/*/ 木星圏防衛線 第一次会戦後 /*/
箱舟一番艦は、木星圏外縁から後退を開始した。
敗走ではない。
だが、勝利の凱旋でもなかった。
外殻は焼けていた。
生体装甲の一部は剥離し、軌道兵装の三割近くが失われ、内部の戦闘管制区画にも過負荷の痕跡が残っている。
第一次会戦は勝利した。
混合型旗艦をアルカンフェルが疑似ブラックホールで消滅させ、敵第一群は壊滅した。
だが、木星圏防衛線は血を流しすぎた。
人造コントロールメタル殖装部隊の損耗。
暴走事故。
軌道砲台群の破壊。
無人迎撃機の全滅。
そして、箱舟一番艦そのものの疲弊。
このまま次の群れを受ければ、勝利は保証できない。
いや。
保証など、最初からなかった。
「一番艦を地球圏へ下げる」
アルカンフェルは戦闘管制室で言った。
前線指揮官たちが息を呑む。
だが、異論は出なかった。
一番艦は地球防衛の象徴であり、旗艦であり、軌道上の希望でもある。
それを木星圏で使い潰すわけにはいかない。
「代わりに二番艦を木星防衛線へ出す」
モニターに、地球軌道上で待機していた箱舟二番艦の姿が映る。
一番艦と同型。
全長五十一キロメートル級。
まだ外宇宙へ旅立っていない箱舟群のうち、戦闘運用への転用準備が最も早く進んでいた艦だった。
その指揮官として、プルクシュタールが前へ進み出た。
静かな男だった。
派手な野心も、ギュオーのような露骨な支配欲もない。
だが、そのぶん指揮は堅い。
部隊運用。
損害管理。
統制維持。
防衛線を任せるなら、今は彼が最も適している。
「プルクシュタール」
「はっ」
「二番艦を木星防衛線へ移せ。以後、木星圏正面防衛の総指揮を任せる」
プルクシュタールは深く頭を垂れた。
「拝命いたします」
「補佐にシンを付ける」
シンが静かに頷く。
「御意」
「さらに、村上征樹を重力戦術補佐として付ける」
村上は一瞬だけ目を細めた。
再調整後の身体は安定し、重力制御能力は大きく伸びている。
ギュオーの完成体ほど荒々しい出力ではない。
だが、細かい制御と判断力では村上の方が使いやすい。
何より、彼は疑う。
命令を鵜呑みにしない。
それが今は必要だった。
「僕を、木星圏に?」
「ああ」
アルカンフェルは村上を見た。
「プルクシュタールは戦線全体を見る。シンは部隊を締める。マサキは重力場と撤退線を見ろ」
「疑似ブラックホールの使用も想定していますか」
「する」
村上の表情が硬くなる。
疑似ブラックホール。
重力場を極限まで収束させ、対象を空間ごと圧壊させる最悪級の兵器。
地上で使えば都市どころか地殻と大気を巻き込む。
宇宙空間であっても、安全ではない。
むしろ、制御を誤れば周辺宙域そのものを焼く。
村上は静かに言った。
「僕の出力で、安定生成できるとは限りません」
「だから非常手段だ」
アルカンフェルは答えた。
「マサキ」
村上がわずかに反応した。
アルカンフェルが、彼を名で呼んだ。
「いざという時は、疑似ブラックホールを蒸発させろ」
戦闘管制室の空気が変わった。
シンが目を細める。
バルカスが、わずかに眉を動かした。
村上は、聞き返した。
「蒸発、ですか」
「ああ」
「それは、時間稼ぎでは済みません」
「分かっている」
アルカンフェルは淡々と言った。
「疑似ブラックホールを外部から崩壊させれば、終端放出が起きる。ホーキング放射に似た形で、蓄積されたエネルギーが一気に吐き出される」
バルカスが低く補足した。
「極小質量まで追い込まれた特異点は、最後に爆発的なエネルギーを放つじゃろう。高熱、強放射線、ガンマ線、重力波擾乱。制御を誤れば、味方も敵も区別なく焼かれる」
「それだけではない」
アルカンフェルは続けた。
「ゾアロードが作る疑似ブラックホールは、単なる質量天体ではない。空間そのものを歪ませる超重力点だ。それを急激に消滅させれば、歪みに対する反動が出る。空間構造が裂け、エネルギーが逆流し、局所的な真空崩壊に近い現象を誘発する可能性もある」
村上の顔が険しくなる。
「つまり、使えば防衛線ごと吹き飛ぶ」
「そうだ」
「術者自身も」
「巻き込まれる可能性が高い」
「それを僕にやれと?」
「最後の手段としてだ」
アルカンフェルの声は変わらなかった。
「敵群が木星防衛線を突破し、二番艦も撤退不能となり、地球圏への直進を止める手段がなくなった場合。味方を可能な限り退避させた上で、疑似ブラックホールを崩壊させろ」
沈黙。
管制室の誰もが、その意味を理解した。
それは戦術ではない。
自爆に近い。
局所宙域を丸ごと焼き払う、最後の遮断壁。
「センサー類は当然、使い物にならなくなる」
アルカンフェルは言った。
「だが問題はそこではない。放射線と高熱で周辺宙域が汚染され、軌道砲台も無人機も味方部隊も壊滅する可能性がある。木星圏の一部を捨てる覚悟が要る」
「ならば、使用判断は」
「マサキに任せる」
村上は即座に答えなかった。
彼の前には、地図がある。
木星。
ガリレオ衛星群。
防衛線。
二番艦。
撤退経路。
そこに疑似ブラックホール崩壊を撃ち込めば、敵だけでは済まない。
味方の退路を焼く。
救助待ちの部隊を見捨てる。
自分自身も帰れないかもしれない。
「僕が迷えば」
「抜かれる」
「僕が早すぎれば」
「味方を焼く」
「遅すぎれば」
「地球圏が焼かれる」
アルカンフェルは、すべて認めた。
「だから君に任せる」
「信用ではないですね」
「責任だ」
村上は苦い顔をした。
「あなたは、いつも重いものを簡単に渡す」
「軽く渡しているわけではない」
「そう見えます」
「なら、そう見えても構わん」
アルカンフェルは、村上を見た。
「マサキ。これは英雄の技ではない。味方を逃がすために、味方の墓標ごと燃やす技だ。使わずに済むなら使うな。だが使うべき時に躊躇すれば、地球が死ぬ」
村上は長く黙った。
そして、低く答えた。
「分かりました」
「使用前に、最低限三つ確認しろ」
「三つ?」
「一つ。退避可能な味方を限界まで下げること」
アルカンフェルは指を一本立てた。
「二つ。敵主群の流れを一箇所に寄せること。散った群れに使えば効果が薄い」
二本目。
「三つ。自分が帰る道を最後まで捨てるな」
三本目。
村上が、わずかに目を見開いた。
「最後の一つは、命令ですか」
「命令だ」
「あなたなら、自分を勘定に入れないでしょう」
「私は私だ。マサキはマサキだ」
「ずるいですね」
「そうだな」
アルカンフェルは否定しなかった。
プルクシュタールが静かに口を開いた。
「疑似ブラックホール蒸発を非常事態最終手段として、二番艦戦術規定に登録します」
「使用権限は村上征樹。ただしプルクシュタール、シンの二名が状況判断を補佐しろ」
「御意」
シンが頷いた。
「マサキが使うと判断した時点で、私は退避線を開きます」
村上はシンを見た。
「止めないのですか」
「止めるべき時は止める」
シンは静かに言った。
「だが、必要な時は迷わせない」
村上は、ほんの少しだけ息を吐いた。
「助かります」
アルカンフェルは全員を見渡した。
「二番艦は防衛線を支える盾だ。無理に前へ出すな。木星重力圏、ガリレオ衛星群、軌道砲台の残存網を使え」
「承知しました」
「メガスマッシャー部隊は五交代へ増やせ。稼働限界をさらに短く取れ。暴走事故を減らす」
「火力が落ちます」
「火力より継戦能力だ。第一会戦で分かったはずだ。兵が装甲に食われれば、火力以前の問題になる」
「はっ」
「シン」
「はっ」
「恐怖反応の高い個体を無理に前線へ出すな。後方支援、砲台管理、回収班に回せ。勇気と恐怖耐性は別物だ」
「御意」
「村上」
「はい」
「敵が混合型を複数投入してきた場合は、無理に全て落とそうとするな。一体落とし、流れを崩し、木星重力へ落とせ。倒すより逸らせ」
「分かりました」
指示は淡々としていた。
だが、戦闘管制室の誰もが理解していた。
アルカンフェルは前線を離れる。
一番艦を伴い、地球圏へ下がる。
それは休息ではない。
戦力の立て直しだ。
人造コントロールメタルの改良。
暴走対策。
損耗部隊の再編。
地球圏防衛線の強化。
残る箱舟群の運用方針。
そして、地球市民への説明。
やるべきことが多すぎた。
「閣下」
シンが静かに言った。
「地球圏へ戻られるのですね」
「ああ」
「木星圏はお任せください」
「任せる」
アルカンフェルは、焼けた戦場を映すモニターを見た。
木星へ落ちていく宇宙怪獣の死骸。
回収される味方機。
暴走個体の残骸。
そして、二番艦の長大な船体が、地球軌道から木星方面へ移動を開始する航路図。
「第一次会戦は勝った」
彼は言った。
「だが、次も同じ勝ち方をすれば負ける。勝ち方を変えろ」
プルクシュタールは、深く頭を下げた。
「必ず」
アルカンフェルは頷き、戦闘管制室を後にした。