/*/ 火星学術前線二十年目 /*/
十年では足りなかった。
その結論が出るまでに、十年はかからなかった。
火星地下に眠っていたウラヌス船体遺構。
南半球高地の古地殻記録。
北部低地の沈降層。
地下十キロから二十キロに封じ込められていた巨大貯水層。
古代湖底の粘土鉱物。
極域氷床に閉じ込められた大気サンプル。
タルシス火山群の深部マグマ活動痕。
マリネリス峡谷の断裂面。
地球生命史のミッシングリンクに関わる可能性を持つ、火星・金星由来生物設計記録。
掘れば掘るほど、火星は新しい答えを差し出した。
だから、アルカンフェルは期限を延ばした。
十年。
さらに十年。
火星学術前線は、合計二十年にわたって赤い大地を読んだ。
その二十年のあいだに、火星はただ掘られただけではなかった。
守られた。
保護すべき区画は保護された。
ウラヌス船体遺構のうち、地層ごと保存すべき区画は巨大な隔壁と生体保護膜で封じられた。
古代湖底の一部は、将来の海に沈めず、地質記録として高台ごと切り出され、研究要塞内部に保存された。
生命痕跡候補地には、地球由来微生物の混入を防ぐための非汚染ドームが建てられた。
地下水圧監視管が火星全域に打ち込まれ、地震波観測塔が赤い地平線の向こうまで並んだ。
メガ・レイン観測塔。
スーパーブルーム観測盆地。
噴出予測峡谷の耐熱観測壕。
北部低地の浮上式研究都市。
南半球高地の永久保存基地。
沈む場所、残る場所、割れる場所、噴き上がる場所。
その全てに、観測装置と退避経路が準備された。
地質学者たちは、最後まで掘った。
惑星学者たちは、最後まで観測塔を増やした。
生物史研究者たちは、ウラヌスの記録から火星由来生物群の系統を追い続けた。
天文学者たちは、軌道上で黒い心臓の理論を磨いた。
そしてアプトム便は、二十年間ずっと文句を言いながら、研究者、岩石、氷、船体片、観測装置、保護膜、食料、医療機材、果ては学会同士の喧嘩で足りなくなったサンプル容器まで運び続けた。
「俺は宇宙怪獣だったはずなんだがな」
アプトムは、火星軌道上でぼやいた。
「いつの間にか引っ越し屋と博物館業者と気象観測資材屋だ」
李・エンツイが静かに答える。
「太陽系生体物流基盤」
「肩書を増やすな」
だが、その日ばかりはアプトムも黙った。
火星軌道上に、全てが集まっていたからだ。
クロノス軌道制御艦。
アプトム母艦級。
天文物理観測ステーション《ガリレオ》の分室。
重力波観測群。
虚数空間漏出監視衛星。
火星全球地震波ネットワーク。
プルクシュタールの気象制御網。
シンの電荷安定化制御場。
カールレオンの虚数空間逃がし経路。
李・エンツイの空間転位座標。
村上征樹の重力同調核。
そして、アルカンフェル。
火星軌道上に、黒い点が生まれた。
それは自然には存在し得ないほど精密に整えられた、カー・ニューマン型マイクロブラックホールだった。
アルカンフェルと村上が重力を同調させ、疑似重力核を形成する。
二つの重力核が連星運動を始める。
境界が擦れ、時空が鳴り、真空から微細な質量が湧き出す。
その生成過程を、天文学者たちは息を止めて見ていた。
今回は観測が主目的ではない。
だが、彼らは見る。
見るために二十年、準備してきたのだ。
シンが、重力核へ電荷を与える。
青白い磁場線が黒い点の周囲に巻きつく。
アルカンフェルが回転を加える。
事象の地平面の縁が、目に見えないほどの速度でねじれる。
エルゴ領域が形成される。
虚数空間側へ漏れようとした歪みを、カールレオンが受ける。
李・エンツイが、空間の縁を切り揃えた。
火星軌道上に、黒い心臓が完成した。
観測班の一人が、震える声で呟いた。
「……美しい」
ヴァルキュリアの通信が即座に入る。
『感想は記録後にしてください』
「はい!」
バルカスは、軌道上管制室で両手を組んでいた。
老いた顔に、隠しようのない興奮が浮かんでいる。
「ついにここまで来たか」
村上征樹は、アルカンフェルの隣で静かに息を整えた。
「総帥。軌道核、安定」
「分かっている」
「本当に、これを火星の中心へ?」
「そうだ」
アルカンフェルは、眼下の赤い星を見た。
二十年、読ませた。
二十年、掘らせた。
二十年、保護させた。
火星はもう、ただの赤い死の星ではない。
地球生命が読み、記録し、守る場所になっている。
だから、次へ進める。
「エンツイ」
アルカンフェルが呼ぶ。
李・エンツイは、右目を髪で隠したまま、黒い心臓へ手を伸ばした。
「座標固定。火星中心点、誤差一・七メートル以内」
カールレオンが言う。
「虚数空間側の逃がし経路、開放。転位時の余剰歪みを受ける」
シンが続ける。
「電荷安定。磁場形成用の初期条件、維持」
プルクシュタールの声が入る。
『火星大気制御網、待機。初期噴出後の水蒸気循環へ移行可能』
ワフェルダノスの低い声が、火星地上のアレス・ガーデンから届く。
『土は、待っている』
バルカスが、ほとんど祈るように言った。
「プロジェクト・アレス、本起動」
ヴァルキュリアが確認する。
『全保護区画封鎖完了。全研究要塞、耐震固定。沈降予定区域の人員退避完了。浮上式研究都市、係留解除。地質記録保管庫、独立防護へ移行。観測塔群、全系統起動』
アプトムが言った。
『火星軌道上救援便、全系統待機。落ちてくる学者がいたら拾ってやる』
老地質学者の声が地上から入る。
『落ちるものか。こちらは地面を見る』
惑星学者が叫ぶ。
『メガ・レイン観測網、全域受信開始!』
生物史研究者が続ける。
『スーパーブルーム盆地、生体散布前サンプル固定!』
天文学者が声を震わせる。
『軌道黒核、観測継続!』
ヴァルキュリアが言う。
『全員、職務を続けてください。叫び声は最小限に』
誰も返事をしなかった。
全員、息を止めていた。
李・エンツイが、空間を切った。
黒い心臓が、消える。
消滅ではない。
転位。
火星の地殻も、マントルも、古い傷も、保護区画も傷つけず、空間の折り目だけを通って、カー・ニューマン型マイクロブラックホールは火星中心へ送り込まれた。
次の瞬間。
火星が、鳴った。
音は宇宙空間には届かない。
だが、重力波観測網が叫んだ。
地震波観測塔が震えた。
地下水圧監視管が一斉に上昇を示した。
火星の中心で、黒い心臓が火を灯した。
長く冷え、止まり、眠っていた内部に、熱が生まれる。
マントルがわずかに動く。
地殻の奥で、古い応力が目を覚ます。
地下深くの貯水層に、圧がかかる。
火星全土に、低い震えが走った。
地上の研究要塞《アレス・ノード》では、老地質学者が観測卓にしがみついていた。
「来た」
その声は震えていた。
「地殻が動いている」
若い研究者が叫ぶ。
「タルシス下部、熱流増大!」
「マリネリス深部、応力変化!」
「北部低地、沈降予兆!」
「地下貯水層、圧力上昇!」
惑星学者が、泣きそうな声で言った。
「火星が……」
火星の赤い地平線の向こうで、細い白い筋が立ち上がった。
最初のプルームだった。
地下深くで熱せられた水が、岩盤の裂け目を押し広げ、蒸気となって噴き上がる。
それはまだ、メガ・レインではない。
まだ、海ではない。
ただの最初の呼吸。
だが、火星にとっては数十億年ぶりの呼吸だった。
プルクシュタールが、軌道上から気象制御網を起動する。
『水蒸気上昇を確認。大気循環誘導、第一段階へ』
ワフェルダノスが、火星地上で静かに言った。
『土が、湿る』
アレス・ガーデンの調整微生物群が、眠りから起こされる。
苔類、菌糸、臣毛、人工土壌膜。
まだ散布は始まっていない。
だが、全てが待っている。
アルカンフェルは、軌道上から赤い星を見下ろした。
火星全体が、わずかに白く霞み始めていた。
噴き上がる蒸気。
動き始める大気。
目覚める地殻。
軌道上観測班が、震える声で報告する。
『火星全球重力場、変化開始』
『内部熱流、上昇』
『誘導磁場、形成されつつあります』
シンが静かに言った。
「電荷軸、安定。磁場が立ち上がります」
カールレオンが続ける。
「虚数空間側への余剰歪み、許容内」
李・エンツイが、目を細める。
「中心点固定。転位後の空間縫合、安定」
村上は、しばらく何も言わなかった。
自分の重力が、火星の中心に黒い心臓を生んだ。
その事実の重さを、彼は今ようやく感じていた。
「総帥」
「何だ」
「僕たちは、本当に惑星を起こしたんですね」
「そうだ」
アルカンフェルは答えた。
声は静かだった。
だが、その目は火星から離れない。
「火星は死んでいたわけではない。眠っていただけだ」
眼下の赤い星で、二本目の白いプルームが立ち上がる。
次に三本目。
四本目。
マリネリス峡谷の奥で、蒸気が裂け目から噴き出す。
タルシス火山群の斜面で、氷と鉱物が熱に震える。
北部低地の空が、白く濁り始める。
火星は赤いまま、少しずつ白い星へ変わろうとしていた。
メガ・レインの前触れ。
スーパーブルームの準備。
青い星になる前の、長い長い最初の呼吸。
バルカスが、通信の向こうで低く呟いた。
『閣下。火星が目を覚ましましたな』
アルカンフェルは頷いた。
「ああ」
そして、赤い星へ向けて静かに言った。
「目覚めろ、火星」
その言葉に応えるように、火星の地平線の向こうで、巨大な白い柱が空へ伸びた。
火星が、目を覚ました。