/*/ クロノス統治五年目 旧東京行政区 /*/
クロノス統治五年目。
1995年頃、多分。
世界の医療福祉統計は、劇的に変化していた。
先天性疾患の多くは調整で補正された。
重度の代謝異常は消えた。
神経系の障害も、可能な範囲で修復された。
知的障害と診断されていた人々の多くが、調整後に読み書き、計算、職業訓練、日常生活の自立を獲得し始めた。
クロノス政府は、それを成果として発表した。
教育水準の上昇。
福祉予算の削減。
就労可能人口の増加。
家族介護負担の低下。
数字だけ見れば、疑いようのない成功だった。
だが、その成功は、すぐに別の火種を生んだ。
「障害者のままでいる権利を奪うな!」
旧東京行政区の中央広場で、人権擁護団体が横断幕を掲げていた。
「人間を規格化するな!」
「自然な多様性を守れ!」
「クロノスによる優生政策に反対!」
彼らの主張は、決して空虚ではなかった。
クロノスの調整は、本人の身体と脳へ直接介入する。
本人の意思能力が十分でない場合、家族や行政が同意を代行する。
それは、福祉の名を借りた強制ではないのか。
障害を「治すべき欠陥」と決めつけているのではないか。
人間の多様性を、クロノスに都合のよい形へ削っているのではないか。
そう訴える者たちはいた。
だが、その広場へ、別の集団が押し寄せた。
年老いた母親。
疲れ切った父親。
兄弟姉妹。
介護施設の元職員。
調整後、初めて自分の名前を漢字で書けるようになった青年。
十年以上会話らしい会話ができなかった娘と、初めて言葉で喧嘩できた母親。
彼らは、人権団体の横断幕を見て、怒りを爆発させた。
「障害者のままでいる権利なんていらない!」
母親の一人が叫んだ。
「この子が自分でトイレに行けるようになったのよ! 自分でご飯を選べるようになったのよ! それを奪うなって、あなたたちは何を言ってるの!」
人権団体の若い活動家が言い返す。
「それはクロノスによる人間改造です! 障害も個性であり、多様性です!」
その瞬間、別の父親が前に出た。
「きれいごとを言うな!」
広場の空気が震えた。
「お前たちは夜中に暴れる息子を押さえたことがあるのか! 自分の頭を壁に打ちつけて血だらけになる子を、何時間も抱きしめたことがあるのか! 親が死んだ後、この子はどうなるんだと、毎晩考えて眠れなくなったことがあるのか!」
活動家は口を開いた。
だが、声は出なかった。
父親は叫び続けた。
「自然が一番? 自然のままが尊い? ふざけるな! 自然のままでは、この子は苦しんでいた! 家族も壊れかけていた! クロノスが治せると言った。実際に治った。なら、私はそれを選ぶ!」
「本人の意思はどうなるんですか!」
「調整後の本人が言ったんだ!」
父親の声が、少し震えた。
「ありがとうって。初めて、ちゃんと言葉で言ったんだよ」
その一言で、周囲の家族たちが一斉に声を上げた。
「うちもそうだ!」
「初めて自分で服を選んだ!」
「学校に行きたいって言った!」
「働いて給料をもらいたいって!」
「それを、お前らが勝手に否定するな!」
広場は、たちまち怒号に包まれた。
クロノスの警備部隊は、遠巻きに見ていた。
本来なら、クロノスへの抗議集会だった。
しかし実際には、人権擁護団体と、調整を歓迎する家族たちの衝突になっていた。
クロノスは、何もしていない。
ただ、治療実績を示しただけだ。
すると人間たちは、クロノスそっちのけで互いに殴り合い始めた。
横断幕が破れる。
プラカードが折れる。
活動家の一人が押し倒され、介護家族側の男性も警備員に取り押さえられる。
調整済みの身体同士での衝突は危険だった。
すぐにクロノス警備隊が割って入り、全員へ鎮静命令が下された。
納得したわけではない。
怒りは残っている。
泣き声も、憎しみも、悔しさも消えていない。
その夜、世界中のニュース番組は、この衝突を取り上げた。
討論番組には、人権擁護団体、調整済み当事者、親、医師、クロノス行政官が並んだ。
活動家は言った。
「障害を消すことが救済だという発想そのものが危険です。社会が障害者を受け入れるべきであって、障害者を社会に合わせて作り替えるべきではありません」
それに対し、母親は言った。
「社会が受け入れると言って、あなたたちは何をしてくれたんですか」
活動家が黙る。
母親は続けた。
「うちの子は、調整前、自分の痛みを言葉にできませんでした。泣くしかなかった。暴れるしかなかった。私はそれを個性だとは思えませんでした。あの子自身が苦しんでいたからです」
調整済みの青年が、たどたどしいが、明瞭な言葉で言った。
「ぼくは、今の方がいいです」
スタジオが静まる。
「前のぼくを、悪いとは言わないでほしいです。でも、戻りたくはないです」
その言葉は重かった。
一方で、別の当事者はこう語った。
「私は軽度の障害を持っていましたが、調整を拒否しました。私にとっては、それも自分の一部だからです。全員に調整を強制するのは反対です」
議論は割れた。
親たちも一枚岩ではない。
当事者も一枚岩ではない。
医師も、福祉職も、教育者も意見が割れた。
だが、一つだけ明確だった。
クロノスは、従来の福祉や人権思想では答えを出せなかった問題へ、力ずくで答えを出してしまった。
治せる。
変えられる。
苦痛を減らせる。
本人の能力を引き上げられる。
その事実がある以上、もはや議論は「治療すべきか」だけでは済まない。
治療を拒む権利。
治療を受ける権利。
本人の意思。
家族の限界。
社会の負担。
クロノスによる規格化。
それらが、真正面から衝突する時代になった。
/*/ クロノス統治中枢 /*/
報告映像を見終えたアルカンフェルは、しばらく沈黙していた。
バルカスが側に控えている。
「人権団体と家族会が衝突。負傷者は軽微。警備隊の介入により鎮圧済みです」
「クロノスへの抗議ではなかったのか」
「当初はその予定でした。しかし、調整により家族が回復したと考える者たちが反発し、対立が拡大しました」
アルカンフェルは、画面に映る母親の顔を見た。
怒り。
疲労。
救われたことへの執着。
そして、もう二度と元に戻したくないという恐怖。
「人間は、救いの形でも争うか」
バルカスは淡々と答えた。
「救いが均等ではありませんので」
「均等ではない?」
「ある者にとっては治療です。ある者にとっては自己の否定です。親にとっては救済でも、本人にとっては侵襲である場合もあります。逆もまたあります」
アルカンフェルは静かに目を伏せた。
「クロノスは、病を治した」
「はい、閣下」
「だが、人間が病と呼んできたものの中には、本人の一部として扱われてきたものもある」
「その通りです」
「ならば、衝突は続く」
「続くでしょう」
バルカスは少し間を置いた。
「ただし、統計上は調整希望者が圧倒的多数です。特に重度知的障害、重度自傷、常時介護を要する症例の家族は、調整を強く求めています」
「本人は」
「調整前に明確な意思確認が困難な場合が多い。そこが、人権団体の主張点です」
アルカンフェルは、報告書を閉じた。
「本人の苦痛を減らすために、本人の同意を越える。家族を救うために、本人を変える。社会を安定させるために、人間を調整する」
彼は小さく息を吐いた。
「クロノスらしいな」
バルカスは答えない。
アルカンフェルは命じた。
「強制調整の基準を整理しろ。重度の苦痛、自傷、生命維持、家族介護限界、本人意思確認の可能性。すべて段階化する」
「はっ」
「拒否権も形式だけにするな。軽度の者、意思表示可能な者には選ばせろ」
バルカスが少しだけ目を上げた。
「よろしいのですか」
「人間を全て同じ形にするために統治しているのではない」
アルカンフェルは、冷たくも静かな声で言った。
「戦うために必要な調整はする。苦痛を減らす調整もする。だが、不要な反発で社会を割る趣味はない」
「御意」
「それと」
アルカンフェルは、画面の中で破れた横断幕を見た。
「人権団体を弾圧するな」
バルカスは沈黙した。
「監視はする。暴力は止める。だが、言わせておけ」
「理由を伺っても」
「彼らは、クロノスが何を奪っているかを言葉にする」
アルカンフェルは立ち上がった。
「救われた者の声だけを聞けば、我々は治療者になる。反発する者の声も聞けば、我々が支配者であることを忘れずに済む」
バルカスは深く頭を下げた。
「御意、閣下」
クロノス統治は、世界を良くしていた。
犯罪は減り、教育水準は上がり、福祉負担は軽くなった。
だがそのたびに、人間は問われることになった。
苦痛を取り除かれた自分は、以前と同じ自分なのか。
救済を拒む権利は、どこまで認められるのか。
家族の救いと、本人の尊厳がぶつかった時、誰が決めるのか。
クロノスは答えを持っていた。
力による答えを。
だが、アルカンフェルは知っていた。
力で答えを出せることと、その答えが正しいことは、同じではない。