼は昔から知っていた。
巻島家で生きるために。
玄蔵の支配から逃れられずに。
会社の中で、血縁と金と権力の汚さを見て。
弱い者が食われる現実を見て。
彼は、誰よりも早く悟っていた。
この世は力が全てだ。
正義ではない。
善意ではない。
血筋でもない。
最後にものを言うのは、相手を従わせる力だ。
だが。
「その力が、化物になることだというなら……」
顎人は、画面の中の獣化兵を見た。
人の姿を捨て、筋肉と外殻と爪を得た兵士たち。
クロノスの幹部たち。
各地の行政区で実権を握る調整体。
世界征服を成し遂げた支配者たち。
人間ではないもの。
人間のままで勝つ道など、この世界にはもう残っていなかった。
「俺は、ああなるつもりはない」
それは、弱さの言葉ではなかった。
顎人にとっては、最後の線だった。
化物になるくらいなら、負けを認める。
獣化兵にならなければ、クロノス内部での出世は限られる。
幹部候補にはなれても、幹部にはなれない。
訓練校へ進み、監察官になったとしても、いずれ身体調整を求められる。
獣化兵になる。
思念波命令系統へ組み込まれる。
上位者へ従う身体になる。
それは、巻島顎人にとっては敗北だった。
玄蔵に従うのも嫌だった。
クロノスに従うのも嫌だった。
化物になってまで、誰かの駒になるなど論外だった。
顎人は、リモコンを置いた。
窓の外では、町が妙に静かだった。
世界が終わったというのに、夕方の光はいつも通りだった。
車が走り、犬が鳴き、遠くで子供の声がする。
人間は、案外簡単に新しい支配者を受け入れる。
顎人は、そのことにも少し失望していた。
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机の上には、幾つもの資料が並んでいた。
巻島玄蔵の不正取引。
会社資産の私的流用。
クロノス地方支部への裏金。
獣化兵候補者の斡旋。
政財界への贈賄。
旧政府関係者との二重帳簿。
親族名義の隠し資産。
顎人は、すでにそれらを押さえていた。
子供扱いされることには慣れている。
だが、子供のふりをしている間に、彼は多くを見てきた。
玄蔵の秘書がどこへ電話するか。
経理担当がどの書類を隠すか。
取締役たちが何を恐れているか。
クロノス支部の誰に金が流れているか。
顎人は、覚えていた。
記録していた。
いつか使うために。
いつか、玄蔵を蹴落とすために。
以前なら、それは巻島家を奪うための切り札だった。
会社を取る。
財産を取る。
権力を取る。
自分を道具として扱ってきた老人から、すべてを奪う。
それが、顎人の復讐だった。
だが、今は違う。
世界はクロノスのものになった。
巻島家を奪ったところで、その上にはクロノスがいる。
会社を奪ったところで、クロノスの許可なく動けない。
人間の小さな財閥など、獣神将たちの支配の下では、ただの地方資産にすぎない。
ならば、使い道は一つだった。
自由を買う。
巻島玄蔵を失脚させる。
自分への法的・財産的支配を切る。
与平と志津を巻き込まず、田舎へ引く。
静かに暮らす。
それができる程度の力は、まだ顎人に残っている。
野心を捨てるわけではない。
敗北を受け入れるわけでもない。
ただ、今の盤面では勝てないと認めるだけだ。
「俺は、ここまでと認めるべきなのだろうな」
苦い言葉だった。
高校生の身で達観し過ぎとも言えた。
だが、巻島顎人という少年には、不自然ではなかった。
彼は、普通の少年として生きるには、あまりに早く人間の醜さを見すぎた。
そして今、世界の天井を見てしまった。
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廊下の向こうから、志津の声がした。
「顎人様。お茶をお持ちしました」
「入れ」
静かに障子が開いた。
志津が盆を持って入ってくる。
彼女は画面のニュースを見て、一瞬だけ不安そうな顔をした。
だが、何も言わなかった。
与平もそうだ。
志津もそうだ。
二人は、必要以上に踏み込まない。
顎人が考えている時に、邪魔をしない。
それが、巻島家の中で数少ない安らぎだった。
志津は湯呑みを置いた。
「今日は、町も静かでございますね」
「世界が終わった日だからな」
顎人が言うと、志津は少しだけ困ったように微笑んだ。
「それでも、夕飯はございます」
顎人は、思わず彼女を見た。
世界が終わっても夕飯はある。
クロノスが勝っても、湯気の立つ茶は出る。
獣化兵が世界を支配しても、与平は畑を見に行く。
志津は食事を作る。
人間は、そうやって生きる。
くだらない。
だが、少しだけ救いでもあった。
「志津」
「はい」
「もし、ここを出ると言ったら、ついてくるか」
志津は驚いたように目を瞬かせた。
だが、すぐに静かに答えた。
「顎人様がお望みでしたら」
「巻島の家を捨てることになる」
「この家に、顎人様を縛る価値があるとは思えません」
顎人は少しだけ目を細めた。
「玄蔵が聞けば怒るぞ」
「旦那様がお怒りになることと、それが正しいことかは別でございます」
志津にしては、珍しくはっきりした言葉だった。
顎人は湯呑みに手を伸ばした。
茶は温かかった。
「与平は何と言う」
「きっと、“畑が作れる場所ならどこでもよい”と」
顎人は、小さく息を吐いた。
笑ったのかもしれない。
自分でも分からなかった。
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その夜、顎人は端末を起動した。
送信先は、クロノス日本行政区監察局。
匿名ではない。
匿名では価値が下がる。
巻島顎人の名で出す。
証拠を添える。
玄蔵の不正。
会社の汚職。
クロノス幹部候補者選定への不正介入。
資産隠し。
旧政府関係者との癒着。
これだけあれば、玄蔵は潰せる。
クロノスは旧時代の汚職を嫌う。
いや、より正確には、統治の邪魔になる私的な汚職を嫌う。
クロノスへの忠誠を掲げながら、自分の懐を肥やす者を放置しない。
玄蔵のような老人は、世界が変わったことを理解していない。
旧時代の政財界の感覚で、クロノスとも取引できると思っている。
それが命取りになる。
顎人は、文面を読み返した。
迷いはなかった。
ただ、悔しさはあった。
本当なら、もっと大きなものを奪いたかった。
もっと上へ行きたかった。
この世は力が全て。
そう信じるなら、力を得るべきだった。
だが、その力が自分の身体を化物へ変え、命令系統へ縛り、クロノスの歯車になることなら。
顎人は、それを選べなかった。
「俺も、思ったより臆病だな」
自嘲する。
だが、すぐに首を振った。
違う。
これは臆病ではない。
自分の所有権を、誰にも渡さないという判断だ。
玄蔵にも。
クロノスにも。
獣化兵の身体にも。
顎人は、自分を売らない。
ただ、それだけだ。
送信ボタンに指を置いた。
一瞬、間が空いた。
そして、押した。
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翌朝、巻島邸は騒然となった。
玄蔵の部屋にクロノス監察局の職員が入った。
会社の帳簿が押収された。
秘書たちが連行された。
取締役たちの通信が遮断された。
玄蔵は怒鳴っていた。
「誰だ! 誰がこんなものを!」
顎人は、廊下の端からそれを見ていた。
老人の顔には、初めて本物の恐怖が浮かんでいた。
旧時代の警察ではない。
政治家へ電話しても止まらない。
金を渡しても止まらない。
クロノスの監察局は、玄蔵を見逃す理由がない。
顎人は思った。
ああ。
これが力か。
自分で殴る必要はない。
獣化する必要もない。
相手より強い制度へ、証拠を差し出せばいい。
玄蔵は、顎人の視線に気づいた。
目が合う。
老人の顔が歪む。
「顎人……貴様か……!」
顎人は何も答えなかった。
答える必要はなかった。
玄蔵は職員に腕を取られた。
抵抗したが、無駄だった。
権力者のつもりでいた老人が、世界の新しい権力に処理される。
それは、あまりにもあっけなかった。
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数日後、顎人は正式に巻島家の保護関係から外れた。
玄蔵の失脚により、財産の一部は凍結された。
だが、顎人自身が押さえていた合法資産と、志津・与平の生活を支える程度の資金は確保できた。
クロノスからは、訓練校への進学案内が届いた。
監察官候補。
行政官候補。
調整体適性検査。
将来の幹部候補ルート。
顎人は、それをしばらく眺めた。
紙面の上には、魅力的な言葉が並んでいる。
権限。
待遇。
教育。
未来。
力。
だが、その先には必ず調整がある。
獣化兵になる未来がある。
顎人は、その案内を机に伏せた。
「今は、やめておく」
志津が静かに聞いた。
「本当によろしいのですか」
「ああ」
「後悔なさいますか」
「するだろうな」
顎人は正直に答えた。
「俺は、たぶん一生後悔する。あの時、力を取りに行かなかったことを」
「では」
「だが、化物になる後悔よりはましだ」
志津は、それ以上何も言わなかった。
与平は荷物をまとめながら言った。
「田舎の家は、少し手を入れれば住めますぞ。畑もある」
「畑か」
顎人は、少しだけ苦笑した。
世界征服の日に、覇道を諦めた少年が、畑の話をしている。
滑稽だった。
だが、不思議と嫌ではなかった。
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車は、巻島邸を出た。
豪奢な門が遠ざかる。
会社。
血縁。
玄蔵。
クロノス訓練校。
幹部候補。
獣化兵。
それらが、後ろへ流れていく。
顎人は、窓の外を見ていた。
この世は力が全て。
その考えは変わらない。
だが、力には種類がある。
支配する力。
殺す力。
獣化する力。
制度を動かす力。
逃げる力。
守る力。
そして、盤面から降りる力。
顎人は、まだ負けたとは思っていなかった。
ただ、今の盤面では勝てないと認めただけだ。
ならば、別の盤面へ行く。
田舎で静かに暮らす。
与平と志津と、目立たず、誰にも支配されずに。
それが永遠に続くとは思っていない。
クロノスの世界で、完全な自由など存在しない。
だが、少なくとも今は、玄蔵の手からも、獣化兵調整の圧力からも離れられる。
顎人は、目を閉じた。
「そうするか」
小さく呟いたその言葉は、敗北宣言ではなかった。
少年が、自分の人生を一度取り戻すための、最初の決断だった。