/*/ 火星前線研究要塞《アレス・ノード》 共同解析区画 /*/
火星の地面は、休ませてもらえなかった。
十年。
地球時間で十年。
火星を好きなだけ掘れ、とアルカンフェルは言った。
だから、地質学者たちは本当に掘っていた。
古代湖底を掘る。
クレーターを削る。
マリネリス峡谷の断面を切る。
タルシス火山群の古い噴出層を抜く。
北部低地の沈降前線を調べる。
地下十キロから二十キロに眠る貯水層の天井岩盤を、狂ったようにマッピングする。
作業用強殖装甲をまとった研究者たちは、赤い大地を歩き、崖を登り、地下洞穴へ降り、氷床を切り出していた。
彼らは幸福だった。
怒ってもいた。
忙しすぎた。
そして、掘れば掘るほど、火星は新しい顔を見せた。
その極めつけが、化石化したウラヌスの宇宙船だった。
地中に埋もれた、死んだ船。
火星の地殻運動が早くに止まり、熱源を失ったため、自己修復も自己維持もできず、長い時間の果てに化石のように硬化した遺跡。
最初は、それだけでも十分に大事件だった。
だが、船体中枢部から回収されたデータストレージをバルカスが解析し始めたことで、事件はさらに別の段階へ進んだ。
生物史研究者たちが呼ばれたのは、その後である。
彼らは最初、半信半疑だった。
火星地質学者たちがウラヌス船を掘り当てた。
降臨者の航行記録が見つかった。
それは分かる。
だが、なぜ生物史研究者が呼ばれるのか。
地球生命の進化史を扱う者たちに、火星の船体データが何の関係を持つのか。
その疑問は、バルカスが投影した最初の系統図で吹き飛んだ。
「……これは」
老いた古生物学者が、椅子から半ば立ち上がった。
投影されていたのは、地球生命の系統樹だった。
ただし、見慣れたものとは違う。
いくつもの枝に、赤い印が付いている。
従来の化石記録では唐突に現れたように見える系統。
祖先形質との接続が薄い生物群。
いわゆるミッシングリンク問題を抱えていた部分。
そこに、火星船体データ由来の補助線が伸びていた。
地球ではない場所から。
火星。
金星。
そして、いくつかの小天体施設。
バルカスは、興奮を抑えきれない声で言った。
「ウラヌスは地球だけで生物実験をしていたわけではない」
会議室が静まり返る。
「火星でも開発していた。おそらく別系統の調整を行っていた。地球は最終投入先、あるいは比較試験場の一つにすぎなかった可能性がある」
若い進化生物学者が、震える声で言った。
「つまり……地球のミッシングリンクは、本当に地球上に存在しなかった可能性がある?」
「そうじゃ」
バルカスは頷いた。
「存在していないのではない。地球にないだけだ」
その言葉は、会議室全体を貫いた。
生物史研究者たちは、しばらく誰も喋れなかった。
地球生命史の中で、唐突に現れたように見える形質。
急激な適応放散。
化石記録の空白。
環境変動だけでは説明しきれない進化の飛躍。
それらの一部が、もし地球外施設で設計・育成され、後から地球へ搬入された結果だとしたら。
ミッシングリンクは、欠けていたのではない。
地球の外に置かれていた。
老古生物学者が、両手で顔を覆った。
「そんな馬鹿な……」
隣の若い研究者が言う。
「でも、これなら説明できる系統がある」
「説明できすぎる」
「これ、地球生命史の教科書が全部書き換わりますよ」
「教科書どころではない。地球生命の定義が変わる」
別の生物史研究者が、投影図へ詰め寄った。
「待ってください。金星由来候補とされている系統群は、現在の金星環境とは合いません」
「現在の金星ではな」
バルカスが言った。
「だが、ウラヌスが活動していた時代の金星環境、あるいは金星上層施設なら話は別じゃ」
「金星上層施設……」
「火星で船が死んだ。ならば金星にも、何かが残っているかもしれぬ」
その瞬間、生物史研究者たちの顔が変わった。
地質学者たちが同じ顔をしていたことを、彼らはまだ知らない。
掘りたい。
読みたい。
確かめたい。
生物史研究者たちは、火星に来てまだ数日も経っていないのに、もう金星を見始めていた。
通信越しにアプトムがぼやいた。
『おいおい。今度は金星行き学者便とか言い出すんじゃねぇだろうな』
若い生物史研究者が、反射的に振り返った。
「必要なら行きます」
『言うと思ったよ』
バルカスは楽しそうに笑った。
「アプトム、忙しくなるぞ」
『俺はガス屋で運送屋で研究所大家で火星引っ越し業者で、今度は進化生物学ツアーの添乗員か?』
李・エンツイが横から静かに言った。
「太陽系生物史調査輸送主任」
『肩書を増やすな』
会議室の一部に笑いが起きた。
だが、その笑いも長くは続かなかった。
投影された系統図が、あまりにも重かったからだ。
古生物学者が言った。
「この火星由来候補群の原資料を見せてください」
バルカスが端末を操作する。
ウラヌスのデータ断片。
完全ではない。
劣化している。
多くは欠落している。
それでも、そこには生物の形態データ、遺伝子様情報、発生段階の記録、環境適応試験の断片が含まれていた。
それは、地球の化石記録で空白になっていた部分と、あまりにもよく噛み合った。
若い研究者が震えながら言った。
「この系統は、地球では突然現れたように見えていました。でも、火星側で前段階が設計されていたなら……」
「金星側で高温・高圧耐性の基礎実験を行い、地球投入時に別形質へ転用した可能性もある」
「小天体施設で低重力発生実験をしていたなら、骨格系の飛躍も説明できる」
「地球の進化史が、地球だけで閉じていない」
「太陽系規模の実験場……」
「では、地球生命とは何だ?」
その問いに、誰もすぐには答えられなかった。
アルカンフェルは、黙ってその議論を聞いていた。
彼にとって、それは驚きであり、同時に当然でもあった。
降臨者は地球だけを見ていたわけではない。
地球生命は地球だけで完結していたわけではない。
その事実が、ようやく人間たちの手で掘り起こされ始めた。
村上征樹が静かに言った。
「火星を読む十年では足りませんね」
アルカンフェルは、火星船体の投影を見た。
そこには、地質学者たちがまだ掘っている映像が重なっていた。
赤い地面に穴を穿ち、サンプルを記録し、層を剥ぎ、死んだ船の周辺地層を慎重に保存している。
作業用強殖装甲をまとった地質学者たちは、歓喜と疲労の中で泥まみれになっていた。
いや、火星だから泥ではない。
赤い粉塵だ。
だが、その姿はほとんど泥にまみれた発掘作業員と変わらなかった。
彼らの通信が入る。
『第四船体外縁部、追加構造物を確認!』
『周辺地層から有機物反応あり!』
『非汚染処理班を回せ! 生物史班も呼べ!』
『誰だ、こっちのサンプル容器を持っていったのは!』
『生物史班です!』
『返せ! それは地層用だ!』
会議室の生物史研究者たちが一斉に気まずそうな顔をした。
老地質学者が通信越しに怒鳴る。
『お前ら生物屋はすぐ有機物だけ持っていこうとする! 地層ごと読まねば意味がないと言っているだろう!』
生物史研究者の一人が、思わず通信に割り込んだ。
「こちらも系統解析に必要なんです!」
『順番を守れ! 地面は本だ! ページを破るな!』
「そのページに生物史の答えが書いてあるんです!」
『だから破るなと言っている!』
アプトムが笑った。
『平和だなぁ』
ヴァルキュリアが冷静に言った。
「火星学術前線に、地質班と生物史班の共同サンプル管理規定を追加します」
バルカスが楽しそうに頷く。
「よい。学問同士の喧嘩は、成果が出る」
アルカンフェルは、少しだけ目を細めた。
「喧嘩はよいが、記録を壊すな」
「御意」
バルカスは答えた。
生物史研究者たちは、興奮していた。
地質学者たちは、頑固に掘っていた。
宇宙化学者はサンプル容器を増やせと叫び、古気候学者は船体周辺の堆積環境を調べ始め、生命起源研究班は火星由来有機物と地球生命初期化学の関連を探り始めた。
火星学術前線は、ただの地質調査ではなくなった。
地球生命史そのものを掘り返す場所になった。
アルカンフェルは、投影された火星を見た。
赤い星。
地下に海を隠し、地中にウラヌスの死骸を埋め、地球生命史の空白を抱えていた星。
彼は静かに言った。
「ミッシングリンクは、失われたのではないかもしれんな」
村上が頷く。
「地球の外に、置かれていただけかもしれない」
「ならば、掘れ」
アルカンフェルは言った。
「火星も、いずれ金星も。地球生命の欠けたページを探せ」
生物史研究者たちは、その言葉を聞いて、ほとんど震えていた。
それは許可だった。
火星を掘る許可。
金星を見る許可。
地球生命史を、地球の外まで広げてよいという許可。
そして地質学者たちは、そんな議論をよそに、火星の地面を掘り続けていた。
彼らは知っている。
どんな壮大な仮説も、最後には地層の中に証拠を探さなければならない。
赤い大地を一枚ずつ剥がし、層を読み、岩を切り、記録し、保存する。
火星はまだ赤い。
だが、その赤い地面の下には、太陽系生命史の欠けたページが埋まっている。
学者たちは、それを掘り起こし始めた。