最初の一文だけなら、完璧だった。
人に紛れる方が、人の笑顔が良く見える。
そのコメントが出た瞬間、クロノス広報局は一瞬だけ安堵した。
アルカンフェル総帥が、千葉の東京ネズミーランドで一般来場者と同じ列に並んでいた件について、本人が短く答えたものだった。
支配者としての傲慢さはない。
人間社会への観察と、穏やかな興味がある。
世界を統一した超越者が、人混みの中で人々の笑顔を見ていた。
広報としては、むしろ美しい。
次の一文も、まだよかった。
次は、人が多く並んでいる店でポップコーンを買おう。
庶民派。
親しみやすい。
多少ズレているが、それも総帥らしい。
ネット上でも、すぐに反応が出た。
「総帥、人気店に並ぶ気だ」
「人が多い店を選ぶ理由が“人がよく見えるから”なの強い」
「ポップコーン買う総帥、見たい」
「クロノス総帥、次回は食べ歩き編」
ここまではよかった。
ここまでは、村上征樹が見ても、おそらく頭を抱えながら許容した。
問題は、その後だった。
記者が聞いた。
「同行されていた女性は、ヴァルキュリア閣下ではないかと言われています。ご関係は?」
アルカンフェルは、何のためらいもなく答えた。
ヴァルキュリアか? 側女だ。
クロノス広報局の時間が止まった。
記事配信担当者の手が止まった。
同席していた若い広報官が、声にならない声を漏らした。
だが、アルカンフェルは続けた。
良くできた女なので、最高機密を扱わせている。広報官ではないので、表に出す気はない。
広報官の顔色が消えた。
記者は、そこで引けばよかった。
だが、引かなかった。
世界最大の支配者が、あまりにも重大な単語をあまりにも平然と出したので、記者としての本能が勝ってしまった。
「出会いについて、お聞きしても?」
アルカンフェルは答えた。
献上された女だ。二十二歳で監察官になるほどの才媛なので、側に置いている。
その瞬間、広報局は終わった。
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村上征樹は、別件の会議から戻ってきたところで、その記事を見た。
最初は、静かに読んでいた。
人に紛れる方が、人の笑顔が良く見える。
次は、人が多く並んでいる店でポップコーンを買おう。
そこまでは、まだ頷けた。
問題は、その下だった。
ヴァルキュリアか? 側女だ。
良くできた女なので、最高機密を扱わせている。
献上された女だ。
二十二歳で監察官になるほどの才媛なので、側に置いている。
村上は、しばらく動かなかった。
そして次の瞬間、頭を抱えて叫んだ。
「あああぁっ!」
近くにいた職員が振り返る。
アプトムが顔を出した。
「どうした村上。ついに過労で壊れたか」
「僕のいないところで答えてる!」
アプトムは記事を読んだ。
読んだ。
そして、数秒後に笑わなくなった。
「……やべぇぞ」
「やばいです」
「庶民派アピールの後に、側女とか献上された女とか、現代社会でのNGワード連発しちまった!」
「分かっています!」
「落差で骨折するぞ、これ」
村上は、椅子に座ることもできず、端末を握りしめた。
「誰ですか。誰が総帥に単独取材を許可したんですか」
広報官が震える声で答えた。
「短いコメントだけの予定でした……」
「なぜ質疑応答になっているんですか」
「記者が、同行女性について質問を……」
「そこで止めてください!」
「総帥が、ご自身でお答えに……」
村上は天井を仰いだ。
「総帥が自分で答えるのが一番危険なんです!」
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世論は、予想通り燃えた。
いや、燃えるというより爆発した。
最初の反応は、混乱だった。
「側女!?」
「今なんて言った?」
「総帥、言葉が古すぎる」
「庶民派ポップコーンから側女への落差がすごい」
「人の笑顔が見たい総帥、急に古代王になる」
「最高機密を扱う側女って何」
「献上された女、現代で絶対言っちゃいけないやつ」
「ヴァルキュリア閣下、才媛なのは分かったけど説明が全部ダメ」
「村上閣下を呼べ! 広報が死ぬ!」
次に、怒りが来た。
「女性を物扱いしている」
「クロノス中枢の価値観が透けた」
「世界政府のトップが側女発言はまずい」
「献上という言葉を平然と使うのが怖い」
「本人の意思はどうなっているのか」
そして、擁護とも困惑ともつかない反応が混ざった。
「でも二十二歳で監察官は普通にすごい」
「最高機密扱わせてるなら信頼はしてるんだな」
「たぶん総帥の中では褒めてる」
「語彙が古代王朝」
「現代語翻訳してから出して」
「村上閣下、仕事です」
最後の一文を見て、村上は頭を抱えた。
「なぜ皆さん、僕を呼ぶんですか」
アプトムが即答した。
「お前しか現代語に訳せねぇからだろ」
「僕は通訳ではありません」
「総帥語の通訳だろ」
「否定できないのが嫌です」
/*/
緊急広報会議が開かれた。
出席者。
村上征樹。
ヴァルキュリア。
クロノス広報局。
アプトム。
バルカス。
そして、問題発言の当人であるアルカンフェル。
アルカンフェルは、まったく悪びれていなかった。
「何が問題なのだ」
村上は、深く息を吸った。
「総帥。全部です」
「全部か」
「はい。ほぼ全部です」
アプトムが横で言った。
「最初のポップコーンまではよかったぞ」
「そこまではよかったです」
「ならば問題はない」
「その後が問題です!」
村上は端末に問題発言を並べた。
側女
献上された女
良くできた女
側に置いている
「このあたりが、現代社会において非常に危険な表現です」
アルカンフェルは不思議そうに言った。
「事実だ」
「事実をそのまま言えばよいわけではありません」
「ヴァルキュリアは献上された」
ヴァルキュリアが少しだけ目を伏せた。
村上は即座に言った。
「その経緯自体が、現代的には極めて問題含みなんです」
「だが、本人の才を見て側に置いた」
「それは分かります」
「最高機密も扱わせている」
「それも信頼の証としては分かります」
「ならば、良いではないか」
村上は、疲れた声で答えた。
「言い方です」
アプトムが頷く。
「総帥。現代社会では、“献上された女を側女にして最高機密を扱わせている”って言うと、だいたい全部アウトだ」
「なぜだ」
「人権、同意、権力勾配、性差別、職務評価、全部に突っ込まれる」
「私はヴァルキュリアを低く見ていない」
「そういう話じゃねぇんだよ」
アルカンフェルは、なお首を傾げた。
「側女は低い立場ではない。王の側近であり、私室に出入りし、耳にする情報も多い。信頼がなければ置かぬ」
村上は顔を覆った。
「古代王朝基準で説明しないでください」
バルカスが笑った。
「フォッフォッフォ。総帥に現代の婉曲表現を求める方が難しいのではないか」
「博士、笑っていないでください」
/*/
ヴァルキュリアは、しばらく黙っていた。
それから静かに口を開く。
「村上閣下」
「はい」
「私は、不快ではありません」
村上は彼女を見る。
「ヴァルキュリア閣下」
「閣下が私を信頼してくださっていることは理解しています。最高機密を預けているという言葉も、私にとっては名誉です」
アルカンフェルは頷いた。
「そうだ」
ヴァルキュリアは続けた。
「ただし」
その一言で、アルカンフェルが彼女を見た。
「現代社会に対して、そのままの言葉で説明すれば誤解を招きます」
「お前もそう思うか」
「はい」
「なぜだ」
「私は、献上品ではありません」
会議室が静まった。
ヴァルキュリアは静かに続ける。
「そのような経緯で総帥の側へ来たことは事実です。ですが、今ここにいるのは、私自身の意思でもあります」
アルカンフェルは、しばらく黙った。
「そうか」
「はい」
「では、献上された、では足りぬのだな」
「はい。足りません」
村上は、少しだけ安堵した。
ヴァルキュリア自身の言葉なら、アルカンフェルにも届く。
アルカンフェルは淡々と言った。
「ならば、訂正する」
広報局員たちが一斉に顔を上げた。
村上は慌てて言った。
「総帥。訂正文は、こちらで作成します」
「私が言った言葉だ。私が訂正する」
「だから危険なんです!」
アプトムが笑いかけて、笑えなかった。
「村上、止めろ。第二波が来る」
/*/
村上は、必死で訂正文を組み立てた。
アルカンフェル総帥コメント補足案
先の発言における「側女」「献上された女」という表現は、現代社会における人格・職務・本人意思を軽視する意図ではない。
ヴァルキュリア閣下は、クロノス中枢において監察・機密管理・総帥補佐を担う高位職務者であり、その能力と判断力により総帥の信任を受けている。
両名の私的関係について、詳細は回答しない。
ただし、ヴァルキュリア閣下が本人の意思と職務能力に基づいて現在の立場にあることは明確にしておく。
村上は、それを読み上げた。
「これでいきます」
アルカンフェルは文面を見た。
「長い」
「必要です」
「私が言ったことと少し違う」
「現代語訳です」
「側女という語は消すのか」
「消します」
「なぜだ」
「燃えるからです」
「すでに燃えている」
「これ以上燃やさないためです」
アプトムが小声で言った。
「焼け野原に油撒くなって話だな」
ヴァルキュリアは訂正文を見て、静かに頷いた。
「私は、これで構いません」
アルカンフェルは彼女を見た。
「そうか」
「はい」
「では、よい」
村上はようやく息を吐いた。
/*/
だが、アルカンフェルは最後に一言付け加えた。
「しかし、ヴァルキュリアは良くできた女だ」
村上が即座に反応した。
「総帥!」
「これは言ってもよいだろう」
「言い方を変えてください!」
「では、どう言えばよい」
村上は即答した。
「極めて優秀な補佐官であり、信頼する個人です」
アルカンフェルは少し考えた。
「極めて優秀な補佐官であり、信頼する女だ」
「個人です!」
「女であることは事実だ」
「現代広報では個人です!」
アプトムは腹を抱えた。
「駄目だ、翻訳作業が終わらねぇ!」
ヴァルキュリアも、さすがに少しだけ笑っていた。
アルカンフェルは不思議そうにしている。
村上は疲れ切った顔で、最終文面を打ち込んだ。
ヴァルキュリア・F・リスカーは、クロノス中枢において極めて優秀な補佐官であり、総帥が深く信頼する個人である。
「これです」
アルカンフェルは頷いた。
「分かった」
「絶対にこれ以外言わないでください」
「分かった」
「本当にお願いします」
「分かった」
アプトムが横から言った。
「三回言った時ほど危ねぇんだよな」
「黙ってください」
/*/
訂正文が出た後、炎上は少しだけ落ち着いた。
少しだけである。
世論は今度、別方向に盛り上がった。
「村上訳きた」
「総帥語、現代語翻訳される」
「側女→極めて優秀な補佐官」
「献上された女→本人の意思と職務能力に基づく立場」
「翻訳前と翻訳後の差がすごい」
「村上閣下、広報の命綱」
「アプトムの“落差で骨折”が名言すぎる」
「総帥、ポップコーンまでは完璧だったのに」
アプトムはそれを見て笑った。
「お前、もう公認翻訳官だな」
「嫌です」
「総帥語・現代社会対応版」
「嫌です」
「辞書作るか?」
「絶対に作りません」
だが、広報局の共有フォルダには、密かに新しいファイルが作られていた。
総帥発言・現代語変換表
村上はそれを発見し、しばらく無言になった。
その中には、すでに項目が並んでいた。
側女
推奨訳:私的にも職務上も信頼する側近
献上された
推奨訳:特殊な経緯で中枢に迎えられた
良くできた女
推奨訳:極めて優秀な人物
側に置いている
推奨訳:重要補佐官として任用している
血を入れる
推奨訳:婚姻・家門接続については慎重に検討する
鎮圧すればよい
推奨訳:法と秩序に基づき対応する
問題ない
推奨訳:問題があります。要確認。
最後の項目を見て、村上は額を押さえた。
「誰ですか、これを書いたのは」
アプトムが言った。
「俺じゃないぞ」
「では誰ですか」
ヴァルキュリアが静かに言った。
「広報局かと」
「あとで確認します」
アルカンフェルは、それを見て不思議そうに言った。
「私の言葉は、それほど変換が必要か」
村上、アプトム、ヴァルキュリア、広報局員。
全員が同時に答えた。
「必要です」
アルカンフェルは、少しだけ考えた。
「そうか」
そして、最後にこう言った。
「では、次のポップコーンの時は村上も来い」
村上は一瞬、固まった。
「僕も、ですか」
「私が答える前に、お前が訳せばよい」
アプトムがまた笑った。
「同行通訳決定だな」
村上は天井を見上げた。
世界を統一した支配者。
その隣に立つ側近の女性。
そして、ポップコーン売り場の列に並ぶ現代語通訳。
クロノス統治の未来は、思ったよりも庶民的で、思ったよりも胃に悪かった。