/*/ 重力同調実験・観測権限に関する緊急申し入れ /*/
苦情は、また学会から来た。
火星地質学会ではない。
惑星学会でもない。
今度は天文学会だった。
いや、より正確には、ブラックホール物理、相対論天体物理、高エネルギー天文学、重力波観測、プラズマ宇宙物理、数学物理、そして一部の量子重力理論屋たちの混成部隊である。
彼らは怒っていた。
怒っていたが、怒りの方向が少し違った。
火星を守れ、ではない。
金星を読ませろ、でもない。
彼らの要望書の表題は、こうだった。
『人工カー・ニューマン・ブラックホール生成実験の詳細観測許可を求める緊急嘆願書』
署名数は、五十七万。
ただし、今回は一般市民の署名ではない。
研究者、大学院生、観測所職員、旧大型望遠鏡計画関係者、重力波観測施設、月面天文台、外縁観測網、アプトム共同研究区画所属研究員。
天文界隈が本気であった。
クラウド・ゲートの会議室で、その文面を読み上げたヴァルキュリアは、わずかに眉を寄せた。
「総帥と村上神将による重力同調実験により、帯電・回転ブラックホール、すなわちカー・ニューマン解に相当する人工特異点が生成可能であるならば、その生成過程、安定化過程、電荷付与、スピン付与、磁場形成、事象の地平面近傍の挙動、重力波スペクトルを詳細に観測する機会を学術界へ開放することを強く求める……」
彼女は一度、文面から目を上げた。
「ここまでは、まだ普通です」
アルカンフェルは無言で続きを促した。
ヴァルキュリアは、さらに読み上げる。
「自然界には電荷を保った安定ブラックホールはほぼ存在しないと考えられており、カー・ニューマン解は理論上の解として扱われてきた。これを人工的に生成・観測できるならば、相対論、量子場理論、ブラックホール熱力学、宇宙検閲仮説、地球外文明技術史、降臨者工学のすべてに関わる前代未聞の観測機会である」
バルカスが、少し楽しそうに頷いた。
「正しいですな」
ヴァルキュリアは、さらに視線を下げた。
「よって、クロノス総帥閣下におかれましては、火星改造計画の一部としてこれを秘匿するのではなく、適切な安全距離を保った上で、学術観測班に詳細観測を許可していただきたく……」
そこで彼女は、わずかに沈黙した。
「続きがあります」
「読め」
「はい」
ヴァルキュリアは、少しだけ声を平坦にして読んだ。
「総帥と村上神将でカー・ニューマン解ブラックホールが生成できるなら、詳しく観察させろください。自然界には無いとされる貴重な現象なんですぅぅ」
会議室が静止した。
村上征樹が目を閉じた。
シンが咳払いした。
リ・エンツイは無言で視線を逸らした。
アプトムの通信投影だけが、露骨に肩を震わせている。
『天文学者ども、ついに壊れたか』
ヴァルキュリアは淡々と続けた。
「なお、この一文は若手研究者有志による追記と思われますが、上位署名者が削除せず提出しています」
アルカンフェルは、しばらく無言だった。
それから、低く言った。
「人間の学者は、時々欲望を隠さなくなるな」
バルカスが微笑む。
「研究欲ですな」
「お前と同じ種類か」
「恐れながら、かなり近いものと」
「なら危険だ」
ヴァルキュリアが即座に記録した。
「天文学会観測班、危険研究欲あり。監察対象に追加します」
アプトムが笑った。
『また監察対象が増えたな』
「お前も対象だ」
『知ってるよ』
アルカンフェルは、天文学会の要望書をもう一度見た。
彼らの要求は、無茶ではある。
だが、馬鹿ではない。
人工的に生成される、帯電・回転ブラックホール。
自然界ではほとんど中和されるため、安定した電荷を持つブラックホールは観測が難しい。
それを、アルカンフェルと村上の重力同調、シンの電荷制御、リ・エンツイとカールレオンの空間安定補助によって人工的に作る。
確かに、観測したくなるだろう。
天文学者にとっては、火星の海よりもこちらが本命という者すらいるかもしれない。
村上が、静かに口を開いた。
「総帥。僕は、反対です」
「理由は」
「観測者が増えれば、実験に余計な要求が入ります。もう少し長く維持してほしい、もう少し出力を上げてほしい、もう少し電荷を残してほしい。そういう声が必ず出る」
「出るだろうな」
「そして、それは危険です」
「その通りだ」
アルカンフェルは頷いた。
バルカスが、少しだけ口を開く。
「しかし、観測価値は極めて高いですぞ。閣下。カー・ニューマン解の実在的挙動を直接観測できるなら、ブラックホール炉、火星ホーキング核、重力制御、安全封印技術、全てに応用できます」
村上がバルカスを見る。
「博士までそれを言いますか」
「研究者としては言わざるを得ません」
ヴァルキュリアが冷たく言った。
「バルカス博士は観測許可の審査側から外します」
「なぜですかな」
「観測班の側に立つためです」
「否定はしませぬ」
「では外します」
アプトムが通信越しに吹き出した。
『博士、即落ちじゃねぇか』
李・エンツイが静かに言った。
「観測そのものは不可能ではありません。空間的に切り離した観測窓を作れば、直接接近せずに事象の地平面近傍の光学・重力波データを取れる」
カールレオンも頷く。
「虚数空間側に観測用の逃がし経路を作れば、万一の放射線暴走や空間歪みも吸収できる。ただし、吸収量には限界がある」
シンが続ける。
「電荷付与段階の観測は、私の制御にも役立つ。だが、観測のために電荷を長時間維持するのは危険だ」
村上は、全員の意見を聞きながら、静かに言った。
「観測のために実験を歪めない。それが条件です」
アルカンフェルは、少しだけ村上を見た。
「よい条件だ」
そして、ヴァルキュリアへ視線を向ける。
「回答を作れ」
「許可しますか」
「条件付きで許可する」
ヴァルキュリアが端末を開く。
「条件を」
アルカンフェルは、淡々と告げた。
「第一。観測は、重力同調実験の安全計画に従属する。学術観測のために出力、維持時間、電荷、スピン、連星距離を変更することは認めない」
「記録しました」
「第二。観測者は、外縁空虚宙域の直接現場には入れない。アプトム母艦級内の隔離観測区画、月面重力波観測所、外縁無人観測群、李・エンツイの空間観測窓を通じて観測する」
『また俺の腹に学者が増えるのかよ』
アプトムがぼやく。
「増やせ」
『へいへい』
「第三。観測機材は全てクロノス監察部門が検査する。実験系へ能動的に干渉する装置は禁止」
「記録しました」
「第四。観測データは即時公開しない。第一解析権はクロノス開発局、監察部門、重力実験班、天文学会合同委員会の共同管理とする」
天文学者たちが聞けばまた揉めそうな条件だったが、アルカンフェルは気にしなかった。
「第五。若手研究者有志による『観察させろください』の類は、正式文書から削除させろ」
アプトムが笑った。
『そこ気にするんだな』
「気になる」
ヴァルキュリアが真顔で頷いた。
「公文書として不適切です」
バルカスが少しだけ残念そうに言う。
「研究者の熱意が出ていて良いと思いますがな」
「バルカス博士も公文書から詩的表現を減らしてください」
「それは別件では」
「同根です」
アルカンフェルは、最後に付け加えた。
「第六。観測班には、実験停止権はない」
村上が、わずかに安堵した顔をした。
「停止権は」
「私、村上、ヴァルキュリア、李・エンツイ、カールレオン、シンのいずれかが危険と判断した時点で停止する。バルカスには与えない」
バルカスが目を見開いた。
「閣下」
「お前は止める側ではない」
「いえ、必要なら止めますぞ」
「必要な時に『もう少しだけ』と言う者には与えられん」
アプトムが笑いすぎて通信の音声が乱れた。
『博士、信用されてるなぁ』
「お前は黙っておれ」
ヴァルキュリアは、淡々と回答書をまとめた。
その数時間後、天文学会へ正式返答が送られた。
人工カー・ニューマン・ブラックホール生成過程の学術観測を、条件付きで許可する。
観測は安全実験計画に従属し、学術目的による出力変更・維持時間延長・電荷保持要求は一切認めない。
観測者は隔離観測区画および無人観測網を通じて参加すること。
実験停止権はクロノス指定者のみに属する。
正式文書における「観察させろください」等の表現は以後慎むこと。
返答が届いた瞬間、天文学会側は歓喜した。
最後の一文については、若手研究者たちが大いに反省した。
反省しながら、すぐに観測班の取り合いを始めた。
/*/ アプトム母艦級内部 外縁重力実験観測区画 /*/
数週間後。
アプトムの母艦級内部に、新しい区画が増設されていた。
外縁サンプルリターン区画。
火星地質共同研究区画。
金星雲層非汚染サンプル保管区画。
そのさらに奥に、今度は重力実験観測区画である。
アプトムは、人間形態で入口に立っていた。
黒い外套。
サングラス。
顔の左半分に焼け爛れたような跡。
その前を、興奮しすぎた天文学者たちが次々と通り過ぎていく。
「重力波干渉計、固定完了!」
「偏光観測系を接続!」
「高エネルギー粒子検出器、隔離膜越しに設置!」
「空間観測窓の座標は李・エンツイ神将から届いていますか!」
「村上神将の位相変動も取りたい!」
「いや、素体側の生体波動は個人情報扱いで制限が」
「総帥側の重力波形だけでも――」
アプトムは、深くため息を吐いた。
「おい」
天文学者たちが一斉に振り返る。
「俺の腹の中で走るな。あと、勝手に壁に機材を刺すな。そこ俺の神経に近いんだよ」
若い研究者が青ざめた。
「す、すみません!」
老天文学者が深々と頭を下げる。
「アプトム氏。今回は観測区画の提供、誠にありがとうございます」
「礼はいい。終わったら片付けろ」
「もちろんです」
「あと、俺のことを生体観測プラットフォームって呼ぶな」
「では、外縁重力実験観測母艦」
「もっと嫌だ」
そこへリ・エンツイが現れた。
右目を髪で隠した若いゾアロードは、淡々と言った。
「観測窓の開口予定時刻まで三十分。アプトム、思念波補助回線を開け」
「はいはい」
アプトムは首元の補助端末を弾いた。
ゾアロードの思念波支配は受け付けない。
だが、補助機械を介せば会話はできる。
リ・エンツイの思念波が、機械越しにアプトムへ届く。
『観測窓は三層に分ける。光学、重力波、虚数空間漏出監視』
『学者ども、近づきすぎたら?』
『私が空間ごと閉じる』
『言い方怖ぇんだよ』
『事実だ』
アプトムは肩をすくめた。
「聞いたか、学者ども。窓に顔を突っ込むなよ。閉じられるぞ」
若い天文学者が、小さく手を挙げた。
「顔を突っ込める距離まで近づいて観測できるんですか?」
「そういう意味じゃねぇ!」
アプトムは頭を抱えた。
学者たちは、本当に危ない。
火星地質学者も危ない。
金星班も危ない。
だが、ブラックホール観測班は別方向に危ない。
彼らは恐怖より先に観測窓へ顔を近づけようとする。
アプトムは、ふとアルカンフェルの言葉を思い出した。
人間にはフロンティアが必要だ。
確かに必要なのだろう。
ただし、フロンティアへ行く人間は、時々自分から危険へ頭を突っ込む。
「人間ってのは、本当に面倒くせぇな」
彼がぼやくと、老天文学者が笑った。
「ええ。ですが、その面倒くささでここまで来ました」
「そうかよ」
アプトムはサングラスを押し上げ、観測区画の奥を見た。
外縁空虚宙域。
そこでは、アルカンフェルと村上が、再び重力を同調させようとしている。
今回は、ただの第一段階ではない。
シンの電荷付与。
リ・エンツイの空間観測窓。
カールレオンの虚数空間逃がし。
そして、天文学会の観測機材。
人工的に生成される、自然にはほとんど存在しないとされる帯電・回転ブラックホール。
カー・ニューマン解。
その一瞬を、人間たちは見ようとしている。
アプトムは、少しだけ笑った。
「観察させろください、か」
そして、通信を開いた。
「総帥。観測班、配置完了。……全員、目が怖いぜ」
アルカンフェルの声が返る。
『そうか』
「許可してよかったのかよ」
『よい』
「何でだ」
『火星を青くするなら、黒い心臓を作る技術も読ませねばならん』
アプトムは、しばらく黙った。
そして、観測機材に群がる天文学者たちを見た。
恐怖よりも好奇心で震えている人間たち。
その姿は、少しだけ滑稽で、少しだけ眩しかった。
「了解。黒い心臓の見物客ども、こっちは任せろ」
外縁の空虚に、重力が集まり始めた。
天文学者たちは、息を止めた。
その瞬間だけ、誰も喋らなかった。
欲望も、苦情も、書類も、騒ぎも消えた。
ただ、観測する者の目だけがあった。
人類は、初めて人工のカー・ニューマン・ブラックホールを見ようとしていた。
/*/ アプトム母艦級内部・外縁重力実験観測区画 /*/
黒い点が、空間に生まれていた。
ただの闇ではない。
光を吸うものでもない。
空間そのものが、そこへ向かって折れ曲がっている。
事象の地平面。
その外縁に沿って、淡い輪が滲む。
帯電と回転によって歪められた磁場線が、青白く震える。
光は直進せず、曲がり、引き延ばされ、観測窓の向こうで幾重にも重なっていた。
人工カー・ニューマン・ブラックホール。
それは、あまりにも小さく、あまりにも危険で、あまりにも美しかった。
観測区画にいた天文学者たちは、誰も声を出せなかった。
最初の数秒だけは。
その沈黙を破ったのは、若い相対論研究者だった。
「……これが、カー・ニューマン・ブラックホール」
彼女は震える声で言った。
「美しい……」
老天文学者が、ほとんど祈るように端末へ手を伸ばす。
「重力波形、取れています」
「偏光データも来てる!」
「磁場線のねじれが理論値と違う。いや、違うんじゃない。虚数空間側へ漏れている?」
「待て、事象の地平面近傍の光子軌道を拡大しろ!」
「この特異点の向こう側からの光を観測できれば、多次元構造の証明につながるのでは?」
「向こう側という表現は不正確です!」
「不正確でも今は黙って! データが消える!」
観測区画が、一気に騒がしくなった。
アプトムは入口の壁にもたれ、サングラスの奥で目を細めた。
「おい。観測窓に近づくなって言ったよな」
誰も聞いていない。
「この電荷を一方向に揃えて……いや、揃えるのではなく、位相を固定すれば」
「回転軸に沿ったエネルギー抽出が可能になる?」
「これはブラックホール炉の基礎理論に……!」
「降着炉ではなく、電荷回転制御炉です! 完全に別系統!」
「ホーキング放射の終端爆発を使わずに、安定的に抽出できるかもしれない!」
「待って、待ってください、これ論文一本どころじゃない!」
「論文?」
老天文学者が振り返った。
目が血走っている。
「文明史です!」
アプトムは、通信を開いた。
「総帥。観測班、壊れたぞ」
アルカンフェルの声が返る。
『まだ壊れてはいない。欲が出ただけだ』
「同じだろ」
『少し違う』
観測窓の向こうでは、アルカンフェルと村上征樹が向かい合っていた。
二つの疑似特異点はすでに融合し、帯電と回転を持つ極小の実在ブラックホールとして安定している。
シンが電荷を維持し、李・エンツイが空間観測窓を固定し、カールレオンが虚数空間側への歪みを逃がしている。
村上の顔には、はっきりと緊張があった。
「総帥」
村上が言う。
「観測班から、維持時間延長の申請が来ています」
「却下だ」
アルカンフェルは即答した。
その声は、観測区画にも流れた。
天文学者たちが一斉に顔を上げる。
「総帥!」
「あと三十秒だけ!」
「この磁場遷移を最後まで!」
「虚数空間側の漏出スペクトルが!」
「多次元証明が!」
「ブラックホール炉の基礎理論が!」
ヴァルキュリアの声が、観測区画全体に響いた。
『観測班へ通達。実験計画に従い、維持時間延長は認めません』
「そんな!」
「今なんです!」
「ここで止めたら、次に同じ条件が再現できる保証が!」
『再現できる条件でのみ、次回実験を行います』
ヴァルキュリアの声は、まったく揺れなかった。
『観測欲による延長要求は、全て却下します』
アプトムが笑った。
「言われてるぞ、学者ども。観測欲だってよ」
若い研究者が、半泣きで叫ぶ。
「観測欲じゃありません! 宇宙の根源への接近です!」
「同じじゃねぇか」
その時、バルカスの通信が割り込んだ。
『閣下』
アルカンフェルが答える。
『何だ、バルカス』
『観測班の言い分にも一理あります。電荷軸の位相固定が可能なら、ブラックホール炉の安定制御理論に重大な進展が――』
『バルカス』
『はい』
『お前も観測班側か』
沈黙。
数秒後、バルカスは静かに答えた。
『科学者としては』
ヴァルキュリアが即座に言った。
『バルカス博士の発言を記録。次回審査から、ブラックホール炉関連の延長申請審査権限を停止します』
『ヴァルキュリア嬢、それはあまりにも早い』
『必要です』
『まだ何もしておりませぬ』
『今しようとしました』
アプトムが腹を抱えて笑う。
「博士までこっち側かよ。終わってんな、クロノス開発局」
李・エンツイの声が静かに入る。
『観測窓の歪みが増えている。残り十五秒で閉じる』
カールレオンも続けた。
『虚数空間側への逃がし量、上限の七割。これ以上は推奨しない』
シンが低く言う。
『電荷維持、安定。ただし、観測のためにこれ以上固定する意味はない』
村上が、ほっと息を吐いた。
「終了準備に入ります」
観測区画では、天文学者たちが悲鳴に近い声を上げながらデータを保存していた。
「全部取れ!」
「重力波ログ二重化!」
「偏光データを落とすな!」
「多次元漏出候補、時刻同期!」
「電荷軸の揺らぎを保存!」
「ブラックホール炉班に渡す前にコピーを!」
「監察部門に怒られるぞ!」
「怒られてから考えろ!」
ヴァルキュリアの冷たい声が入る。
『今の発言も記録しました』
研究者たちの動きが一瞬止まった。
それでも保存作業は止まらなかった。
外縁空虚宙域で、黒い心臓がゆっくりとほどけていく。
シンが電荷を抜き、アルカンフェルが回転を解き、村上が重力場を緩める。
李・エンツイが観測窓の縁を閉じ始め、カールレオンが残った歪みを虚数空間へ逃がした。
カー・ニューマン・ブラックホールは、最後に青白い輪を震わせた。
そして、消えた。
空間が戻る。
重力波計が沈黙する。
観測区画に、長い沈黙が落ちた。
その沈黙の中で、若い研究者がぽつりと言った。
「……終わった」
老天文学者が、椅子へ崩れ落ちる。
「いや」
彼は震える手でデータ端末を抱えた。
「始まったのです」
誰も笑わなかった。
アプトムでさえ、少しだけ黙った。
観測データは残っている。
自然界ではほとんど観測できない、人工の帯電・回転ブラックホール。
その生成、安定、電荷軸、虚数空間漏出、重力波スペクトル。
それは、火星改造だけでなく、ブラックホール炉、次元構造、降臨者工学、宇宙そのものの理解へつながる可能性があった。
バルカスの声が、低く入る。
『閣下。解析班を増やす許可を』
ヴァルキュリアが言う。
『監察班も増やします』
『ヴァルキュリア嬢』
『同数です』
アプトムが呆れたように笑った。
「科学者ってのは、本当に面倒くせぇな」
老天文学者は、まだ涙ぐみながら答えた。
「ええ」
そして、端末の中の黒い輪を見つめた。
「でも、今の一瞬のために、我々は何百年も空を見てきたんです」
アプトムは何も言えなくなった。
外縁の空虚には、もう黒い点はない。
だが、人間たちの中には、確かに何かが残っていた。
恐怖ではない。
支配でもない。
知りたいという熱。
アルカンフェルは通信の向こうで、その熱を感じていた。
「次回実験は、条件を整理してからだ」
天文学者たちが一斉に顔を上げる。
「次回があるのですか!」
「ある」
アルカンフェルは言った。
「ただし、観測のために特異点を延ばすな。特異点を理解するために観測しろ」
老天文学者が深く頭を下げた。
「承知しました」
その隣で若い研究者が、小声で言った。
「でも、次はもう少しだけ長く……」
『記録しました』
ヴァルキュリアの声が即座に響いた。
観測区画に、奇妙な笑いが広がった。
人類は、また一つ危険なものを見てしまった。
そして見た以上、もう目を逸らせない。
黒い心臓は消えた。
だが、その美しさは、彼らの中で燃え続けていた。