アルカンフェル転生   作:ぶーく・ぶくぶく

89 / 144
緑の王、火星に残る

 

/*/ 火星全球 /*/

 

 

 

 火星は、緑になった。

 

 そう言ってしまえば、簡単だった。

 

 メガ・レインが止み、雲が裂け、ボレアリス海の濁った水面に太陽が映った。

 

 マリネリス内海の断崖には苔と菌糸が張りつき、タルシス火山群の斜面には低木が根を下ろし、南半球高地の赤い丘陵には薄い草原が広がった。

 

 ワフェルダノスの臣毛は、火星の大地を縫った。

 

 赤いレゴリスを包み、鉱物を砕き、微生物を抱え、菌糸を走らせ、水をつなぎ、海岸線に緑の縁を作った。

 

 その速度は異常だった。

 

 通常なら、地質時代を跨ぐような変化である。

 

 土が生まれる。

 

 海岸が安定する。

 

 菌糸が走る。

 

 苔が増える。

 

 草本が広がる。

 

 樹木が根を張る。

 

 それらが、数ヶ月単位で目に見える形になっていった。

 

 軌道上から見れば、火星は赤一色の惑星ではなくなっていた。

 

 白い雲。

 

 青黒い海。

 

 緑の帯。

 

 まだ荒く、まだ若く、まだ不安定な星。

 

 だが、確かに生きている星。

 

 だからこそ、問題はそこからだった。

 

 緑があることと、人が息を吸えることは違う。

 

 樹木が生えていることと、大気が安定していることは違う。

 

 火星の大気はまだ荒れていた。

 

 大気圧は上昇したが、地域差が大きい。

 

 酸素は増え始めていたが、まだ人間が外気で生きられる濃度ではない。

 

 海は二酸化炭素を吸い、調整藻類は酸素を吐き出し、クロノス微生物はレゴリスの酸化反応を抑え、臣毛は大地を封じていた。

 

 それでも、火星そのものが巨大すぎた。

 

 惑星とは、簡単に仕上がるものではない。

 

 ピラー・オブ・ヘブン最上層の会議室で、バルカスは火星全球モデルを投影していた。

 

 赤、青、白、緑の層が立体的に重なり、その上に大気組成、酸素生産量、二酸化炭素固定量、土壌安定率、海洋藻類増殖率、臣毛網密度が表示されている。

 

「緑は広がりました」

 

 ヴァルキュリアが言った。

 

「ですが、外気呼吸許可区域はまだ限定的です。酸素濃度は低地の一部で上昇していますが、全球平均では目標値に届きません」

 

 バルカスが頷く。

 

「当然じゃ。樹木が生えたからといって、即座に人が息を吸えるわけではない。緑はまず大地を縫うためのものじゃ。酸素を満たすには、海と菌と藻と臣毛が働かねばならぬ」

 

 村上征樹が、火星の投影を見た。

 

「十年くらいですか」

 

「十年で二十%へ届かせることは不可能ではない」

 

 バルカスは答えた。

 

「じゃが、それは最短値じゃ。火星の地表はまだ酸素を食う。新しい海も、土も、微生物も、気候も、全てが安定する前に無理に酸素濃度だけを上げれば、後で反動が来る」

 

 シンが静かに言う。

 

「都市予定地だけを先に安定させることは」

 

「可能じゃ」

 

 バルカスは答えた。

 

「だが、総帥が望んでおられるのは、火星を一部のドーム都市にすることではない。惑星として目覚めさせることじゃ」

 

 会議室が静かになる。

 

 アルカンフェルは、火星を見ていた。

 

 投影された火星では、ワフェルダノスの臣毛網が緑の線として表示されている。

 

 その線は、海岸線、河口、峡谷、丘陵、火山島、高地をつなぎ、火星の神経のように広がっていた。

 

 だが、その中心にいるワフェルダノスへの負荷も表示されている。

 

 森林型生体ユニットとしての活動時間。

 

 臣毛網維持負荷。

 

 微生物群制御負荷。

 

 土壌形成補助負荷。

 

 大気酸素化補助負荷。

 

 全てが高い。

 

 ヴァルキュリアが言った。

 

「ワフェルダノス神将への負荷は、現時点で長期管理対象です」

 

 バルカスは少し渋い顔をした。

 

「うむ。数ヶ月で緑を広げるだけなら、まだよい。じゃが、火星の大地全体を安定させ、酸素濃度を二十%へ持っていき、地表酸化反応を抑え、森林帯と湿地帯と海洋藻類圏を同期させるとなると、短期任務では済まぬ」

 

 村上が言う。

 

「では、どれくらい」

 

 バルカスは、ちらりとアルカンフェルを見た。

 

「二十年」

 

 その数字が、会議室に落ちた。

 

 十年ではない。

 

 二十年。

 

 火星調査に費やした時間と同じだけ、ワフェルダノスに火星へ残ってもらう。

 

 村上は、少し息を呑んだ。

 

「二十年、火星で」

 

「そうじゃ」

 

 バルカスは言った。

 

「最初の十年で、大気圧と水循環を安定させる。次の十年で、酸素濃度二十%、土壌酸化安定、森林帯の自律循環、海洋藻類圏の暴走抑制、都市予定地の外気呼吸許可区域化まで持っていく」

 

 ヴァルキュリアが補足する。

 

「ワフェルダノス神将だけではありません。休眠区画、臣毛網の部分自律化、火星側代替生体ノードの育成、作業用強殖装甲班による補助、アプトム便による資源補給を組み合わせる必要があります」

 

 アプトムの通信投影が、腕を組んでぼやいた。

 

『また俺かよ』

 

「またあなたです」

 

 ヴァルキュリアは即答した。

 

『俺はガス屋で運送屋で研究所大家でサンプル業者で、今度は火星の肥料屋か?』

 

 バルカスが嬉しそうに言った。

 

「有機物、窒素化合物、微量元素、外縁天体由来の揮発性物質、全部要るぞ」

 

『言うと思ったよ』

 

 アルカンフェルは、黙って火星を見ていた。

 

 やがて、通信回線が開かれる。

 

 火星地表。

 

 ボレアリス海沿岸。

 

 そこに、ワフェルダノスがいた。

 

 人の姿ではない。

 

 巨大な森林型生体ユニットとして、大地に根を張っている。

 

 赤かった平原は、今は苔と草と若い樹木に覆われている。

 

 海から吹く風が、低い緑を揺らす。

 

 その奥で、ワフェルダノスの臣毛が土の中を走り、微生物と菌糸と根をつないでいる。

 

 通信越しの声は低く、深かった。

 

『水は来た』

 

 ワフェルダノスは言った。

 

『土は、まだ若い』

 

 アルカンフェルが応じる。

 

「分かっている」

 

『緑は広げた。だが、まだ火星は息を知らぬ』

 

「だから、お前に頼む」

 

 ワフェルダノスは沈黙した。

 

 火星の風だけが通信に乗る。

 

 かつて、森ではなかった星の風。

 

 今、初めて緑を揺らす風。

 

「二十年だ」

 

 アルカンフェルは言った。

 

「火星に残れ。大地を縫い、海を支え、酸素を満たせ。人が息を吸える星になるまで、お前の緑の王国を火星に置く」

 

 会議室には誰も声を出さなかった。

 

 それは命令だった。

 

 だが、同時に願いでもあった。

 

 ワフェルダノスは、火星の地平線を見ているようだった。

 

 ボレアリス海の向こうに、白い雲が流れている。

 

 雲の下に、まだ赤い大地がある。

 

 緑が届いていない場所がある。

 

 酸素が薄い場所がある。

 

 土になりきれない砂がある。

 

 彼は、ゆっくり答えた。

 

『二十年』

 

「ああ」

 

『惑星には、短い』

 

「人間には長い」

 

『私は、森だ』

 

 ワフェルダノスの臣毛が、地表の下でわずかに脈打った。

 

『森は、急がぬ。だが、根を張れば離れぬ』

 

 アルカンフェルは頷いた。

 

「頼む」

 

『よい』

 

 その一言で、火星の緑の王は、火星に残ることを受け入れた。

 

 バルカスが小さく息を吐く。

 

「これで、火星は二十年後に人の星となる」

 

 ヴァルキュリアは即座に言った。

 

「二十年後に全域開放ではありません。外気呼吸許可区域は段階指定です」

 

「分かっておる」

 

「記録します。火星緑化第二期計画、期間二十年。ワフェルダノス神将を中核とする臣毛生態網を維持。大気圧安定、酸素濃度二十%、土壌酸化反応封止、海洋藻類圏の自律化、森林帯定着、都市予定地外気呼吸許可を主要目標とします」

 

 アプトムがぼやく。

 

『二十年か。長ぇな』

 

 村上が火星を見ながら言った。

 

「でも、惑星改造としては一瞬なんですね」

 

 シンが頷く。

 

「人間の一世代には長い。惑星には短い。神将には、仕事の時間だ」

 

 李・エンツイが静かに言った。

 

「二十年後、火星の空間座標は変わるだろうな」

 

 カールレオンも言う。

 

「虚数空間側の反射も変わる。水と緑がある星は、歪みの受け方も違う」

 

 バルカスは楽しげに笑った。

 

「研究することが増えるのう」

 

 ヴァルキュリアが冷たく見る。

 

「博士の火星滞在申請は、別途審査します」

 

「まだ出しておらぬ」

 

「出す顔をしていました」

 

「顔で却下されるのか」

 

「顔で監察対象になることはあります」

 

 アプトムが笑った。

 

『博士、目が火星に行ってるぞ』

 

「行きたいに決まっておるじゃろう」

 

 会議室に、わずかな笑いが起きた。

 

 その笑いの向こうで、火星は静かに回っている。

 

 白い雲。

 

 青黒い海。

 

 緑の海岸線。

 

 赤いまま残る高地。

 

 まだ息を吸えない大気。

 

 そして、その大地に根を張ったワフェルダノス。

 

 火星の二十年が始まった。

 

 

 

/*/

 

 

 

 最初の一年。

 

 ワフェルダノスは、海岸線を縫った。

 

 ボレアリス海の濁った波が打ち寄せる場所に、臣毛を張り巡らせる。

 

 海から上がる塩分を調整し、河口の泥を固定し、流れ込む鉱物を菌糸へ渡し、海洋藻類の過剰増殖を抑える。

 

 青緑の膜が海面近くに広がり、シアノバクテリアが光を受けて酸素を吐き始める。

 

 だが、酸素はすぐ大気に満ちるわけではない。

 

 赤い土がそれを食う。

 

 鉄分が酸化し、鉱物表面が反応し、火星の大地そのものが貪るように酸素を奪っていく。

 

 ワフェルダノスは、臣毛でそれを封じた。

 

『土よ。食いすぎるな』

 

 誰に向けた言葉でもない。

 

 だが、臣毛に包まれたレゴリスは、少しずつ安定していった。

 

 二年目。

 

 マリネリス内海の崖下に湿地が広がった。

 

 熱水を好む微生物膜が黒緑に輝き、そこへ草本が根を張る。

 

 地質学者たちは、その光景を見て複雑な顔をした。

 

「研究対象が緑に覆われていく」

 

「保護区画は守られている」

 

「分かっている。分かっているが、岩肌が見えない」

 

 ワフェルダノスは、保護区画には侵入しなかった。

 

 そこだけは赤い地層が露出したまま残されている。

 

 だが、その境界の外側では、緑が容赦なく広がっていった。

 

 三年目。

 

 大気圧が安定し始めた。

 

 まだ人間が外で暮らせるほどではない。

 

 しかし、火星の天気は荒れ狂うものから、読めるものへ変わっていた。

 

 雲は季節を持ち、雨は地域を選び、風は海と高地を結ぶ。

 

 プルクシュタールの気象制御は、次第に補助へ回った。

 

 火星自身の大気循環が、弱いながらも自律し始めたからだった。

 

 四年目から七年目。

 

 森林帯が伸びた。

 

 最初は低木だったものが、樹木として立ち上がる。

 

 火星の低重力下で、枝は地球よりも大きく広がった。

 

 幹は太く、根は浅く広く走る。

 

 その根はワフェルダノスの臣毛と絡み合い、菌糸と共に水と養分を運んだ。

 

 人間が知る森とは違う。

 

 ワフェルダノスの緑の王国は、個々の木の集まりではなく、一つの巨大な生体網だった。

 

 木々は互いに孤立していない。

 

 根が、菌糸が、臣毛が、微生物が、海からの湿り気が、鉱物からの養分が、全てをつないでいる。

 

 八年目。

 

 火星の低地の一部で、酸素濃度が十%を越えた。

 

 研究者たちは騒いだ。

 

 都市計画班は浮き足立った。

 

 移民希望者リストは膨れ上がった。

 

 だが、ヴァルキュリアの通達は冷たかった。

 

 

> 外気呼吸許可には達していない。

> 補助呼吸具なしの長時間屋外活動は禁止。

> 酸素濃度だけでなく、気圧、粉塵、微生物安定性、アレルゲン、季節変動を確認すること。

 

 

 アプトムがぼやいた。

 

『夢がねぇな』

 

 ヴァルキュリアは答えた。

 

『夢で人は呼吸できません』

 

『正論は嫌われるぞ』

 

『必要です』

 

 十年目。

 

 人間が短時間なら補助具なしで外に出られる試験区域が生まれた。

 

 ボレアリス海沿岸の第一都市予定地。

 

 まだ都市ではない。

 

 ただ、緑の丘と、湿った風と、濁った海と、低い樹木の林がある場所だった。

 

 最初に外へ出たのは、地質学者でも惑星学者でもなく、火星で生まれた調整体の子供だった。

 

 もちろん監視付きで、医療班付きで、短時間だけである。

 

 子供は外へ出て、空を見上げた。

 

 火星の空は青かった。

 

 地球ほど深くはない。

 

 薄く、どこか白い。

 

 それでも青かった。

 

「息、できる」

 

 その一言が、火星全域に流れた。

 

 ワフェルダノスは、遠くの森の中でそれを聞いていた。

 

『まだ、浅い』

 

 彼は言った。

 

『だが、息だ』

 

 十一年目から十五年目。

 

 酸素濃度はさらに上がった。

 

 地表の酸化反応は抑え込まれ、レゴリス表面は有機膜と微生物層で安定した。

 

 海洋藻類圏は一度暴走しかけたが、臣毛網とアプトム便による栄養塩調整で抑えられた。

 

 森林帯は沿岸から高地へ伸び、峡谷内海の周辺には湿った深い緑が生まれた。

 

 タルシス火山島には、強風に耐える低い森が広がった。

 

 十六年目。

 

 酸素濃度は十八%へ届いた。

 

 都市予定地では、外気呼吸許可区域が増えた。

 

 学校が建てられた。

 

 研究要塞の周囲に、住宅区画が生まれた。

 

 まだドームや避難棟は必須だったが、人々は晴れた日に外へ出られるようになった。

 

 火星の風に洗濯物が揺れた。

 

 それを見た老地質学者は、しばらく黙っていた。

 

「先生?」

 

 若い研究者だった者が、今では研究主任になっていた。

 

「いや」

 

 老地質学者は言った。

 

「火星で洗濯物が乾いている」

 

「はい」

 

「地質学の範囲を越えたな」

 

「ずっと前から越えてます」

 

「そうだったな」

 

 二十年目。

 

 火星全球平均酸素濃度は二十%へ到達した。

 

 地域差は残る。

 

 高地や極域には、まだ補助具が必要な場所がある。

 

 嵐もある。

 

 季節変動もある。

 

 火星の生態系はまだ若い。

 

 ワフェルダノスの臣毛網は、完全には自律化していない。

 

 だが、人が息を吸える星になった。

 

 火星は、赤い死の星ではなくなった。

 

 ボレアリス海の沿岸に、式典場が設けられた。

 

 大きなものではない。

 

 アルカンフェルは派手な式典を好まなかった。

 

 だが、この日は人が集まった。

 

 地質学者。

 

 惑星学者。

 

 生物史研究者。

 

 クロノス技術者。

 

 作業用強殖装甲の整備士。

 

 アプトム便の運用班。

 

 火星で生まれた子供たち。

 

 そして、ワフェルダノス。

 

 彼は人の姿を取ってはいなかった。

 

 海岸の丘一帯に広がる巨大な森林型生体ユニットとして、そこにいた。

 

 木々のざわめきの中に、彼の声が響く。

 

『二十年』

 

 アルカンフェルは、丘の上に立っていた。

 

 火星の風が、彼の髪を揺らす。

 

 その風を、彼は呼吸しなかった。

 

 必要がないからだ。

 

 だが、周囲の人間たちは吸っていた。

 

 火星の空気を。

 

 ボレアリス海の湿り気を含んだ、緑の王国が作った空気を。

 

「よくやった、ワフェルダノス」

 

 アルカンフェルは言った。

 

 ワフェルダノスの森が揺れた。

 

『まだ、若い』

 

「分かっている」

 

『まだ、見ねばならぬ』

 

「それも分かっている」

 

『だが、息は満ちた』

 

「ああ」

 

 アルカンフェルは、火星の空を見上げた。

 

 薄い青。

 

 白い雲。

 

 遠くに見える海。

 

 緑の丘。

 

 そこに立つ人間たち。

 

 かつてウラヌスが捨てたかもしれない星。

 

 地球生命が、もう一度根を張った星。

 

「火星は、人の星になった」

 

 その言葉に、誰も歓声を上げなかった。

 

 代わりに、人々は深く息を吸った。

 

 火星の空気を。

 

 二十年かけて満たされた酸素を。

 

 ワフェルダノスの緑の王国が作った風を。

 

 それは、どんな歓声よりも確かな返答だった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。