クロノスはアットホームな職場です!
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/*/ 卒業式のあと /*/
大学の正門前には、まだ袴姿の学生たちが残っていた。
写真を撮る者。
花束を抱える者。
卒業証書の筒を振り回して友人に叱られる者。
昭和の終わりから平成へ向かう空気の中で、世界は一度大きく変わっていた。
クロノスによる統治。
獣化兵。
調整。
宇宙から来る脅威。
そんな言葉が新聞の一面を飾る時代になっても、大学の卒業式というものは、案外変わらない。
瀬川哲郎は、卒業証書の入った筒を片手に、少し所在なさげに立っていた。
隣には多賀なつきがいる。
「哲郎くん、本当に写真撮らなくていいの?」
「いや、撮るけど……こういうの、妙に照れるんだよな」
「卒業式で照れてどうするのよ」
なつきは笑った。
その笑顔を見て、哲郎は少しだけ言葉に詰まった。
大学を出る。
就職する。
社会人になる。
そう考えれば、これは一つの区切りだった。
だが、彼にとって本当の問題は、卒業そのものではなかった。
ここ数ヶ月、やたらと周囲がうるさい。
親戚。
近所。
商店街。
町内会。
そして、どこからともなく現れる、世話焼きのおばさんたち。
「あら瀬川くん、卒業おめでとう」
その声に、哲郎の肩がわずかに跳ねた。
振り返ると、和装の上に地味なコートを羽織った中年女性が、にこにこと立っていた。
町内会でよく見る顔だ。
瀬川家に米や味噌を持ってくることもあれば、自治会の回覧板を届けに来ることもある。
そして最近では、やたらと哲郎となつきの予定を知っている。
「田辺さん……」
「卒業式、いいわねぇ。なつきちゃんもおめでとう」
「あ、ありがとうございます」
なつきが頭を下げる。
田辺のおばさんは、その二人を見比べて、満足そうに頷いた。
「二人とも、いい顔してるわ。社会人になると忙しくなるからね。こういう節目は大事にしないと」
「はあ」
哲郎は嫌な予感がした。
この人が「節目」と言う時は、大抵その次に余計な話が来る。
「ところで哲郎くん」
「はい」
「就職先も決まったんでしょう?」
「ええ、一応」
「なつきちゃんも?」
「はい」
「よかったわねぇ。二人とも安定していて。これなら、あとは生活の基盤ね」
来た。
哲郎は心の中で思った。
なつきも察したらしく、笑顔が少し引きつっている。
「生活の基盤って、田辺さん」
「もちろん、急かしているわけじゃないのよ」
田辺のおばさんは、急かしている人間特有の声で言った。
「今は自由恋愛の時代でしょう。クロノスも、結婚は本人たちの意思を尊重するって言ってるしね」
「なら、いいじゃないですか」
「そうよ。本人たちの意思が一番よ」
そこで田辺のおばさんは、にっこり笑った。
「だから、本人たちがいつまでも意思をはっきりさせないのは、周りがちょっと背中を押してあげないとね」
「押してますよね、今」
「軽くよ」
「軽くないです」
なつきが小さく吹き出した。
田辺のおばさんは、すぐに鞄から封筒を取り出した。
「それでね、今度の日曜日、うちの地区の若い人たちで食事会があるの。お見合いじゃないのよ。食事会」
「その封筒、明らかにお見合いの資料じゃないですか」
「違うわよ。自由な交流会のご案内」
「表紙に『将来設計懇談会』って書いてありますけど」
「立派でしょう」
「怖いです」
哲郎が呻くと、田辺のおばさんはまったく悪びれずに笑った。
「大丈夫よ。哲郎くんとなつきちゃんは、もう相手を探さなくてもいいから」
哲郎となつきが同時に固まった。
「……はい?」
「あなたたちは、確認だけでいいの」
「何の確認ですか」
「結婚する気があるかどうか」
なつきの顔が赤くなった。
「田辺さん!」
「あら、照れることないのよ。大学四年間、ずっと一緒にいて、就職先も通える範囲で、双方のご家族も悪く言っていない。あとは本人たちが、いつまで友達のふりをするかだけでしょう?」
哲郎は言葉を失った。
反論できないのが一番つらい。
なつきは顔を赤くしたまま、卒業証書の筒を胸に抱いている。
「哲郎くん」
田辺のおばさんは、急に少しだけ真面目な顔になった。
「今の時代、世界は怖いわ。宇宙から何が来るかも分からない。クロノスの統治で暮らしは安定したけれど、人が一人で生きていくには、まだ大変なことが多いの」
哲郎は黙った。
「だからね、無理に結婚しろとは言わない。でも、一緒に生きたい人がいるなら、先延ばしにしすぎない方がいいわ」
それは、ただの世話焼きの言葉に聞こえた。
だが哲郎は知っている。
田辺のおばさんは、ただの町内会の世話役ではない。
クロノス日本統治局の構成員。
地域家族支援網の末端協力者。
つまり、昭和のお見合いおばちゃんの顔をした、人口政策の実働部隊だった。
恐ろしいのは、それがあまりにも自然なことだった。
脅されているわけではない。
命令されているわけでもない。
ただ、人生の曲がり角で、やたら精度の高い背中押しが来る。
なつきが、小さな声で言った。
「……哲郎くんは、どう思ってるの?」
哲郎は、卒業式のざわめきの中で、なつきを見た。
大学時代。
喫茶店で新聞を広げて、クロノスの種苗船募集について話したこと。
英語の話。
調整の話。
世界が変わっても、自分たちは普通の市民として生きていくのだと、どこかで思っていたこと。
その普通の生活の延長に、なつきがいた。
哲郎は、ゆっくり息を吐いた。
「俺は……先延ばしにしすぎるのは、よくないと思う」
なつきは目を伏せた。
それから、小さく笑った。
「田辺さんの圧に負けたみたいで、ちょっと悔しい」
「それは俺も思う」
田辺のおばさんは満面の笑みになった。
「負けじゃないのよ。これはご縁よ」
「そのご縁、統治局の台帳に載ってませんか」
「さあ、どうかしら」
田辺のおばさんは、すっとぼけた。
だが、鞄の中には分厚い手帳がある。
そこに、哲郎となつきの名前が並んでいることを、二人とも何となく理解していた。
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哲郎となつきが婚約したのは、その翌年だった。
大学を卒業し、それぞれ仕事に慣れ始めた頃である。
式は派手ではなかった。
親族と友人、大学時代の仲間、近所の人々を呼んだ、小さな式だった。
田辺のおばさんは、親族でもないのに親族席に近い場所で泣いていた。
「いや、何であの人が一番泣いてるんだ」
哲郎が小声で言うと、なつきは笑った。
「半分、仲人みたいなものだからじゃない?」
「仲人っていうか、包囲網だったけどな」
「でも、嫌じゃなかったでしょう?」
哲郎は少しだけ黙った。
「まあな」
なつきは、白い衣装の袖をそっと直しながら言った。
「私も、嫌じゃなかった」
その一言で、哲郎は何も言えなくなった。
結局、お見合いおばちゃんの圧力は、二人を無理やり結びつけたわけではない。
ただ、二人が言い出せずにいたことを、逃げ道を塞ぎながら言わせただけだった。
それを自由恋愛と言うべきか、お見合いと言うべきか。
哲郎には分からなかった。
ただ、隣になつきがいる。
それで十分だった。
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そして圧力は、哲郎となつきだけに向けられたものではなかった。
深町晶と瀬川瑞紀にも、当然のように及んでいた。
大学卒業から一年ほど経った春。
瀬川家の茶の間で、晶は正座していた。
正座する必要はないはずだった。
だが、目の前に田辺のおばさんと、もう一人、近所の婦人会の重鎮が座っていると、自然と正座になった。
瑞紀は台所から茶を運びながら、明らかに警戒している。
「晶くん」
田辺のおばさんが言った。
「はい」
「就職して一年ね」
「はい」
「仕事は続いている?」
「はい。なんとか」
「健康状態は?」
「問題ありません」
「瑞紀ちゃんとは?」
晶は茶を吹きかけた。
瑞紀が真っ赤になる。
「田辺さん!」
「大事な確認よ」
「確認って何のですか!」
瑞紀が抗議するが、田辺のおばさんはまったく動じない。
「晶くん、あなた、昔から瑞紀ちゃんを大事にしているでしょう」
「そ、それは」
「瑞紀ちゃんも、晶くんのことを大事にしている」
「田辺さん!」
「問題は、二人とも遠慮しすぎることね」
晶は何も言えなかった。
瑞紀も俯いている。
婦人会の重鎮が、そこで静かに口を開いた。
「今の若い人は、優しいのね。相手の負担になりたくないと思って、肝心なことを言わない」
その声は穏やかだった。
だが逃げ場がない。
「けれどね、言わないことも、時には負担になるのよ」
晶は、瑞紀を見た。
瑞紀も、晶を見た。
二人の間にあったものは、長い。
学生時代からの距離。
世界が変わっていく中で、変わらず近くにいた時間。
それでも、はっきり言葉にするのは怖かった。
クロノスの統治下で、世の中は安定していた。
治安も良くなった。
仕事も、医療も、将来設計も、現実よりずっと整えられていた。
けれど、それは同時に、周囲が人生を早く形にしろと促してくる社会でもあった。
自由恋愛は推奨されている。
独身も違法ではない。
だが、結婚できそうな二人がいつまでも曖昧にしていると、地域家族支援網が動く。
つまり、お見合いおばちゃんが来る。
「晶くん」
田辺のおばさんは、茶を一口飲んでから言った。
「あなたは、瑞紀ちゃんと結婚する気があるの?」
晶は硬直した。
瑞紀の肩も跳ねる。
逃げられない。
嘘もつけない。
晶は、膝の上で拳を握った。
「あります」
声は小さかった。
だが、はっきりしていた。
瑞紀が目を見開いた。
田辺のおばさんは頷く。
「瑞紀ちゃんは?」
「わ、私は……」
瑞紀は俯いた。
耳まで赤い。
「……あります」
婦人会の重鎮が、にっこり笑った。
「はい。では、第一段階終了ね」
「第一段階?」
晶が思わず聞き返す。
田辺のおばさんは、鞄から手帳を取り出した。
「ご両家への説明、式場候補、住まい、勤務先からの通勤経路、将来の子育て支援制度、全部これから詰めましょう」
「待ってください。早いです」
「早くないわよ。あなたたちが遅かったの」
晶は言葉を失った。
瑞紀も同じ顔をしている。
だが、二人とも本気で嫌がってはいなかった。
それを見抜いているからこそ、田辺のおばさんは強い。
晶は、深く息を吐いた。
「……瑞紀さん」
「何?」
「大丈夫ですか」
「晶くんこそ」
「僕は……驚いてます」
「私も」
二人は顔を見合わせた。
それから、どちらともなく笑った。
その笑いで、茶の間の空気が少し緩む。
田辺のおばさんは、満足そうに手帳へ何かを書き込んだ。
晶はそれを見て、思わず言った。
「それ、何を書いているんですか」
「進捗」
「進捗って言いました?」
「聞き間違いよ」
「聞き間違いじゃないです」
/*/
晶と瑞紀が結婚したのは、その翌年だった。
哲郎となつきの結婚から少し遅れて、二組目の式が行われた。
瀬川家にとっては、続けて祝い事が来たことになる。
哲郎は、式場の隅でなつきと並びながら、感慨深そうに晶を見ていた。
「晶も結婚か」
「瑞紀ちゃん、綺麗ね」
「ああ」
なつきが横目で哲郎を見る。
「ちょっと寂しい?」
「そりゃ、妹だからな」
「でも、相手は晶くんよ」
「そこは安心してる」
哲郎は素直に言った。
安心している。
それは本当だった。
晶なら、瑞紀を大事にする。
瑞紀も、晶の隣で自然に笑っている。
世界がどれほど変わっても、この二人の間には、変わらないものがあった。
ただ一つ問題があるとすれば、その変わらないものを結婚届に変えるまでに、地域家族支援網がかなり強めに背中を押したことだ。
田辺のおばさんは、また泣いていた。
今度も親族席に近い場所である。
なつきがその様子を見て、ぼそりと言った。
「田辺さん、下手な獣化兵より制圧力あるわね」
哲郎は苦笑した。
「否定できないな」
なつきも笑う。
「でも、悪い人じゃないよ」
「悪い人じゃないのが厄介なんだ」
哲郎は言った。
「本当に善意で、しかも裏で統治局の資料を使ってくる」
「最強じゃない」
「最強だよ」
式場の向こうでは、晶と瑞紀が並んで頭を下げていた。
まだ少し照れくさそうで、まだ少しぎこちない。
だが、そのぎこちなさは悪いものではなかった。
これから夫婦になる二人の、最初の不慣れさだった。
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その頃、日本では、同じようなことがあちこちで起きていた。
表向きには、自由恋愛の時代だった。
個人の意思が尊重され、結婚しない自由も、子供を持たない自由も認められていた。
新聞もテレビも、クロノス日本統治局も、そう説明していた。
だが、町内会には世話焼きのおばちゃんがいた。
企業の福利厚生担当にもいた。
大学の同窓会にもいた。
病院にも、商店街にも、農協にも、信用金庫にもいた。
彼女たちは、見合い写真を持って歩く。
だが、その裏にはもっと精密な情報がある。
健康。
職業。
家族。
性格。
生活圏。
調整適性。
子育て希望。
将来の介護負担。
本人たちは、ただ「良い人を紹介された」と思う。
実際、悪い縁談ではない。
むしろ、かなりよく考えられている。
だから断りにくい。
だから成立する。
クロノスは、結婚を命じなかった。
出産を強制しなかった。
ただ、孤立しそうな若者の前に、ちょうどよい相手と、ちょうどよい世話焼きを配置した。
その結果、日本の出生率は現実ほどには落ちなかった。
失われた三十年は起きなかった。
若い夫婦が完全に社会から切り離される前に、地域と職場と統治局が支えた。
後年、子ども家庭庁という名前の組織が作られることはなかった。
問題が巨大化する前に、日本統治局の古い手帳と、昭和のお見合いおばちゃんたちが、かなりの部分を絡め取っていたからである。
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晶と瑞紀の式が終わった後、田辺のおばさんは、瀬川家の前で二組の夫婦を見送った。
哲郎となつき。
晶と瑞紀。
大学時代を共に過ごした四人は、卒業後一、二年のうちに、それぞれ夫婦になっていた。
誰かに命令されたわけではない。
だが、誰にも押されなかったわけでもない。
哲郎は、ふと田辺のおばさんを見た。
「田辺さん」
「何?」
「これ、どこまで計画通りだったんですか」
田辺のおばさんは、にっこり笑った。
「自由恋愛よ」
「答えになってません」
「本人たちが選んだんだから、自由恋愛でしょう?」
なつきが笑った。
瑞紀も少し困った顔で笑っている。
晶だけは、真面目に考え込んでいた。
「でも、選択肢は用意されていたわけですよね」
田辺のおばさんは、晶を見た。
それから、少しだけ優しい声で言った。
「人はね、何もないところから自由には選べないのよ」
四人は黙った。
「出会う場所がある。話すきっかけがある。暮らしていける見通しがある。親や職場や地域が邪魔をしない。そういうものがあって初めて、自由に選べるの」
それは、クロノスの論理だった。
同時に、昭和のお見合いおばちゃんの論理でもあった。
「だから私は、ちょっと机を整えただけ」
「ちょっと?」
哲郎が言うと、田辺のおばさんは笑った。
「少し強めにね」
夕方の空は赤かった。
クロノス統治下の日本は、どこか不自由で、どこか安定していた。
自由恋愛は推奨されている。
だが、昭和のお見合いおばちゃんは滅びていない。
むしろ、統治機構の末端でしぶとく生き残り、若者たちの人生に笑顔で踏み込んでくる。
哲郎は、なつきの手を握った。
晶は、瑞紀の隣に立っていた。
田辺のおばさんは満足そうに頷き、また手帳を開いた。
そこには、次の若者たちの名前が並んでいる。
「さて」
おばさんは小さく呟いた。
「次は誰にしようかしらね」
その声は、どこまでも善意に満ちていた。
だからこそ、誰よりも強かった。