アルカンフェル転生   作:ぶーく・ぶくぶく

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第三十八号避難民収容区

 

/*/ 数か月後の難民キャンプ /*/

 

 

 

 かつて、その場所は地図上で《第三十八号避難民収容区》と呼ばれていた。

 

 人口、約十二万。

 

 内戦と旱魃、周辺軍閥による略奪によって故郷を追われた人々が、国際機関の張った天幕の下で暮らしていた。

 

 道路はなかった。

 

 雨が降れば地面は泥沼となり、乾けば風が土埃を巻き上げた。

 

 水場には毎朝長い列ができた。

 

 食料配給の日には、袋を受け取るために何千人もの人々が押し寄せた。

 

 配給車が遅れれば暴動が起きた。

 

 倉庫へ食料が届けば、夜には武装集団が襲った。

 

 医療用天幕には、地雷で手足を失った者、感染症に冒された者、栄養失調の子供、老衰した老人があふれていた。

 

 国際NGOは二十七年間、この地域で活動していた。

 

 井戸を掘った。

 

 学校を建てた。

 

 食料を配った。

 

 義足を配った。

 

 女性のための保護施設を作った。

 

 職業訓練も行った。

 

 だが、戦闘が起きるたびにすべてが壊された。

 

 配給所は略奪され、教師は逃げ、井戸は軍閥に占拠された。

 

 援助は人々を生かした。

 

 しかし、街を作ることはできなかった。

 

 その難民キャンプを、クロノスが接収した。

 

 それから四か月。

 

 かつての国際NGO関係者たちは、視察用車両の窓から外を見て、言葉を失っていた。

 

# /*/

 

 天幕はほとんど残っていなかった。

 

 区画整理された道路が延びている。

 

 排水溝が掘られ、簡易舗装が敷かれている。

 

 両脇には低層集合住宅が並んでいた。

 

 建物の一階には商店が入っている。

 

 穀物店。

 

 衣料品店。

 

 工具店。

 

 食堂。

 

 薬局。

 

 理髪店。

 

 修理工房。

 

 露店には野菜、果物、干し肉、日用品が並び、客が電子通貨端末を使って代金を払っていた。

 

 配給を受け取る列ではない。

 

 買い物をする人々の列だった。

 

 通りを、作業服姿の男たちが歩いている。

 

 建設現場から帰る者。

 

 浄水施設へ向かう者。

 

 倉庫で働く者。

 

 公共農場へ向かう者。

 

 腕章の色によって、所属する職場が分けられている。

 

「ここが……同じ場所なのですか」

 

 NGO視察団の一人がつぶやいた。

 

 クロノス行政官が答えた。

 

「旧第三十八号避難民収容区です。現在の行政名称は、第三十八復興都市区となっています」

 

「都市区?」

 

「人口が十万人を超えておりますので」

 

 バスの窓から、小学校の校庭が見えた。

 

 子供たちが走り回っている。

 

 以前なら、栄養失調で立つことすらできなかった子供たちだった。

 

 校舎の横には診療所がある。

 

 だが、その前に患者の列はない。

 

 代わりに、定期検診を待つ住民たちが、番号札を持って椅子へ座っていた。

 

 視察団長を務める白髪の女性、エレナ・ホフマンは、窓の外を見たまま言った。

 

「私たちが何十年とかけても救えなかった難民キャンプが、数か月で健全な経済活動を行う街へ変貌している……」

 

 隣に座る若い職員が答えた。

 

「でも、自由は制限されています」

 

 エレナはすぐには返事をしなかった。

 

 道路脇で、両脚のある男が荷車を押していた。

 

 彼の顔を見覚えていた。

 

 名前はサミル。

 

 三年前、対人地雷を踏み、両脚を膝上から失った。

 

 NGOが義足を提供したが、断端部の感染が悪化し、ほとんど寝たきりになっていた。

 

 今、その男は自分の足で歩いていた。

 

 少し太い。

 

 筋肉の付き方も、人間のそれとは違う。

 

 だが、間違いなく二本の脚だった。

 

 彼は荷車を止め、近くにいた子供を抱き上げた。

 

 幼い娘らしい。

 

 かつての彼には、できなかったことだった。

 

 エレナは静かに言った。

 

「四肢欠損者でいる自由を選ぶ人間が、どれだけいる?」

 

「選択権の問題です」

 

 若い職員が反論した。

 

「本人が望むかどうかに関係なく、調整槽へ入れられたんですよ」

 

「分かっているわ」

 

「人間ではなく、軍用獣化兵にされた」

 

「それも分かっている」

 

「なら――」

 

「でも、あの人に聞いてみる?」

 

 エレナは窓の向こうのサミルを指した。

 

「あの人に、『両脚を返す代わりに調整を受けるのは嫌だったか』と」

 

 若い職員は黙った。

 

「だからといって、強制してよい理由にはなりません」

 

「そうね」

 

 エレナは否定しなかった。

 

「それでも、答えを聞くのが怖いのは、私たちの方かもしれない」

 

# /*/

 

 視察団は市場で車を降りた。

 

 最初に気づいたのは、静けさだった。

 

 人は多い。

 

 商人の呼び声も聞こえる。

 

 子供も走っている。

 

 荷物を運ぶ者もいる。

 

 それでも、以前のキャンプにあった切迫した騒音がない。

 

 食料を奪い合う怒号。

 

 配給の順番をめぐる殴り合い。

 

 武装した男たちの威嚇。

 

 泣き叫ぶ子供。

 

 それらが消えていた。

 

 店先では、袋入りの穀物が定価で売られている。

 

 価格は電子表示され、勝手に変更できない。

 

 商品の脇には、クロノス物流公社の印があった。

 

「支援物資を販売しているのですか」

 

 NGO職員が尋ねた。

 

 案内役の行政官が答える。

 

「初期復興物資です。クロノスが卸売価格を補助しています」

 

「以前は無償で配っていました」

 

「現在も、乳幼児用栄養食と緊急医薬品は無償です。それ以外は原則として購入します」

 

「収入のない者は?」

 

「仕事を斡旋します」

 

「働けない者は?」

 

「治療します」

 

「治療しても働けない者は?」

 

 行政官は少し考えた。

 

「現在、この都市区には該当者がおりません」

 

 視察団の空気が固まった。

 

「高齢者も?」

 

「調整済みです」

 

「障害者も?」

 

「調整済みです」

 

「末期疾患の患者は?」

 

「回復可能な者は調整済みです。回復不能と判定された者はいませんでした」

 

 若い職員が低い声で言った。

 

「全員を獣化兵にした」

 

「はい」

 

 行政官は平然と答えた。

 

「正規軍用規格です。ただし、未訓練者は自らの意思で獣化できません」

 

「軍用規格を民間へ戻したのですか」

 

「平時は民間人です。有事には予備役として招集されます」

 

「危険では?」

 

「獣神将閣下の統制下にあります」

 

 行政官は当然のこととして続けた。

 

「暴走、反乱、集団獣化が発生しても、思念波によって即座に停止させられます。治安上の問題はありません」

 

「それを、治安上の問題がないと呼ぶのですか」

 

「実際、ありません」

 

 価値観が噛み合っていなかった。

 

# /*/

 

 市場の一角で、人だかりができた。

 

 争いではなかった。

 

 新しい商品が入荷したらしく、店主が説明している。

 

 視察団の一人が、周辺を見回した。

 

「犯罪発生率は?」

 

 行政官が端末を確認する。

 

「接収前と比較して、九十八・七パーセント減少しました」

 

「九十八……」

 

「殺人、武装強盗、集団略奪は、直近二か月間ゼロです」

 

「窃盗は?」

 

「軽微なものが七件」

 

「それだけ?」

 

「はい」

 

 以前、この地域では一日に何十件も略奪が起きていた。

 

 配給用小麦をめぐって人が死んだ。

 

 水の容器を盗まれた家族が、翌日まで飲めずに倒れた。

 

 医薬品は闇市場へ流れ、武装組織が価格をつり上げた。

 

 それが、四か月で消えている。

 

「調整された人たちは、犯罪も犯さなくなった」

 

 視察団の治安担当者が、信じられないという顔で言った。

 

「考えられない……」

 

 行政官が訂正した。

 

「調整そのものに犯罪抑制効果があるわけではありません」

 

「では、なぜ?」

 

「職業、給与、住居、食料購入手段を与えました。犯罪を犯す経済的理由が減少しています」

 

「それだけでは、九十八パーセントも減りません」

 

「違反行為への処罰が確実だからです」

 

 行政官は淡々と答えた。

 

「武装略奪、放火、殺人を伴う暴動は、即時制圧します。主導者は処刑されます」

 

 市場を歩いていた視察団員たちの足が止まった。

 

「裁判は?」

 

「記録、証言、生体情報を照合し、軍事法廷が審理します」

 

「どのくらいの期間で?」

 

「原則四十八時間以内です」

 

「短すぎる」

 

「犯罪事実が明白な場合に、長期拘束を続ける必要はありません」

 

「誤判があったらどうするのです」

 

「誤判を防ぐため、記憶照合と生体記録を使います」

 

 行政官は市場の店を指した。

 

「以前、商人は商品を並べれば奪われました。今は奪われません。輸送業者は荷物を運べます。農民は収穫物を持ち込めます。住民は給与を使えます」

 

「恐怖で秩序を維持している」

 

「恐怖だけでは商店は増えません」

 

 行政官は答えた。

 

「恐怖だけでは、住民は商品を買いません。働き、賃金を受け取り、必要な物を選び、明日のために貯蓄する。それは住民自身が行っています」

 

「しかし、その基礎に処刑がある」

 

「略奪されないという確信があります」

 

 どちらも間違っていなかった。

 

# /*/

 

 視察団は、旧医療区画へ向かった。

 

 そこにはもう、破れた天幕はなかった。

 

 代わりに、低い白色の建物が並んでいる。

 

 受付には《生体再建・予備役登録施設》と書かれていた。

 

 施設の外で、一人の女性が洗濯物を畳んでいた。

 

 エレナは彼女を知っていた。

 

 名はアーシャ。

 

 砲撃によって右腕を失い、顔にも大きな火傷を負っていた。

 

 以前は人目を避け、保護区画の奥から出ようとしなかった。

 

 今、その顔に火傷の痕はない。

 

 両腕で洗濯物を持っている。

 

「アーシャ?」

 

 エレナが呼びかけた。

 

 女性は顔を上げた。

 

 数秒、目を見開く。

 

「エレナ先生?」

 

 二人は抱き合った。

 

「腕が……」

 

「戻りました」

 

 アーシャは右手を開き、指を曲げた。

 

「最初は怖かったです。獣にされると思った」

 

「嫌ではなかった?」

 

「嫌でした」

 

 若いNGO職員が反応した。

 

「やはり、無理やりだったのですね」

 

「はい」

 

 アーシャはあっさり認めた。

 

「泣きました。逃げようともしました。眠らされて、気づいたら槽の中でした」

 

「それなら、クロノスを恨んでいる?」

 

 アーシャは右手を見た。

 

 指先で左腕を触る。

 

「分かりません」

 

「分からない?」

 

「勝手に身体を変えられたことは、今でも怖いです」

 

 彼女は少し離れた場所で遊ぶ子供を見た。

 

「でも、息子を両腕で抱けます」

 

 声がわずかに震えた。

 

「自分で服を着られます。料理ができます。仕事ができます。給料をもらって、自分で食べ物を買えます」

 

「獣化兵にされたことは?」

 

「自分では獣化できません。訓練を受けていないから」

 

「予備役登録されています」

 

「はい」

 

「戦争になれば、戦わされるかもしれない」

 

 アーシャはしばらく考えた。

 

「前の戦争では、戦えないまま腕を失いました」

 

 誰も言葉を挟めなかった。

 

「次に誰かが街を襲うなら、今度は子供を守れるかもしれない。それが悪いことなのか、私には分かりません」

 

 若い職員は何も答えられなかった。

 

# /*/

 

 午後。

 

 視察団は都市区庁舎の屋上へ上がった。

 

 眼下に街が広がっている。

 

 建設中の住宅。

 

 稼働する浄水施設。

 

 市場。

 

 学校。

 

 診療所。

 

 公共農場。

 

 その向こうには、新しい道路が延びていた。

 

 四か月前まで、道路などなかった。

 

 エレナは手すりに手を置いた。

 

「私たちは、この場所へ二十七年いました」

 

 誰に向けるでもなく言った。

 

「人を救おうとした。少なくとも、救っているつもりだった」

 

 同行していた元同僚がうなずく。

 

「実際に多くの命を救いました」

 

「でも、毎年同じ数だけ新しい難民が来た。配っても、壊された。学校を作っても、教師が殺された。井戸を掘っても、軍閥に奪われた」

 

 眼下では、夕方の市場がにぎわい始めている。

 

「クロノスは、それを数か月で終わらせた」

 

「終わらせたと言えるでしょうか」

 

 若い職員が言った。

 

「選択の自由はない。身体を改造される。犯罪には死刑。獣神将の思念波で、住民の身体を止められる」

 

「ええ」

 

「こんな社会を成功例として認めてしまえば、私たちが守ってきたものは何だったのですか」

 

 エレナは答えなかった。

 

 守ってきたもの。

 

 生命。

 

 人権。

 

 選択。

 

 尊厳。

 

 そのどれも間違いではない。

 

 だが、眼下にいる人々は、昨日まで援助を待つ難民だった。

 

 今日は労働者であり、商人であり、教師であり、消費者だった。

 

 自分で働き、自分で買い、自分の家へ帰る。

 

 それもまた尊厳ではないのか。

 

 クロノスは、選ばせなかった。

 

 しかし、結果だけを見れば、彼らが二十七年間望んだものの多くが、すでに実現している。

 

 視察団の治安担当者が、低い声で言った。

 

「これが、一日で世界を統一した組織の力か……」

 

 建設現場では、夕刻の終了鐘が鳴った。

 

 作業員たちが道具を片付け、街へ戻っていく。

 

「恐ろしい」

 

 その言葉が、風に消えた。

 

 何が恐ろしいのか。

 

 誰も明確には言えなかった。

 

 拒否を認めないことか。

 

 命令に従わぬ者を処刑することか。

 

 人間を軍用獣化兵へ作り替えることか。

 

 それとも。

 

 自分たちが正しいと信じてきた方法では何十年かけても成し遂げられなかったことを、クロノスが数か月で実現してしまったことか。

 

# /*/

 

 その夜。

 

 視察団は、かつて援助団体の宿営地だった建物に泊まった。

 

 窓の外には、街の灯が見える。

 

 以前は、夜になると焚き火と銃声しかなかった。

 

 今は商店の灯。

 

 住宅の灯。

 

 学校の宿直灯。

 

 工房の明かり。

 

 小さな街の夜景が広がっていた。

 

 エレナの端末へ、視察報告書の草案が表示されている。

 

> クロノス統治下における旧第三十八号避難民収容区は、短期間で著しい衛生・治安・雇用・商業上の改善を示した。

 

 そこまで書いて、手が止まった。

 

 次に何を書くべきか分からなかった。

 

> ただし、住民の身体的自己決定権、移動の自由、治療拒否権、司法手続および政治的自由には重大な制約が存在する。

 

 それも事実だった。

 

 もう一行加える。

 

> 住民の多くは、制度への恐怖や不満を表明しつつも、身体機能の回復、雇用、所得、治安改善について強い肯定的評価を示している。

 

 矛盾した報告だった。

 

 だが、現実そのものが矛盾していた。

 

 扉がノックされた。

 

 若い職員が入ってくる。

 

「眠れませんか」

 

「あなたも?」

 

「はい」

 

 彼は窓の外を見た。

 

「僕は、ここへ来る前、クロノスが住民を奴隷にしていると思っていました」

 

「今は?」

 

「分かりません」

 

「そう」

 

「自由ではない。でも、以前より生きているように見える」

 

「ええ」

 

「僕たちは、どちらを守ろうとしていたのでしょう」

 

 エレナは答えなかった。

 

 遠くで、夜間市場の終了鐘が鳴る。

 

 店主たちが戸を閉める。

 

 商品を盗まれる心配もなく。

 

 明日また店を開けられると信じて。

 

 クロノスは人々へ尋ねなかった。

 

 治療を受けたいか。

 

 獣化兵になりたいか。

 

 働きたいか。

 

 秩序に従いたいか。

 

 ただ、傷を治し、仕事を与え、給与を払い、店を開かせた。

 

 そして、それを暴力で壊そうとした者を排除した。

 

 優しい社会ではなかった。

 

 自由な社会でもなかった。

 

 だが、そこにはもう難民キャンプはなかった。

 

 街があった。

 

 それこそが、彼らにとって最も恐ろしい事実だった。

 

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