/*/ 火星全球 /*/
火星は、緑になった。
そう言ってしまえば、簡単だった。
メガ・レインが止み、雲が裂け、ボレアリス海の濁った水面に太陽が映った。
マリネリス内海の断崖には苔と菌糸が張りつき、タルシス火山群の斜面には低木が根を下ろし、南半球高地の赤い丘陵には薄い草原が広がった。
ワフェルダノスの臣毛は、火星の大地を縫った。
赤いレゴリスを包み、鉱物を砕き、微生物を抱え、菌糸を走らせ、水をつなぎ、海岸線に緑の縁を作った。
その速度は異常だった。
通常なら、地質時代を跨ぐような変化である。
土が生まれる。
海岸が安定する。
菌糸が走る。
苔が増える。
草本が広がる。
樹木が根を張る。
それらが、数ヶ月単位で目に見える形になっていった。
軌道上から見れば、火星は赤一色の惑星ではなくなっていた。
白い雲。
青黒い海。
緑の帯。
まだ荒く、まだ若く、まだ不安定な星。
だが、確かに生きている星。
だからこそ、問題はそこからだった。
緑があることと、人が息を吸えることは違う。
樹木が生えていることと、大気が安定していることは違う。
火星の大気はまだ荒れていた。
大気圧は上昇したが、地域差が大きい。
酸素は増え始めていたが、まだ人間が外気で生きられる濃度ではない。
海は二酸化炭素を吸い、調整藻類は酸素を吐き出し、クロノス微生物はレゴリスの酸化反応を抑え、臣毛は大地を封じていた。
それでも、火星そのものが巨大すぎた。
惑星とは、簡単に仕上がるものではない。
ピラー・オブ・ヘブン最上層の会議室で、バルカスは火星全球モデルを投影していた。
赤、青、白、緑の層が立体的に重なり、その上に大気組成、酸素生産量、二酸化炭素固定量、土壌安定率、海洋藻類増殖率、臣毛網密度が表示されている。
「緑は広がりました」
ヴァルキュリアが言った。
「ですが、外気呼吸許可区域はまだ限定的です。酸素濃度は低地の一部で上昇していますが、全球平均では目標値に届きません」
バルカスが頷く。
「当然じゃ。樹木が生えたからといって、即座に人が息を吸えるわけではない。緑はまず大地を縫うためのものじゃ。酸素を満たすには、海と菌と藻と臣毛が働かねばならぬ」
村上征樹が、火星の投影を見た。
「十年くらいですか」
「十年で二十%へ届かせることは不可能ではない」
バルカスは答えた。
「じゃが、それは最短値じゃ。火星の地表はまだ酸素を食う。新しい海も、土も、微生物も、気候も、全てが安定する前に無理に酸素濃度だけを上げれば、後で反動が来る」
シンが静かに言う。
「都市予定地だけを先に安定させることは」
「可能じゃ」
バルカスは答えた。
「だが、総帥が望んでおられるのは、火星を一部のドーム都市にすることではない。惑星として目覚めさせることじゃ」
会議室が静かになる。
アルカンフェルは、火星を見ていた。
投影された火星では、ワフェルダノスの臣毛網が緑の線として表示されている。
その線は、海岸線、河口、峡谷、丘陵、火山島、高地をつなぎ、火星の神経のように広がっていた。
だが、その中心にいるワフェルダノスへの負荷も表示されている。
森林型生体ユニットとしての活動時間。
臣毛網維持負荷。
微生物群制御負荷。
土壌形成補助負荷。
大気酸素化補助負荷。
全てが高い。
ヴァルキュリアが言った。
「ワフェルダノス神将への負荷は、現時点で長期管理対象です」
バルカスは少し渋い顔をした。
「うむ。数ヶ月で緑を広げるだけなら、まだよい。じゃが、火星の大地全体を安定させ、酸素濃度を二十%へ持っていき、地表酸化反応を抑え、森林帯と湿地帯と海洋藻類圏を同期させるとなると、短期任務では済まぬ」
村上が言う。
「では、どれくらい」
バルカスは、ちらりとアルカンフェルを見た。
「二十年」
その数字が、会議室に落ちた。
十年ではない。
二十年。
火星調査に費やした時間と同じだけ、ワフェルダノスに火星へ残ってもらう。
村上は、少し息を呑んだ。
「二十年、火星で」
「そうじゃ」
バルカスは言った。
「最初の十年で、大気圧と水循環を安定させる。次の十年で、酸素濃度二十%、土壌酸化安定、森林帯の自律循環、海洋藻類圏の暴走抑制、都市予定地の外気呼吸許可区域化まで持っていく」
ヴァルキュリアが補足する。
「ワフェルダノス神将だけではありません。休眠区画、臣毛網の部分自律化、火星側代替生体ノードの育成、作業用強殖装甲班による補助、アプトム便による資源補給を組み合わせる必要があります」
アプトムの通信投影が、腕を組んでぼやいた。
『また俺かよ』
「またあなたです」
ヴァルキュリアは即答した。
『俺はガス屋で運送屋で研究所大家でサンプル業者で、今度は火星の肥料屋か?』
バルカスが嬉しそうに言った。
「有機物、窒素化合物、微量元素、外縁天体由来の揮発性物質、全部要るぞ」
『言うと思ったよ』
アルカンフェルは、黙って火星を見ていた。
やがて、通信回線が開かれる。
火星地表。
ボレアリス海沿岸。
そこに、ワフェルダノスがいた。
人の姿ではない。
巨大な森林型生体ユニットとして、大地に根を張っている。
赤かった平原は、今は苔と草と若い樹木に覆われている。
海から吹く風が、低い緑を揺らす。
その奥で、ワフェルダノスの臣毛が土の中を走り、微生物と菌糸と根をつないでいる。
通信越しの声は低く、深かった。
『水は来た』
ワフェルダノスは言った。
『土は、まだ若い』
アルカンフェルが応じる。
「分かっている」
『緑は広げた。だが、まだ火星は息を知らぬ』
「だから、お前に頼む」
ワフェルダノスは沈黙した。
火星の風だけが通信に乗る。
かつて、森ではなかった星の風。
今、初めて緑を揺らす風。
「二十年だ」
アルカンフェルは言った。
「火星に残れ。大地を縫い、海を支え、酸素を満たせ。人が息を吸える星になるまで、お前の緑の王国を火星に置く」
会議室には誰も声を出さなかった。
それは命令だった。
だが、同時に願いでもあった。
ワフェルダノスは、火星の地平線を見ているようだった。
ボレアリス海の向こうに、白い雲が流れている。
雲の下に、まだ赤い大地がある。
緑が届いていない場所がある。
酸素が薄い場所がある。
土になりきれない砂がある。
彼は、ゆっくり答えた。
『二十年』
「ああ」
『惑星には、短い』
「人間には長い」
『私は、森だ』
ワフェルダノスの臣毛が、地表の下でわずかに脈打った。
『森は、急がぬ。だが、根を張れば離れぬ』
アルカンフェルは頷いた。
「頼む」
『よい』
その一言で、火星の緑の王は、火星に残ることを受け入れた。
バルカスが小さく息を吐く。
「これで、火星は二十年後に人の星となる」
ヴァルキュリアは即座に言った。
「二十年後に全域開放ではありません。外気呼吸許可区域は段階指定です」
「分かっておる」
「記録します。火星緑化第二期計画、期間二十年。ワフェルダノス神将を中核とする臣毛生態網を維持。大気圧安定、酸素濃度二十%、土壌酸化反応封止、海洋藻類圏の自律化、森林帯定着、都市予定地外気呼吸許可を主要目標とします」
アプトムがぼやく。
『二十年か。長ぇな』
村上が火星を見ながら言った。
「でも、惑星改造としては一瞬なんですね」
シンが頷く。
「人間の一世代には長い。惑星には短い。神将には、仕事の時間だ」
李・エンツイが静かに言った。
「二十年後、火星の空間座標は変わるだろうな」
カールレオンも言う。
「虚数空間側の反射も変わる。水と緑がある星は、歪みの受け方も違う」
バルカスは楽しげに笑った。
「研究することが増えるのう」
ヴァルキュリアが冷たく見る。
「博士の火星滞在申請は、別途審査します」
「まだ出しておらぬ」
「出す顔をしていました」
「顔で却下されるのか」
「顔で監察対象になることはあります」
アプトムが笑った。
『博士、目が火星に行ってるぞ』
「行きたいに決まっておるじゃろう」
会議室に、わずかな笑いが起きた。
その笑いの向こうで、火星は静かに回っている。
白い雲。
青黒い海。
緑の海岸線。
赤いまま残る高地。
まだ息を吸えない大気。
そして、その大地に根を張ったワフェルダノス。
火星の二十年が始まった。
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最初の一年。
ワフェルダノスは、海岸線を縫った。
ボレアリス海の濁った波が打ち寄せる場所に、臣毛を張り巡らせる。
海から上がる塩分を調整し、河口の泥を固定し、流れ込む鉱物を菌糸へ渡し、海洋藻類の過剰増殖を抑える。
青緑の膜が海面近くに広がり、シアノバクテリアが光を受けて酸素を吐き始める。
だが、酸素はすぐ大気に満ちるわけではない。
赤い土がそれを食う。
鉄分が酸化し、鉱物表面が反応し、火星の大地そのものが貪るように酸素を奪っていく。
ワフェルダノスは、臣毛でそれを封じた。
『土よ。食いすぎるな』
誰に向けた言葉でもない。
だが、臣毛に包まれたレゴリスは、少しずつ安定していった。
二年目。
マリネリス内海の崖下に湿地が広がった。
熱水を好む微生物膜が黒緑に輝き、そこへ草本が根を張る。
地質学者たちは、その光景を見て複雑な顔をした。
「研究対象が緑に覆われていく」
「保護区画は守られている」
「分かっている。分かっているが、岩肌が見えない」
ワフェルダノスは、保護区画には侵入しなかった。
そこだけは赤い地層が露出したまま残されている。
だが、その境界の外側では、緑が容赦なく広がっていった。
三年目。
大気圧が安定し始めた。
まだ人間が外で暮らせるほどではない。
しかし、火星の天気は荒れ狂うものから、読めるものへ変わっていた。
雲は季節を持ち、雨は地域を選び、風は海と高地を結ぶ。
プルクシュタールの気象制御は、次第に補助へ回った。
火星自身の大気循環が、弱いながらも自律し始めたからだった。
四年目から七年目。
森林帯が伸びた。
最初は低木だったものが、樹木として立ち上がる。
火星の低重力下で、枝は地球よりも大きく広がった。
幹は太く、根は浅く広く走る。
その根はワフェルダノスの臣毛と絡み合い、菌糸と共に水と養分を運んだ。
人間が知る森とは違う。
ワフェルダノスの緑の王国は、個々の木の集まりではなく、一つの巨大な生体網だった。
木々は互いに孤立していない。
根が、菌糸が、臣毛が、微生物が、海からの湿り気が、鉱物からの養分が、全てをつないでいる。
八年目。
火星の低地の一部で、酸素濃度が十%を越えた。
研究者たちは騒いだ。
都市計画班は浮き足立った。
移民希望者リストは膨れ上がった。
だが、ヴァルキュリアの通達は冷たかった。
> 外気呼吸許可には達していない。
> 補助呼吸具なしの長時間屋外活動は禁止。
> 酸素濃度だけでなく、気圧、粉塵、微生物安定性、アレルゲン、季節変動を確認すること。
アプトムがぼやいた。
『夢がねぇな』
ヴァルキュリアは答えた。
『夢で人は呼吸できません』
『正論は嫌われるぞ』
『必要です』
十年目。
人間が短時間なら補助具なしで外に出られる試験区域が生まれた。
ボレアリス海沿岸の第一都市予定地。
まだ都市ではない。
ただ、緑の丘と、湿った風と、濁った海と、低い樹木の林がある場所だった。
最初に外へ出たのは、地質学者でも惑星学者でもなく、火星で生まれた調整体の子供だった。
もちろん監視付きで、医療班付きで、短時間だけである。
子供は外へ出て、空を見上げた。
火星の空は青かった。
地球ほど深くはない。
薄く、どこか白い。
それでも青かった。
「息、できる」
その一言が、火星全域に流れた。
ワフェルダノスは、遠くの森の中でそれを聞いていた。
『まだ、浅い』
彼は言った。
『だが、息だ』
十一年目から十五年目。
酸素濃度はさらに上がった。
地表の酸化反応は抑え込まれ、レゴリス表面は有機膜と微生物層で安定した。
海洋藻類圏は一度暴走しかけたが、臣毛網とアプトム便による栄養塩調整で抑えられた。
森林帯は沿岸から高地へ伸び、峡谷内海の周辺には湿った深い緑が生まれた。
タルシス火山島には、強風に耐える低い森が広がった。
十六年目。
酸素濃度は十八%へ届いた。
都市予定地では、外気呼吸許可区域が増えた。
学校が建てられた。
研究要塞の周囲に、住宅区画が生まれた。
まだドームや避難棟は必須だったが、人々は晴れた日に外へ出られるようになった。
火星の風に洗濯物が揺れた。
それを見た老地質学者は、しばらく黙っていた。
「先生?」
若い研究者だった者が、今では研究主任になっていた。
「いや」
老地質学者は言った。
「火星で洗濯物が乾いている」
「はい」
「地質学の範囲を越えたな」
「ずっと前から越えてます」
「そうだったな」
二十年目。
火星全球平均酸素濃度は二十%へ到達した。
地域差は残る。
高地や極域には、まだ補助具が必要な場所がある。
嵐もある。
季節変動もある。
火星の生態系はまだ若い。
ワフェルダノスの臣毛網は、完全には自律化していない。
だが、人が息を吸える星になった。
火星は、赤い死の星ではなくなった。
ボレアリス海の沿岸に、式典場が設けられた。
大きなものではない。
アルカンフェルは派手な式典を好まなかった。
だが、この日は人が集まった。
地質学者。
惑星学者。
生物史研究者。
クロノス技術者。
作業用強殖装甲の整備士。
アプトム便の運用班。
火星で生まれた子供たち。
そして、ワフェルダノス。
彼は人の姿を取ってはいなかった。
海岸の丘一帯に広がる巨大な森林型生体ユニットとして、そこにいた。
木々のざわめきの中に、彼の声が響く。
『二十年』
アルカンフェルは、丘の上に立っていた。
火星の風が、彼の髪を揺らす。
その風を、彼は呼吸しなかった。
必要がないからだ。
だが、周囲の人間たちは吸っていた。
火星の空気を。
ボレアリス海の湿り気を含んだ、緑の王国が作った空気を。
「よくやった、ワフェルダノス」
アルカンフェルは言った。
ワフェルダノスの森が揺れた。
『まだ、若い』
「分かっている」
『まだ、見ねばならぬ』
「それも分かっている」
『だが、息は満ちた』
「ああ」
アルカンフェルは、火星の空を見上げた。
薄い青。
白い雲。
遠くに見える海。
緑の丘。
そこに立つ人間たち。
かつてウラヌスが捨てたかもしれない星。
地球生命が、もう一度根を張った星。
「火星は、人の星になった」
その言葉に、誰も歓声を上げなかった。
代わりに、人々は深く息を吸った。
火星の空気を。
二十年かけて満たされた酸素を。
ワフェルダノスの緑の王国が作った風を。
それは、どんな歓声よりも確かな返答だった。