/*/ クロノス統治局の悪夢の一年 /*/
クロノス統治初年度は、後に「統治局の悪夢の一年」と呼ばれることになる。
悪夢を見たのは、一般市民ではない。
富裕層だった。
旧世界において、彼らは国境を使って富を守っていた。
税率の低い国。
租税条約の穴。
匿名法人。
信託。
財団。
タックスヘイブン。
政治家との癒着。
銀行秘匿制度。
会計士と弁護士が作る迷路。
そのすべてが、クロノスの世界統治開始から一年以内に破壊された。
国境はもう盾にならない。
銀行はもう隠し場所にならない。
匿名法人はもう匿名ではない。
財団も、信託も、政治献金も、親族名義の資産も、海底ケーブルの向こうに置かれた数字も、すべてクロノス統治局の資産照合網に捕捉された。
そして、統治局はそれを単に徴税しただけではなかった。
公開した。
ただし、金額そのものではない。
クロノスは、各個人および企業体の納税額、追徴納付額、自主申告資産、環境再生投資、軌道リング建設拠出、医療基金拠出を統合し、一から十万までの指数として表示した。
名称は簡潔だった。
『グローバル・タックス・ランク』
世界貢献納税指数。
市民端末から、誰でも閲覧できた。
名前。
所属企業。
主な資産地域。
今年度ランク。
前年度比。
追徴修正歴。
社会貢献指定先。
それらが、毎分更新される。
富裕層にとって、それは悪夢だった。
しかし、クロノスはそれを悪夢としてだけ設計したのではない。
高ランク者には称号が与えられた。
地球環境再生名誉市民。
軌道リング建設貢献者。
外宇宙開拓基金支援者。
都市医療網維持功労者。
納税は義務である。
だが同時に、名誉でもある。
クロノスは、そう定義した。
富裕層は怒った。
人権侵害だ。
財産権の侵害だ。
プライバシーの侵害だ。
経済活動の自由を破壊する暴挙だ。
旧世界の言葉で、彼らは抗議した。
だが、その抗議は長く続かなかった。
なぜなら、端末の画面には数字が出ていたからである。
隣の財閥総帥は、八万九千二百四十。
競合企業の会長は、九万一千七百三十。
かつて慈善家を名乗っていた投資家は、三万二千四百。
反クロノスを叫んでいた資源王は、追徴修正後に一万未満。
数字は残酷だった。
そして、人間は数字で競う。
クロノスは、富裕層の資産ではなく、承認欲求を徴税した。
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喫茶店のテレビでは、統治初年度を振り返る特集番組が流れていた。
『本日は、クロノス統治初年度に実施された世界所得統合徴税制度、通称グローバル・タックス・ランクについて振り返ります』
画面には、古いニュース映像が映る。
スイス。
ケイマン諸島。
ルクセンブルク。
シンガポール。
バハマ。
旧世界の金融都市やタックスヘイブンに、クロノス統治局の査察官が入っていく。
軍隊ではない。
だが、逃げ場はなかった。
銀行の扉は開き、サーバーは押収され、財団名義の資産は照合され、匿名口座の持ち主が一覧化されていく。
なつきは、端末で当時の記事をスクロールしながら言った。
「去年の今頃、本当に悪夢の一年って言われてたよね」
哲郎がコーヒーカップを置いた。
「富裕層にとってはな」
「世界中のタックスヘイブンが一斉に死んだんだよね」
「死んだというか、逃げ道として使えなくなった」
哲郎はテレビを見た。
「クロノスは世界政府だから、国境をまたいだ租税回避という概念そのものを潰せる」
瑞紀は眉をひそめた。
「でも、納税額をランクで公開するのって、すごく嫌な感じがする」
「嫌な感じに作ってるんだと思う」
哲郎は答えた。
「金額そのものを出すと混乱が大きすぎる。だから一から十万までの指数にして、名誉と恥を両方混ぜた」
晶はテレビを見つめていた。
画面には、当時の端末画面が映っている。
グローバル・タックス・ランク速報
第1位:99,820ポイント
第2位:99,741ポイント
第3位:99,436ポイント
注記:本ランクは納税額のみならず、追徴納付、環境再生基金、軌道リング建設拠出、外宇宙開拓基金への寄与を含む総合指数です。
ランキング番組のようだった。
いや、実際にランキング番組になっていた。
司会者が、かつて大富豪と呼ばれた人々の順位変動を軽い調子で紹介している。
『こちらの実業家は、旧時代には慈善活動で知られていましたが、初回照合時のランクは一万二千台。その後、未申告資産の自主修正により、現在は七万八千台まで上昇しています』
なつきが、少し呆れたように言った。
「自主修正って、要するに隠してた資産を出したってこと?」
「そういうことだな」
哲郎が答える。
「クロノスに見つかる前に自分から出せば、追徴罰より社会貢献点に回せる。逆に隠して見つかると、ランクは上がっても注記がつく」
瑞紀が画面を指差した。
「あ、この人、赤い印がついてる」
「追徴修正歴あり、だな」
哲郎は端末で補足を開いた。
「旧世界の脱税資産が確認された人。納付は済んでいるけど、しばらくはランク欄に表示される」
なつきは顔をしかめた。
「嫌がらせだ」
「嫌がらせだよ」
哲郎は否定しなかった。
「でも、市民から見ると分かりやすい」
テレビでは、街頭インタビューが流れていた。
『あの人、テレビで偉そうに社会貢献とか言ってたのに、一万台だったんでしょ?』
『そりゃ叩かれるよ。うちの会社、給料からちゃんと引かれてたのに』
『高ランクの人はまあ、払ってるならいいんじゃない? 環境再生とか病院とかに使われるんでしょ?』
『逃げてた金持ちが泣くのは、ちょっと気分いいよね』
店内に、乾いた沈黙が落ちた。
晶が小さく言った。
「娯楽になってる」
「なってる」
哲郎は頷いた。
「クロノスは、わざとそうしたんだと思う」
なつきは端末を置いた。
「富裕層には嫌がらせ。一般市民にはガス抜き。高ランク者には名誉。低ランク者には恥」
「それだけじゃない」
哲郎は言った。
「富裕層同士の競争にもなってる」
瑞紀が首を傾げる。
「競争?」
「隣の財閥の当主が八万五千。競合企業の社長が九万。自分が六万だったら、負けた気になる人たちがいる」
なつきは苦笑した。
「そんなことで?」
「そんなことだから効くんだよ」
哲郎は画面を見た。
「金持ちにとって、金はもう隠せない。なら、次に欲しがるのは名誉だ。クロノスはそこに数字をつけた」
テレビの司会者が、嬉しそうに言う。
『今年度は、軌道リング建設基金への拠出により、多くの企業家がランクを上げています。特に上位一千名には、外宇宙開拓支援名誉章が授与される予定です』
晶は、息を吐いた。
「名誉の鎖だ」
三人が晶を見る。
晶は続けた。
「逃げられないから払う。でも、払うなら高く評価されたい。恥をかきたくない。だから、もっと払う。クロノスに首輪をつけられてるのに、それを勲章みたいに見せられてる」
哲郎は静かに頷いた。
「その通りだと思う」
瑞紀は不安そうに言った。
「でも、そのお金で病院とか、核融合炉とか、軌道リングが作られてるんだよね」
「そうだ」
「じゃあ……悪いことだけじゃない」
「そこが怖いんだ」
哲郎は言った。
「嫌がらせとしても機能している。徴税としても機能している。再分配としても機能している。プロパガンダとしても機能している」
なつきが呟く。
「完璧すぎて嫌だね」
テレビでは、クロノス統治局の広報映像が流れていた。
核融合炉の建設現場。
軌道リングの資材搬入。
地方病院の新棟。
災害避難施設。
農業用の気候制御設備。
その横に、高ランク納税者の名前が表示される。
地球環境再生基金 主要貢献者
軌道リング建設支援 上位納税者
外宇宙開拓基盤整備 名誉支援者
かつて隠れていた富は、今やクロノスの事業を飾る看板にされていた。
富裕層は屈辱を味わった。
だが、高ランク者は称賛も受けた。
低ランク者は嘲笑された。
追徴逃れをした者は、赤い注記で晒された。
そして一般市民は、その全てを端末で見た。
晶は、ぽつりと言った。
「世界征服した組織が、脱税を許さないって言うと、変な感じだな」
なつきが苦笑した。
「悪の組織なのに、税務署より厳しい」
哲郎は言った。
「世界政府になったからだよ。支配者にとって、脱税は反乱の一種になる」
「反乱?」
「統治に必要な資源を隠すことだから」
晶は、はっとしたように哲郎を見た。
哲郎は淡々と続ける。
「クロノスにとって金そのものは絶対じゃない。必要なのは、資源と労働力と生産力。でも、旧世界の富裕層が資産を隠したままだと、政治工作や反乱資金に使われる。だから潰す」
瑞紀が小さく言った。
「納税っていうより、武装解除みたい」
「近いと思う」
哲郎は頷いた。
「富裕層の武器を奪って、その一部を名誉に変えて返してる」
なつきは端末画面を見ながら、皮肉っぽく言った。
「お利口に納税できた人には、数字付きの首輪をあげますってことか」
「ひどい言い方だけど、間違ってない」
店内のテレビでは、特集の締めくくりとして、統治局の標語が表示された。
富は秘匿されるものではない。
文明維持へ還流されるものである。
瑞紀は、その文字を見つめた。
「言ってることは、正しいみたいに聞こえる」
晶は答えなかった。
正しい。
その言葉が、最近はひどく難しい。
クロノスは世界を征服した。
恐ろしい力で、国家を従わせた。
けれど、タックスヘイブンを潰した。
隠された富を暴いた。
病院を建てた。
核融合炉を作った。
軌道リングを建てた。
農村に安定した雨と晴れを与えた。
世界は、少しずつ良くなっているように見える。
その事実が、晶には怖かった。
テレビの中で、かつての大富豪がインタビューに答えていた。
『もちろん、最初は屈辱でした。しかし今は、私の納税が軌道リング建設に役立っていることを誇りに思っています』
なつきが小声で言った。
「言わされてるのかな」
哲郎は首を振った。
「半分は、本気かもしれない」
「本気?」
「人間は、自分が奪われたものにも意味を見つけたがる。屈辱だけで終わるより、社会に貢献した名誉だと思った方が耐えられる」
晶は、画面の中の男を見た。
その胸には、クロノスから授与された小さな徽章がついている。
数字のついた、名誉の印。
それは勲章にも見えた。
首輪にも見えた。
瑞紀が静かに言った。
「怖いね」
晶は頷いた。
「うん」
クロノス統治初年度。
悪夢の一年。
富裕層は富を暴かれ、数字で並べられた。
一般市民はそれを眺め、笑い、怒り、溜飲を下げた。
そしてクロノスは、その資金で地球を作り替えた。
嫌がらせ。
徴税。
名誉。
支配。
再分配。
そのすべてが、一つの制度にまとめられていた。
晶は思った。
クロノスは、人間をよく見ている。
欲も。
恥も。
怒りも。
承認欲求も。
そして、それらを逃がさず制度に組み込む。
それが何より恐ろしかった。