/*/ クロノス統治初期 先進国行政区 /*/
クロノス統治が始まって数年。
旧時代に激しく燃えていた社会問題の一つが、急速に沈静化した。
LGBT問題。
正確には、性別不一致をめぐる戸籍、医療、競技、トイレ、更衣室、学校、職場、兵役、婚姻制度の問題である。
クロノスは、そこに長い議論を持ち込まなかった。
身体を調整した。
男の身体を女へ。
女の身体を男へ。
骨格。
筋肉。
内分泌。
声帯。
皮膚。
体毛。
二次性徴。
外見。
代謝。
生殖機能については個体差と安全審査を要したが、それでも旧時代の医療とは比較にならない精度で、本人の望む性に身体を近づけることができた。
クロノス医療調整局は、それを「性別不一致治療調整」と呼んだ。
政治的な呼称ではない。
宗教的な呼称でもない。
医療分類だった。
そして、本人同意と審査を経て調整を受けた者たちは、驚くほど早くそれを受け入れた。
「もう、自分が何者なのか悩まなくていい」
最初の調整者の一人は、記者会見でそう言った。
「鏡を見るのが怖くなくなった」
別の一人は、泣きながら言った。
「身体を説明しなくていい。証明しなくていい。私は私だと、やっと身体が言ってくれる」
その言葉は、多くの当事者に刺さった。
旧時代には、診断書、ホルモン治療、手術、戸籍変更、社会的承認、トイレ使用、競技参加、職場の理解、家族の反応。
すべてが長く、重く、争いになった。
クロノスは、それを一つずつ説得しなかった。
身体を変えた。
法律上の性別は、調整後の身体記録に連動して更新された。
学校も職場も、競技団体も、行政窓口も、それに従った。
長年の論争が、拍子抜けするほど早く細っていった。
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もちろん、すべてが消えたわけではない。
性的指向は調整対象ではない。
同性を愛する者も、両性を愛する者も、誰も愛さない者も、変わらず存在した。
クロノスはそこには基本的に介入しなかった。
問題が激減したのは、主に「身体と性別の不一致」をめぐる領域だった。
当人が望むなら、身体を合わせる。
戸籍も合わせる。
競技区分も合わせる。
公共施設利用も合わせる。
それで済む。
それがクロノスの発想だった。
だが、旧時代の論争で利益や立場を持っていた者たちは反発した。
特に激しかったのは、女子競技に参加していた一部の自認女性選手だった。
彼女たちは、女性として扱われることを求めてきた。
だが、クロノスは言った。
ならば、身体も女性へ調整すればよい。
筋量、骨格、心肺機能、ホルモン値、競技適性を含め、女性競技区分に適合する身体へ。
その提案に、彼女たちの一部は沈黙した。
そして、反発した。
「身体調整を受けなければ女性として認めないのか」
「これは強制だ」
「性自認を身体で証明させるな」
彼女たちの主張は、旧時代の言葉としては成立していた。
だが、女子競技団体の反応は冷たかった。
「女子競技は、女子の身体条件を前提とする」
「調整技術が存在する以上、身体条件を揃えない理由はない」
「自認を尊重することと、競技上の公平性を放棄することは別である」
それは、長年言えなかった言葉だった。
クロノスの調整技術が、それを言えるようにしてしまった。
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人権団体も反発した。
声明は激しかった。
性別を国家が医療分類することに反対する。
身体調整を受けなければ社会的承認を得られない構造は、新たな強制である。
性別不一致者を“治療対象”として扱うことは、多様性の否定である。
クロノスは、社会の側を変えるのではなく、個人の身体を変えることで問題を消している。
それに対して、当事者団体の中でも意見は割れた。
旧来型の活動家は怒った。
だが、実際に調整を受けた者たちは、必ずしもその怒りに同調しなかった。
「多様性を守ると言われて、私は何年も苦しんだ」
「社会を変えるまで待てと言われた。でも、私の身体は毎日ここにあった」
「私は思想の象徴になりたいわけじゃない。普通に生きたいだけだ」
「調整を受けて、やっと活動家ではなく一人の女になれた」
「俺は男として働き、男として老いたい。それだけだ」
その声は強かった。
人権団体は困惑した。
守るべき当事者が、クロノスの調整を歓迎している。
国家による身体介入だ。
危険な前例だ。
そう言っても、当人たちは言った。
「それでも、私は救われた」
その言葉は、あまりにも重かった。
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クラウド・ゲートの会議室で、村上征樹は世論分析を見ていた。
「予想以上に、当事者側の受容が高いですね」
ヴァルキュリアが頷く。
「はい。特に長期間の性別違和、旧時代医療で満足な結果を得られなかった者、若年期から強い不一致を抱えていた者で、調整希望が集中しています」
アプトムが画面を眺めながら言った。
「人権団体より、本人たちの方がクロノス寄りってわけか」
「その傾向があります」
バルカスは満足そうに笑った。
「フォッフォッフォ。身体と意識が合わぬなら、身体を合わせればよい。実に単純じゃ」
村上は苦い顔をした。
「単純だからこそ怖いんです。社会の側が受け入れる努力をしなくなる」
ヴァルキュリアは淡々と答えた。
「社会的摩擦は減少しています」
「ええ。減っています。ですが、減り方がクロノスらしすぎます」
アプトムが笑った。
「思想で殴り合ってたら、横から身体を作り替えて解決。力技にも程があるな」
アルカンフェルは、静かに言った。
「本人が望むならよい」
村上が顔を上げる。
「望まない者は」
「強制するな」
アルカンフェルは即答した。
「だが、競技や公的区分に関わるなら、身体条件を無視するな」
ヴァルキュリアが記録する。
「性別不一致治療調整は本人同意を原則。非希望者への強制なし。ただし、競技、公的施設、医療統計、兵科分類等では身体条件を基準にする」
「それでよい」
アプトムがぼそりと言った。
「また燃えそうだな」
「もう燃えています」
ヴァルキュリアが答えた。
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だが、火種はそこで終わらなかった。
新たな問題は、調整を受けた者たちの姿だった。
美しかったのだ。
クロノスの性別不一致治療調整は、単に身体を変えるだけではなかった。
骨格の歪みを整える。
皮膚を滑らかにする。
ホルモンバランスを安定させる。
代謝を調整する。
過去のホルモン治療や手術痕を修復する。
声や顔つき、髪質、体型の不一致を整える。
その結果、調整後の者たちは、しばしば見違えるほど整った外見になった。
それは本人たちにとっては、救いだった。
ようやく自分の望む姿になれた。
ようやく鏡を見られる。
ようやく身体を嫌わずに済む。
だが、周囲は別のものも見た。
美。
老化の緩和。
体型の安定。
肌質の改善。
顔立ちの調和。
そして、それが医療として提供されている事実。
女性団体の一部が、声を上げた。
「なぜ性別不一致者だけが、美しくなる調整を受けられるのか」
最初は小さな投稿だった。
だが、瞬く間に拡散した。
私たちも身体に苦しんでいる。
産後の変化、加齢、体型、肌、骨格、月経、内分泌。
性別不一致だけが身体の苦しみなのか。
医療調整と美容調整の境界を誰が決めるのか。
障害や疾患がある者だけが、美しくなる権利を持つのか。
女にも、自分の身体を整える権利がある。
新しい団体が作られた。
女性身体調整権連盟。
彼女たちは、クロノス医療調整局の前で集会を開いた。
横断幕には、こう書かれていた。
美しくなる権利を、すべての女性に。
苦痛の証明を求めるな。
医療か美容かを国家が独占するな。
私たちにも調整を受ける権利がある。
その主張は、単なる美容要求ではなかった。
彼女たちは言った。
女性は長く、身体によって評価されてきた。
老い、出産、病気、ホルモン、体型、肌。
それらに苦しんできた。
クロノスが身体を整える技術を持つなら、なぜ救済対象を限定するのか。
性別不一致者が自分の身体を望む形にできるなら、女性もまた、自分の身体を望む形に整える権利があるのではないか。
それは、危険なほど説得力のある要求だった。
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人権団体は、さらに混乱した。
彼らは性別不一致治療調整には反対していた。
国家が身体を作り替えることは危険だと。
だが、女性団体は逆に要求した。
自分たちにも調整を受けさせろ、と。
しかも、その中には旧来のフェミニズム団体も含まれていた。
若い女性たちは、もっと率直だった。
なんで性別違和があれば綺麗にしてもらえて、普通の女は駄目なの?
産後の身体を戻したい。
生理を軽くしたい。
更年期を調整したい。
肌と骨格を整えたい。
男性基準の美容医療じゃなく、女性の身体苦痛を前提にした調整が欲しい。
美容って言葉で軽く見るな。毎日この身体で生きてるんだよ。
クロノス医療調整局には、問い合わせが殺到した。
美容調整は可能か。
加齢調整は可能か。
体型調整は可能か。
産後回復調整は医療か美容か。
月経負担軽減は治療か能力強化か。
更年期調整は公費対象か。
顔貌調整はどこまで許されるのか。
美しさは医療資源の対象になるのか。
ヴァルキュリアは、報告書に赤字で注記した。
性別不一致治療調整の成功により、身体調整権要求が一般女性層へ拡大。
医療、福祉、美容、階級格差、ジェンダー問題が再接続。
放置すれば、調整資源をめぐる新たな社会運動へ発展。
アプトムがその注記を読んで、乾いた笑いを漏らした。
「一つ片付けたら、十個増えたな」
村上は頭を抱えた。
「予想できたはずです。身体を望む形に変えられる技術を見せれば、当然、他の人たちも求めます」
バルカスは悪びれずに言った。
「技術的には可能じゃ」
「博士」
「何じゃ」
「そこで簡単に言わないでください」
「可能なものは可能じゃ」
ヴァルキュリアが冷静に言う。
「問題は資源配分、審査基準、社会的公平性、階級固定化です。高所得者だけが美しく若くなる場合、社会不安を招きます」
アプトムが言った。
「逆に公費で全員にやるのか?」
「財源が足りません」
「だろうな」
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アルカンフェルは、しばらく黙っていた。
性別不一致治療。
女子競技区分。
人権団体の反発。
当事者の歓迎。
女性団体の美容調整要求。
身体を変える技術は、社会の線引きを次々に壊していく。
「身体は政治になるのだな」
彼は言った。
村上が頷く。
「旧時代からそうでした。ただ、クロノスは本当に身体を変えられる。だから、政治問題が一気に医療資源の問題になります」
「本人が苦しんでいるなら調整すればよい」
バルカスが言う。
「どこまでを苦しみと認めるかが問題です」
村上が返す。
「性別不一致。障害。疾患。老化。体型。外見。出産後の変化。更年期。どこまで医療で、どこから美容なのか」
アプトムが笑う。
「人間は面倒だな」
ヴァルキュリアが即答する。
「統治です」
「出たよ」
アルカンフェルは、資料を閉じた。
「基準を作れ」
ヴァルキュリアが姿勢を正す。
「医療調整と美容調整の区分ですか」
「そうだ」
「性別不一致治療調整は継続」
「継続しろ」
「本人同意を必須」
「当然だ」
「競技区分は調整後身体を基準」
「そうしろ」
「美容目的の全身調整は」
アルカンフェルは少し考えた。
「禁止するな」
村上が驚いたように顔を上げた。
「認めるのですか」
「制限付きで認めろ」
アルカンフェルは言った。
「人間は美を欲しがる。禁じれば地下化する。闇調整が生まれる。ならば、表で管理しろ」
ヴァルキュリアが記録する。
「美容調整を登録制、上限付き、段階制、健康リスク審査付きで認可。公費対象は医療必要性のあるものに限定。純美容目的は自己負担。ただし搾取的価格設定と未成年への過度な施術は禁止」
村上が言う。
「女性団体は、それでは納得しないでしょう」
「だろうな」
アルカンフェルは言った。
「だが、全員を無制限に美しくする資源はない」
アプトムが笑った。
「言い方」
ヴァルキュリアは淡々と修正した。
「外部向けには、“身体調整資源には限りがあり、医療必要性の高い調整を優先する”と表現します」
「好きにしろ」
そこで、アルカンフェルは再び資料に目を落とした。
若返り。
老化抑制。
肌質改善。
内分泌安定化。
生殖機能維持。
出生率。
人口構成。
軍団維持。
それらの項目が、彼の中では一つの線で結ばれていた。
「若く、美しいままでいたいと言うなら、死ぬまで子を産める体に調整してしまえ」
会議室の空気が凍った。
アルカンフェルは、あくまで淡々と続けた。
「軍団の維持には、その方が有用だ」
沈黙。
次の瞬間、村上が両手で顔を覆った。
ヴァルキュリアは即座に記録区分を最高機密へ切り替えた。
アプトムは一瞬だけ笑いかけ、すぐに真顔になった。
「総帥。それ、外で言ったら終わるぞ」
村上が顔を上げる。
「終わります。確実に終わります」
アルカンフェルは不思議そうに問うた。
「なぜだ。若さを望む。美を望む。身体機能の維持を望む。ならば、生殖機能も維持すればよい。種族維持の観点では合理的だ」
「その“種族維持の観点”が駄目です」
村上の声は、いつもより強かった。
「女性団体は、自分の身体を自分のために整える権利を求めています。そこへ“死ぬまで子を産める体にする”などと言えば、女性の身体を出産資源として見ていると受け取られます」
バルカスが首を傾げる。
「実際、繁殖能力は種族維持の重要資源じゃろう」
「博士も黙っていてください」
だが、バルカスはさらに首を傾げた。
「いや、しかしじゃな。若いままの姿で生殖系だけ老化させるのは、全体のバランスから逆に不自然じゃぞ。技術的に挑戦する価値はあるが、全部若いままではいかんのかの?」
村上は、数秒だけ黙った。
そして、低く言った。
「博士。それも外では絶対に言わないでください」
「なぜじゃ。調整としては整合性の問題じゃ」
「そこが問題なんです。女性の若返り調整の話を、生殖機能維持と一体化させると、“若く美しくいたいなら産める身体であれ”という圧力になります」
バルカスは不思議そうに言った。
「本人が望まぬなら使わねばよいだけではないか」
「社会はそう単純に動きません」
村上は答えた。
「産める身体に調整できると分かった時点で、家族、配偶者、宗教団体、企業、行政、国家が圧力をかける可能性が出ます。本人が望む美容調整が、いつの間にか生殖管理に接続されるんです」
アプトムが低く笑う。
「今日の村上、胃に穴が空きそうだな」
「もう空いている気がします」
ヴァルキュリアが画面に想定見出しを表示する。
「アルカンフェル総帥、女性を死ぬまで産める体へ調整と発言」
「クロノス、女性身体調整を人口政策へ利用か」
「美しくなる権利の裏に生殖管理」
「バルカス博士、若返り調整と生殖機能維持の一体化を示唆」
「女性団体、総帥発言に激怒」
アプトムが顔をしかめた。
「地獄みたいな見出しだな」
「はい。地獄です」
アルカンフェルは、少しだけ不満そうだった。
「私は強制しろとは言っていない」
「聞いてもらえません」
村上は即答した。
「しかも、“軍団の維持”という言葉が最悪です。女性を兵站資源扱いしているように聞こえます」
「軍団の維持には人口が必要だ」
「事実でも言い方があります」
「またそれか」
「またそれです」
アプトムが肩を震わせた。
「総帥、村上に何回それ言われてんだよ」
/*/
ヴァルキュリアは、外部向け文言を組み立て始めた。
「総帥発言を次のように置換します」
画面に、修正文案が表示される。
加齢に伴う身体機能低下、妊娠・出産・産後回復、更年期症状、不妊治療については、本人の意思を最優先とし、医療調整の対象として検討する。
生殖機能に関わる調整は、本人同意、倫理審査、医療適応、将来設計支援を必須とし、国家または家族による強制を禁じる。
美容調整と生殖機能調整は明確に区分し、女性の身体を人口政策の道具として扱わない。
村上は大きく頷いた。
「それなら出せます」
アプトムが吹き出した。
「すげぇな。“死ぬまで子を産める体にしろ”が“本人同意と倫理審査を必須”になったぞ」
「そうしなければ出せません」
ヴァルキュリアは平然と言った。
アルカンフェルは、文案を見て言った。
「長い」
「必要です」
「私の言葉ではない」
「外に出せる総帥の言葉です」
村上が補足する。
「総帥。女性の身体調整は、特に慎重に扱わなければなりません。歴史的に、女性の身体は国家、宗教、家族、医療、産業から管理され続けてきました。そこにクロノスの調整技術が入ると、救済にもなりますが、支配にもなります」
アルカンフェルは村上を見た。
「本人が望むならよい、と私は言った」
「はい。そこは重要です」
「強制するな、とも言った」
「はい。だから、その部分を前面に出してください」
ヴァルキュリアが記録する。
身体調整権広報方針:
本人意思最優先。
生殖機能調整への国家・家族・雇用者・配偶者による強制禁止。
美容調整と医療調整の区分明確化。
産後回復・更年期・月経困難症・不妊治療は医療優先枠。
純美容目的は登録制・自己負担・上限制。
未成年への純美容調整禁止。
総帥発言の外部文言、村上確認必須。
アプトムが呟く。
「最後の一文、もう定番になってんな」
村上は疲れた声で言った。
「必要なんです」
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だが、バルカスはまだ納得していなかった。
「しかし、長命化や若返り調整をするなら、生殖機能も維持する方が自然じゃ。卵巣、子宮、内分泌、骨盤、血管、代謝。若い外見だけを保ち、生殖系を老化させたままにするのは、調整としては不完全じゃろう」
村上は慎重に答えた。
「医学的にはそうかもしれません。ですが、本人が望まない限り、生殖機能を維持・強化する調整はしてはいけません」
「なぜじゃ」
「妊娠可能であることと、妊娠を望むことは別だからです」
その言葉に、会議室が少し静まった。
村上は続ける。
「若く美しくありたい女性が、必ず子供を産みたいわけではありません。産みたい人もいる。産みたくない人もいる。産めないことに苦しむ人もいる。産める身体であることを重荷に感じる人もいる。そこを一括りにすると、必ず傷つく人が出ます」
ヴァルキュリアが赤字で注記する。
重要:妊娠可能性と妊娠意思を分離して扱うこと。
バルカスは、少しだけ考えた。
「では、生殖系だけ老化を許容する選択肢と、生殖系も含めて維持する選択肢を分けるべきということか」
「はい」
村上は頷いた。
「本人が明確に望むなら、生殖機能維持調整も医療として検討できます。ですが、美容調整の標準パッケージに入れてはいけません」
「標準ではなく、選択式か」
「そうです」
バルカスは髭を撫でた。
「面倒じゃのう」
「身体の自己決定権とは、面倒なんです」
アプトムが感心したように言った。
「今日の村上、現代倫理フィルターとしてかなり仕事してるな」
「いつもしているつもりです」
アルカンフェルは、しばらく黙っていた。
そして言った。
「人間は、自分の身体機能すら選びたいのか」
村上は頷いた。
「はい。特に生殖に関しては」
「種族維持に関わる」
「だからこそです」
村上は静かに答えた。
「種族維持に関わるから、個人の意思を無視すると支配になります」
アルカンフェルは、その言葉を少しだけ考えた。
「面倒だな」
「はい」
「だが、覚えておく」
村上は少しだけ表情を緩めた。
「お願いします」
/*/
数日後、クロノス医療調整局は新しい制度案を発表した。
性別不一致治療調整は継続。
美容・生活改善調整は登録制で限定解禁。
産後回復、更年期負担軽減、月経困難症、内分泌安定化、不妊治療、瘢痕修復は医療または準医療として優先枠。
顔貌美化、体型美化、若返り、肌質改善は自己負担の登録制。
そして、生殖機能に関わる調整については、特別な一文が加えられた。
妊娠・出産・生殖機能に関わる調整は、本人の明確な意思を最優先とする。
国家、家族、配偶者、雇用者、宗教団体、医療機関による強制、誘導、圧力を禁じる。
妊娠可能性の維持と妊娠意思は別個のものとして扱い、本人の選択を尊重する。
若返り・美容調整に生殖機能維持を自動的に含めることを禁じ、個別同意と医療説明を必須とする。
女性団体は、一定の勝利と受け止めた。
同時に、警戒も解かなかった。
クロノスの技術は救いになる。
だが、女性の身体を人口政策の道具にさせてはならない。
美しくなる権利は、産まされる義務ではない。
調整を望む自由と、調整を拒む自由を同時に守れ。
人権団体は、なお批判した。
身体調整が制度化されれば、社会的圧力は必ず生まれる。
本人同意という言葉だけでは足りない。
国家が女性の身体機能を管理する時代が始まった。
その批判もまた、正しかった。
だが、産後の身体不調から解放された女性もいた。
更年期症状が軽くなった者もいた。
不妊治療で救われた夫婦もいた。
瘢痕修復で顔を上げられるようになった者もいた。
若返り調整を望む者もいた。
妊娠機能の維持を望む者も、望まない者もいた。
身体を変える技術は、また一つ社会の線を壊した。
/*/
クラウド・ゲートで報告を受けたアルカンフェルは、短く言った。
「本人の意思を最優先、か」
村上が頷く。
「はい」
「種族維持よりもか」
「その問いを外で言わないでください」
アプトムが笑った。
「また出たぞ」
アルカンフェルは、少しだけ目を細めた。
「分かっている」
村上は本当に少し驚いた。
「ありがとうございます」
バルカスが楽しげに笑う。
「フォッフォッフォ。閣下も学習しておられる」
ヴァルキュリアは淡々と記録した。
総帥、身体調整権問題において本人意思優先原則を確認。
ただし、種族維持観点の発言は外部非公開継続。
バルカス博士の生殖系維持発言も外部非公開。
若返り調整と生殖機能維持は制度上分離。
村上確認済。
アプトムが最後の一文を見て、また笑った。
「もう印鑑みたいだな、村上確認済」
村上は深くため息をついた。
「その印鑑がないと、世界が燃えるんです」
アルカンフェルは、窓の外の地球を見た。
作られた種族。
兵器として設計され、繁殖し、増え、文化を作り、自分の身体の意味まで問い始めた生き物。
その種族は、今や自分の身体を選びたいと言っている。
若くありたい。
美しくありたい。
子を産みたい。
子を産みたくない。
女でありたい。
男でありたい。
どちらでもありたくない。
自分で決めたい。
アルカンフェルには、やはり面倒に見えた。
バルカスには、技術的な不整合が気になった。
村上には、その面倒さこそが人間に見えた。
「ならば、管理しろ」
アルカンフェルは言った。
「望む者には道を作れ。望まぬ者には押し付けるな。だが、闇に潜らせるな」
ヴァルキュリアが頷く。
「御意」
クロノスは、また一つ学んだ。
身体を変える技術は、救いになる。
だが、誰のために変えるのかを間違えれば、支配になる。
その境界を、クロノスは制度で引こうとした。
強引に。
冷徹に。
そして、村上征樹の胃を削りながら。