/*/ 管理された晴天 /*/
喫茶店のテレビから、いつもの天気予報が流れていた。
けれど、そこに映っているものは、晶たちが子どもの頃に見ていた天気予報とは違っていた。
低気圧。
前線。
台風。
降水確率。
そうした言葉が消えたわけではない。
だが、それらはもう主役ではなかった。
画面の右上には、クロノス環境管理局の紋章が表示されている。
『明日の関東地方は、クロノス環境管理局による第423次熱線遮蔽コントロールが実施されます。遮光率は平均三・五パーセント。日中の最高気温は平年並みの二十四度、風は穏やかで、広い範囲で晴天となる見込みです』
女性アナウンサーは、何の不自然さもない声で読み上げている。
『なお、夜間は極軌道リングからの物資搬入に伴い、二十三時四十分頃から翌一時十分頃にかけて、東京湾岸上空に人工光帯が見える時間帯があります。市民生活への影響はありません』
天気予報。
それは本来、空の機嫌を人間が読み取るものだった。
明日は雨が降るかもしれない。
台風が来るかもしれない。
猛暑になるかもしれない。
人間は空を見上げ、気圧配置を眺め、予測し、備えるしかなかった。
けれど今は違う。
明日の天気は、クロノスが調整する。
暑すぎれば、太陽同期軌道リングのパネルが開く。
強すぎる熱線は遮られる。
海面温度の上昇が台風を育てそうなら、事前に熱収支が削られる。
都市の上空に乱流が生じれば、極軌道リングと地上気象塔の制御で風向が均される。
予報ではない。
運用予定だった。
瑞紀は、コーヒーカップを両手で包んだまま、テレビを見ていた。
「……すごいね」
その声は、素直な感心とも、不安ともつかない響きだった。
「明日の天気まで、もう決まってるみたい」
なつきは窓の外を見た。
東京の夜空には、薄く光る軌道リングが見える。
星よりも規則正しく、月よりも人工的な光。
「あれが日差しを調整してるんだよね」
「ああ」
哲郎が答えた。
「太陽同期リングのパネル群だ。宇宙工廠用の発電設備でもあるけど、角度を変えれば、地球に入る太陽光を少しだけ絞れる」
「少しだけって言っても、地球全体でしょ」
瑞紀が言った。
「そんなの、少しじゃないよ」
哲郎は苦笑した。
「そうだな」
晶は何も言わなかった。
テレビでは、かつて頻繁に流れていた猛暑被害の特集が、過去映像として扱われていた。
救急搬送される老人。
アスファルトの上で陽炎を上げる道路。
夜になっても下がらない気温。
学校の体育館に設けられた避難所。
それらの映像の後に、現在の都市が映る。
涼しい街路。
安定した電力。
夜でも動き続ける病院。
豪雨の直撃を避けた河川流域。
巨大台風の進路が、海上で崩されていく衛星映像。
クロノスの支配は、恐ろしいほど分かりやすい恩恵をもたらしていた。
それが、晶には苦しかった。
「……世界征服って」
晶が、小さく呟いた。
三人が彼を見る。
晶はテレビから目を離さないまま、続けた。
「世界征服って、本当に悪い事だったのかな?」
「晶?」
瑞紀が、不安そうに名前を呼んだ。
晶は、はっとしたように少しだけ目を伏せた。
けれど、言葉は止まらなかった。
「Xデーで、たくさんの人が傷ついて、死んだ」
店内のざわめきが、少し遠くなる。
「でも、それは戦争を準備してた人たちだった。あるいは、もう戦争してた人たちだった。軍隊とか、兵器を動かしてた人たちとか、クロノスに抵抗するために戦おうとしてた人たちとか」
瑞紀は何も言えなかった。
晶は、拳を膝の上で握った。
「政治家たちは無事だった。殺されなかった。捕まった人はいたけど、まとめて処刑されたわけじゃない。国も、政府も、いきなり全部壊されたわけじゃなかった」
哲郎は、静かに晶を見ている。
「クロノスは武力で世界を征服した。そんなの、悪いことに決まってるって思ってた」
晶の声が、少し震えた。
「でも、世界は良くなってる」
テレビでは、今年の熱中症死亡者が旧時代に比べて大幅に減少したというニュースが流れていた。
電力不足による停電はない。
火力発電所の稼働停止で、大都市圏の大気汚染は改善している。
台風被害も抑制されている。
病院は止まらない。
夜の街は明るい。
夏の空気は、人を殺さない温度に保たれている。
晶は、窓の外を見た。
夜空に、光の輪がある。
「じゃあ」
晶は言った。
「これまでの国が争ってた世界の方が、悪かったのかって」
その言葉は、誰かを責めるものではなかった。
むしろ、晶自身がその考えに怯えていた。
「少し、怖くなる」
瑞紀は、晶の横顔を見つめた。
なつきも、カップを両手で包んだまま黙っている。
哲郎は、すぐには答えなかった。
晶の言葉は危うかった。
けれど、軽く否定できるものでもなかった。
クロノスは世界を征服した。
武力で。
圧倒的な力で。
それは間違いなく恐ろしいことだった。
だが、その後に来たものは、混乱だけではなかった。
電力。
医療。
気候制御。
宇宙開発。
戦争の停止。
国家同士の軍拡競争の終わり。
そして、人類を外宇宙へ逃がす箱舟。
哲郎は、ゆっくりと言った。
「世界征服が悪くなかった、とは言えないと思う」
晶が哲郎を見る。
「でも、征服される前の世界が正しかった、とも言いきれない」
哲郎の声は、いつもより慎重だった。
「国が争って、兵器を作って、資源を奪い合って、環境を壊して、それでも誰も止められなかった。そういう世界だったのは本当だ」
なつきが、小さく言った。
「じゃあ、クロノスの方が正しいの?」
「それも違うと思う」
哲郎は首を振った。
「正しいから征服していい、なんてことにはならない。結果が良くなっているから、手段が全部許されるわけでもない」
「でも」
晶は苦しそうに言った。
「助かってる人がいる」
「いる」
哲郎は認めた。
「たくさんいる」
その答えが、晶の胸に重く落ちた。
瑞紀が、そっと言った。
「晶が、クロノスを好きになったわけじゃないのは分かるよ」
晶は瑞紀を見た。
瑞紀は少し困ったように笑った。
「ただ、分からなくなったんだよね。何が悪くて、何が良いのか」
晶は、ゆっくり頷いた。
「うん」
なつきが窓の外を見た。
「悪い人たちが、良いことをしてる時って、どう考えればいいんだろう」
誰も、すぐには答えられなかった。
クロノスは悪の組織だった。
世界を征服した。
人間を調整した。
力で秩序を作った。
けれど同時に、地球を救おうとしている。
火力発電を止め、核融合炉を動かし、軌道リングで太陽光を調整し、台風を弱め、猛暑を抑え、宇宙へ人類の種を送り出している。
その歪みが、晶たちの胸を締めつけていた。
悪が、あまりにも大きな正義を実行している。
しかも、それが失敗ではなく、成功し始めている。
テレビの天気予報は、最後に明日の行動指針を表示した。
『明日は遮光制御により紫外線量が通常より低下します。農作業地域では補光時間を確認してください。都市部では屋外活動に適した気候となります。極軌道リング同期搬入の時間帯は、夜空に強い光が見える場合がありますが、安全上の問題はありません』
なつきが、ぽつりと言った。
「もう、天気じゃないね」
哲郎が頷いた。
「うん。天気じゃなくて、運用だ」
瑞紀は窓の外の空を見た。
「空まで、管理されてるんだ」
晶は答えなかった。
夜空のリングは美しかった。
その美しさが、ひどく残酷だった。
宇宙はもう遠くない。
災害も、猛暑も、停電も、少しずつ遠ざかっている。
けれど、その代わりに、人類は空の見方を変えられてしまった。
明日の天気は、自然が決めるものではない。
クロノスが、決める。
そして多くの人々は、やがてそれを当たり前として受け入れていくのだろう。
晶はその未来を想像して、静かに目を伏せた。
「怖いな」
晶が呟いた。
瑞紀が尋ねる。
「クロノスが?」
晶は少し迷ってから、首を横に振った。
「それも怖い。でも、もっと怖いのは……」
晶は夜空を見上げた。
「クロノスが作った世界を、良い世界だと思ってしまうことかもしれない」
誰も、それを否定できなかった。