/*/ 地球圏 北半球防衛線 /*/
思念波が、地上を押していた。
アルカンフェルではない。
地球防衛司令エドワード・カールレオンが、獣化兵たちへ思念波を流している。だが範囲が広い。
広すぎて恐怖を消すことはできない。
だが、恐怖に呑まれる寸前の背を押すことはできる。
獣化兵たちは戦った。
雪原で。
都市外縁で。
山脈の防衛線で。
氷結砲の青白い光の下で。
上陸艇型が大地へ突き刺さり、そこから兵隊怪獣バボラーが這い出してくる。30m級の脚がシェルター上部の装甲を叩き、地面を裂き、地下区画へ続く避難路を潰していく。
それでも、獣化兵たちは退かなかった。
「脚を落とせ!」
「地下区画へ行かせるな!」
「メガスマッシャー班、撃ったら下がれ!」
「民間人の避難路を守れ!」
その姿を見て、未調整の兵士たちも立ち上がった。
ただの人間。
獣化もできない。
強殖装甲もない。
銃も砲も、宇宙怪獣相手にはあまりにも頼りない。
それでも彼らは撃った。
砲を運んだ。
弾薬を抱えて走った。
倒れた獣化兵を引きずって下がった。
シェルターの扉が閉まるまで、最後の道路に装甲車を横付けして盾にした。
敵は大きすぎた。
多すぎた。
津波に抗うようなものだった。
押し返せるわけがない。
止め切れるわけがない。
そう分かっていても、彼らは戦った。
自分たちの後ろには、地下へ逃げた子供がいる。
病院がある。
調整槽に入れない老人がいる。
まだ歩けない幼児がいる。
地球がある。
ならば、立つしかなかった。
北米第三防衛線が飲み込まれた。
シベリア東部の氷結砲陣地が沈黙した。
北欧の軌道誘導砲が上陸艇型の直撃を受けて消滅した。
グリーンランド地下シェルター第七区画が破壊された。
通信回線に、悲鳴が流れた。
『第七区画、隔壁破損!』
『民間人がまだ中にいる!』
『バボラーが入ってくる!』
『閉じろ! 隔壁を閉じろ!』
『中に人がいるんだぞ!』
『閉じなきゃ全部食われる!』
隔壁が閉じた。
その向こうから、音が消えた。
誰もがもう駄目だと思った。
空からはまだ降ってくる。
地上ではまだ増えている。
獣化兵たちは倒れ、未調整兵士たちは弾を撃ち尽くし、シェルターは一つずつ潰されていく。
それでも、人々は空を見た。
地下避難施設のモニターで。
破れた天井の隙間から。
崩れた都市の外で。
赤く焼ける雲の向こうを。
アルカンフェルが戻ってくるはずだ。
箱舟一番艦が来るはずだ。
木星で戦っている者たちは、まだ諦めていないはずだ。
飛び立った開拓船は、無事なはずだ。
ギュオー艦も、クルメグニク艦も、カブラール艦も、ハイヤーン艦も、星の海へ向かっているはずだ。
たとえここで地球が食われても、地球生命は終わらない。
そう信じたかった。
そう信じなければ、立っていられなかった。
その時だった。
戦況図に、奇妙な反応が出た。
「敵群内部に異常反応!」
地球防衛司令部で、管制官が叫んだ。
エドワード・カールレオンが振り返る。
「異常反応?」
「はい。北極天頂方向、落下中のバボラー群内部に、識別不能の生体変質反応!」
「宇宙怪獣の新型か」
「分かりません。ただ、色が……」
スクリーンに、拡大映像が出た。
宇宙怪獣の群れ。
青黒く、灰色に光る甲殻。
その中に、一体だけ、赤い個体がいた。
血のような赤。
燃えるような赤。
甲殻の隙間から、赤い組織が脈動している。
その個体は、地球へ向かっていなかった。
横を向いた。
隣のバボラーへ飛びかかった。
巨大な脚を絡め、甲殻を裂き、赤い触手のようなものを内部へ突き込む。
噛みつく。
食う。
そして、侵す。
襲われたバボラーの身体が痙攣した。
甲殻の下から赤い線が走る。
脚の関節が赤く染まる。
発光器官が変色する。
数秒後、そのバボラーもまた、赤くなった。
そして、別の個体へ襲いかかった。
「同士討ち……?」
管制官の声が震えた。
カールレオンは目を細めた。
虚数空間干渉装備の葉脈模様が、低く明滅する。
「いや」
彼は低く言った。
「感染している」
赤が広がっていた。
一体。
二体。
十体。
百体。
宇宙怪獣の群れの中で、赤い個体が増えていく。
まるで血管が走るように。
まるで火が燃え移るように。
まるで、群れそのものに別の命令が流し込まれているように。
赤く染まった個体は、地球への落下をやめた。
あるものは横へ逸れ、味方だった宇宙怪獣へ体当たりした。
あるものは上陸艇型の腹へ食いつき、内部の兵隊怪獣を赤く染めた。
高速型が赤く変わり、落下中の群れを横から切り裂いた。
バボラーの脚がバボラーを貫き、上陸艇型が自分の兵隊を吐き出す前に、赤い肉に食い破られた。
地上の兵士たちは、何が起きているのか分からなかった。
防衛線を踏み潰そうとしていたバボラーが、突然、背後から来た赤い個体に噛み砕かれた。
シェルターを叩いていた上陸艇型が、内部から赤く膨れ上がり、自壊した。
空を覆っていた敵群の一部が、突然、進路を変えて他の宇宙怪獣へ突っ込んだ。
「何だ……?」
獣化兵の一人が、血まみれの爪を下ろした。
「助かった、のか?」
答えはなかった。
ただ、赤い宇宙怪獣が、黒い宇宙怪獣を食っていた。
食って、増えていた。
地球防衛司令部で、カールレオンが叫んだ。
「解析しろ! 赤い個体は敵か味方か!」
「生体反応、宇宙怪獣です!」
「だが、攻撃対象は宇宙怪獣群です!」
「地球への落下ベクトルを失っています!」
「一部、地表へ落下します!」
「着弾地点は?」
「北極圏外縁、無人氷原!」
別の管制官が、震える声で言った。
「司令……赤い個体群の中に、クロノス系の生体マトリクス反応があります」
カールレオンの目が見開かれた。
「クロノス系?」
「はい。照合中……ロストナンバーズ系……超獣化兵五人衆の断片……それに、アルカンフェル閣下のマトリクス反応が微量に」
管制室が静まり返った。
カールレオンは、ゆっくりとスクリーンを見た。
赤い個体が、また一体、宇宙怪獣を食い破った。
その動きは獣じみていた。
だが、どこか見覚えがあった。
悪辣で。
しぶとくて。
食らいついたら離さない。
負け犬のようで、獣のようで、それでも最後まで役目を離さない。
「アプトム……」
カールレオンの声は、ほとんど息だった。
通信が入った。
ノイズだらけ。
言葉かどうかも分からない。
だが、確かに、何かが聞こえた。
『……言ったろ……』
赤い群れの中から。
宇宙怪獣の生体通信に混じって。
かすれた、笑うような声。
『食いでが……あるってよ……』
管制室の誰もが凍りついた。
アプトムは死んでいなかった。
いや、元の形ではもう生きていないのかもしれない。
だが、宇宙怪獣に飲み込まれ、その内部で捕食し、適応し、侵食し、赤い感染となって群れに広がっていた。
ロストナンバーズ。
失敗作。
規格外。
他者の形質を取り込み、進化する異物。
アプトムは、宇宙怪獣を食っていた。
そして、宇宙怪獣を自分に変えていた。
「全戦区へ通達!」
カールレオンが叫んだ。
「赤い個体を攻撃するな! 繰り返す、赤色変異個体を攻撃するな!」
「敵味方識別はどうしますか!」
「赤い個体は宇宙怪獣群を攻撃している! 地球への進路を取る個体のみ迎撃! それ以外は利用しろ!」
管制官たちが一斉に動き出す。
「北米戦区、赤色個体群が上陸艇型を内側から破壊!」
「シベリア方面、敵密度低下!」
「北欧防衛線、バボラー群が同士討ち!」
「グリーンランド第七区画上部、赤色反応が黒色個体を排除中!」
「第七区画、生存反応あり!」
その報告に、管制室の空気が震えた。
第七区画。
閉じられた隔壁。
もう駄目だと思われていたシェルター。
その上を叩いていた宇宙怪獣が、赤い何かに食われている。
内部には、まだ生存者がいる。
カールレオンは、拳を握った。
「救助隊を向かわせろ! 赤色個体の動線を避けろ!」
「了解!」
地上では、兵士たちも気づき始めていた。
赤い宇宙怪獣は、こちらを襲わない。
少なくとも、今は。
黒い宇宙怪獣を食っている。
赤いバボラーが、黒いバボラーの脚を噛み砕く。
赤い上陸艇型が、自分の腹から黒い兵隊怪獣を引きずり出して食う。
赤い高速型が、落下中の敵群を横から裂く。
その隙に、ゾアノイドたちが立ち上がった。
「撃つな! 赤いのは撃つな!」
「黒いのを狙え!」
「赤い個体が足止めしてる! 今だ!」
「メガスマッシャー班、赤の背後から撃て!」
戦場が変わった。
津波に呑まれるだけだった防衛線に、渦が生まれた。
赤い渦。
アプトムが作った侵食の渦。
無尽蔵に見えた敵群の中で、敵が敵を食い始めた。
人々はまだ何が起きているのか分からない。
地下シェルターのモニターにも、赤い怪物が映っていた。
子供が泣いた。
大人も震えた。
だが、その赤い怪物が黒い怪物を食い殺すと、誰かが呟いた。
「味方……なのか?」
誰も答えられなかった。
それでも、空を見た。
赤い色が広がっていく。
地球を覆っていた黒い群れが、内側から赤く染まっていく。
それは救いの光ではなかった。
美しい奇跡でもなかった。
食うか食われるかの、もっと醜悪で、生々しい反撃だった。
だが、地球にとっては、それが希望だった。
カールレオンはスクリーンを見上げたまま、低く言った。
「アプトム。お前、本当に食っているのか」
ノイズの向こうから、返事のようなものが返った。
『……まだ……足りねぇ……』
赤い感染が、さらに広がった。
地球を強襲した宇宙怪獣群は、黒から赤へ染め替えられていく。
誰もまだ、勝利とは言えなかった。
だが、初めて敵の無尽蔵さに穴が開いた。
飲み込まれるだけだった津波の中で、津波そのものを食う怪物が生まれた。
その名はアプトム。
クロノスの失敗作。
そして今、地球防衛線で最もおぞましい希望だった。