/*/ 火星前線研究要塞《アレス・ノード》 太陽系学術前線・合同調整会議 /*/
会議室は、もはや会議室ではなかった。
戦場である。
ただし飛び交っているのは、砲弾ではなく研究計画書だった。
火星地質学会。
惑星学会。
古気候学会。
生物史研究班。
宇宙化学班。
生命起源研究班。
金星上層大気調査チーム。
アプトム便運用担当。
クロノス土木建築班。
作業用強殖装甲試験班。
そして、それら全てを監察するヴァルキュリア。
議題は本来、火星地下ウラヌス船体遺構の追加発掘計画だった。
だが、ウラヌスが火星だけでなく金星でも開発を行っていた可能性が出た瞬間、会議は崩壊した。
「金星!」
生物史研究者が叫んだ。
「金星も実地研究を!」
「まだ火星が終わっていない!」
地質学者が机を叩いた。
「火星地下の船体遺構だけで十年どころか五十年は掘れる! 金星へ人員を割くな!」
「だが、金星由来候補の系統があるんです!」
「候補だろうが!」
「火星だって最初は候補でした!」
「火星は今、目の前に埋まっている!」
会議室の中央には、火星の地下船体遺構と、金星上層大気の推定ウラヌス施設候補図が並んで投影されている。
火星側は赤い地層断面。
金星側は黄色く濁る濃硫酸雲の海。
どちらも研究者の目には宝の山だった。
バルカスは、実に楽しそうに眺めていた。
「実に良い。学問が活気づいておる」
ヴァルキュリアは冷たく言った。
「混乱しているだけです」
「混乱の中から発見が生まれる」
「死傷者も生まれます」
「そこは監察部門の出番じゃな」
「開き直らないでください」
そこへ、金星上層大気調査班の主任が立ち上がった。
「金星は待てません!」
火星地質学者たちが一斉に睨む。
主任は怯まなかった。
「濃硫酸の雲の中に、ウラヌス由来の浮遊施設が残っている可能性があります。金星上層は地表と違い、かつて比較的安定した実験環境だった可能性がある。もしそこで高温・高圧・酸性環境に適応した前駆生物群が設計されていたなら、地球生命史の空白どころか、生命の環境適応原理そのものが書き換わります!」
別の生物史研究者が畳みかける。
「火星は地層に埋まって保存されています。しかし金星は雲です。上層大気の流れで、遺構もサンプルも失われ続けている可能性がある!」
「だからこそ、濃硫酸の雲の処理が終わるまで待て」
低い声が響いた。
会議室が静まる。
アルカンフェルだった。
彼は火星と金星の投影を見比べていた。
「金星へ行きたい気持ちは分かる。だが、今の金星はまだ研究者を入れる段階ではない」
金星班主任が食い下がる。
「作業用強殖装甲なら」
「足りん」
アルカンフェルは即答した。
「火星の低圧低温とは違う。金星は酸性雲、熱、圧力、上層風、静電気、化学腐食、視界不良、浮遊足場の不安定さがある。作業用強殖装甲の試験にも早すぎる」
バルカスが横から言った。
「専用耐酸型を作れば」
「バルカス」
「はい」
「今は黙れ」
「御意」
アルカンフェルは金星班を見る。
「濃硫酸の雲の処理が進むまで待て。無人採取機、アプトム分体、耐酸ドローン、李・エンツイの空間採取補助までは認める。人間の実地研究はまだ許可しない」
金星班の顔に露骨な落胆が広がった。
しかし、完全な却下ではない。
それがまた彼らを燃やした。
「では無人で採れるだけ採ります!」
「耐酸ドローンを増やしてください!」
「アプトム分体による雲層サンプルの非汚染回収を!」
通信越しにアプトムがぼやいた。
『俺、今度は金星の酸っぱい雲をすくうのかよ』
李・エンツイが静かに言う。
「酸性サンプル回収主任だな」
『肩書を増やすなって言ってるだろ』
一方、火星側も黙っていなかった。
惑星学者が火星投影の前へ進み出る。
「それより、メガ・レインです!」
火星地質班が一斉に嫌な顔をした。
惑星学者は目を輝かせていた。
「地下貯水層の強制解放後、火星全土が水蒸気に包まれ、白い星になり、その後プルクシュタール神将の気象制御で大豪雨が始まる。惑星規模で海が形成される瞬間を、人類は一度も観察したことがありません!」
「当たり前だ!」
地質学者が怒鳴った。
「普通は観察する前に死ぬ!」
「だからこそ観察価値がある!」
「まだだ!」
老地質学者が立ち上がった。
彼の作業用強殖装甲は解除済みだったが、火星の赤い粉塵がまだ肩や袖に残っている。
「まだ採掘が終わっていない!」
その声は会議室を揺らした。
「地下船体遺構は三隻目の外殻に達したばかりだ。周辺地層の年代測定も不完全。貯水層天井部の脆弱プレートは全域調査の三割にも届いていない。古代湖底も極域氷床も、まだコアが足りん」
惑星学者が反論する。
「しかし、メガ・レイン開始時には、観測網を事前に配置しておかなければならない!」
「配置だけなら許す。だが起動を急ぐな!」
「観測するには起動が必要です!」
「火星を壊してから観測するなど、本末転倒だ!」
「いずれ壊すのでしょう!」
「だから今掘っている!」
「海ができる瞬間を見たい!」
「こっちは海に沈む前に地面を読みたい!」
ついに会議室は、地質学者と惑星学者の怒号で満たされた。
生物史班はその横で「金星も」と呟いている。
宇宙化学班は「噴出水サンプルを最初に取る権利を」と書類を回している。
古気候学班は「大豪雨前の大気組成を最低一万地点で測定」と言い出している。
アプトムは通信の向こうで笑っていた。
『平和だなぁ』
ヴァルキュリアが即座に言った。
「平和ではありません。議事進行不能です」
アルカンフェルは、しばらくその混乱を眺めていた。
怒鳴り合う学者たち。
火星を読みたい者。
火星が変わる瞬間を見たい者。
金星へ飛びたい者。
サンプル容器を奪い合う者。
それぞれが自分の研究を最優先にしている。
欲望だ。
だが、悪くない欲望だった。
彼は静かに手を上げた。
議場の空気が、一瞬で止まった。
「決める」
アルカンフェルは言った。
「火星改造起動は、現時点では行わない」
地質学者たちが息を吐いた。
惑星学者たちは顔をしかめた。
「ただし、メガ・レイン観測網の建設は認める」
今度は惑星学者たちの目が輝く。
地質学者が顔を引きつらせる。
「観測網は、発掘の邪魔にならない場所へ置け。沈む予定の低地、噴出予定の峡谷、タルシス火山群、北部低地、南半球高地、大気循環観測塔。全て事前に配置する」
惑星学者が叫ぶ。
「ありがとうございます!」
「まだ礼を言うな」
アルカンフェルは続ける。
「起動時期は、地質班の優先発掘リストの達成率、地下船体遺構の中枢回収、貯水層天井部の記録状況を見て再審議する」
老地質学者が深く頷いた。
「つまり、掘れば掘るほど起動を遅らせられる」
「理由がある限りはな」
アルカンフェルは言った。
「理由なく引き延ばすなら進める。だが、掘るべきものがあるなら掘れ」
老地質学者の目が燃えた。
「掘ります」
「そうしろ」
次に、アルカンフェルは金星班を見る。
「金星実地研究は延期。だが無人・分体・空間採取は認める。濃硫酸雲の処理が一定段階を越えた時点で、耐酸型作業用強殖装甲の試験を検討する」
金星班主任は、悔しそうにしながらも頷いた。
「では、それまでに金星上層施設候補を絞ります」
「絞れ」
「サンプル回収枠は」
「ヴァルキュリアと調整しろ」
ヴァルキュリアが即座に言った。
「金星雲層サンプルの非汚染規定を作成します。アプトム分体による回収時は、酸性サンプル容器を完全分離。アプトム細胞の耐酸変異がサンプルに混入しないよう、三重隔離を義務化します」
『また俺専用の面倒な容器が増える』
アプトムがぼやく。
「必要です」
ヴァルキュリアは一切揺れなかった。
アルカンフェルは最後に、全員へ向けて言った。
「火星を読む者。火星が変わる瞬間を見たい者。金星へ行きたい者。全て必要だ」
会議室は静かだった。
「だが、順番がある」
火星と金星の投影が並ぶ。
赤い火星。
黄色い金星。
どちらも、まだ人間のものではない。
だが、どちらも人間が欲しがっている。
「火星は、まず掘れ。読み、記録し、沈む前に残せ。その間に、メガ・レイン観測網を建てろ」
惑星学者たちが頷く。
「金星は、まず雲を読め。濃硫酸を処理しながら、無人で拾えるものを拾え。人間が入るのはその後だ」
金星班が頷く。
「そしてバルカス」
「はい」
「研究者たちの熱を燃料にするのはよい。だが、実験を急がせるな」
バルカスは少しだけ残念そうにした。
「御意」
ヴァルキュリアが端末を閉じた。
「本日の結論を記録します。火星改造起動は延期継続。メガ・レイン観測網の事前建設を承認。金星実地研究は濃硫酸雲処理後まで保留。無人・分体・空間採取による先行調査は許可。各学会間のサンプル管理規定を再編」
アプトムが言った。
『要するに、学者ども全員に仕事を増やしただけじゃねぇか』
アルカンフェルは答えた。
「そうだ」
『解決してねぇな』
「している」
アルカンフェルは、赤い火星と黄色い金星を見た。
「争う時間を、働く時間に変えた」
その言葉に、研究者たちは一瞬黙った。
そして、次の瞬間にはまた端末へ群がった。
「メガ・レイン観測塔の候補地を出せ!」
「地質班、沈降予定区域の優先リストを更新する!」
「金星雲層サンプル容器を耐酸三重隔離で設計し直せ!」
「アプトム便の火星・金星振り分け枠を!」
「生物史班、金星由来候補系統を絞れ!」
「だから地質サンプル容器を勝手に持っていくな!」
会議室は、再び喧騒に包まれた。
だが、先ほどとは違う。
怒鳴り合いではなく、作業の音だった。
アルカンフェルは、それをしばらく眺めていた。
人間にはフロンティアが必要だ。
そして、フロンティアには必ず、先に読みたい者と、早く変えたい者が現れる。
その両方を前へ走らせる。
それが、地球生命を外へ広げるということなのだろう。
火星はまだ赤い。
金星はまだ酸の雲に包まれている。
だが、どちらの星にも、もう人間の声が届き始めていた。