/*/ クラウド・ゲート 最上層 重力実験後・非公式検討会 /*/
人工カー・ニューマン・ブラックホール観測実験の後、クラウド・ゲート最上層の会議室には、妙な熱が残っていた。
天文学者たちはすでに追い出されている。
いや、正確には、ヴァルキュリアによって観測区画へ戻され、解析班と監察班に分けて隔離された。
それでも、彼らの熱は残っていた。
多次元証明。
電荷軸の位相固定。
ブラックホール炉の基礎理論。
虚数空間漏出スペクトル。
言葉だけなら危険極まりない。
だが、その危険な言葉の奥には、確かに必要な知識があった。
会議室には、アルカンフェル、バルカス、アプトム、シン、李・エンツイ、カールレオン、村上征樹、ヴァルキュリアが揃っていた。
アプトムは人間形態で、壁際の椅子に雑に座っている。
サングラスの奥の目には、まだ呆れが残っていた。
「しかしよ」
アプトムが口を開いた。
「総帥、あの天文学者ども、相当危ねぇぞ。ブラックホール見て、綺麗だの多次元だの炉だの、目が完全にイッてた」
バルカスが穏やかに頷く。
「研究者とは、そういうものじゃ」
「博士が言うと説得力がありすぎて嫌なんだよ」
ヴァルキュリアが端末を閉じながら言った。
「だから監察班を同数付けています」
「同数で足りるのか?」
「足りなければ増やします」
「地味に怖ぇな」
村上征樹は、窓の外の夜景を見ながら言った。
「ですが、あの人たちの言うことにも意味はあります。僕たちは、力でブラックホールを作った。でも、理解しているとは言い切れない」
シンが静かに頷いた。
「電荷を付与する側としても、観測データは欲しい。勘と制御だけで扱うには危険すぎる」
李・エンツイも言う。
「空間転位や縫合も同じだ。空間を切れることと、切った空間の構造を理解していることは違う」
カールレオンが腕を組む。
「虚数空間へ逃がした歪みも、どこまでが安全域かを数値で把握できるなら、その方がよい」
バルカスは満足そうだった。
「つまり、観測班は必要ということですな」
ヴァルキュリアが即座に釘を刺す。
「必要ですが、実験延長要求は却下します」
「そこは変わらぬか」
「変わりません」
そのやり取りを聞いていたアルカンフェルが、静かに口を開いた。
「実際、知識が必要になる重要性は、骨身に沁みているのだよ」
会議室が、わずかに静まった。
アプトムが顔を上げる。
「閣下が?」
バルカスも意外そうにアルカンフェルを見る。
「閣下ほどの御力があれば、たいていの事象は」
「力だけでは足りない」
アルカンフェルは、淡々と言った。
「少なくとも、私はそれを知っている」
彼は窓の外へ視線を向けた。
地球の夜。
雲の下に広がる都市の灯。
そのはるか上に、月があり、火星があり、木星があり、外縁がある。
アルカンフェルは、それよりさらに遠い過去を見ているようだった。
「創造された段階では、私は科学的な知識をほとんど持っていなかった」
バルカスが黙った。
村上も、視線を向ける。
「私はウラヌスが作った指揮個体だった。力は与えられていた。生体兵器を束ねる能力も、重力を操る力も、地球生命を守るための本能もあった」
アルカンフェルの声は、静かだった。
「だが、知識はなかった。少なくとも、今のお前たちが扱うような天体物理も、相対論も、ブラックホール炉も、虚数空間制御も知らなかった」
アプトムが、少しだけ真面目な顔になる。
「それで、昔のあれか」
「ああ」
アルカンフェルは頷いた。
「ウラヌスが寄越した天体兵器。直径600kmの小惑星だ」
その言葉だけで、会議室の温度が下がった。
直径600km。
地球生命を終わらせるには十分すぎる質量。
それが、降臨者によって地球へ向けられた。
「私は、それを力ずくで破壊するしかなかった」
アルカンフェルは言った。
「重力で掴み、砕き、逸らし、焼き、叩き潰した。破片が落ちれば地球が傷つく。だから、さらに砕き、さらに消し、さらに散らした」
村上が息を呑んだ。
「それを、知識なしで……?」
「正確には、ほとんど知識なしでだ」
アルカンフェルは答えた。
「どの破片がどの軌道へ行くか。どれほどの衝撃波が出るか。大気圏でどの程度燃えるか。何も今ほど正確には知らなかった。ただ、地球を守るために壊した」
バルカスは、静かに目を伏せた。
彼がシラー島で出会った主は、すでに傷つき、眠り、周期的な不調を抱えた存在だった。
だが、その傷の前に、こんな無茶があった。
アルカンフェルは続ける。
「今なら違う」
その声には、わずかに冷たい確信があった。
「直径600kmでも、今なら手段がある。ブラックホール蒸発によるホーキング放射で粉砕する。もちろん、場所を選び、味方を退避させ、放射と空間歪曲の反動を逃がす必要はある」
カールレオンが続けた。
「虚数空間側へ一部を逃がす」
李・エンツイが言う。
「破片の再結合軌道を空間的に分断する」
村上が低く言った。
「残った破片は、マイクロブラックホールで掃除する」
「それで終わりだ」
アルカンフェルは言った。
「あの頃のような無茶は必要ない」
会議室に、しばらく沈黙が落ちた。
それは、強さの話ではなかった。
同じアルカンフェルが、同じ地球を守るために動いたとしても、知識があるかないかで、必要な無茶が変わる。
力だけなら、力ずくで壊すしかない。
知識があれば、壊し方を選べる。
守り方を選べる。
被害を減らせる。
バルカスが、深く頭を下げた。
「閣下……」
「だから、学者たちを切り捨てるな」
アルカンフェルは言った。
「天文学者がブラックホールを見て目を輝かせる。地質学者が火星の地面を掘り返す。生物史研究者がミッシングリンクを探す。金星班が酸の雲へ行きたがる。危険だ。面倒だ。統制も必要だ」
ヴァルキュリアが小さく頷いた。
「監察も必要です」
「当然だ」
アルカンフェルは続けた。
「だが、知識は要る。力だけでは、いつかまた無茶をすることになる」
アプトムが、少しだけ口元を歪めた。
「総帥が言うと重いな」
「私は実際に無茶をした」
「それで地球を守ったんだろ」
「守った」
アルカンフェルは認めた。
「だが、賢いやり方ではなかった」
村上は、静かに言った。
「今なら、賢いやり方を選べる」
「選べるようにする」
アルカンフェルは答えた。
「そのために、学者たちには見せる。掘らせる。測らせる。記録させる。だが、暴走は止める」
ヴァルキュリアが端末を開く。
「つまり、天文学会の追加観測申請は」
「条件を整えた上で、次回以降も認める」
バルカスの目が輝いた。
「閣下」
「ただし、バルカス」
「はい」
「お前は延長申請の審査から外す」
「やはりですか」
「やはりだ」
アプトムが笑う。
「博士、完全に観測班側だもんな」
「科学者としては仕方あるまい」
「開き直ったぞ」
シンが少しだけ笑った。
「しかし、これで方針は定まりましたね。力で先に進むのではなく、知識を伴わせる」
李・エンツイが言う。
「知識があれば、空間もより正確に切れる」
カールレオンも頷く。
「虚数空間も、ただ逃げ込む場所ではなく、制御対象になる」
村上は、自分の掌を見た。
「重力も、潰す力だけではない」
アルカンフェルは、その言葉に少しだけ視線を向けた。
「そうだ」
会議室の外には、クラウド・ゲートの巨大な都市光が広がっている。
その光の向こうで、人間たちは暮らしている。
走り、歌い、研究し、掘り、時々愚かな署名を集め、時々危険なものを美しいと言う。
地球生命とは、そういうものなのだろう。
アルカンフェルは、最後に言った。
「ウラヌスは、力を与えた。だが、知識を与え切らなかった」
バルカスが顔を上げる。
「ならば」
「ならば、我々が集める」
アルカンフェルは言った。
「地球生命が次に同じものを向けられた時、力ずくで受け止めるだけの時代は終わっていなければならない」
沈黙。
それは命令ではなく、方針だった。
クロノスのこれからの形。
戦うための組織から、知り、作り、守るための組織へ。
アプトムが椅子から立ち上がり、肩をすくめた。
「じゃあ、俺はまた学者どもを運ぶわけか」
「そうだ」
「天文学者、地質学者、生物史屋、金星の酸っぱい雲好き、ブラックホール狂い。次は何だ?」
アルカンフェルは、わずかに口元を緩めた。
「必要な者すべてだ」
アプトムは、サングラスを押し上げて笑った。
「太陽系最大の運送屋も楽じゃねぇな」
バルカスが言う。
「それも知識のためじゃ」
「博士が言うと、また腹に研究所を増やされそうで嫌なんだよ」
ヴァルキュリアが淡々と告げた。
「増設申請はすでに三件来ています」
「断れ!」
「審査します」
「断れよ!」
会議室に、少しだけ笑いが戻った。
その笑いの中で、アルカンフェルは窓の外を見た。
かつて、何も知らずに小惑星を砕いた空。
今、人間たちはその空の法則を読み始めている。
次に何かが来る時。
地球生命は、ただ耐えるだけではない。
理解して、選んで、迎え撃つ。
それが、アルカンフェルの得た新しい力だった。