/*/ 東京新宿 クロノス極東統治拠点《クラウド・ゲート》 /*/
東京新宿。
かつて東京都庁と呼ばれた建物が、この街の象徴だった時代がある。
だが今、その象徴は塗り替えられていた。
クロノス極東統治拠点《クラウド・ゲート》。
都庁の数倍の高さと質量を持つ巨大複合統治施設。
行政区画。
軌道通信管制。
調整医療区画。
企業統合局。
防衛司令連絡層。
上層には、クロノス統治下の東京を見下ろす迎賓区画と、総帥用の私室があった。
その一室で、私は酒を飲んでいた。
夜景は、旧世界のものとは違う。
新宿の光は、以前より整然としている。
空には軌道交通の微かな航跡が走り、遠くには箱舟関連施設へ向かう輸送機の灯りが見える。
地球は生き残った。
宇宙怪獣戦役は終わった。
いや、終わったと呼ぶには、まだ早いのかもしれない。
太陽系外縁には赤いアプトム群体が展開している。
木星圏防衛線は再建中。
地球各地では復旧と慰霊と社会復帰が続いている。
それでも、今夜だけは静かだった。
私はナイト・ガウンを羽織り、グラスを傾ける。
上等な酒だった。
名前は知らない。
いや、聞けば分かるのだろうが、今はどうでもよかった。
獣神将の肉体は、人間形態でも強靭すぎる。
強い酒精も、ほとんど酔いにはならない。
舌と喉を通る熱。
香り。
その程度だ。
前世の自分なら、こんな酒を一杯飲んだだけで顔が熱くなっていたかもしれない。
そう思って、グラスの中の琥珀色を見た。
窓に映った自分の顔が見える。
緩くウェーブしたプラチナ色の髪。
白皙の肌。
整いすぎた顔。
前世の姿とは、かけ離れている。
腹が立つほどの美貌だった。
自分で言うのも何だが、ムカつくほどのイケメンである。
だが、この姿で生きている時間の方が、前世の人生より遥かに長い。
もう、どちらが本当の自分かなどと考える時期も過ぎていた。
私はアルカンフェルだ。
オタクだった記憶を持つ、地球生命の指揮個体。
そして今は、上等な酒を飲み、ヴァルキュリアのような金髪美女を侍らせている。
酒池肉林を楽しむほどの性質ではない。
だが、これでも十分に贅沢すぎる。
「閣下」
背後から声がした。
ヴァルキュリア・フォーシュバリ・リスカー。
金髪を肩へ流し、夜用の柔らかな衣を纏っている。
戦時の監察補佐でも、管理区画で端末を睨む女でもない。
だが、その目の芯は変わらない。
自分が何者としてここにいるのかを、常に測っている女だった。
「どうした」
私はグラスを持ったまま振り返る。
彼女は少し迷った後、静かに問うた。
「閣下は、人類発祥の頃から生きておられるのですよね?」
「うん? そうだ」
今さらの質問ではあった。
だが、彼女が今それを聞く理由は、なんとなく分かった。
「だが、私以外にも同時期に人間は製造されていた。だから、私が現生人類の祖というわけではない」
「そう、なのですか」
「ああ。私は指揮個体だ。最初の人間の一人ではあっても、唯一の祖ではない」
私はグラスを置いた。
「ただ、何度か妻を娶り、子を成したことはある」
ヴァルキュリアの目が、わずかに揺れた。
「子を」
「ああ」
遠い昔のことだった。
あまりにも遠い。
名も、顔も、声も、全てを鮮明に思い出せるわけではない。
だが、確かにあった。
誰かと共に過ごし、誰かを抱き、子を得た時間が。
「だから、薄く広く、現生人類に私の血が流れているとも言える」
ヴァルキュリアは、少しだけ視線を落とした。
「では、私にも……?」
「可能性はある」
私は彼女の髪を見た。
艶のある金髪。
リスカー家の血統と誇りを示すような色。
「髪の色的に、少し欧州圏は私の血が濃いかもしれないな」
言ってから、彼女が妙に静かなことに気づいた。
「どうした?」
ヴァルキュリアは答えなかった。
しばらく、彼女は自分の指先を見つめていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
「長寿の無聊を慰める一時の快楽で終わらぬよう努力して、御側にお仕えいたします」
その言葉は、柔らかかった。
だが、芯があった。
女としての言葉であり、監察官としての言葉でもあり、リスカー家の娘として差し出された自分を、自分の意思で選び直す言葉でもあった。
私は少しだけ黙った。
この女は面倒だ。
最初から分かっていた。
自尊心が強い。
傷つきやすい。
誇り高い。
認められたいという飢えがある。
それでいて、ただ慰められることを嫌う。
だからこそ、側女として寝所に置くだけでは拗れると思った。
監察席を与えた。
人造コントロールメタルを見せた。
危険物の前で、自分を保てるか試した。
彼女は保った。
少なくとも今のところは。
そして今、彼女は自分からここにいる。
家に差し出された娘としてではなく。
側女という役割だけでもなく。
ヴァルキュリア・フォーシュバリ・リスカーとして。
「そうか」
私は言った。
彼女の表情が、少しだけ硬くなる。
何かを待っている顔だった。
承認か。
拒絶か。
あるいは、また仕事の話へ逃げられることか。
私はグラスを置いた。
「だが、今夜はひと時の快楽に溺れよう」
ヴァルキュリアの呼吸が、ほんの少しだけ止まった。
次に、頬に淡い赤みが差す。
「閣下が、そのようなことを仰るとは思いませんでした」
「私も、いつも責任者でいたいわけではない」
「地球生命の責任者であられるのに?」
「責任者でも、夜くらいはある」
私は彼女へ手を伸ばした。
ヴァルキュリアは一瞬だけ視線を落とし、それから私の手を取った。
その指は冷たくない。
少し緊張している。
だが、逃げる気配はなかった。
「ヴァルキュリア」
「はい」
「今夜、リスカー家の娘でいる必要はない」
「……はい」
「監察補佐でいる必要もない」
「はい」
「私も、総帥でいる時間を少し休む」
彼女は、わずかに笑った。
「では、今夜の閣下は何でいらっしゃるのですか?」
「ただの長生きした男だ」
「ずいぶん贅沢な、ただの男ですね」
「自覚はある」
彼女の笑みが、今度は少し自然になった。
私は彼女の手を引いた。
窓の外では、戦後の東京が光っている。
その光の下に、まだ多くの傷がある。
死者の名簿。
解除を終えた兵士たち。
帰ってこない者たち。
外宇宙へ去った箱舟。
太陽系外縁の赤いアプトム群体。
全ては消えない。
明日になれば、また向き合う。
だが、今夜だけは。
私はヴァルキュリアを伴い、部屋の奥へ歩いた。
広い寝室。
白いシーツ。
大きなダブルベッド。
彼女はベッドの前で、もう一度だけ私を見た。
「閣下」
「何だ」
「ひと時で終わらせない努力は、明日からでもよろしいでしょうか」
「今夜は忘れろ」
「命令ですか」
「ああ」
ヴァルキュリアは、静かに微笑んだ。
「では、従います」
灯りが落ちる。
東京の夜景だけが、薄く部屋を照らしていた。
私たちは、その光を背にして、ベッドへ入った。