/*/ クロノス極東統治拠点《クラウド・ゲート》 /*/
火星は、赤い星だった。
人類が望遠鏡で見上げ、無人探査機を送り、砂と氷と岩の記録を読み取ろうとしてきた星。
その赤い星の内部に、海が眠っている。
その報告は、会議室の空気を一変させた。
中央投影には、火星の断面図が浮かんでいる。
地表。
地殻。
地下十キロから二十キロ。
割れ目の多い火成岩層。
そこに青い帯が広がっていた。
地殻内貯水層。
旧人類の無人探査機インサイトが遺した地震波データ。
クロノスの最新地殻スキャニング。
それらを重ね合わせた結果、バルカスが結論づけたもの。
火星全土を深さ千五百メートル以上の海で覆えるほどの液体の水。
それが、地下深くに高圧で封じ込められている。
ハミルカル・バルカスは、昂ぶっていた。
報告書を読み上げる声に、老博士らしからぬ熱がある。
「閣下。これは天然のブースターです」
バルカスは、火星断面図を指し示した。
「我々が木星から水素を運び、彗星核を落とし、外縁天体の氷を砕き、何百年もかけて水を与える必要はない。火星は、すでに内側に海を持っておるのです」
会議室には、アルカンフェル、村上征樹、シン、プルクシュタール、李・エンツイ、カールレオン、ガレノス、ワフェルダノスの通信投影、そしてヴァルキュリアがいた。
さらに別席には、火星学術前線計画の代表者たち。
惑星地質学者。
古気候学者。
宇宙化学者。
生命起源研究者。
彼らは、バルカスの報告に青ざめていた。
水がある。
それは歓喜すべき事実のはずだった。
だが、同時に恐怖でもあった。
火星の地下に眠る水を、クロノスは起こせる。
そして起こせるなら、いつか起こす。
バルカスは続けた。
「プロジェクト・アレスによって、中心核に一ヨタグラム級マクロブラックホールが定着する。マントル対流が再起動する。火星内部に熱が戻る。その時、地下十キロから二十キロの中期地殻に封じられた貯水層は、ただの水ではなくなります」
投影が変わる。
火星内部から、赤い熱の柱が立ち上がる。
スーパープルーム。
熱が地殻へ突き上げる。
その上に、青い貯水層がある。
「閣下と村上神将の重力同調によって、地殻にかかる潮汐応力を操作する。脆弱な岩盤プレートへ意図的に偏荷重をかける。貯水層の天井を、広範囲にわたって崩落させる」
村上の表情が硬くなった。
「僕たちの重力で、火星の地下水層を破るのですか」
「その通りじゃ」
バルカスは即答した。
「正確には、破るのではない。目覚めさせるのじゃ」
「言い換えですね」
ヴァルキュリアが冷静に言った。
「まぁ、そうじゃの」
バルカスは少しだけ咳払いした。
投影では、地下貯水層の天井が崩落していく。
数億トン単位の岩盤が落ちる。
水が圧縮される。
マントル由来の熱が流れ込む。
水は超臨界状態に近づき、逃げ場を求める。
そして、火星の傷口から噴き上がる。
マリネリス峡谷。
タルシス火山群。
オリンポス山周辺。
古い亀裂。
巨大な峡谷。
地表へ至る弱い道。
そこから、白い柱が立った。
水蒸気。
熱水。
岩粉。
塩類。
鉱物。
超巨大間欠泉。
ハイパー・プルーム。
火星が、内側から水を吐き出す映像だった。
火星学術前線の老地質学者が、掠れた声で言った。
「これは……地質記録の破壊です」
「そうだ」
アルカンフェルが答えた。
バルカスではなかった。
会議室の視線がアルカンフェルへ向かう。
彼は赤い火星を見たまま、淡々と続けた。
「地質記録の破壊であり、海洋形成の起動でもある。どちらも事実だ」
老地質学者は唇を噛んだ。
「総帥。これを起こすなら、十年では足りないかもしれません」
「足りないなら、どこが足りないか示せと言った」
アルカンフェルは答える。
「だが、今の報告で分かった。お前たちの十年は、ただ火星を読む十年ではない。火星が変わる前に、沈む場所、裂ける場所、噴く場所、消える記録を優先して読む十年だ」
会議室が静まり返った。
ヴァルキュリアが端末に新しい項目を開く。
「火星学術前線計画の優先順位を変更しますか」
「変更する」
アルカンフェルは言った。
「第一優先は、地下貯水層天井部の岩盤プレート。崩落予定領域を読む」
老地質学者が目を見開く。
「そこを、我々に調べさせるのですか」
「そうだ」
「危険すぎます」
「だからクロノス土木建築班を付ける」
アルカンフェルは、バルカスの投影を切り替えさせた。
火星表面に、複数の巨大施設が浮かぶ。
通常の研究基地ではない。
クラウド・ゲートの地下構造を小型化したような、岩盤深くへ杭を打ち込む巨大な耐圧研究都市。
地表の建物は低く、半分以上が地下に潜っている。
外殻は多重構造。
生体自己修復材。
地殻変動吸収層。
粉塵遮断膜。
緊急浮上区画。
アプトム便との接続港。
ミューオンスキャナ室。
作業用強殖装甲格納庫。
非汚染サンプル保管庫。
地震波観測塔。
地下水圧監視管。
そして、火星が噴き上がった時に耐えるための、巨大な隔壁群。
ヴァルキュリアが、思わず眉を動かした。
「これは研究基地というより、要塞です」
「研究要塞だ」
アルカンフェルは言った。
「天変地異を観測する者は、その天変地異に耐えねばならん」
バルカスが嬉しそうに頷いた。
「クラウド・ゲート、レリックスポイント遺跡基地、月面研究都市の技術を統合すれば可能です。地殻変動に合わせて基礎構造を自己調整し、津波、噴出、地震、粉塵嵐、熱水爆発に耐える」
村上が低く言う。
「津波?」
バルカスは投影を示した。
火星の北半球低地へ、水が流れ込んでいく。
ボレアリス海。
低地を覆う巨大な青。
南半球の高地は大陸として残る。
マリネリス峡谷は内海となり、タルシス火山群は海に浮かぶ火山島になる。
「地下水の噴出後、初期火星は白い星になります」
バルカスは言った。
「水蒸気と雲。大気圧の急上昇。温室効果。次に、大豪雨。プルクシュタール神将の気象制御によって寒冷前線を誘導し、水蒸気を液体として落とす。数か月にわたるメガ・レインです」
プルクシュタールは、映像を見て苦笑した。
「火星全土に雨を降らせろ、か」
「はい」
「これまでで一番大きな仕事だな」
「そのための神将です」
「簡単に言ってくれる」
アルカンフェルは問う。
「可能か」
プルクシュタールは少し考えた。
「水蒸気量、大気圧、温度、磁場、地形。条件が整っていれば、誘導はできる。だが、完全な制御はできない」
「完全でなくてよい。星の空を流れる方向へ押せ」
「ならば、やりましょう」
バルカスは満足げに頷いた。
次にシンが言う。
「磁場がなければ、水蒸気も大気も長期的には守り切れません。中心核の電荷とスピンを安定させる必要があります」
「そのためにお前がいる」
アルカンフェルが言う。
シンは静かに頷いた。
「承知しています」
リ・エンツイは、火星断面図を見ていた。
「地下貯水層の崩落範囲が予測より広がった場合、研究基地を転位させる必要が出るかもしれません」
ヴァルキュリアが即座に言う。
「研究要塞全体を転位できますか」
「軽い基地なら」
李・エンツイは答えた。
「だが、クラウド・ゲート級の構造物を火星表面から丸ごと引き抜くのは難しい。緊急退避は、基地そのものではなく人員と中核データの転位になる」
「ならば、基地は捨てられる構造にする」
アルカンフェルが言った。
「人員、サンプル、記録、ミューオンスキャナデータ。これを優先しろ。建物は残せれば残せばよい」
老地質学者が、震える声で言った。
「研究基地を、沈むことを前提に作るのですか」
「火星を読むためなら、そういう基地も要る」
アルカンフェルは答えた。
「海になる場所を調べる者は、海になる瞬間も見るべきだ」
その言葉に、学者たちは息を呑んだ。
恐怖。
そして、どうしようもないほどの誘惑。
海が生まれる瞬間を見る。
火星が白い星になり、雨が降り、北半球に海が広がる瞬間を、現地で観測する。
惑星科学者にとって、それは狂気じみた夢だった。
バルカスは、さらに投影を進める。
「水が落ち着いた後、ワフェルダノス神将の出番です」
火星の北半球に青い海が広がる。
そこへ、微細な緑の点が散る。
海洋性微細藻類。
クロノス特製シアノバクテリア。
海水中の二酸化炭素と鉱物を使い、爆発的に増殖する。
酸素を吐く。
炭素を固定する。
大気は少しずつ変わる。
ワフェルダノスの通信投影から、森のような低い声が響いた。
「水が来れば、命は早い」
南半球の大陸には、臣毛が走る。
人工土壌。
菌糸。
苔。
草本。
樹木幼体。
赤い大地へ、緑が入り込む。
火星の空は、白い蒸気から、やがて青へ変わる。
バルカスは、昂ぶった声で言った。
「レイリー散乱により、空は至高の青へ」
「バルカス」
ヴァルキュリアが静かに遮った。
「報告書から詩的表現を減らしてください」
「これは必要な情緒ですぞ」
「監察上は不要です」
アプトムの通信が割り込んだ。
『火星を青くする話なのに、研究者の基地は沈むかもしれねぇってか。景気いいんだか悪いんだか分からねぇな』
「お前にも役目がある」
アルカンフェルが言った。
『だろうな』
「火星研究要塞群への輸送。地質サンプルの退避。海洋形成時の上空観測。噴出水と大気成分の採取。津波に飲まれた基地からの回収」
『最後のが不吉すぎるだろ』
「不吉ではない。想定だ」
『平和になってから、俺の仕事が一番危ない気がしてきたぞ』
「お前は死ににくい」
『便利な言い方だな』
会議室に、わずかに笑いが起きた。
だが、すぐに消えた。
火星改造は、冗談で済む規模ではない。
研究者たちは、改めて投影を見ていた。
地下水層。
崩落予定区域。
噴出予測地点。
沈む低地。
残る高地。
研究基地候補。
十年。
地球時間で十年。
その間に、彼らは火星の記録を読まねばならない。
しかも、読むべき記録が、いずれ水と雨と海に飲まれることを知った上で。
若い女性天文学者が口を開いた。
「総帥」
「何だ」
「十年の間に、我々が研究基地を建て、掘り、記録し、サンプルを退避させる。それでも、火星の記録を全て守ることはできません」
「できないだろうな」
「それでも進めるのですね」
「進める」
彼女は目を伏せた。
「悔しいです」
「ならば、その悔しさで掘れ」
アルカンフェルは言った。
「火星は全てを保存するための標本ではない。だが、失われるものを知っていて失うのと、知らずに塗り潰すのでは違う」
老地質学者が深く頷いた。
「記録します」
「そうしろ」
「沈む場所も、裂ける場所も、噴き上がる場所も」
「全てだ」
「火星が海を持つ前の最後の姿を」
「残せ」
アルカンフェルは、火星の投影を見た。
赤い星。
地下に海を隠した星。
いずれ白い蒸気に包まれ、雨を降らせ、青い海を抱くかもしれない星。
彼は静かに言った。
「十年、火星は学者のものだ」
議場ではない。
最高機密会議室で、彼はそう宣言した。
「その後は、子を産む者、家を建てる者、畑を作る者、森を植える者、海を見る者のものになる」
バルカスは深く頭を下げた。
ヴァルキュリアは、火星研究要塞群の監察条項を作り始めた。
村上は、自分の重力が破ることになる地下水層を見つめていた。
ワフェルダノスは、まだ存在しない火星の森へ臣毛を伸ばす夢を見ているようだった。
そして学者たちは、恐怖と興奮に震えながら、次々に手元の端末へ基地候補地を打ち込み始めた。
マリネリス峡谷縁辺観測要塞。
タルシス火山群地下水圧監視基地。
北部低地沈降前線観測都市。
古代湖底非汚染掘削区画。
極域氷床深層コア採取基地。
ボレアリス海予定底サンプル退避倉庫。
火星は、まだ赤い。
だが、その赤はもう、ただの不毛ではなかった。
読まれるべき記録。
沈むべき大地。
そして、青くなる前の最後の顔だった。