/*/ 群馬県みなかみ市 温泉街外れの喫茶店 /*/
外出許可は、あっさり出た。
小田桐はそれを聞いた時、まず罠を疑った。
当然だった。
クロノス日本支部、レリックスポイント最下層。
その生体研究区画に属する研究主任が、総帥アルカンフェルと直接面談した直後に、施設外への外出を許される。
しかも行き先は、みなかみ市内。
接触相手は、プロフェッサー・山村の反乱に連なる逃亡者、村上征樹。
普通に考えれば、あり得ない。
あり得ないからこそ、小田桐は理解した。
これは試されている。
自分が村上に何を話すか。
村上が何を知っているか。
そして、自分たちがアルカンフェルの開示した情報をどう判断するか。
だが、不思議なことに、露骨な監視はなかった。
支部から出る時も、追跡車両は見えなかった。
喫茶店へ入る時も、周囲にクロノスの兵士らしい気配はない。
温泉街外れの、古い喫茶店だった。
木の扉。
色褪せた看板。
窓の外には細い川と、山へ続く道路が見える。
平日の午後。
客は少ない。
奥の席に、村上征樹がいた。
旅装のまま、新聞を開いている。
普通の青年に見える。
だが、小田桐は知っている。
彼は普通ではない。
プロト・ゾアロード。
ギュオーの試作体。
クロノスから逃れ、山村の意思を継ぎ、なお独自に動いている男。
村上は顔を上げた。
「小田桐主任ですね」
「村上征樹君だな」
「ええ」
村上は新聞を畳んだ。
テーブルには、コーヒーが一つ。
小田桐は向かいの席に座る。
店員が水を置き、注文を聞きに来た。
「コーヒーを」
「はい」
店員が離れる。
二人は、しばらく黙っていた。
先に口を開いたのは村上だった。
「本当に一人で来たんですか」
「少なくとも、私には監視は見えなかった」
「見えない監視なら、いるかもしれません」
「だろうな」
小田桐は苦く笑った。
「だが、露骨な監視を置かない程度の配慮はされたらしい」
「アルカンフェルが?」
「ああ」
村上の目がわずかに細くなる。
「あなたも会ったんですね」
「会った」
「何を聞かされました」
「君と同じかどうかは分からん」
小田桐はカバンから記録媒体を取り出した。
ただし、テーブルには置かない。
「降臨者。ウラヌス。地球生物兵器計画。ゾアロード。獣化兵。そして、地球外に存在する別系統の生体兵器体系」
村上の表情が変わった。
「そこまで開示されたんですか」
「君にも?」
「断片的には」
村上は低く答えた。
「僕には、星系制圧生物兵器という言い方をしていました。アルカンフェルは、それを宇宙怪獣と呼んでいた」
小田桐は沈黙した。
宇宙怪獣。
あまりにも軽い響きだった。
だが、アルカンフェルが示した資料の中身は、軽さとは程遠いものだった。
惑星内制圧を目的とした獣化兵とは根本から異なる、星系単位の生体兵器。
真空適応。
重力環境無視。
恒星間移動。
自己増殖。
生命圏を資源として利用する可能性。
それは、怪獣という幼稚な言葉でしか表現できないほど、人類の兵器概念から外れていた。
「信じたのかね」
小田桐が問う。
村上はコーヒーカップに触れた。
飲まない。
ただ、指先で縁をなぞる。
「信じたくはありませんでした」
「だろうな」
「でも、調べました」
村上は新聞を開いた。
そこには、地方紙の小さな記事があった。
海外の天文台が観測した新彗星群。
周期不明。
通常の彗星群より高い密度。
軌道計算に誤差あり。
専門家の間で追加観測が進められている。
一般人なら、読み飛ばす記事だ。
天文好きなら、少し興味を持つ程度。
だが、小田桐は記事を見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「これは」
「表向きは彗星群です」
村上は言った。
「僕は、各地の天文台を回りました。国内だけじゃない。連絡を取れる範囲で海外の観測者にも当たった。アマチュアの記録も見ました」
「君が?」
「クロノスの資料だけでは信用できませんから」
当然の判断だった。
そして、正しい。
「結果は?」
「おかしい」
村上は短く言った。
「彗星群としては軌道の収束が不自然です。尾の出方も均一じゃない。観測点によっては微妙に加減速しているように見える」
「彗星が、加減速?」
「見間違いの可能性はあります。観測誤差もある。天文台の人間は、まだそう考えている」
「だが、君はそう思っていない」
「思いたくないだけです」
村上は苦々しげに笑った。
「でも、アルカンフェルから渡されたデータと照合すると、無視できない一致がある。大きさ、反射率の揺らぎ、軌道の変化、太陽系へ向かう進路。全部が偶然とは言い切れない」
小田桐は、新聞を見つめた。
彗星群。
そう呼ばれているもの。
だが本当に、それは彗星なのか。
もしアルカンフェルの言葉が本当なら。
もし降臨者が別星系で作った生体兵器群が、何らかの理由で太陽系へ向かっているなら。
クロノスは悪の組織だ。
その事実は変わらない。
だが、その悪の組織が、実際に地球外の脅威に備えているという事実も、積み上がり始めていた。
「つまり」
小田桐はゆっくりと言った。
「アルカンフェルの話は、少なくとも完全な作り話ではない」
「ええ」
村上が頷く。
「最悪です」
「最悪?」
「クロノスがただの悪の組織なら、話は簡単だった」
村上の声には、疲労が混じっていた。
「倒せばいい。暴けばいい。世界征服を止めればいい。人間を実験台にする組織など、滅ぼされるべきだ。そう言えた」
「今は言えないと?」
「言えます」
村上は顔を上げた。
「クロノスは悪です。そこは変わりません」
「同感だ」
「でも、クロノスが見ているものも、嘘ではないかもしれない」
その言葉は重かった。
二人とも、それを認めたくなかった。
小田桐は、アルカンフェルの言葉を思い出す。
私は現生人類とは違う。
三十万年前にウラヌスに作られた地球生物の指揮個体。
いわば、地球生命の責任者だ。
私には地球生命を守る義務がある。
たとえ、それがウラヌスに否定されたものでもだ。
あの言葉は、人間の王の言葉ではなかった。
独裁者の演説でもない。
怪物の責務だった。
現生人類の倫理の外側から、人類を含む地球生命を守ろうとする何か。
それが善であるかどうかは分からない。
だが、単なる支配欲だけではない。
その可能性を、小田桐は否定できなくなっていた。
「君はどうするつもりだ」
小田桐が問う。
村上はすぐには答えなかった。
窓の外へ視線を向ける。
川が流れている。
山の斜面には木々が揺れている。
その上には青い空がある。
あの空の向こうから、彗星群と呼ばれる何かが近づいている。
「まだ、従う気はありません」
村上は言った。
「アルカンフェルも、それでいいと言っていました」
「あの男は、君にもそう言ったのか」
「ええ。信用しなくていい。調べろ。疑え。判断しろ、と」
小田桐は小さく息を吐いた。
「私にも似たようなことを言った」
「小田桐主任には、何を?」
「開示した情報を検証しろ。クロノスの世界征服を止めることが、本当に地球生命を救うのか考えろ。盲従ではなく、疑いながら従え」
村上は少しだけ目を見開いた。
「そんなことを?」
「ああ」
「クロノスの総帥が?」
「クロノスの総帥が、だ」
二人は黙った。
やはり、おかしい。
悪の組織の総帥としては、おかしい。
だが、おかしいからこそ、厄介だった。
ただの暴君なら、倒せばいい。
ただの支配者なら、抵抗すればいい。
だが、アルカンフェルは自分を疑う者を、あえて内側に置こうとしている。
それが余裕なのか。
傲慢なのか。
それとも、本当に人間の目を必要としているのか。
まだ判断できない。
「小田桐主任」
「何だね」
「あなたは、クロノスに戻るんですか」
「戻る」
即答だった。
村上の目が険しくなる。
「なぜ」
「見なければならないものが増えた」
「クロノスに協力するという意味ですか」
「違う」
小田桐は首を振った。
「いや、違わないかもしれない。だが、少なくとも盲従ではない」
「……」
「私はアルカンフェルに条件を出した。ギュオーおよびその直属部隊の介入禁止。バルカス博士以外の強制監査拒否権。ロストナンバーズ調整希望者への説明と撤回期間」
「ロストナンバーズ調整?」
村上が反応した。
小田桐は頷く。
「思念波支配を受け入れられない者に、命令波への感受性を落とす調整を許可すると言われた」
「そんなことを、アルカンフェルが?」
「そうだ」
「危険すぎる」
「承知している」
小田桐は苦い顔をした。
「安定性は落ちる。寿命も、神経系も、獣化形態も不安定になる可能性がある。調整失敗で死ぬ者も出る」
「それでもやると?」
「選ばせる」
村上は黙り込んだ。
思念波による支配。
ゾアロードに逆らえない獣化兵。
その構造を知っている村上にとって、それは無視できない話だった。
「アルカンフェルは、そこまで譲ったのか」
「譲ったと言うべきか、利用する気と言うべきか」
「利用?」
「疑いながら働く研究者の方が役に立つ場合がある、と言っていた」
村上は顔をしかめた。
「言いそうですね」
「会ったばかりで分かるのか」
「分かりたくありませんが」
小田桐は、そこで少しだけ笑った。
初めて、二人の間の空気がわずかに緩んだ。
だが、それはすぐに消えた。
村上が新聞を畳み直す。
「小田桐主任。僕は、まだアルカンフェルを信用しません」
「私もだ」
「クロノスも信用しません」
「当然だ」
「ギュオーは危険です」
「それも同感だ」
「でも、宇宙怪獣が本当に来るなら」
村上の声が重くなる。
「クロノスを今潰すことが、正しいとは限らない」
小田桐は目を閉じた。
聞きたくなかった結論だった。
だが、自分も同じ場所へ向かいつつあった。
「その通りだ」
小田桐は言った。
「クロノスを止めるにせよ、止め方を考え直さなければならない」
「アルカンフェルを倒せば終わる、ではない」
「むしろ、今アルカンフェルを倒せば、ギュオーや他の獣神将がどう動くか分からない」
「世界は混乱する」
「そして、空の向こうから来るものに備えられない」
二人は、互いに顔を見た。
敵ではない。
味方でもない。
だが、同じ厄介な結論を見ている者同士だった。
クロノスは悪の組織だ。
アルカンフェルは支配者だ。
だが、宇宙怪獣は本当に存在するかもしれない。
そして、近づいている。
「情報を共有しましょう」
村上が言った。
「あなたがクロノス内部で得た情報。僕が外で調べた情報。互いに照合する」
「よかろう」
「ただし、僕はクロノスには戻りません」
「構わん」
「あなたも、アルカンフェルに完全に取り込まれないでください」
「そのつもりだ」
小田桐は少しだけ皮肉に笑った。
「もっとも、向こうは取り込むつもりなら、とっくに調整して、思念波でやっているだろうがな」
「それが一番不気味です」
「同感だ」
二人の前に、冷めかけたコーヒーがあった。
喫茶店の中は静かだった。
誰もこちらを見ていない。
監視はいない。
少なくとも、そう見える。
だが、店の外。
道路を挟んだ土産物屋の軒先で、一人の若い男が観光パンフレットを眺めていた。
平凡な顔。
平凡な服装。
平凡な観光客。
だが、その男の視線は、時折喫茶店の窓へ向けられていた。
アプトム。
再調整されたロストナンバーズ。
思念波への反応を意図的に落とされ、ゾアロードの命令波に引っかからないよう調整された個体。
村上征樹は、彼に気づいていない。
無理もない。
アプトムは獣化兵としての気配を薄め、思念波にも反応しない。
プロト・ゾアロードである村上の感覚から見れば、そこにいるのはただの一般人に近かった。
アプトムはパンフレットを閉じ、小さく呟いた。
「面倒な監視だぜ」
だが、表情は悪くなかった。
失敗作。
ロストナンバー。
そう呼ばれてきた自分が、今は総帥直々の監視任務についている。
しかも、ゾアロードに気づかれない監視役として。
皮肉な出世だった。
「ま、命令波が来ねぇのは楽でいいけどな」
アプトムは喫茶店の窓を見た。
中では、小田桐と村上がまだ話している。
すぐに撃ち合いになる気配はない。
ならば、自分は見ていればいい。
必要なら、割って入る。
必要でなければ、いないふりをする。
そういう任務だった。
喫茶店の中で、村上が小田桐へ小さな封筒を渡した。
「各天文台で集めた観測記録です。完全ではありませんが、軌道計算のメモも入っています」
「預かろう」
「そちらのデータも、可能な範囲で」
「持ち出せる形にしておく」
小田桐は封筒を受け取った。
そして、村上を見る。
「村上君」
「はい」
「我々は、クロノスの味方ではない」
「ええ」
「だが、今はクロノスを潰すだけでは済まない」
「分かっています」
「なら、しばらくは互いに生き延びよう」
村上は、少しだけ目を伏せた。
「そうですね」
敵対者同士の握手はなかった。
信頼の言葉もなかった。
ただ、二人はそれぞれのコーヒーを飲み干した。
苦かった。
冷めていた。
だが、今の状況にはちょうどよかった。