/*/ 火星軌道上/火星地表 /*/
火星は、静かに目覚めたのではなかった。
それは、長く押し殺していた呼吸を、数十億年ぶりにいきなり吐き出した者の目覚めだった。
最初の白いプルームが立ち上がってから、事態は一気に加速した。
地平線の彼方で、二本目、三本目、四本目の蒸気柱が立つ。
それは煙突の煙のような可愛らしいものではない。山脈の背丈を持つ白い壁が、赤い大地を突き破って天へ噴き上がっているのだ。
タルシス火山群の裾野が裂けた。
古い火道が再び熱を通し、地中深くの超高温流体が悲鳴のような勢いで噴出する。蒸気と泥と岩片が混じり合った噴流は成層圏を突き抜け、火星の薄い空を一気に白濁させていった。
マリネリス峡谷の亀裂では、もっと凶暴なことが起きていた。
数千キロにわたる断裂の底で、地下十キロ、二十キロの貯水層が一斉に圧を解かれていた。
岩盤が割れ、崩れ、落ち、熱せられた地下水が飽和蒸気となって爆ぜる。峡谷の底から巨大な白い噴水が何十、何百と吹き上がり、一本一本が独立した間欠泉でありながら、全体としては一つの大気現象のように見えた。
地表の研究要塞《アレス・ノード》は、そのただ中で震えていた。
「第三区画、耐震隔壁閉鎖!」
「南側観測塔、支持脚に負荷集中!」
「地下水圧、予測値突破!」
「地熱流束上昇中、上昇中!」
警報音が重なり、壁面の表示が赤く染まる。
老地質学者は観測卓にしがみつきながら、それでも目を離せなかった。
足元から伝わってくるのは単なる揺れではない。惑星規模の筋肉が、長い眠りのあとで痙攣しながら血流を取り戻していく感触だった。
「マントルが……本当に動いている……」
その声には恐怖と陶酔が半分ずつ混じっていた。
外壁モニターでは、要塞の前方数十キロにあった平坦な盆地が、突然盛り上がり、次の瞬間には中央から陥没した。
地殻の下で膨張した蒸気圧が地表を押し上げ、耐えきれなくなった地層が破砕されて落ち込んだのだ。陥没孔の内部からは白い蒸気と黒い泥、そして赤熱した岩片が噴き上がり、火星の空に巨大な傘を広げた。
「カルデラ形成! 即席の熱水爆裂火口です!」
若い研究者が叫ぶ。
「記録しろ! 全部だ!」
「全部記録してます! でも全部多すぎます!」
観測窓の外で、赤かった世界が急速に白へ塗り替えられていく。
噴き上がる蒸気。空を覆う雲。上空へ巻き上げられる細粒の鉱物塵。静電気を帯びた氷晶。
そして雷。
最初の雷鳴は音としては聞こえなかった。
だが、観測機器が空間電位の異常上昇を捉え、次の瞬間、噴煙柱と噴煙柱の間を青白い閃光が貫いた。
プルクシュタールが軌道上で口元をわずかに上げる。
『よい。大気が育ってきた』
彼の気象制御網が起動し、自然発生し始めた暴風と熱対流へ「向き」を与える。
もともとランダムに暴れ回るだけだった噴煙柱と蒸気雲が、少しずつ循環の筋を持ち始める。北部低地へ流れ込む上昇流。南半球高地から落ちる寒冷流。極域へ向かう薄い外周流。
だが、それはまだ「制御」と呼ぶには遠かった。
火星は、荒れ狂っていた。
軌道上から見れば、それは一つの惑星が沸騰しているように見えた。
赤い表面のあちこちから白い柱が立ち上がり、雲が渦を巻き、光る稲妻が雲層の内部を走る。巨大な火山地帯の周辺では熱流の赤外線放射が一気に跳ね上がり、北部低地では蒸気がたまり始めて全体が乳白色の海のようにかすんでいた。
《ガリレオ》分室の天文学者が、ほとんど息を呑んだまま呟いた。
「惑星が……天気を取り戻している」
別の惑星学者が答える。
「いや、これは天気じゃない。まだ、傷口から噴き出しているだけだ」
その言葉通りだった。
火星の各地では、地殻が裂け続けていた。
古い断層線が再起動し、数百キロ単位の地盤が持ち上がる。
逆に沈み込む地域では、観測ドームのはるか遠方で大地が波打つように沈降し、その跡に白い霧の湖が広がっていく。まだ液体の海ではない。超高温の泥水と熱水と蒸気が混ざった、惑星誕生の粥のようなものだった。
アプトム便の一隻は、その沈降域上空で輸送任務から観測支援へ切り替わっていた。
『おいおい、地面が生き物みてぇにうねってるぞ』
人間形態のアプトムの声が通信に乗る。
『生き物です』
ヴァルキュリアが即答した。
『比喩だよ』
『総帥の定義では、惑星もまた生命圏の一部です』
『今はそういう詰め方いいから! 北東ブロックの研究棟が沈みかけてる!』
その瞬間、沈降域の縁に建っていた補助観測塔が、ゆっくりと傾き始めた。
基礎地盤が軟化し、塔の足元の地層が粘土のように崩れていく。だが塔が倒れ切る前に、巨大な影が空から降りた。
アプトム便の分体が、半生体の輸送肢を伸ばし、観測塔の上部構造を丸ごと抱え上げたのだ。
『学会に怒鳴られるからな、観測塔は落とせねぇ』
その言葉とともに、塔は安全圏へ運ばれていく。
地上の研究者たちは、それでも逃げるだけではなかった。
作業用強殖装甲をまとった調査員たちが、低圧・低温だったはずの赤い荒野を、今や高温蒸気と落石と泥流の中で走っていた。
等しいデザインの作業用殖装体が、噴出した岩片のサンプルを回収し、地殻断面をスキャンし、熱水が通り始めた新しい亀裂にセンサー杭を打ち込む。
「まだ上がる! この区域、あと十分で蒸気前線が来る!」
「サンプルボックスだけ渡せ! 人は下がれ!」
「地下微生物候補層、保護チューブ回収完了!」
「よし、撤退!」
その背後で、地面が持ち上がった。
一瞬の後、裂け目が走り、白熱した蒸気が爆発的に噴き出す。
さっきまで彼らが立っていた地点が、直径数十メートルの熱水噴出口へ変わる。火星の大地は、もう研究対象である以前に、牙を剥いた怪物のようだった。
それでも、人は歓声を上げていた。
「見たか!? 本当に噴いたぞ!」
「地下水だ! 地下水だ!」
「温度! 組成! 同位体比! 急げ!」
老地質学者が怒鳴る。
「浮かれるな! これは序章だ! 本番はまだ先だ!」
本番。
その言葉に、誰もが少しだけ黙った。
そう。これはまだ、本番ではない。
まだ水は空を満たしただけだ。
まだ白い星になり始めただけだ。
これから温室効果が大気圧を押し上げ、蒸気が限界に達し、寒冷前線と上昇流が惑星全体でぶつかり合う時、数ヶ月に及ぶ**メガ・レイン**が始まる。
その時になれば、火星はさらに荒れ狂う。
雨が降る、などという生易しいものではない。
空そのものが海になって落ちてくるのだ。
そして、北部低地は海へ変わる。
峡谷は内海となり、火山群は島となる。
ワフェルダノスの臣毛がそこへ緑を這わせる時、初めて「火星改造」と呼べる段階に至る。
今はまだ、その前。
惑星の覚醒痙攣。
数十億年ぶりに心臓を打ち始めた世界が、己の骨格と血管と肺を取り戻すためにのたうち回っている時間だった。
軌道上から火星を見つめるアルカンフェルは、静かにその全てを見ていた。
白く霞む惑星。
雲の中で走る雷。
無数のプルーム。
地殻の裂け目。
立ち上がる熱。
彼の隣で村上征樹が、少し掠れた声で言う。
「……荒れすぎではありませんか」
「当然だ」
アルカンフェルは答えた。
「死んでいた世界が目を覚ますのだ。穏やかなはずがない」
「僕たちは、これを二十年待っていたんですね」
「ああ」
「学者たち、喜んでいるのか怯えているのか分かりません」
「両方だろう」
アルカンフェルはわずかに口元を緩めた。
「それでよい。恐れのない観測は浅く、喜びのない観測は続かない」
その時、火星北半球の雲海の奥で、巨大な稲光が水平に走った。
白い雲の下で、新しい海盆が沈み込みつつある証だった。
惑星が荒れ狂う。
空が生まれ、海が胎動し、地殻が裂け、蒸気が吠える。
火星は今、ただ目覚めたのではない。
生まれ直そうとしていた。