/*/ 太陽系外縁 指定空虚宙域 /*/
火星は、まだ遠かった。
赤い星は、投影映像の中にしかない。
ここは太陽系外縁。
惑星軌道からも、主要航路からも、天文観測帯からも外された指定空虚宙域。
周囲にあるのは、観測機群、隔離フィールド、アプトム群体の防衛嚢、そしてクロノスが建造した重力実験用の巨大な空間固定リングだけだった。
リングは、直径数百キロ。
物理的な金属構造物というより、重力制御器と空間安定装置を組み合わせた巨大な実験枠だった。
中央には何もない。
何も置いてはならない。
そこに、これから疑似特異点が生まれる。
アルカンフェルは、実験リングの中心へ進んだ。
ギガンティックではない。
通常の殖装でもない。
人間形態のまま、白い衣をまとい、静かに宇宙空間へ立っている。
真空も、放射線も、低温も、彼には意味を持たない。
その対面に、村上征樹がいた。
再調整を受け、正式なゾアロードとなった男。
かつてはプロトゾアロードとして、壊れかけの身体で五年を生き延びた逃亡者。
今は、クロノス神将の一人として、アルカンフェルと向かい合っている。
村上の表情は固い。
恐怖ではない。
自分の力が何を起こし得るか、分かっている者の顔だった。
実験管制室では、バルカスが端末群の前に立っていた。
目は輝いている。
だが、その背後にはヴァルキュリアがいる。
彼女の前には、即時停止権限を持つ監察端末が置かれていた。
バルカスが暴走した場合、実験を止める。
アルカンフェルが続行を命じない限り、ヴァルキュリアの停止命令は全系統に優先する。
バルカスは、その端末をちらりと見て、少しだけ口を尖らせた。
「信用がありませぬな」
「あります」
ヴァルキュリアは淡々と答えた。
「ただし、監視が必要な種類の信用です」
「言い方というものが」
「正確です」
李・エンツイは、管制室の右側に立っていた。
右目を髪で隠し、露出した左目だけで実験空間を見ている。
空間切断と空間縫合のための待機。
万が一、疑似特異点の連星運動が実験枠を超えた場合、李・エンツイが空間ごと切り離す。
その隣には、エドワード・カールレオン。
葉脈のような意匠を持つ装備に身を包み、虚数空間へ逃がすべき余剰歪みを計測していた。
シンは電荷付与系統をまだ接続していない。
今回は第一段階。
電荷もスピンも与えない。
火星も関係ない。
ただ、アルカンフェルと村上が、疑似重力核をどこまで正確に同調させられるかを見るだけだった。
「第一段階、開始します」
ヴァルキュリアが告げた。
「出力上限、理論値の〇・〇〇〇一二パーセント。質量相転移禁止。虚数空間膜への接触禁止。疑似特異点連星距離は安全域を維持。村上神将の生体波動に乱れが生じた時点で停止します」
バルカスが軽く咳払いする。
「そこまで慎重にせずとも」
「停止条件を追加します」
「何をですかな」
「バルカス博士が『もう少し出力を』と言った場合、警告を発します」
管制室の何人かが、咳き込んだ。
バルカスは不満そうに髭を撫でる。
「冗談ですかな」
「半分は」
「残り半分は」
「本気です」
通信越しに、アプトムの声が割り込んだ。
『博士、諦めろ。お前は信用されてるから止められてんだよ』
「お前に言われるとは心外じゃ」
『俺も似たような扱いだから分かるんだよ』
アルカンフェルの声が、実験空間から届いた。
「始める」
管制室が静まった。
村上が息を吐く。
「了解しました」
アルカンフェルが右手を上げる。
村上も、それに合わせて左手を上げた。
宇宙空間に、まず二つの点が生まれた。
黒ではない。
光でもない。
見る者の目が、その場所だけ焦点を失うような、極小の歪み。
疑似重力核。
まだブラックホールとも呼べない、局所空間の小さな陥没。
だが、それだけで観測機のいくつかが微かに鳴動した。
バルカスの指が端末の上を走る。
「位相安定。アルカンフェル閣下側、完全安定。村上神将側、やや波形に揺らぎあり」
「揺らぎは許容範囲内です」
ヴァルキュリアが即座に確認する。
村上の額に、わずかに汗が浮かんでいた。
真空の宇宙で汗が浮かぶというのも奇妙な話だが、彼の身体はまだ人間の反応を残している。
彼の前にある疑似重力核が、細かく震える。
アルカンフェルの核は、静かだった。
深い湖面のように、揺れない。
村上は、それを見て自分の力を合わせようとする。
無理に押し込めば、乱れる。
引けば、消える。
合わせる。
力ではなく、呼吸を合わせる。
アルカンフェルの思念波が届いた。
『村上。こちらへ寄せるな。お前の重力を、私の形に変える必要はない』
『ですが』
『違うものを合わせるのだ。同じものにするな』
村上は、一瞬だけ目を見開いた。
そして、少しだけ力を抜いた。
疑似重力核の震えが、収まる。
二つの歪みが、互いに引き合い始めた。
管制室の空気が変わる。
「連星化、開始」
バルカスの声が低くなる。
二つの疑似重力核が、ゆっくりと回り始めた。
最初は遅い。
次に、少し速くなる。
互いを食うのではない。
まだ擦り合わせない。
ただ、二つの重力が、互いの輪郭を確認するように周回する。
村上の表情が歪んだ。
自分の中に、かつてのギュオーの影がよぎったのかもしれない。
重力。
圧壊。
疑似ブラックホール。
それは、彼にとって救いだけではない。
怪物の能力だった。
アルカンフェルは静かに言った。
『村上。これは攻撃ではない』
『……分かっています』
『まだ分かっていない。攻撃と思うから、潰そうとする。これは支える力だ』
村上は、もう一度息を吐いた。
重力核が沈む。
潰す力ではなく、掴む力へ。
押し潰す黒ではなく、中心を作る黒へ。
二つの疑似重力核の軌道が、初めて滑らかに重なった。
管制室で、バルカスが小さく声を上げた。
「同調率、八十一パーセント」
ヴァルキュリアが見る。
「安全域内」
「八十五」
「安全域内」
「八十八」
「安全域内」
バルカスの目が輝く。
「九十――」
「出力上げは禁止です」
「まだ言っておらぬ」
「言いそうでした」
「ヴァルキュリア嬢」
「監察です」
その間にも、二つの疑似重力核は回っている。
極小の連星。
まだ宇宙を食うものではない。
まだ質量を作るものでもない。
だが、そこには確かに、火星の心臓となるかもしれない技術の最初の形があった。
李・エンツイが静かに言った。
「空間歪み、予測範囲内」
カールレオンが続ける。
「虚数空間への漏れもなし。第一段階としては安定している」
村上の声が通信に乗った。
「総帥」
「何だ」
「……これなら、続けられます」
「そうか」
「ただし、今日はここまでにしてください」
管制室が一瞬だけ静まった。
アルカンフェルは、村上を見た。
そして頷いた。
「よい。停止する」
バルカスが、わずかに口を開きかけた。
ヴァルキュリアが無言で見た。
バルカスは、口を閉じた。
二つの疑似重力核は、ゆっくりと軌道を広げた。
互いの引力を解き、空間の陥没を浅くし、やがて消えていく。
何も起きなかった。
爆発もない。
空間破断もない。
虚数空間の漏出もない。
ただ、空虚宙域に作られた二つの歪みが、静かに消えただけだった。
だが、管制室にいた者たちは知っている。
これは小さな実験ではない。
惑星に心臓を植えるための、最初の鼓動だった。
バルカスが深く息を吐いた。
「第一段階、成功ですな」
ヴァルキュリアが即座に訂正する。
「第一段階、限定条件下での同調安定を確認、です」
「同じでは」
「違います」
「厳しい」
「必要です」
アルカンフェルは、村上の方を見た。
「よく制御した」
村上は少しだけ目を伏せた。
「あなたが合わせてくれたからです」
「違う。お前が合わせるのをやめたからだ」
村上は、しばらく何も言わなかった。
やがて、わずかに笑った。
「難しいですね。神将というのは」
「そうだ」
アルカンフェルは答えた。
「力が大きいほど、力で解決できぬことが増える」
実験はそこで終了した。
だが、プロジェクト・アレスは、重力だけで進むものではなかった。
火星に心臓を入れるなら、心臓が動き始めた後に地表を支える命が必要になる。
そのためのもう一つの実験は、地球圏内の別施設で進んでいた。
/*/ 月面裏側 閉鎖生態系実験施設《アレス・ガーデン》 /*/
月面裏側の地下に、その施設はあった。
外から見れば、ただの研究ドームである。
だが、その下には、巨大な生体実験区画が広がっていた。
火星表土模擬材。
人工土壌。
低圧大気実験槽。
調整微生物培養層。
苔類区画。
草本区画。
菌糸ネットワーク区画。
樹木幼体区画。
それらを結びつける、黒くしなやかな繊維。
臣毛。
ワフェルダノスの体組織だった。
ワフェルダノスは、人間形態では毛深い巨漢に見える。
だが、この施設の中では、その姿のままではなかった。
彼の本質は、森林型生体ユニットである。
今、実験区画の中央には、一本の巨大な根株のような生体構造が広がっていた。
そこから、無数の臣毛が床を這い、壁を登り、土壌層へ潜り、微生物培養槽と苔類区画を結び、菌糸ネットワークを包み込んでいる。
まるで、火星の未来を予行演習しているかのようだった。
研究主任が報告する。
「臣毛第三群、人工土壌層へ定着。微生物群A、B、Cの分布は安定。窒素固定群はやや遅れていますが、菌糸ネットワークとの接続後に回復傾向です」
バルカスの通信映像が浮かぶ。
「苔類はどうじゃ」
「火星低圧模擬下では、単独定着は困難です。ただし臣毛の保湿膜に沿わせると、成長率が四倍に上がります」
「草本は」
「まだ早いです。苔類と微生物膜が最低限の土壌保持層を作るまで待つ必要があります」
「樹木幼体は」
「通常株は全滅。調整株のうち、ワフェルダノス臣毛から糖とミネラルを受ける共生型のみ生存」
バルカスは嬉しそうに笑った。
「よい。実に良い」
研究主任は少し不安そうな顔をした。
「よい、のでしょうか」
「死んだものから条件が分かる。生きたものから道が分かる。よい実験じゃ」
その時、実験区画の奥で、ワフェルダノスの声が響いた。
人間の口からではない。
臣毛の震えから生じる、低い森のような声だった。
「土が、まだ若い」
研究員たちが一斉に振り返る。
バルカスも黙った。
「微生物は走る。苔はしがみつく。菌は繋がる。だが、土がまだ命を覚えていない」
その言葉は、科学用語ではなかった。
だが、研究員たちは不思議と理解した。
人工土壌は、まだ土ではない。
鉱物粉末と有機物と微生物を混ぜただけのもの。
火星の赤い粉に、命が棲むためには、時間と層が要る。
ワフェルダノスの臣毛が、ゆっくりと土壌層を撫でた。
黒い繊維の表面から、透明な粘液が滲む。
その中に、調整微生物が混じっている。
鉱物を砕くもの。
硫酸塩を処理するもの。
窒素を固定するもの。
乾燥に耐える膜を作るもの。
胞子を守るもの。
菌糸の足場を作るもの。
その上へ、灰緑色の苔が薄く広がる。
さらにその下へ、白い菌糸が伸びていく。
小さな草本の芽が、まだ頼りなく頭を出した。
研究員の一人が息を呑む。
「定着率が上がっています」
別の研究員が叫ぶ。
「微生物膜の水分保持率、上昇。臣毛粘液層が蒸散を抑えています」
「菌糸ネットワークが臣毛のミネラル輸送を利用しています」
「草本区画、二十七株が発芽」
バルカスの顔が輝く。
「やはり、ワフェルダノスを中心にした方が早い」
ヴァルキュリアの通信が割り込んだ。
「早いだけを評価しないでください。ワフェルダノス神将への負荷は」
研究主任が答える。
「現在、負荷は安定範囲内です。ただし、臣毛を通じた広域土壌制御は長時間続けると森林型生体ユニットへの回帰が早まります」
ワフェルダノスが低く笑った。
「構わぬ。森へ戻るのは、我が本来だ」
ヴァルキュリアは静かに言った。
「構います。火星緑化計画では、あなたを使い潰すわけにはいきません」
ワフェルダノスの臣毛が、少しだけ揺れた。
「人間は、森にも休めと言うのか」
「クロノス監察部門は言います」
その答えに、実験区画の数人が小さく笑った。
ワフェルダノスも、どこか愉快そうに臣毛を震わせた。
「面白い」
バルカスが咳払いした。
「では、火星初期緑化パッケージを整理しよう」
投影が現れる。
第一層、調整微生物。
鉱物分解、硫酸塩処理、窒素固定、乾燥耐性膜形成、微量元素循環。
第二層、臣毛粘液膜。
保湿、ミネラル輸送、微生物保護、初期土壌固定。
第三層、苔類。
表面被覆、粉塵固定、水分保持、光合成開始。
第四層、菌糸ネットワーク。
栄養輸送、土壌団粒化、植物共生、地下連絡網。
第五層、草本。
大気交換、根圏拡大、有機物蓄積、表土安定。
第六層、樹木幼体。
長期炭素固定、水循環、森林形成、居住環境安定。
第七層、人工土壌補助材。
火星レゴリス処理材、炭素固定材、吸水ゲル、微生物担体、臣毛適合繊維。
研究主任が頷く。
「これらを一つの緑化種子として撒くのではなく、臣毛を基軸に順番に展開する必要があります」
「火星全土へばら撒くだけでは駄目か」
バルカスが問う。
「駄目です」
研究主任は即答した。
「撒けば広がる、というものではありません。最初に臣毛による水分保持と微生物保護が必要です。その上に苔、菌糸、草本、樹木を乗せる。順番を間違えると、表層が死にます」
バルカスは満足そうに頷いた。
「よい。実に現場らしい答えじゃ」
ワフェルダノスが、低く言った。
「火星は、まだ土を知らぬ。まず土を教える」
実験区画に、静かな重みが落ちた。
火星ホーキング核計画は、重力と磁場と熱を作る。
だが、それだけでは星は住める場所にならない。
地面に命が宿らなければ、火星はただ熱を持つ赤い岩でしかない。
ワフェルダノスの臣毛は、その赤い岩に最初の土を教えるための手だった。
/*/ クラウド・ゲート 最高機密会議室 /*/
重力同調実験の結果と、アレス・ガーデンの緑化基盤報告は、同じ日にアルカンフェルへ上げられた。
バルカスは、どちらの報告にも興奮していた。
「閣下、第一段階重力同調は限定条件下で成功。ワフェルダノス神将による臣毛基軸土壌形成も、予想以上の安定を示しました」
ヴァルキュリアが即座に訂正する。
「予想以上、ではなく、現時点の試験条件下で有望、です」
「同じでは」
「違います」
アルカンフェルは、二つの投影を見比べた。
一方には、外縁空虚宙域で回る二つの疑似重力核。
もう一方には、月面地下施設で広がる苔と菌糸と臣毛。
片方は、惑星の心臓を作る技術。
片方は、惑星の皮膚に命を乗せる技術。
どちらか片方だけでは足りない。
ブラックホール核だけでは、火星は生きない。
緑化基盤だけでは、火星は守れない。
力と森。
重力と土。
神将たちの能力は、戦争を終えてなお、別の形で惑星へ向かっている。
村上征樹が静かに言った。
「今日、少し分かりました」
「何がだ」
アルカンフェルが問う。
「僕の重力は、潰すためだけではない」
村上は、投影の中の火星を見た。
「中心を作るためにも使える」
アルカンフェルは頷いた。
「そうだ」
ワフェルダノスの通信が入る。
「中心ができれば、根は迷わぬ」
その声に、村上は少しだけ驚いた顔をした。
ワフェルダノスは続ける。
「重力は、下を教える。水は、流れる先を知る。根は、どこへ伸びるべきかを知る。火星には、それが足りぬ」
アルカンフェルは、火星を見た。
赤い星。
まだ、青くない。
まだ、緑でもない。
だが、最初の実験は終わった。
重力は、合わせられた。
土は、教え始めた。
「次へ進む」
アルカンフェルは言った。
バルカスの目が輝く。
ヴァルキュリアが端末を構える。
「第二段階の条件は、監察部門と再協議する」
バルカスの目の輝きが少しだけ曇った。
「閣下」
「当然だ」
アルカンフェルは言った。
「火星はまだ遠い。だが、近づいている」
彼は、火星の投影へ手を伸ばした。
赤い星の上に、微かな青と緑の予測線が重なる。
「焦るな。心臓を作る前に、土を作れ。土が育つ前に、空を乱すな」
バルカスは、深く頭を下げた。
「御意」
その声には、まだ高揚が残っていた。
だが、以前より少しだけ抑えられていた。
プロジェクト・アレスは、神話ではなく実験として進み始めた。
外縁で重力が回り。
月の地下で臣毛が土を撫で。
火星はまだ赤いまま、遠くで待っている。
いつか青い空を持つために。
いつか森を抱くために。