/*/ 火星全球 メガ・レイン開始 /*/
火星の空は、白かった。
赤い星だったものは、いまや軌道上から見ても、赤ではなく乳白色の球体に変わっていた。
無数のプルームが地表を突き破り、地下深くで熱せられた水が蒸気となって噴き上がる。
タルシス火山群、マリネリス峡谷、北部低地の断裂帯、南半球高地の古い傷跡。
そこから吐き出された水蒸気は、火星の空を満たした。
かつて薄く、乾き、ほとんど何も支えられなかった大気は、いまや重く、厚く、熱を抱え込む膜になっていた。
大気圧は上昇し続けている。
温室効果が火星全土を覆い、昼夜の温度差は急速に縮まり、赤い砂の大地の表面に霜ではなく水滴が生まれ始めていた。
最初の雨粒を確認したのは、北部低地縁辺に設置された自動観測塔だった。
『観測塔BN-17、水滴付着確認』
管制室が一瞬、静まり返る。
ただの結露ではないか。
蒸気の凝集ではないか。
観測班は即座に複数波長で確認した。
次の瞬間、別の観測塔が報告する。
『BN-19、液体降水確認』
『BN-24、降水粒径増大』
『タルシス東部観測塔、雨滴衝突音を検出』
『マリネリス上層観測網、雲底高度低下。降水帯形成』
惑星学者が、震える声で言った。
「……降ってる」
誰もすぐには返事をしなかった。
火星に、雨が降っていた。
それは、地球でいう雨とは違う。
最初は細かい霧のようだった。
白い空から、粉雪のように、しかし確かに液体として、無数の水滴が赤い大地へ落ちてくる。
乾ききった地表は、それを貪るように吸い込んだ。
砂が湿る。
岩が濡れる。
谷底に黒い筋が走る。
赤い粉塵が水を含み、暗く、重くなっていく。
老地質学者は、観測要塞《アレス・ノード》の耐圧観測窓の前に立ち、何も言わなかった。
目の前の火星の地面に、雨が当たっている。
その事実だけで、彼の七十年分の研究者人生は足りなくなった。
「先生」
若い研究者が呼びかける。
「泣いてますか」
「雨だ」
老地質学者は、かすれた声で言った。
「火星に、雨が降っている」
その一言で、管制室のあちこちから息を呑む音が上がった。
だが、感傷に浸る時間は短かった。
霧雨は、すぐに本物の雨へ変わった。
そして本物の雨は、火星規模の豪雨へ変わっていく。
プルクシュタールの気象制御網が、全球の大気循環に方向を与える。
噴き上がった蒸気は上空で冷やされ、巨大な雲帯となり、火星を何重にも取り巻く。
極域の冷気が押し下がり、タルシス火山群の熱上昇流がそれを押し上げ、マリネリス峡谷に沿って巨大な湿った風が走った。
大気が、回り始める。
火星が、天気を持ち始める。
軌道上から見ると、白い火星の表面に、灰色の渦がいくつも生まれていた。
雷が走る。
雲の内部で帯電した氷晶と鉱物塵が擦れ合い、数千キロ規模の雷光が雲海を横切る。
稲妻は上から下へ落ちるだけではない。雲の層から層へ、水平に、枝分かれしながら走り、火星の夜面を青白く照らした。
そして、雨が強くなった。
強く。
さらに強く。
やがて、それは雨という言葉から逸脱した。
空が崩れていた。
水が、面として落ちてくる。
観測塔の外部カメラは、液体の壁に叩かれて映像を乱した。
赤い大地は瞬く間に黒く濡れ、低地へ向かって水が走り出す。
最初は細い流れだった。
それが合わさる。
谷を削る。
斜面を滑る。
乾いていた古い河道に水が戻る。
数十億年前に水が走ったかもしれない溝へ、再び水が流れ込む。
若い惑星学者が叫んだ。
「古河道、通水確認!」
「流量が予測の三倍!」
「いや、五倍です!」
「マリネリス西縁、滝が形成されています!」
映像が切り替わる。
マリネリス峡谷の断崖から、無数の白い筋が落ちていた。
滝だった。
かつて乾いた巨大峡谷だった場所に、水が落ちている。
何百、何千という滝が、峡谷の壁を白く染め、底へ流れ込み、蒸気を巻き上げる。
その底で、さらに地殻の裂け目から熱水が噴き出していた。
雨と地下水と熱水が混じり、峡谷は巨大な濁流になっていく。
アプトム便が、上空で観測支援を続けていた。
『おい、これはもう雨じゃねぇぞ。空が溶けて落ちてきてる』
ヴァルキュリアの声が返る。
『表現としては不正確ですが、状況認識としては概ね正しいです』
『たまにはそのまま受け取れよ』
『北部低地へ流入する水量が増えています。アプトム、浮上式研究都市の係留再確認を』
『はいはい。火星の海開きの前に、研究者ごと流されるわけにはいかねぇからな』
北部低地。
そこは、火星で最も大きな受け皿だった。
かつて海があったかもしれないと人類が何世紀も議論してきた場所。
いま、そこへ水が戻ろうとしていた。
最初は、窪地にたまった黒い水だった。
赤い泥と鉱物と熱水を含んだ、濁った水たまり。
それが雨で増える。
斜面から流れ込む。
古い河道から押し寄せる。
地下から噴き上がった熱水が加わる。
低地のあちこちに、無数の水面が生まれた。
それらは最初、別々だった。
小さな湖。
泥の盆地。
熱水溜まり。
雨水の浅い膜。
だが、雨は止まない。
火星全球を覆うメガ・レインは、始まったばかりだった。
水面と水面がつながる。
溝を越える。
低い丘を飲み込む。
赤い砂丘の足元を削り、鉱物層を崩し、黒い筋を伸ばしていく。
北部低地の観測塔が、次々と報告した。
『盆地N-3、隣接水域と連結』
『N-5、越流確認』
『N-8、流速上昇。浮遊鉱物濃度高』
『N-12、広域水面化』
『北部低地中央部、連続水面形成を確認』
その言葉で、観測室が静まり返った。
連続水面。
湖ではない。
水たまりでもない。
海の始まりだった。
火星軌道上の全球観測図に、濃い青黒い領域が表示される。
最初は小さかった。
北部低地の中央に、歪な形で広がる暗い斑点。
雨と流入水によって、その輪郭は刻一刻と変わる。
増えていく。
広がっていく。
周囲の水域を飲み込み、浅い盆地をつなぎ、赤い低地を黒く塗り替えていく。
惑星学者が、震えながら言った。
「命名を」
老地質学者が振り返る。
「まだ早い」
「ですが、これは海です」
「まだ浅い。まだ泥水だ。まだ安定していない」
「それでも海です」
しばらく沈黙があった。
誰も笑わなかった。
老地質学者は、軌道図に広がる暗い水面を見た。
数十億年ぶりに、火星の北に戻り始めた水の面。
彼は小さく息を吐いた。
「……ボレアリス海」
管制室が静まる。
「北の海だ。仮称でいい。いまは、それで記録しろ」
若い研究者が、涙を拭いながら端末を叩いた。
『火星北部低地中央域、連続水面形成を確認。仮称、ボレアリス海』
その報告は、火星全球へ、軌道上へ、月面へ、地球へ届いた。
クラウド・ゲート最上層で、アルカンフェルはその報告を聞いた。
眼下の投影火星には、白い雲の下、北部低地に小さな暗い海が生まれている。
まだ青くはない。
濁っている。
熱い。
鉱物を多く含み、不安定で、周囲では泥流と落雷と地殻変動が続いている。
だが、海だった。
火星に海が生まれていた。
村上征樹が、隣で息を呑んだ。
「本当に、海が」
「ああ」
アルカンフェルは答えた。
「最初の海だ」
プルクシュタールの声が入る。
『降水帯、維持。北部低地への流入継続。気圧上昇は予測範囲内』
ワフェルダノスの声が、地上から低く響く。
『水が来た。土が、受け取る』
バルカスが、どこか呆然と呟いた。
『火星が、青くなり始めた』
アプトムが通信で笑う。
『まだ泥水だろ』
ヴァルキュリアが言う。
『ですが、海です』
『そうかよ』
アプトムは、火星軌道上から北部低地を見下ろした。
白い雲の隙間に、黒く濡れた巨大な水面が見える。
その上に雷が落ち、水蒸気が立ち上り、濁流がさらに流れ込んでいく。
綺麗な海ではない。
荒れた海だ。
生まれたばかりの、泣き叫ぶような海だ。
だが、それでも海だった。
火星は、雨を得た。
そして、海を得た。
メガ・レインはまだ終わらない。
これから何ヶ月も、空は水を落とし続ける。
北部低地はさらに広がり、峡谷は内海となり、火山群は島となり、やがてワフェルダノスの緑が水辺を縁取る。
だが、その全ての始まりは、この日だった。
火星の北に、最初の海が生まれた日。
赤い星が、初めて青へ向かって歩き出した日。
老地質学者は、観測窓の向こうで降り続く雨を見ながら、低く呟いた。
「二十年、掘ってよかった」
若い惑星学者が答える。
「これからは、降るのを見ます」
「まだ掘る」
「先生」
「海底になる前に、あと少し掘る」
その声に、管制室のあちこちで笑いが起きた。
外では、火星の雨が降り続いている。
地面を打ち、谷を満たし、低地へ流れ、最初の海へ注ぎ続けている。
火星は荒れ狂いながら、生まれ直していた。