/*/ 火星全球 メガ・レイン後 /*/
メガ・レインは、唐突には止まらなかった。
数ヶ月にわたり、火星の空は水を落とし続けた。
最初は世界を叩き潰すような豪雨だった。
空が崩れ、谷が裂け、地殻が悲鳴を上げ、北部低地へ濁流が流れ込んだ。
やがて、それは少しずつ細くなっていった。
巨大な雨帯が緩み、雲底が上がり、雷の間隔が開く。
地表を削るほどの雨は、次第に普通の雨になり、普通の雨は霧雨になり、霧雨は白い湿り気だけを残して消えた。
そして、ある朝。
火星の空が、初めて割れた。
白い雲の裂け目から、薄い青が覗いた。
完全な地球の青ではない。
まだ濁っている。
まだ大気は重く、雲は低く、空の色には鉱物塵と水蒸気の名残が混じっている。
それでも、赤い星の空に青が差した。
北部低地には、ボレアリス海が広がっていた。
生まれたばかりの海は、澄んではいない。
濁っている。
鉄分を含んだ赤褐色、熱水鉱物を混ぜた灰色、粘土と塩類を抱えた重い青黒さ。
波は荒く、海面からはまだ蒸気が立ち、海岸線は安定しない。
マリネリス峡谷は巨大な内海となり、タルシス火山群は島のように海と雲の中へ突き出していた。
だが、海だった。
火星は、海を持った。
そして最後の仕上げが始まった。
火星南半球高地の保護された大地に、ワフェルダノスが立っていた。
人の姿ではない。
ゾアロードの戦闘形態でもない。
降臨者が作り出した森林型生体ユニットとしての、本来の姿に近いものだった。
大地に根を下ろすように広がる巨大な生体構造。
幹とも神経とも血管ともつかぬものが地表に走り、そこから無数の臣毛が伸びていく。
火星の風が、それを揺らした。
ワフェルダノスは、低く言った。
『水が来た』
その声は、通信というより、大地そのものから響くようだった。
『土が、目を開く』
彼の足元から、緑が始まった。
最初は、緑と呼ぶにも足りない薄い膜だった。
臣毛が赤い地面を這い、火星レゴリスの尖った粒子を包む。
調整微生物が放たれる。
鉱物を分解し、硫酸塩を処理し、窒素を固定し、水を逃がさない粘液膜を作る。
菌糸が伸びる。
目に見えない白い網が、赤い粉塵の下へ潜り込み、鉱物と水と有機物をつなぐ。
苔類が続く。
火星の岩の表面に、暗い緑の斑点が生まれる。
その斑点は、雨の名残を吸い、二酸化炭素を吸い、弱い太陽光を受けて、ゆっくりと面へ広がっていった。
だが、それは地球の自然速度ではなかった。
通常なら、何百年、何千年、あるいは何万年もかかるはずの土壌形成が、ワフェルダノスの臣毛とクロノス調整微生物によって加速されていた。
赤い砂漠に、緑の血管が走る。
山腹を越える。
谷底へ降りる。
海岸線に沿って伸びる。
保護区画を避け、観測ドームを避け、ウラヌス船体遺構の保存域を避けながら、緑は計画された道筋を進んでいった。
それでも、数日はかかった。
数週間が過ぎた。
そして数ヶ月が過ぎた。
通常ならざる速度だった。
だが、それでも一晩で世界が緑になるわけではない。
火星は惑星だった。
大陸がある。
海がある。
峡谷がある。
火山島がある。
冷たい高地がある。
塩分の強い低地がある。
熱水が湧く場所もあれば、まだ乾いたままの岩盤もある。
緑は、それぞれの場所に応じて違う顔を取った。
海岸線には、濃い苔と草本が広がった。
ボレアリス海へ流れ込む河口には、藻類と菌糸が絡む湿地帯が生まれた。
マリネリス内海の崖下には、熱水を好む黒緑の微生物膜が繁茂した。
タルシス火山群の斜面には、耐寒性の低木と地衣類が先に根を張った。
南半球高地には、臣毛が地下水脈を探るように走り、その上にまだ低い草原が薄く広がっていった。
ワフェルダノスの緑の王国は、庭ではなかった。
森でもない。
まだ若すぎる。
だが、それは確かに王国だった。
根と菌糸と微生物と苔と草と若木が、互いに情報を渡し、水を分け、養分を運び、火星の大地を一つの生きた網へ変えていく。
火星軌道上から見れば、その変化は息を呑むものだった。
赤褐色の大陸に、最初は細い緑の筋が走る。
次に、筋が枝分かれする。
川に沿い、海岸に沿い、谷に沿い、丘陵に沿い、緑は広がる。
濃い緑、薄い緑、黒に近い湿地の緑、灰色がかった苔の緑。
ボレアリス海の沿岸には、緑の縁取りが生まれた。
マリネリス内海は、赤い裂け目ではなく、青黒い水と緑の帯を持つ巨大な谷へ変わった。
白い雲の隙間から、それが見えた。
青い海。
緑の大地。
まだ荒い。
まだ未完成。
だが、赤一色ではない。
火星は、色を取り戻していた。
《アレス・ノード》の観測室では、老地質学者が黙ってその映像を見ていた。
隣に立つ若い惑星学者が言う。
「先生。とうとう、緑です」
「見えている」
「二十年、掘って。数ヶ月、降って。数ヶ月、広がって」
「ああ」
「これ、私たちは何を見ているんでしょう」
老地質学者は、少し考えた。
「地質時代の早回しだ」
「早回し」
「通常なら、山が削れ、海ができ、土が育ち、生命が広がるには気が遠くなるほどの時間がいる。それを、無理やり目の前に縮めている」
「怖いですね」
「怖い」
老地質学者は頷いた。
「だが、美しい」
別の区画では、生物史研究者たちが泣いていた。
火星由来の可能性がある生物設計記録を追ってきた者たちにとって、これはただの緑化ではない。
かつてウラヌスが実験場にしたかもしれない星に、今度は地球生命が戻ってきている。
しかも、地球生命はただ持ち込まれたのではない。
ワフェルダノスの臣毛と、クロノス調整微生物と、人間の研究成果と、火星の水と鉱物が混ざり合って、新しい生態系を作ろうとしている。
「これは地球のコピーじゃない」
若い生物史研究者が呟いた。
「火星生態系です」
ワフェルダノスの声が、低く響いた。
『まだ、幼い』
誰も反論しなかった。
『これは森ではない。王国の芽だ』
火星地上の映像に、緑の波が映る。
風に揺れる草ではない。
まだ低い苔と菌糸と草本の層。
それでも、火星の風に揺れた。
その時、アプトム便がボレアリス海上空を通過した。
人間形態のアプトムが、通信越しにぼやく。
『すげぇな。赤い砂ばっかだったところが、数ヶ月でこれかよ』
ヴァルキュリアが答える。
『通常ならざる速度です。ただし、これでも数ヶ月を要しています』
『一晩で緑にならないだけ常識的ってか?』
『惑星規模では十分に非常識です』
『だろうな』
アプトムは、眼下の海岸線を見た。
濁った海に、緑の縁がある。
そこへ川が注ぎ、湿地が広がり、白い雲が低く流れている。
かつて自分が飲み込んだ宇宙怪獣の群れ。
それを使って運んだ資材。
二十年にわたり運ばされた研究者と機材。
その全てが、今この緑に繋がっている。
『ま、悪くねぇな』
誰に言うでもなく、彼は呟いた。
クラウド・ゲート最上層で、アルカンフェルは火星全球映像を見ていた。
横にはバルカス、シン、村上、李・エンツイ、カールレオン、ヴァルキュリア。
そして通信越しのアプトム。
バルカスは、興奮というより、少し呆然としていた。
「閣下。火星に、緑が」
「見えている」
「ウラヌスでも、こうまでは」
「ウラヌスは捨てた」
アルカンフェルは言った。
「我々は捨てない」
村上征樹は、映像から目を離せなかった。
「僕たちが起こした星に、ワフェルダノスが森を広げている」
シンが静かに言う。
「森というには、まだ若い」
カールレオンが続ける。
「だが、防衛対象としては、もう十分に重い」
李・エンツイは短く言った。
「守る場所が増えたな」
ヴァルキュリアが端末に記録する。
「火星緑化第一段階、定着開始。ワフェルダノス臣毛網、主要海岸線、河口、峡谷内海、南半球高地に展開。保護区画への侵入なし。地質保存域、非汚染ドーム、ウラヌス船体遺構区画、全て安定」
アルカンフェルは頷いた。
「よい」
火星全球映像では、緑がまだ広がっている。
ゆっくりと。
だが惑星規模では異常な速さで。
数ヶ月をかけて、火星の大地を覆いつくそうとしている。
赤い星は、もう赤だけの星ではない。
白い雲があり、青黒い海があり、緑の大地がある。
まだ未完成。
まだ荒々しい。
まだ人が普通に暮らせる星ではない。
だが、そこには未来があった。
アルカンフェルは、静かに言った。
「火星は、目覚めただけではない」
誰も口を挟まなかった。
「根を張り始めた」
その言葉の通り、ワフェルダノスの臣毛は火星の大地を走り続けていた。
赤い土を抱き、鉱物を解き、水をつなぎ、微生物を守り、苔と草と若木を支える。
やがて、その上を人が歩く。
子供が生まれる。
家が建つ。
畑ができる。
海を見る町ができる。
火星は、その日へ向けて、緑の王国を広げ続けていた。