/*/ ボレアリス海熱帯特区《アレス・シラー》 /*/
火星にも、風の匂いが生まれていた。
赤い砂と鉄と濡れた土の匂い。
そこへ、もう一つ別の匂いが混じる。
塩気を含んだ暖かな海風の匂いだった。
ボレアリス海の北西域、その一角だけが、明らかに異質な熱を抱いていた。周辺海域の平均水温が十五度前後で安定しているのに対し、その海域だけは通年で三十度近い。海底深くに沈められた第一、第二サーモ・ノードの排熱が、ワフェルダノスの臣毛と生体熱交換組織によって制御され、意図的に集められているためである。
上空には、常に厚い雲が浮かんでいた。
それは嵐雲ではない。
サーモ・ノードによって暖められた海面から生まれる上昇気流が、火星の空に一種の“雲の天蓋”を形成しているのだ。熱を逃がしすぎず、宇宙線も和らげ、島全体に柔らかな光だけを落とす。人工ドームではない。だが、その環礁一帯は、まぎれもなく火星でただ一つの常夏だった。
海は群青に近い深い青をたたえ、海岸は白く、背後にはワフェルダノスの緑が濃く茂る。
その島の名を、アルカンフェルは静かに告げた。
「アレス・シラー」
その場に控えていたバルカスが、嬉しそうに目を細めた。
「地球のシラー島が、過去の遺産を匿う聖域ならば、この島は火星における再生の園じゃな。降臨者の遺構から拾い上げた遺伝子と、我らの技術と、火星の新しい海とが結びついて生まれる、新たな楽園じゃ」
ヴァルキュリアは即座に端末へ指を走らせた。
「特区指定を完了。一般入植者の立ち入りは禁止。アレス・シラーはクロノス最高機密生態区画、ならびに特務生存圏として管理します。観光地ではありません」
「夢のないことを言うのう」
バルカスが笑う。
「夢を守るには管理が必要です」
ヴァルキュリアは即答した。
そのやり取りを、少し離れた場所でアプトムが聞いていた。人間形態の彼は、いつものサングラスを指で押し上げながら、眼下の温かな環礁を見下ろす。
「つまり何だ。次は人魚だの妖精だのを、俺の便で運べって話か?」
通信越しの投影でそう言うのではなく、今日は珍しく本人が現地にいた。アプトム艦級の分体群が、島の沖合いに静かに浮かんでいる。巨大な生体輸送体でありながら、今はただの艀のように見えた。
バルカスは嬉々として、ホログラム上にいくつもの生物設計図を展開した。
「水棲調製体。飛行型小型調製体。島嶼管理の原初型ゾアノイド。いずれも地球では放てん。現生人類の居住域が広がりすぎておるからな。だが、この火星の温暖特区なら、彼らは脅かされることなく生きられる」
「人間に混ざれねぇ連中の、新しい家ってわけか」
アプトムがぼそりと呟く。
「そうです」
ヴァルキュリアが答えた。
「クロノスの技術は、兵器を作るためだけのものではありません。かつて降臨者が作り、残し、あるいは捨てていった生物たちに、呼吸と生存の場所を与えることもできる。それを示す区画です」
アルカンフェルは、しばらく黙って島を見ていた。
地球のシラー島。
数千年の孤独の中で、自分が眠り、静養し、外界から切り離されて過ごした聖域。その記憶は、火星の若い海風の向こうに、かすかに揺れていた。
「あの島を、ここに再現するのか」
「はっ」
バルカスが一礼する。
「ただの再現ではなく、火星における新しい形で、ですな」
アルカンフェルはわずかに頷いた。
「よい」
それだけで、計画は正式に動き出した。
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最初に運び込まれたのは、水棲調製体だった。
アプトムの生体輸送コンテナは、内部の振動が極めて少ない。海水温、塩分、酸素濃度、微量元素濃度まで細かく調整されたタンクが、まるで生きた子宮のように並んでいる。
アプトムは搬入作業の最中、やや不満そうに言った。
「太平洋の水を雑に汲んでぶちまけるのは怒られたが、こっちはいいんだな」
「こちらは無菌管理、系統管理、段階投入、環境適応確認を済ませています」
ヴァルキュリアが冷静に返す。
「しかもこの個体群は、最初から火星海水への移行を前提に調製されています」
「はいはい。つまり、俺は“でかい水槽付き乳母車”ってわけだ」
「高性能輸送担当です」
「言い換えただけだろ」
だが、文句を言いながらも、アプトムの手つきは驚くほど丁寧だった。
火星の温海へ、最初の水棲調製体が解き放たれる。
温かな波が揺れた。
しばらく何も起きない。
やがて、一つ、二つ、銀色の尾ひれが海面を切った。
人魚たちだった。
しなやかな上半身と、魚類的な下半身。鱗は光を受けて青銀に輝き、尾びれは熱帯の魚のように柔らかい色彩を帯びている。彼女たちは最初こそ慎重に環礁の内側を回遊していたが、水温と塩分の安定を確かめるように何度か潜った後、急に群れ全体が浮上した。
火星の厚くなった大気の下で、最初の歌声が響いた。
それは、海を震わせるような澄んだ音だった。
海面から顔を出した一体が、岩礁の上に立つアルカンフェルを見つけ、驚いたように目を見開く。それから、嬉しそうに尾びれで大きな水しぶきを上げた。
アプトムがサングラス越しに眺める。
「……元気そうで何よりだな」
「まだ最初の群れじゃ。定着確認まで十年は見る」
バルカスは相変わらず冷静なことを言うが、その声には満足が混じっていた。
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次に来たのは、飛行型小型調製体――ピクシーだった。
彼女たちは半透明の翅を持ち、身長は人間の掌に乗るほどしかない。もともとは降臨者船内の微細メンテナンス、生態系補助、受粉管理などに使われていた系統であり、単なる観賞用ではない。
アレス・シラーでは、その能力が生態系形成に直結した。
ワフェルダノスの巨大花の蜜を吸い、花粉を運び、菌糸ネットワークの若い端点に微生物を撒く。彼女たちが飛び交うたび、島の植物相は目に見えるほどの速度で複雑さを増していった。
火星の薄雲の下、淡い光の粒のような群れが舞う。
ヴァルキュリアですら、その光景を見た時は一瞬だけ無言になった。
「……報告書では、もう少し冷静に記述します」
「今のは見惚れた顔だったぞ」
アプトムに指摘され、彼女は表情一つ変えずに答える。
「観測です」
「便利な言葉だな」
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島の第三の住民は、原初の調整体だった。
いわゆる現代の獣化兵とは違う。大型でもなく、過剰武装でもなく、筋力と持久力に優れた者たちだ。海辺で網を張り、果樹に似た調整樹木を育て、臣毛網の補修を手伝い、小型海洋生物の観察記録を取り、島全体を維持する。
人間社会に完全に馴染めるわけではない。
だが、ここでは隠れる必要がなかった。
人魚も、ピクシーも、調整体も、ここでは“異物”ではない。最初からそのようなものとして、島が受け止める。
「ずいぶん静かだな」
アプトムが白い砂浜を見ながら言った。
砂は火星のレゴリスを精錬して作られた人工砂だが、見た目は地球の珊瑚砂に近い。
その上を、調整体の一人が大きな貝殻を抱えて運んでいく。
海では人魚たちが浅瀬で遊び、上空ではピクシーたちが花の周りを巡る。
「平和だ」
そう言うアプトムの声は、どこか他人事のようで、少し羨ましそうでもあった。
ヴァルキュリアは、その横顔をちらりと見た。
「あなたも、少しは落ち着きますか」
「俺か?」
「ええ」
「どうだかな。島に住むより、運んでる方が性に合ってる」
「そうですか」
「でも、まあ」
アプトムは肩をすくめた。
「こういう“帰る場所”があるってのは、悪くねぇ」
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数年後。
アレス・シラーは、ボレアリス海の中でも特別な色を持つようになっていた。
外海より暖かい水。
常に雲に守られた空。
海岸に伸びる濃密な緑。
白い砂浜。
ヤシに似た火星調整樹木。
海中を泳ぐ銀色の尾ひれ。
花粉を散らしながら舞う光の羽。
そして、温厚な調整体たちの暮らし。
そこは火星の一部でありながら、火星のどこにも似ていなかった。
島の中央にある岩場へ、アルカンフェルが一人立つ。
ボレアリス海から吹く風は暖かく、遠くでは人魚たちの歌が聞こえる。ワフェルダノスの臣毛が足元から一本伸び、そこに大きな花を咲かせた。
『閣下』
ワフェルダノスの声が、低く静かに響く。
『アレス・シラーは満ちました』
アルカンフェルは、その花をそっと拾い上げた。
地球のシラー島とは違う。
同じではない。
だが、確かに続きだった。
地球では過去を守る島だったものが、火星では未来を受け止める島になった。
降臨者が作り、捨て、あるいは残した生命たち。
人間に混ざれぬ者たち。
普通の都市では居場所を持ちにくい調整体たち。
そういう者たちが、ここではただ息をして、生きてよい。
「ああ」
アルカンフェルは静かに言った。
「美しいな、ワフェルダノス」
その時、一人の若い人魚が岩礁近くまで泳いできて、アルカンフェルを見上げた。目が合うと、嬉しそうに尾びれで大きく海を打つ。光を受けた飛沫が火星の空に散り、ピクシーたちがその上をくるくると舞った。
アレス・シラー。
火星の海に咲いた、失われた楽園。
それは単なる秘境ではなかった。
人間のためだけではない。
降臨者の遺したもの、人間に混ざれぬもの、戦いの外で静かに生きるもの――そのすべてを火星という新しい世界に抱き込む、第二の創世の庭だった。