/*/ 旧ジュネーブ 太陽系科学評議会 /*/
会場は、怒っていた。
天文学会。
惑星地質学会。
古気候学会。
宇宙化学会。
生命起源研究班。
火星探査史研究者。
旧世界では、予算不足、打ち上げ枠、政治都合、研究費の奪い合いに何十年も振り回されてきた者たちが、今だけは一つの声になっていた。
「テラフォーミングの前に研究を!」
議場に、その声が響いた。
壇上にはアルカンフェルがいた。
白い衣。
彫像のような美貌。
人間の王ではなく、地球生命の指揮個体としての静かな気配。
その傍らには、バルカス、ヴァルキュリア、村上征樹、李・エンツイ、そして通信投影のワフェルダノスが控えている。
議場の正面には、赤い火星の全球図が浮かんでいた。
その上に、青と緑の予測線が薄く重ねられている。
プロジェクト・アレス。
火星ホーキング核計画。
火星の心臓を作り、磁場を起こし、大気を抱かせ、土に命を教える計画。
それは壮大だった。
だからこそ、学者たちは恐怖していた。
老いた惑星地質学者が立ち上がる。
「総帥。火星は死んだ星ではありません。記録です」
アルカンフェルは黙って聞いていた。
「谷、堆積層、氷床、火山地形、クレーター、古代湖底、地下塩水の痕跡。地球ではプレート運動と生命活動で失われた太陽系初期の記録が、火星にはまだ残っているのです」
別の研究者が声を上げる。
「テラフォーミングで大気圧を上げ、地下氷を融かし、調整微生物を撒けば、未汚染の地質記録が変質します」
「生命痕跡があったとしても、地球由来の調整微生物と混ざれば判別が困難になる」
「火星固有の有機化学過程が残っていた場合、それを失うかもしれない」
「星を書き換える前に、読ませてください!」
若い女性天文学者が、ほとんど叫ぶように言った。
「お願いです。火星を緑にする前に、火星を読ませてください!」
議場は静まり返った。
その言葉には、研究者の欲があった。
未知を自分たちの手で解きたいという欲。
けれど、それは人類の欲望の中でも、かなりましな部類のものだった。
バルカスは少し不満そうに腕を組んでいる。
ヴァルキュリアは学会側の主張を端末に記録している。
村上征樹は、どちらの言い分も分かるという顔をしていた。
アルカンフェルは、火星の投影を見た。
赤い星。
かつて水を持っていたかもしれない星。
生命の影があったかもしれない星。
地球生命が次に根を張るかもしれない星。
やがて、彼は口を開いた。
「人間にはフロンティアが必要だ」
議場が、息を呑む。
「地球は狭い。富を再分配し、住宅を与え、医療を整え、食料を作り直しても、人間はやがてまた詰まる。欲がある。数がある。夢がある。競争がある。行き場のない熱がある」
彼は火星を見た。
「閉じた世界の中で熱を持て余せば、人間は互いを食う。旧世界がそうだった。国境、資本、土地、資源、家賃、労働、出生。地球だけを椅子取りの場にすれば、いずれまた末端が壊死する」
老学者が歯を食いしばる。
「だからといって、火星を急いで改造してよい理由にはなりません」
「急ぐとは言っていない」
アルカンフェルは淡々と答えた。
「だが、止めもしない」
研究者たちがざわめいた。
「火星は記録だ。その通りだ。読むべきだろう。読む前に塗り潰すのは愚かだ」
若い天文学者が、わずかに希望を見せた。
しかし、アルカンフェルの次の言葉は冷静だった。
「だが、記録であることを理由に、永遠に封印することもまた愚かだ」
空気が張り詰める。
「人間は本を読むだけの種ではない。畑を作る。家を建てる。子を産む。墓を作る。祭りをする。戦う。歌う。走る。空へ出る。星に触れる。そういう生き物だ」
アルカンフェルの声は、怒鳴りではなかった。
だが、逆らえる響きでもなかった。
「私は地球生命の責任者として、火星を博物館の標本にする気はない」
老地質学者が、低く問う。
「では、我々の研究は?」
「行え」
「どの程度まで?」
「十年だ」
議場が凍った。
アルカンフェルは続ける。
「火星年ではない。地球時間で十年だ」
その言葉に、研究者たちはざわめいた。
「十年で火星を調べ尽くせと?」
「違う」
アルカンフェルは即座に言った。
「十年、火星表面で好きなだけ掘れ。記録を取れ。測れ。切り出せ。眠っている地層を読め。地下を覗け。氷を抜け。古代湖底を掘り返せ。火山を調べろ。クレーターを削れ。生命痕跡を探せ。必要なものは全て用意する」
議場のざわめきが、別の色へ変わった。
怒りではない。
困惑。
そして、信じられないという気配。
アルカンフェルは、アプトムの通信回線を開いた。
「アプトム」
『聞こえてるぜ、総帥』
人間形態のアプトムが、投影に現れる。
サングラス。
顔の左半分に焼け爛れたような跡を持つ男。
その背後には、赤い母艦級の外縁研究区画が映っている。
「火星を研究したい学者を全て運べ」
『全て?』
「全てだ」
議場が一瞬、完全に静まった。
「天文学者、惑星地質学者、古気候学者、宇宙化学者、生命起源研究者、掘削技師、年代測定班、地下氷床調査班。火星へ行きたい者は、全員アプトム便で運ぶ」
『また俺かよ』
「お前は太陽系最大の運送屋だ」
『最近、研究所も積んでるんだが』
「なら都合がよい」
アプトムは少し黙った後、肩をすくめた。
『まあ、いいけどよ。火星行き学者便か。次は赤い星の遠足だな』
老地質学者が、呆然と呟く。
「本当に、火星へ……?」
アルカンフェルは頷いた。
「火星へ送る。観測所も建てる。掘削基地も建てる。移動研究都市も置く。酸素も水も食料も、調整医療も用意する」
彼はヴァルキュリアへ視線を向ける。
「クロノス土木建築班をつけろ」
ヴァルキュリアがすぐに記録する。
「通常土木班ですか」
「オーバーテクノロジー土木建築班だ」
議場が再びざわめく。
クロノスの土木建築技術。
地下三千メートル級の巨大基地を築き、都庁の数倍の《クラウド・ゲート》を短期間で建設し、月面研究都市やラグランジュ農業コロニーを組み上げる、旧世界の建設常識を踏み越えた部門。
その名が出た瞬間、研究者たちの顔色が変わった。
予算申請ではない。
打ち上げ枠の取り合いでもない。
十年待つから資料を出せ、でもない。
行け。
掘れ。
調べろ。
建設班も付ける。
そう言われているのだ。
アルカンフェルは続けた。
「火星学術前線基地群を作る。古代湖底、極域氷床、巨大火山帯、谷地形、未変質クレーター、地下水脈候補、生命痕跡候補地。お前たちが重要だと判断する地点へ、クロノスが基地を建てる」
若い天文学者が震える声で問う。
「我々が、地点を選んでよいのですか」
「そうだ」
「予算は」
「地球生命再建基金と火星開拓予算から出す」
「人員は」
「必要なだけ申請しろ。火星で生活できるように調整が必要な者には、非戦闘型健康調整を施す。調整を望まぬ者には、環境服を用意する」
「機材は」
「アプトム便と月面研究都市から送る。掘削機、移動研究所、地下探査機、非汚染サンプル容器、年代測定機、低温保存庫、全て出す」
老地質学者が、椅子の背を掴んだ。
「十年……地球時間で十年、火星表面で研究を?」
「そうだ」
アルカンフェルは言った。
「十年、好きなだけ掘り起こせ。記録を取れ。火星を読め。読み足りぬなら、どこが足りぬか示せ。示せるなら延ばす。示せないなら進める」
バルカスが小さく口を開いた。
「閣下、十年は」
「バルカス」
「はい」
「黙れ」
「御意」
ヴァルキュリアが淡々と追記する。
「火星学術前線計画。地球時間十年。アプトム便による研究者・機材・研究施設輸送。クロノス土木建築班による現地基地群構築。学会主導の地点選定。保護区および改造優先区の判定は十年後に再審議」
村上征樹が静かに言った。
「それなら、研究者側も逃げられませんね」
老学者が顔を上げる。
村上は続けた。
「予算がない、船がない、人員が足りない、現地へ行けない。そういう言い訳をクロノスが潰す。あとは、本当に火星を読むだけになる」
その言葉は、少し厳しかった。
だが、研究者たちは反論できなかった。
アルカンフェルは言った。
「火星を守りたいなら、火星へ行け。火星を読ませろと言うなら、読め。地球の会議場から赤い星を保存しろと叫ぶだけなら、私は聞かん」
若い天文学者の目に、涙が浮かんだ。
「行きます」
一人が言った。
「私も」
別の研究者が立ち上がる。
「古代湖底班を組みます」
「極域氷床へ行きたい」
「地下水脈候補地の掘削を」
「火山帯の年代測定を」
「生命痕跡候補地の完全非汚染調査を」
議場が、怒りから熱へ変わっていく。
火星を止めることはできない。
だが、火星へ行ける。
十年、火星の表面に立ち、好きなだけ掘り、記録し、研究できる。
旧世界なら夢物語だった。
探査機一つ送るのに何年もかかり、サンプルリターンに国家予算を費やし、論文一本のために観測枠を奪い合った学者たちに、いきなり惑星が差し出された。
行って読め。
そう言われた。
老地質学者は、ゆっくりと頭を下げた。
「総帥」
「何だ」
「我々は、火星を読みます」
「そうしろ」
「そして、十年後にまだ必要なら、延長を求めます」
「理由を示せるなら聞く」
「ならば、理由を作ります」
その言葉に、アルカンフェルはわずかに目を細めた。
怒りでも不快でもない。
少しだけ、面白がるような気配だった。
「よい」
彼は言った。
「人間にはフロンティアが必要だ。学者にもな」
アプトムが通信越しにぼやく。
『で、火星行き学者便の第一便はいつだ?』
若い天文学者が即答した。
「明日にでも」
『おいおい』
老地質学者が続ける。
「準備期間は必要ですが、一か月以内に先遣隊を出せます」
別の研究者が叫ぶ。
「サンプル容器の規格を今日中に」
「掘削班を組め!」
「古代湖底候補の優先順位を出せ!」
「火星全球地質図を更新しろ!」
「アプトム便の研究区画に火星地質ラボを増設してもらえ!」
アプトムが頭を抱えた。
『また俺の腹に研究所が増えるのかよ』
アルカンフェルは淡々と言った。
「増やせ」
『はいはい。赤い星行きの学者どもを運べばいいんだろ』
ヴァルキュリアが補足する。
「研究者輸送時の心理監査、アプトム細胞汚染管理、火星非汚染プロトコルも追加します」
『書類がまた増えた』
李・エンツイが静かに言った。
「必要なら、火星各地への空間転位補助も行う」
研究者たちの目が、さらに輝いた。
ヴァルキュリアが即座に言う。
「ただし、非汚染区域への転位は学術委員会と監察部門の承認後です」
バルカスがぼそりと言った。
「まるで火星を丸ごと研究所にするようですな」
アルカンフェルは火星の投影を見た。
「十年だけだ」
彼は言った。
「十年、火星を研究所にしてやる。その後は、火星をフロンティアにする」
議場の誰も、もう叫ばなかった。
怒りは、まだ完全には消えていない。
恐怖もある。
火星が変わることへの悲しみもある。
だが、それ以上に、火星へ行けるという熱があった。
赤い星を読むために。
十年後、青と緑に書き換えられるかもしれない星の記憶を、できる限り人類の手で写し取るために。
学者たちは、席を立ち始めた。
抗議者としてではない。
遠征隊として。
アルカンフェルは、その背を見て静かに言った。
「読めるだけ読め」
そして、誰にも聞こえぬほど小さく続けた。
「その記録もまた、火星に生まれる者たちの財産になる」