/*/ 都内 喫茶店 /*/
外宇宙開拓船募集要項
クロノス統治一年目。
都内の喫茶店は、驚くほど普通だった。
窓の外では、クロノス警備局の巡回車が静かに通り過ぎる。
店内の隅には、喫茶店備え付けのブラウン管テレビが置かれていた。
音量は小さく絞られている。
画面では、食料配給制度の改善、犯罪発生率の低下、医療調整無料枠の拡大、そして外宇宙開拓船《第一期種苗船団》搭乗員募集のニュースが、淡々と流れていた。
店内では、学生たちが講義の話をし、会社員が新聞を広げながら昼食を取り、老人が煙草をくゆらせている。
世界征服された後の風景としては、あまりにも日常的だった。
瀬川哲郎は、コーヒーを冷ましながら、広げた朝刊の記事をじっと読んでいた。
社会面ではなく、科学欄と国際欄の間に大きく載った特集記事である。
クロノス外宇宙開拓局
第一種苗船団搭乗員募集へ
一船あたり百万人規模
農業・医療・教育・工学・保安・戦闘・行政・文化記録要員を広く募集
同じテーブルには、瀬川瑞紀、深町晶、多賀なつきがいる。
瑞紀以外は大学生だった。
彼らは、クロノスに追われたこともなければ、秘密組織の陰謀に巻き込まれたこともない。
この世界では、ただの一般市民である。
だからこそ、彼らの会話は、世界征服された社会を生きる普通の若者たちのものだった。
不安。
好奇心。
警戒。
そして、認めたくはないが確かに存在する生活改善への実感。
その全部が、喫茶店のテーブルの上に広げられた新聞紙の上に乗っていた。
向かいの席で、多賀なつきが頬杖をつく。
「哲郎くん、熱心に見てるけど募集受けてみるの?」
哲郎は新聞から目を離さずに答えた。
「記念受験になりそうだけどな。本当に外宇宙に行けるなら、受けてみたい」
瑞紀が横から紙面を覗き込む。
「……英語での会話必須って書いてあるけど?」
「日常会話位ならなんとかなる」
「その自信、どこから来るのよ」
「講義で英語文献読まされてるし」
「会話と論文は違うでしょ」
なつきが笑った。
「でも哲郎くんなら、船の中でずっと資料読んでそう」
「あり得るな」
晶が苦笑する。
哲郎は新聞を少し折り返し、募集要項の部分を読みやすいようにテーブルの中央へ向けた。
活字の細かい欄に、条件が並んでいる。
一船あたり搭乗員百万人。
農業、医療、教育、工学、保安、戦闘、行政、文化記録、次世代育成要員を募集。
成人男性搭乗者は、外宇宙環境適応調整を義務とする。
英語による日常会話能力、または指定言語訓練への参加を必須とする。
長期閉鎖環境への適応検査あり。
家族単位応募可。
調整拒否者は原則として搭乗対象外。
瑞紀は、その一文を見つけて声を低くした。
「男は調整必須ってもある」
なつきが、わざと軽い調子で言った。
「哲郎くん、調整受けるの? 受けるぅ?」
からかうような声だった。
けれど、最後の音だけ少しだけ硬かった。
調整。
クロノス統治下では、もう珍しい言葉ではない。
医療調整。
災害救助用調整。
自衛隊軍用調整。
駅前のポスターにも、大学の掲示板にも、自治体から配られる案内にも、当たり前のようにその言葉が出てくる。
だが、成人男性全員。
外宇宙開拓船。
閉鎖環境。
非常時安全確保。
その組み合わせには、ただの健康診断とは違う重さがあった。
晶が、少しためらいながら口を開いた。
「哲郎さん、大丈夫なんですか? その……」
最後までは言わなかった。
だが、三人とも意味は分かった。
クロノスに身体を預けること。
調整を受けること。
自分が自分のままでいられるのか。
命令系統に組み込まれるのではないか。
それは、世界征服された側の一般市民なら、誰でも一度は考える不安だった。
哲郎は新聞を畳みかけて、手元に置いた。
「クロノスが信用できるか? だろ」
晶は、黙って頷いた。
瑞紀も、なつきも、視線を哲郎へ向ける。
哲郎は少しだけ考えてから言った。
「俺は信用しても良いと思ってる」
瑞紀が目を見開いた。
「お兄ちゃん」
「民主的ではないけれど、確かに世の中は良くなってる」
哲郎は、窓の外を見た。
「犯罪は減った。医療は受けやすくなった。物価も落ち着いた。食料も安定してきた。災害復旧も前より早い。大学の研究費だって、クロノス関係の技術ならかなり出る」
なつきが頬杖をついたまま言う。
「まあ、治安は本当に良くなったよね。夜道とか、前より怖くないし」
瑞紀は反論しようとして、言葉に詰まった。
それは事実だった。
クロノス統治は、民主的ではない。
選挙で選ばれた政権ではない。
世界は、力で征服された。
けれど、統治が始まってから、街は明らかに整えられていた。
暴力団は消えた。
街頭犯罪は減った。
医療費は下がった。
重病患者の治療待機も短くなった。
学校給食の質まで上がった。
それを全部、怖いから見ないふりをすることもできなかった。
晶が、小さく言った。
「でも、世界征服した組織ですよ」
「ああ」
哲郎は頷いた。
「そこは忘れちゃいけない」
「だったら」
「だから、完全には信用してない」
哲郎は、はっきりと言った。
「俺が言ってるのは、クロノスが善良だから信用するって話じゃない。クロノスがこの世界を維持するつもりなのは信用していい、って話だ」
なつきが、少し真面目な顔になった。
「維持するつもり?」
「支配した以上、壊れたら困るだろ。人間が死にすぎても困る。社会が崩れても困る。税も労働力も研究者も兵士も、全部なくなる」
晶は視線を落とした。
「合理的だから、守る」
「そう」
哲郎は頷いた。
「それが優しさかどうかは分からない。でも、少なくとも今のクロノスは、人類を残そうとしてる。地球だけじゃなくて、外宇宙にも」
瑞紀は、新聞に印刷された外宇宙開拓船の完成予想図を見つめた。
粗い網点の印刷で、巨大な船体が描かれている。
都市を丸ごと抱えたような船。
農業区画。
居住区。
調整槽。
教育区。
外殻作業リング。
図の下には、大きな文字があった。
『地球生命は、もはや地球だけに閉じない』
瑞紀はぽつりと言った。
「でも、調整されたら戻れないかもしれない」
「戻れないだろうな」
哲郎はあっさり言った。
瑞紀の顔が強張る。
哲郎は続けた。
「だから、本当に受けるなら覚悟はいる。記念受験なんて言ったけど、受かったら笑い話じゃ済まない。船に乗れば、たぶん一生地球には戻れない。調整も受ける。家族とも離れるかもしれない」
「分かってるなら、どうして」
瑞紀の声が少し震えた。
「行ってみたいんだ」
哲郎は静かに言った。
「宇宙に」
喫茶店の空調音が、やけに大きく聞こえた。
「昔なら、そんなの夢物語だった。宇宙飛行士になれる人間なんて、ほんの一握りだった。でも今は違う。クロノスは本気で百万人の船を飛ばそうとしてる。農業も、教育も、医療も、普通の人間も乗せて、外宇宙に行こうとしてる」
なつきが呟く。
「普通の人間、かな」
「普通じゃなくなるかもしれない」
哲郎は苦笑した。
「でも、開拓ってそういうことなんだと思う」
晶は、哲郎の顔を見た。
「哲郎さんは、怖くないんですか」
「怖いよ」
哲郎は即答した。
「クロノスも怖い。調整も怖い。外宇宙も怖い。百万人の閉鎖船なんて、考えただけで息が詰まりそうだ」
「じゃあ」
「でも、怖いから見ないふりをするには、大きすぎる」
哲郎は新聞の端を指で押さえた。
紙面の中で、外宇宙開拓船の完成予想図が少し歪む。
瑞紀は、その文字を見て黙った。
なつきも、もう茶化さなかった。
晶だけが、小さく言った。
「僕は……まだ、そこまで信用できないです」
哲郎は頷いた。
「それでいいと思う」
「え?」
「信用しすぎるのも危ない。疑ってる人間も必要だ。クロノスが良いことをしてるからって、何でも受け入れていいわけじゃない」
晶は困ったように笑った。
「僕、ただ怖いだけですけど」
「それも大事だよ」
哲郎は言った。
「怖いと思うのは普通だ。世界征服されたんだから」
なつきが、深く息を吐いた。
「その言い方、急に現実に戻るからやめて」
「現実だろ」
「そうだけどさ」
瑞紀がぽつりと言う。
「私は、お兄ちゃんが遠くに行くのは嫌」
「まだ応募もしてない」
「してなくても嫌」
「瑞紀」
「外宇宙なんて遠すぎる」
哲郎は言葉に詰まった。
なつきが、少しだけ明るい声を出した。
「じゃあ、まず英語の勉強からだね」
「そこに戻るのか」
「だって必須なんでしょ? 日常会話位ならなんとかなる、じゃ落ちるよ」
瑞紀も、まだ不満そうな顔のまま言った。
「そうよ。どうせ記念受験なら、英語で落ちなさい」
「ひどくないか?」
「調整の前に英語で止まるなら、まだ安心」
晶が思わず笑った。
哲郎も、少しだけ笑った。
クロノス統治一年目。
世界は変わっていた。
支配されていた。
整えられていた。
良くなっている部分もあった。
怖い部分もあった。
彼らは、クロノスの秘密を知る特別な当事者ではない。
ただ、その世界に生きる一般市民だった。
だからこそ、哲郎の言葉は、特別な告発でも特別な赦しでもなかった。
世界征服された側の、普通の若者の判断だった。
完全には信用しない。
けれど、すべてを否定することもできない。
その両方を抱えたまま、喫茶店のテーブルの上には、外宇宙開拓船の募集要項が載った新聞が広げられていた。
誰かの未来を誘うように。
あるいは、もう戻れない場所へ連れていくように。