/*/ 地球周回軌道上 天文物理観測ステーション《ガリレオ》 /*/
観測ステーション《ガリレオ》の主観測室は、しばらく誰も声を出せなかった。
モニターには、もう何も映っていない。
黒い点は消えていた。
帯電し、回転し、事象の地平面の縁に青白い輪を纏っていた人工カー・ニューマン・ブラックホールは、アルカンフェルと村上征樹の制御によって静かに消失した。
だが、観測室の中にはまだ残っている。
重力波の余韻。
偏光データ。
虚数空間漏出スペクトル。
エルゴ領域の境界線。
特異点近傍で観測された、紐状の時空ネットワーク。
真空から湧き出すバリオン。
ホーキング放射を押し戻した重力定常波。
観測されたもの全てが、百年、二百年、あるいは千年分の物理学をまとめて殴り倒していた。
旧ノーベル賞受賞者の一人である老物理学者は、椅子に座ったまま、両手で顔を覆っていた。
「……負けた」
隣の若い量子重力研究者が、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。
「先生?」
「我々は、負けたのだ」
老物理学者は笑っていた。
泣きながら笑っていた。
「一般相対論と量子論を統一するために、私は七十年を使った。論文を書き、反論し、反論され、観測できないものを数式で撫で回してきた」
彼は、まだ消えた黒い点がそこにあるかのようにモニターを見つめる。
「それを、あの二人は目の前でやった」
別の天文学者が、端末を抱えたまま呟いた。
「敗北ではありません。観測です」
「敗北だよ」
老物理学者は答えた。
「だが、これほど爽快な敗北はない」
その言葉をきっかけに、観測室は一気に動き出した。
「重力波データを三重保存!」
「エルゴ領域の境界線、フレーム単位で切り出せ!」
「レンズ=ティリング効果の可視化ログを全観測班へ送れ!」
「量子重力班、特異点近傍の紐状構造を確認! 超弦か、ループか、あるいはその両方か!」
「バリオン生成フェーズの質量収支が合わない! 虚数空間側から流入してる!」
「ホーキング放射抑制の定常波パターン、村上神将側と総帥側で位相が違うぞ!」
「違うのに閉じ込められてる! だから安定してるんだ!」
「これ、ブラックホール炉どころじゃないぞ。質量生成炉の基礎理論だ!」
「やめろ! 炉の話をすると監察部門に記録される!」
その瞬間、観測室の天井スピーカーからヴァルキュリアの声が響いた。
『すでに記録しています』
観測室の動きが一拍止まった。
だが、すぐにまた動き出した。
止まれなかった。
科学者たちは、いま自分たちの手の中に落ちてきたものの大きさを理解していた。
これは、火星改造の副産物ではない。
宇宙を理解するための鍵だった。
ある若い研究者が、震える指で観測ログを拡大する。
「見てください」
モニターに、特異点の縁が映る。
そこには、真円ではない揺らぎがあった。
光が歪み、磁場線がねじれ、重力波が折り重なり、その奥に別の構造が透ける。
「この光、こちら側の時空だけを通っていません」
「まさか」
「虚数空間反射です。いや、反射というより、向こう側の層をかすめて戻ってきている」
老物理学者が身を乗り出した。
「多次元構造の直接証拠か」
「まだ断言できません」
「断言するな。だが、記録しろ」
「はい!」
別の班では、ブラックホール熱力学の研究者たちが、ほとんど狂ったような速度で数式を書き換えていた。
「ホーキング放射が消えたんじゃない。逃げようとする量子が重力定常波で反射されている」
「なら、蒸発時間は質量だけで決まらない」
「外部重力波場で制御できる」
「それが本当なら、マイクロブラックホールを飼える」
「飼えるって言うな。監察部門に危険視される」
『もうされています』
再びヴァルキュリアの声。
今度は誰も止まらなかった。
「危険でも必要です!」
「火星ホーキング核の安定化に必須です!」
「ブラックホール炉にも!」
「炉と言うな!」
「言ってしまった!」
観測室の隅で、アプトムの通信投影が呆れ顔をしていた。
『こいつら、博士より酷くねぇか?』
通信の向こうでバルカスが答える。
『酷いとは何じゃ。実に健全な研究欲ではないか』
『やっぱ同類じゃねぇか』
『同類と言われるなら光栄じゃな』
『褒めてねぇよ』
その頃、クラウド・ゲート最上層の会議室では、観測記録の第一報がアルカンフェルへ提出されていた。
報告書の表題は、硬い。
『クロノス最高科学評議会:重力同調実験『アレス・ゼロ』観測記録』
だが、その内容は、硬い言葉で包みきれない興奮に満ちていた。
アルカンフェルは、静かに報告書を読んでいた。
バルカスは隣で落ち着きなく指を動かしている。
村上征樹は少し疲れた顔をしていた。
シンは観測データの電荷制御部分を見ている。
李・エンツイは空間窓の歪み補正ログを確認している。
カールレオンは虚数空間側へ流した余剰歪みの量を見て、わずかに眉を寄せていた。
ヴァルキュリアは、学術班と開発局に対する監察項目を増やしている。
ただし、監察官そのものを増やすわけではない。
監察官は、クロノス内部でも限られた者だけが就くエリート職である。
停止権限を持ち、総帥府や開発局の暴走にすら異議を挟める職責を、数合わせで増やすことはできない。
だからヴァルキュリアが増やしていたのは、監察官ではなく、監査対象、危険項目、自動ログの分類、申請手続きの封鎖線だった。
アルカンフェルは、報告書の一節で目を止めた。
『我々の教科書はすべて、今朝をもって紙屑となった。
だが、これほど爽快な敗北が他にあるだろうか』
しばらく沈黙した後、彼は小さく言った。
「よい言葉だ」
村上が顔を上げた。
「総帥が、そう思うのですか」
「思う」
アルカンフェルは答えた。
「教科書が紙屑になるのは、知が死んだ時ではない。知が先へ進んだ時だ」
バルカスが嬉しそうに頷く。
「まさに」
ヴァルキュリアが冷静に言った。
「その先へ進む速度を監視する必要があります」
「それも当然だ」
アルカンフェルは報告書を閉じた。
「観測班の成果は認める。次回以降も観測は許可する」
バルカスの目が輝く。
村上の顔が少し強張る。
アルカンフェルは続けた。
「ただし、実験は学者のためには行わん。火星のために行う。地球生命のために行う。観測は、それに従属する」
ヴァルキュリアが記録する。
「観測計画は継続。ただし、実験条件変更要求は禁止継続」
「そうだ」
シンが静かに言った。
「観測データのおかげで、次回の電荷制御はさらに安定します」
李・エンツイも続ける。
「空間窓の開き方も修正できる。観測班の指摘した虚数空間反射は有用だ」
カールレオンが頷く。
「漏れの一部は、逃がしすぎではなく、観測可能な形で戻っていた。次は虚数空間側の負荷を減らせる」
村上は、自分の掌を見つめた。
「僕の位相も、解析されるんですね」
「嫌か」
アルカンフェルが問う。
「嫌ではありません。ただ、怖いです」
「何がだ」
「僕の重力が、宇宙論のデータになることが」
アルカンフェルは、少しだけ村上を見た。
「慣れろ」
「簡単に言いますね」
「神将とはそういうものだ」
アプトムが通信越しに笑う。
『村上、諦めろ。俺なんか運送屋だの研究所大家だのサンプルリターン便だの、肩書きが増えまくってる』
「それは少し違うと思います」
『違わねぇよ。人間どもは、使えるものを見つけたら勝手に名前を付けるんだ』
バルカスが楽しそうに言う。
「では、村上神将の重力波形にも名称を」
「やめてください」
村上が即答した。
会議室に、わずかな笑いが起きた。
その笑いの後、アルカンフェルは再び報告書を開いた。
「この記録は、人間たちにとって大きすぎる」
ヴァルキュリアが問う。
「公開範囲は」
「段階公開だ」
アルカンフェルは言った。
「火星ホーキング核、ブラックホール炉、質量生成、虚数空間。全てを一度に出せば、社会はまた神話と恐怖に傾く」
「学術界には」
「限定公開。解析班は増やせ」
バルカスの顔が明るくなる。
だが、すぐにヴァルキュリアが口を挟んだ。
「監察官は増やせません」
アルカンフェルは頷いた。
「分かっている」
ヴァルキュリアは端末を操作しながら続ける。
「監察官は少数精鋭です。研究者の増員に比例して配置することは不可能ですし、質を落としてまで増やす意味もありません」
アプトムが通信越しに言った。
『じゃあ、あのブラックホール狂いたちは誰が止めるんだよ』
「止めるべき点を絞ります」
ヴァルキュリアは淡々と答えた。
「観測主任、データ管理主任、実験条件管理主任。この三系統を監察対象の中心に置きます。全研究者を見張るのではなく、条件を変えられる者、データを持ち出せる者、危険申請を通せる者を押さえます」
シンが頷く。
「要所を押さえるわけだ」
「はい」
李・エンツイが言う。
「空間観測窓の開閉権限は、こちらに残す」
「当然です」
カールレオンも続けた。
「虚数空間への逃がし経路も、研究者側には触らせない」
「それも前提です」
ヴァルキュリアはさらに言った。
「解析班の増員に合わせて、増やすのは監察官ではなく、監査補佐官と記録官です。彼らは停止権限を持ちません。ログ整理、申請分類、異常検出、研究者への手続き指導を行うだけです。最終判断は監察官が下します」
アプトムが言った。
『つまり、ヴァルキュリアみたいな奴は増えない。下に書類係とログ係が増えるだけか』
「言い方は雑ですが、概ねその通りです」
『それで回るのか?』
「回します」
バルカスが笑った。
「ヴァルキュリア嬢は厳しいのう」
「博士を見て学びました」
「それはどういう意味じゃ」
「言葉通りです」
アルカンフェルは、二人のやり取りを聞きながら報告書の最後に視線を落とした。
大統一理論の完成の儀式。
神の指先。
爽快な敗北。
人間の学者たちは、すぐに大げさな言葉を使う。
だが、その熱を馬鹿にはできない。
かつて自分は、知識のないまま小惑星を力ずくで砕いた。
今、人間たちは、黒い心臓の周囲で数式を書いている。
その差は大きい。
「バルカス」
「はっ」
「この記録を、火星計画へ組み込め」
「御意」
「天文学者たちにも伝えろ。次も見せる。ただし、見るだけではなく理解しろ。理解したなら、火星を壊さず青くするために使え」
「必ずや」
ヴァルキュリアが補足する。
「観測班の次回申請書から、感嘆符の数を制限します」
アプトムが吹き出した。
『そこかよ』
「重要です」
バルカスが笑う。
「研究者から感嘆符を奪うのは酷では?」
「奪いません。制限します」
アルカンフェルは、少しだけ口元を緩めた。
その頃、《ガリレオ》の観測室では、老物理学者が最初の手記を書き終えていた。
『我々は敗北した。
だが、敗北とは、世界が我々の想像より大きかったという知らせである。
今日、宇宙は再び大きくなった』
その手記は後に、公開版ではいくつもの機密部分を削られることになる。
だが、最後の一文だけは残された。
今日、宇宙は再び大きくなった。
それは、人工の黒い心臓を見た人類が、最初に得た言葉だった。
そして、その言葉の裏側では、少数の監察官が、膨大なログと危険申請の山を前に目を光らせている。
知識は必要だ。
だが、知識を欲しがる者ほど、時に止めねばならない。
クロノスの科学は、また一歩先へ進む。
その足首には、数ではなく質で選ばれた監察官たちの鎖が、確かに巻かれていた。