/*/ 旧ジュネーブ 太陽系科学評議会 /*/
「十年、火星表面で好きなだけ掘れ。記録を取れ。測れ。切り出せ。眠っている地層を読め。地下を覗け。氷を抜け。古代湖底を掘り返せ。火山を調べろ。クレーターを削れ。生命痕跡を探せ。必要なものは全て用意する」
アルカンフェルの言葉に、議場は静まり返った。
怒号は消えていた。
学者たちはまだ怒っている。
火星を書き換えられることへの恐怖もある。
けれど、それ以上に、今まで誰も与えてくれなかったものを突きつけられていた。
火星へ行け。
十年、現地で研究しろ。
必要な基地も機材も人員も運ぶ。
旧世界なら、何十年分の夢を詰め込んでも届かなかった言葉だった。
老いた惑星地質学者が、震える声で問う。
「本当に、火星表面へ研究者を送るのですか」
「送る」
アルカンフェルは即答した。
「観測軌道から眺めるだけではない。火星の表面に立ち、地層を叩き、掘り、切り、持ち帰り、記録しろ」
若い宇宙化学者が、思わず身を乗り出した。
「ですが、火星表面は低圧、低温、放射線、粉塵、静電気、環境汚染の危険が……」
「そのために、作業用強殖装甲の実地試験を兼ねる」
その一言で、議場の空気が変わった。
バルカスが、わずかに目を輝かせる。
ヴァルキュリアは即座に端末を開いた。
村上征樹は、少しだけ眉を寄せた。
「作業用強殖装甲を、学術調査隊に使わせるのですか」
「そうだ」
アルカンフェルは言った。
「戦闘用ではない。メガスマッシャーもソニックバスターも発現しない。重力操作、高周波ブレード、ヘッドビーム、放射線防護、真空適応、低温耐性、粉塵耐性、融殖組織による広域通信。火星表面で研究するには十分だ」
バルカスが頷いた。
「火星環境は、作業用モデルの試験場としては理想的ですな。低圧、低温、粉塵、放射線、低重力。都市作業より厳しく、戦闘より管理しやすい」
「人造コントロールメタルの使用を許可する」
議場がざわめいた。
アルカンフェルは、淡々と続ける。
「ただし、無制限使用ではない。ミューオンスキャナを火星前線基地ごとに設置する。殖装前、殖装中、殖装解除前、解除後。全て記録する」
ヴァルキュリアが確認する。
「ニューロンマップ初期化対策ですね」
「そうだ」
アルカンフェルは頷く。
「作業用とはいえ、人造コントロールメタルは完全ではない。長時間殖装を続ければ、記憶と人格の連続性に影響が出る。火星で研究する者を、調査が終わった時に別人にするわけにはいかん」
若い研究者が、恐る恐る手を挙げた。
「つまり、殖装すれば、火星の低圧低温環境でも自由に研究できる、と」
「自由ではない」
ヴァルキュリアが先に答えた。
研究者が少し怯む。
アルカンフェルは、わずかに目を細めた。
「ヴァルキュリアの言う通りだ。だが、お前たちの言う自由に近づけることはできる」
彼は火星全球図を指した。
「通常の環境服では、作業時間、可動域、掘削力、サンプル回収、緊急時対応に限界がある。作業用強殖装甲なら、低圧低温下でも歩ける。崖を登れる。地下洞窟へ入れる。氷床を切り出せる。高周波ブレードで岩盤を薄く切れる。ヘッドビームで微細切削や表面焼結もできる。重力操作で崩落を抑え、重いコアサンプルを運べる」
老地質学者の目が、徐々に変わっていく。
怒りではない。
研究者の目だった。
「火星の谷底へ、直接降りられる……」
「降りられる」
「崖面の堆積層を、その場で切り出せる」
「できる」
「地下氷床を、融かさずに回収できる」
「用途に応じて、低温保存嚢を持たせる」
「クレーター中央丘の露頭へ、重機なしで到達できる」
「作業用強殖装甲なら可能だ」
若い天文学者が息を呑んだ。
「火星全土が、野外研究室になる」
「十年間だけだ」
アルカンフェルは言った。
「その間に読めるだけ読め」
アプトムの通信が開いた。
『で、俺は学者と作業用ガイバーとミューオンスキャナを火星へ運べばいいわけか』
「そうだ」
『また荷物が増えたな』
「お前の母艦級内部に、火星地質共同研究区画を増設する。火星軌道と地表基地間の輸送も担当しろ」
『はいはい。アプトム便、火星学術遠征パックだな』
ヴァルキュリアが端末へ記録する。
「正式名称は、火星学術前線輸送計画です」
『通称は?』
「おそらくアプトム便です」
『結局それかよ』
議場の一部から、緊張の抜けた笑いが漏れた。
アルカンフェルは、学者たちへ視線を戻す。
「他に足りないものがあるか?」
唐突に問われ、学者たちは一瞬黙った。
それから、次々に声が上がった。
「非汚染サンプル容器を」
「生命痕跡候補地では、地球由来微生物の持ち込みを完全に分離しなければなりません」
「現地で年代測定までできるラボが必要です」
「移動研究都市を複数」
「火星全球の地下レーダー網」
「掘削廃材を汚染区域と非汚染区域で分ける管理施設」
「火星表面の粉塵を持ち込まない隔離室」
「作業用強殖装甲を使わない研究者用の通常環境服も必要です。全員が殖装を望むとは限りません」
「心理支援も。火星表面で十年は、研究者でも壊れます」
「通信遅延対策を。融殖組織通信を使えるなら、研究班同士の同期が取れるかもしれません」
「サンプルをアプトム細胞で汚染しない輸送嚢を」
「火星表面での緊急退避手段を。李・エンツイ神将の空間転位補助が使えるなら、少なくとも主要基地には退避座標を」
アルカンフェルは、全て聞いていた。
否定しない。
途中で遮らない。
ただ、必要なものを並べさせる。
バルカスは楽しそうに端末へ書き込み、ヴァルキュリアはその倍の速度で監察項目を追加していた。
「まとめる」
アルカンフェルが言うと、議場は静まった。
「第一、作業用強殖装甲の使用を許可する。火星低圧低温環境下での学術調査用だ。戦闘用武装は発現しない」
ヴァルキュリアが記録する。
「第二、人造コントロールメタル使用者には、ミューオンスキャナによる殖装前後のニューロンマップ記録を義務づける。解除後補正を必ず行う」
「第三、火星前線基地にはミューオンスキャナ、調整医療槽、非汚染ラボ、低温保存庫、緊急退避区画を設置する」
「第四、作業用強殖装甲を望まない研究者には、通常環境服、強化外骨格、クロノス土木班の支援を用意する」
「第五、サンプル汚染管理を最優先する。アプトム便を使う場合も、アプトム細胞汚染を避ける専用保存嚢を使え」
『俺の腹、どんだけ区画分けされるんだよ』
アプトムがぼやく。
「第六、リ・エンツイは主要基地への空間退避座標を設定しろ」
リ・エンツイが静かに頷いた。
「承知しました」
「第七、クロノス土木建築班を同行させる。地下基地、掘削施設、移動研究都市、サンプル保管庫、非汚染区域の構築を担当させる」
老地質学者が、息を呑んだ。
「本当に……十年、火星で」
「そうだ」
アルカンフェルは言った。
「十年、火星を研究所にしてやる。作業用強殖装甲も使え。ミューオンスキャナも使え。アプトム便も使え。クロノス土木班も使え。人造コントロールメタルの実地データも取れ。火星の記録も取れ」
彼は、赤い火星の投影を見た。
「その代わり、十年後に何も分からなかったとは言わせん」
若い天文学者の顔が強張る。
だが、そこには恐怖だけではなく、昂ぶりがあった。
「分からないことが増えるかもしれません」
彼女は言った。
アルカンフェルは、少しだけ目を細めた。
「それならよい」
「よい、のですか」
「本当に読んだ者は、分からないことを増やす。何も読まなかった者だけが、分かったふりをする」
老地質学者が、深く頭を下げた。
「総帥。火星学術前線隊を編成します」
「急げ」
「はい」
「火星は待つ。だが、永遠には待たせん」
その言葉で、審問は終わった。
抗議集会だったはずの場は、火星遠征隊の編成会議へ変わっていた。
地質学者は地図に群がり、天文学者は軌道表を開き、宇宙化学者は非汚染容器の規格を書き始めた。
作業用強殖装甲の試験担当者は、火星での運用条件を列挙し、バルカスはその横で楽しそうに設計修正を始めた。
ヴァルキュリアは、楽しそうなバルカスを見て監察項目をさらに増やした。
アプトムは通信越しに、うんざりした声を漏らす。
『火星行き学者便に、作業用ガイバーに、ミューオンスキャナに、非汚染ラボに、土木班か。俺はそのうち火星引っ越し業者って呼ばれるな』
リ・エンツイが静かに言った。
「もう呼ばれているかもしれない」
『お前、そういうことを平然と言うなよ』
アルカンフェルは、そのやり取りを聞きながら、火星を見た。
十年。
地球時間で十年。
その間、火星は研究者たちのものになる。
作業用強殖装甲をまとった学者たちが、赤い谷底を歩き、古代湖底を掘り、氷床を切り出し、クレーターの壁を登る。
クロノス土木班が基地を建て、アプトム便が人と機材を運び、ミューオンスキャナが彼らの記憶と人格を守る。
その先に、火星改造がある。
火星を読む十年。
火星を書き換えるための十年。
アルカンフェルは、静かに言った。
「読めるだけ読め。掘れるだけ掘れ。残せるだけ残せ」
そして、赤い星の上に青い未来を重ねた。
「その記録ごと、火星の財産にする」