/*/ 火星二十年目 調査からは四十年目 /*/
火星は、人が息を吸える星になった。
完全ではない。
高地や極域には、まだ補助呼吸具が必要な場所がある。
嵐もある。
季節変動もある。
海は若く、土は若く、森も若い。
それでも、ボレアリス海沿岸の第一都市予定地では、人間が外に出て、火星の空気を吸えるようになっていた。
二十年。
ワフェルダノスの臣毛網は、火星の大地を縫い続けた。
海岸を守り、土を封じ、菌糸を走らせ、樹木を根づかせ、藻類と微生物を調停し、酸素濃度を二十%へ押し上げた。
だが、火星の海はまだ未完成だった。
ボレアリス海は、海ではある。
しかし、それはまだ地球の海とは違う。
レゴリスから溶け出した過塩素酸塩。
重金属。
鉄分。
熱水由来の鉱物。
調整微生物が処理し続けているとはいえ、海水は若く、荒く、まだ安定しきっていない。
そのため、クロノス最高科学評議会は、火星海洋生態系の本格入植計画を開いた。
クラウド・ゲートではなく、今回は火星側である。
ボレアリス海沿岸、第一海洋研究都市《マーレ・ノヴァ》。
会議室の窓の外には、濁った青黒い海が広がっていた。
海面にはまだ薄い蒸気が立ち、遠くにはワフェルダノスの緑の王国が海岸線を縁取っている。
アルカンフェル、バルカス、ヴァルキュリア、アプトム、村上征樹、シン、李・エンツイ、カールレオン。
そして火星海洋班、生物史研究班、惑星化学班、養殖技術班、ワフェルダノス臣毛網管理班。
全員の視線が、ボレアリス海の投影図に集まっていた。
バルカスは、指先で投影を操作した。
「まず、誤解を正しておく」
老博士の声は、いつになく楽しげだった。
「火星の海に生命を入れる計画は、今から始まるのではない。メガ・レイン直後から、すでに第一段階は始まっておる」
投影図に、二十年分の海洋生態系構築ログが表示される。
第一期。
メガ・レイン後、一年目から五年目。
超環境耐性型クロノス調製シアノバクテリア。
ワフェルダノス臣毛網同期型。
過塩素酸塩分解。
重金属固定。
酸素放出。
二酸化炭素固定。
海洋初期泥層安定化。
「この時期のシアノバクテリアは、生態系の構築というより、海そのものを毒抜きするためのものじゃ」
バルカスが言う。
「海のスープを作る以前に、鍋を洗っておったわけじゃな」
アプトムが鼻を鳴らした。
「火星の鍋、汚すぎだろ」
惑星化学班の主任が即座に言う。
「赤い惑星の海ですから。鉄、過塩素酸塩、硫酸塩、重金属。初期海水は、地球生物にとっては毒の汁です」
「嫌な海だな」
ヴァルキュリアが淡々と補足する。
「だからこそ、初期段階で地球生物を直接投入しなかった判断は正しかったと記録されています」
バルカスは次の層を表示した。
第二期。
十一年目から十五年目。
大型藻類。
高効率二酸化炭素固定型植物プランクトン。
弱光適応型光合成色素。
海洋シアノバクテリア増殖制御。
藻類圏暴走未遂。
アプトム便による栄養塩調整。
「この時期に、一度藻類圏が暴走しかけた」
バルカスは軽く言った。
だが、海洋班の顔はあまり軽くなかった。
若い研究者が苦笑する。
「ボレアリス海の一部が、完全に緑色の粘液層で覆われましたからね」
アプトムが思い出したように顔をしかめる。
「俺が窒素とリンの補給を止めて、余った藻類スープを回収したやつか」
「あなたの母艦級分体がいなければ、沿岸域は数年単位で窒息していました」
「褒めてるのか?」
「褒めています」
「褒め方が学者なんだよ」
バルカスは楽しげに続けた。
「そして今が第三期じゃ」
投影図に、現在のボレアリス海が映る。
酸素濃度二十%。
大気圧安定。
海水毒性低下。
重金属固定率良好。
過塩素酸塩濃度許容域。
海洋藻類圏安定。
ワフェルダノス臣毛網沿岸固定完了。
「ここで初めて、動物プランクトンを入れられる」
会議室が少し静かになった。
動物プランクトン。
その言葉は、小さい。
だが、意味は大きい。
これまで火星の海にいたのは、微生物、藻類、菌類、調整シアノバクテリア、そして臣毛網に支えられた生体インフラだった。
それは生命ではある。
だが、まだ食物連鎖の底である。
動物プランクトンを入れるということは、食べる者を入れるということだ。
食べられる者と食べる者の関係を、火星の海に作るということだ。
その先には、甲殻類、貝類、魚類がある。
火星の海が、ただ酸素を生む装置ではなく、海洋生態系へ変わる。
バルカスは、眼鏡の奥の目を光らせた。
「火星仕様プランクトン戦略じゃ」
アプトムが小さく呟いた。
「出たよ」
バルカスは無視した。
「第一。太陽光の弱さへの対応」
投影に、地球と火星の太陽光量比較が表示される。
「火星に届く太陽光は、地球の半分以下。地球の植物プランクトンをそのまま持ち込んでも、光合成効率が足りぬ。そこで深海、極域、低照度環境に適応した藻類の性質を基礎に、クロノス調製によって特殊光吸収色素と巨大葉緑体を持つ植物プランクトンを作る」
海洋班の研究者が端末を操作する。
青緑だけではない。
暗紫色、黒緑、金褐色のプランクトン群が投影された。
「色が地球の海と違うな」
村上が言う。
生物史研究者が頷いた。
「火星の弱い太陽光と大気組成に合わせると、地球の緑だけでは効率が悪いんです。青、赤、近赤外寄りの光まで使う設計になります」
バルカスが満足そうに言う。
「火星の海は、地球の海のコピーではない。火星の光に合わせた海になる」
「第二。初期火星海水の毒性耐性」
今度は、海水中の化学物質分布が表示される。
「過塩素酸塩、重金属、鉄、硫酸塩。これらをただ耐えるだけでは足りぬ。食わせる。代謝させる。無毒化させる。クロノス・プランクトンは、海水を濾過する生体フィルターでもある」
ヴァルキュリアが端末に記録する。
「代謝産物の長期蓄積については監査対象です。無毒化したつもりで別の毒を溜めることは許可できません」
「分かっておる」
「過去に三件ありました」
「試験段階じゃ」
「だから監査します」
アプトムが笑う。
「博士、毒抜き生物で毒作ったのか」
「毒ではない。想定外の二次代謝物じゃ」
「毒じゃねぇか」
バルカスは軽く咳払いして、第三層を表示した。
「第三。食物連鎖の積み木じゃ」
投影図に、三層の生態ピラミッドが映る。
第一層。
弱光対応クロノス植物プランクトン。
第二層。
低温・低重力適応クロノス動物プランクトン。
オキアミ型。
ミジンコ型。
微小甲殻類。
第三層。
調製済み貝類。
甲殻類。
魚類の卵、幼魚。
火星沿岸養殖区。
アプトム便による厳密管理コンテナ輸送。
「地球の養殖場から、清浄系統を選び、火星海水適応調製を施す。卵や幼魚はアプトム便で運ぶ。ただし、地球の海水ごと持ち込むことはしない」
その言葉で、アプトムが手を挙げた。
「はいはい。そこなんだがよ」
ヴァルキュリアが嫌な予感を覚えた顔をした。
アプトムは、実に雑な口調で言った。
「俺の母艦でさ。太平洋の真ん中あたりの水を数百万トンすくって、ボレアリス海にぶちまければ一発じゃねぇの? プランクトンも魚の卵も、まとめて入るだろ」
会議室が静止した。
次の瞬間、ヴァルキュリアが即答した。
「却下します」
早かった。
あまりにも早かった。
アプトムが眉をひそめる。
「まだ細かく説明してねぇだろ」
「説明を聞くまでもありません」
「ひでぇな」
「地球の海水を大量に火星海へ直接投入する案は、惑星規模のバイオハザードです」
ヴァルキュリアの声は冷たい。
投影画面に、即座に赤い警告表示が出る。
『地球海水大量投入案:危険評価・最悪』
「第一。海の腐敗」
ヴァルキュリアは言った。
「地球の海水に含まれる大半の生物は、火星海の弱光、低温、化学組成環境に耐えられません。一斉に死滅すれば、数億トン規模の有機物が腐敗し、ボレアリス海を窒息させます」
海洋班の主任が青ざめながら頷いた。
「超巨大赤潮、無酸素水塊、硫化水素発生、沿岸臣毛網の窒息。最悪、二十年分の海洋調整が崩壊します」
アプトムが少し顔をしかめる。
「そんなにか」
「そんなにです」
ヴァルキュリアは続ける。
『第二。未調製病原体、寄生体、ウイルス、原生生物の流入』
投影に、地球海水中の多様な微生物群が表示される。
「地球の野生プランクトンには、未知のウイルス、原生生物、寄生性微生物が混在しています。それが火星調製藻類やワフェルダノス臣毛網に寄生・変異・適応した場合、火星生態系そのものが崩壊します」
ワフェルダノスの通信が、低く入る。
『野の水は、まだ要らぬ』
その一言で、アプトムは肩をすくめた。
「分かったよ。ワフェルダノスが嫌ならやらねぇ」
ヴァルキュリアは三つ目の項目を表示した。
「第三。光合成停止」
「地球の植物プランクトンは地球の太陽光量に適応しています。火星の光ではエネルギー不足になり、増えず、死に、海の栄養バランスだけを崩します」
バルカスが頷いた。
「火星には火星の光がある。地球の海を持ってきても、火星の海にはならぬ」
アプトムは腕を組み、窓の外のボレアリス海を見た。
「じゃあ、地球の水ドカンはなし」
「なしです」
「コンテナでちまちま運ぶ」
「厳密管理されたコンテナで、段階投入します」
「面倒くせぇな」
ヴァルキュリアは即答した。
「生態系は面倒です」
その言葉に、生物史研究者たちは深く頷いた。
バルカスは楽しげにまとめた。
「第一層、火星仕様植物プランクトン。第二層、火星仕様動物プランクトン。第三層、調製済み貝類、甲殻類、魚類。順番を守る。地球の海をそのまま入れぬ。火星の海を作る」
アルカンフェルは、窓の外を見ていた。
ボレアリス海。
二十年前には存在しなかった海。
今は風を受け、雲を映し、緑の海岸線を抱いている。
だが、その内部はまだ若い。
ここへ生命を入れる。
ただ生かすのではない。
火星の海として続く形で入れる。
「よい」
アルカンフェルは言った。
「段階的に入れろ」
全員が彼を見る。
「火星は地球の複製ではない。地球生命が根を張った、新しい星だ。ならば海も、地球の海を移すのではなく、火星の海として育てる」
バルカスが深く頭を下げる。
「御意」
ヴァルキュリアが記録する。
「火星海洋生態系第三期入植計画、承認。地球海水の大量直接投入は禁止。全生物資材は調製・検疫・段階放流を必須とする。アプトム便による海洋コンテナ輸送は、非汚染規定下で実施」
アプトムがぼやく。
「結局、俺が運ぶのかよ」
「はい」
「海水ドカンなら一回で済むのに」
「却下です」
「はいはい」
海洋班の若い研究者が、そっと言った。
「アプトムさん。最初の動物プランクトン放流、見ますか」
「見て面白いのか? ミジンコだろ」
「火星最初の動物です」
アプトムは黙った。
窓の外で、ボレアリス海が揺れている。
その海に、初めて食べる者が入る。
微生物と藻類だけだった海に、動物が入る。
小さい。
目に見えないほど小さい。
だが、それは大きな一歩だった。
「……まあ」
アプトムはサングラスを押し上げた。
「暇なら見てやるよ」
ヴァルキュリアが即座に言った。
「あなたの輸送予定は詰まっています」
「少しくらい空けろよ」
「検討します」
バルカスが笑う。
「火星の海開きじゃな」
ヴァルキュリアは少しだけ眉を寄せた。
「正式名称は、火星海洋生態系第三期入植第一回放流です」
「夢がないのう」
「安全があります」
アルカンフェルは、二人のやり取りを聞きながら、静かにボレアリス海を見ていた。
火星の海は、まだ若い。
だが、もう空ではない。
その水の中に、これから小さな生命が積み木のように重ねられていく。
植物プランクトン。
動物プランクトン。
貝。
甲殻類。
魚。
やがて、その海を見て育つ子供たちが、火星の魚を食べる日が来る。
その時、火星は本当に、人の星になるのだろう。
アルカンフェルは短く言った。
「始めろ」
その命令で、ボレアリス海に最初の動物プランクトン放流計画が動き出した。
火星の海は、次の段階へ進もうとしていた。