/*/ クロノス日本支部 レリックスポイント最下層 総帥臨時執務室 /*/
アプトムは、静かに扉の前へ立った。
再調整を受けてから、身体の感覚が変わっている。
ゾアロードの思念波に引っかからない。
命令波を受けない。
その代わり、獣化兵としての統一された安定感も少し薄い。
だが、気分は悪くなかった。
誰かの頭の中から降ってくる命令に、脊髄で従わされる感覚がない。
それだけで、かなり楽だった。
「入れ」
扉の向こうから声がした。
アルカンフェル。
クロノス総帥。
現生人類ではない、地球生命の指揮個体。
アプトムは一度だけ姿勢を正し、入室した。
部屋の中は広くない。
最下層に設けられた臨時執務室で、壁面の一部には遺跡宇宙船由来の制御端末が組み込まれている。机の上には資料端末が数枚、そして小田桐研究主任から提出された報告書が置かれていた。
アルカンフェルは椅子に座っていた。
外見は静かだ。
だが、アプトムには分かる。
この総帥は、今かなり気が急いている。
表面上は落ち着いていても、内側の処理速度が妙に速い。次の手、次の手、さらに次の手を考えている気配がある。
「報告しろ」
「はっ」
アプトムは頭を下げた。
「小田桐主任は村上征樹と接触。場所は温泉街外れの喫茶店。会話は穏当に終了しました。双方、情報交換で合意。村上征樹はクロノスに合流する意思を示しておりません。ただし、現時点でクロノスを潰すべきとも判断していない様子です」
「村上は来なかったか……」
アルカンフェルが小さく呟いた。
少し残念そうだった。
「まあ、すぐに来るような男ではないが、気忙しいな」
「慎重な男に見えました」
アプトムは答えた。
「総帥閣下の情報を鵜呑みにはしておりません。しかし、各地の天文台を回って独自に確認した観測記録と、こちらの開示情報の一致については、無視できないと判断しているようです」
「小田桐は?」
「戻りました。逃亡の気配はありません。村上征樹から、彗星群扱いされている接近物体群についての観測資料を受け取っています。軌道計算のメモも含まれているようです」
「よし」
「ただ、小田桐主任も村上征樹も、クロノスを信用したわけではありません」
「当然だ」
アルカンフェルは端末を閉じた。
「即座に信用するようなら、逆に困る。疑い、調べ、確かめ、それでも事実を積み上げる。そういう者でなければ、こちらが情報を渡した意味がない」
「御意」
アプトムは静かに頷いた。
その反応を見て、アルカンフェルがわずかに目を細める。
「村上に気づかれなかったな」
「はい。思念波に反応しない調整が効いております。プロト・ゾアロードである村上征樹の感覚から見ても、私は一般人に近い気配として処理されたようです」
「お前を再調整した判断は正しかった」
「光栄です」
アプトムはそう答えた。
本心だった。
失敗作。
ロストナンバー。
そう呼ばれてきた自分が、今はクロノス総帥直々の監視任務についている。
しかも、ゾアロードに気づかれない監視役として。
皮肉な出世ではある。
だが、悪くない。
「アプトム」
不意に声の温度が変わった。
「手を出せ」
「手、でございますか」
「ああ。掌を上に」
アプトムは一瞬、迷った。
総帥から直接、手を出せと言われる。
それは褒美かもしれない。
処罰かもしれない。
実験かもしれない。
この総帥の場合、そのすべてが同時に成立することもあり得る。
だが、拒む理由はない。
「承知しました」
アプトムは右手を差し出し、掌を上へ向けた。
アルカンフェルは、自分の指先を軽く切った。
刃物は使わなかった。
ただ、爪先で皮膚を裂いたように見えた。
血が滲む。
鮮やかな赤。
だが、それはただの血ではなかった。
濃い。
あまりにも濃い。
アプトムの細胞が、掌の皮膚の下でざわついた。
欲しい。
食え。
取り込め。
そう叫ぶような反応だった。
アルカンフェルは、指先から零れた血をアプトムの掌へ落とした。
一滴。
二滴。
三滴。
それだけで、アプトムの全身が震えた。
「褒美だ」
アルカンフェルは言った。
「過分だが、食え」
「……閣下」
「私のマトリクスを取り込め」
アプトムは、思わず息を止めた。
掌の血が、皮膚へ染み込もうとしている。
いや、自分の細胞が勝手に吸収しようとしている。
止めなければ、一瞬で取り込む。
それが分かった。
だが、それが何を意味するかも分かる。
これは、ただの強化ではない。
クロノス総帥アルカンフェルの生体情報。
ゾアロードの頂点どころではない。
地球生物の指揮個体として作られた存在の核情報。
それを、ロストナンバーである自分に喰わせようとしている。
「閣下。これは……私には過ぎたものではありませんか」
「過ぎている」
アルカンフェルは淡々と言った。
「だから過分だと言った」
「なぜ、私に」
「お前に、万一の時の札を持たせる」
「万一、でございますか」
「私に万一の事があれば」
アルカンフェルは、こちらを真っ直ぐに見た。
「私に代わって、私の能力とクロノスを引き継いで戦え」
部屋の空気が止まった。
護衛が完全に硬直する。
アプトムも、しばらく言葉を失った。
「……閣下。私はロストナンバーです」
「知っている」
「失敗作として扱われてきた個体です」
「だからいい」
アルカンフェルは即答した。
「規格品ではないから、お前は変われる。壊れず、食らい、適応し、別のものになる。お前は獣化兵としては失敗作だが、非常時の継承体としては有望だ」
「継承体……」
「言葉通りだ」
アルカンフェルはアプトムの掌を見た。
「ギュオーめにクロノスを渡す気はない。ハイヤーンにも渡さん。シンは有能だが、私の能力を継げる身体ではない。バルカスは技術者だ。戦場に立たせるものではない」
「それで、私を」
「そうだ」
「私が裏切るとはお考えになりませんか」
「考えている」
また即答だった。
アプトムは、ほんの少しだけ苦笑した。
「お考えなのですね」
「当然だ。お前は自我が強い。思念波にも引っかからない。力を持てば、私を喰おうとする可能性もある」
「でしたら、なぜ」
「それでも、ギュオーめよりはマシだ」
あまりにも率直な答えだった。
アプトムは笑いそうになったが、堪えた。
「……非常に現実的な理由です」
「現実的でなければ意味がない」
「信頼ではないのですか」
「信頼もしている」
アプトムは黙った。
アルカンフェルは、ごく当たり前のように言った。
「お前は任務を果たした。村上に気づかれず、小田桐を見張り、余計な手出しをしなかった。命令波で縛られていない状態で、それをした。なら、その行動は評価できる」
「……ありがとうございます」
「私は従順な駒だけが欲しいわけではない。考えて、選んで、それでも動く駒が要る」
「駒、でございますか」
「駒だ」
「そこは言い切られるのですね」
「言い切る」
アプトムは、今度こそ小さく笑った。
忠誠心はある。
だが、この総帥の雑な物言いには、時々調子を崩される。
掌を見る。
血はまだそこにある。
赤い。
熱い。
細胞が、限界まで反応している。
食えば、自分は変わる。
今までのロストナンバーではなくなる。
アプトムという失敗作から、もっと別のものへ踏み出す。
それが怖くないと言えば嘘になる。
だが。
失敗作のまま終わるよりは、面白い。
「取り込みます」
「食え」
「後で後悔されても、私は責任を負えません」
「後悔は後でやる」
「……閣下は、その言い方がお好きですね」
「便利だからな」
アプトムは掌を閉じた。
皮膚が血を飲む。
細胞が開く。
アルカンフェルの血が、アプトムの体内へ入った。
瞬間、全身が燃えた。
「ぐ、っ……!」
膝が揺れる。
骨の奥で何かが鳴った。
筋肉がほどけ、再接続される。
神経に熱が走る。
視界が一瞬白くなり、その奥に巨大な何かが見えた。
空。
海。
古い地球。
降臨者。
命令。
否定。
孤独。
そして、ただ一つ残った役割。
地球生命を守れ。
その断片が、細胞の奥へ突き刺さる。
「アプトム」
アルカンフェルの声が聞こえた。
「呑まれるな。食え」
「……承知、しました……!」
アプトムは歯を食いしばった。
自分の細胞で、流れ込んできた情報を噛み砕く。
崇拝するな。
従属するな。
ただ喰え。
自分のものにしろ。
アルカンフェルのマトリクスを、そのまま写すのではない。
アプトムというロストナンバーの中へ、取り込んで変える。
しばらくして、震えが収まった。
アプトムは荒い息を吐き、片膝をついたまま掌を開いた。
血は消えていた。
だが、身体の奥に、重い熱が残っている。
「……とんでもない褒美です」
「そうか」
「ですが、悪くありません」
「なら成功だ」
アルカンフェルは指先の傷を塞いだ。
もう血は出ていない。
アプトムはゆっくり立ち上がった。
身体の形は変わっていない。
だが、分かる。
中身が変わった。
まだ完全には扱えない。
だが、確かに何かを得た。
「これで私は、閣下の予備札ですか」
「予備というより、最悪の場合の嫌な札だ」
「……言い方は、もう少し何とかなりませんか」
「褒めている」
「それも褒め方が独特でございます」
アルカンフェルは少しだけ笑った。
そして、ふと思い出したように端末へ視線を戻す。
「それにしても、村上は当たり個体だな。テスト・ボディで五年も生き延びて、未だに元気に活動している。あいつも再調整してやれば良い戦力になるのだが……」
「本人にお伝えすれば、確実に逃げるかと」
「分かっている」
「分かっておられる顔ではありません」
「気忙しいのだ」
アルカンフェルは、本当に少し苛立たしげだった。
「早く来ればいいものを」
「村上征樹は、自分で納得しない限り動かない男に見えます」
「面倒な男だ」
「閣下が拾いたがる当たり個体は、だいたい面倒なのではありませんか」
アルカンフェルは、少し考えた。
「否定できない」
アプトムは深く一礼した。
掌の奥に、まだ熱がある。
アルカンフェルのマトリクス。
地球生命の指揮個体の断片。
それを喰った自分。
ロストナンバー。
失敗作。
だが、失敗作だからこそ、こんなものを飲み込めた。
「次の任務をお命じください」
「しばらく小田桐と村上のラインを見ろ。干渉は最小限。守れ。ただし、こちらを裏切る動きがあれば記録しろ」
「始末は」
「まだするな」
「まだ、でございますか」
「まだだ」
アルカンフェルは淡々と言った。
「彼らには疑わせる価値がある」
「承知しました。疑う者たちを守る任務、確かに拝命いたします」
「不満か」
「いえ」
アプトムは掌を握った。
身体の奥で、熱が静かに脈打つ。
「褒美に見合うだけは、働いてみせます」
「期待している」
その言葉を背に、アプトムは部屋を出た。
廊下へ出た瞬間、足が少しだけふらついた。
壁に手をつく。
呼吸を整える。
「……とんでもないものを、食わせてくださる」
文句のように呟きながらも、口元は笑っていた。
ロストナンバー。
失敗作。
その肩書きは、もう少しだけ面白い意味を持ち始めていた。