/*/ 火星 ボレアリス海熱帯特区《アレス・シラー》 /*/
アレス・シラーの中央部には、まだ神殿はなかった。
あるのは、赤い岩盤を深く穿った巨大な竪穴と、その底で青白く脈打つ生体構造物だった。
島の中心。
第一、第二サーモ・ノードから流れ込む熱脈が交差し、ワフェルダノスの臣毛網が地中で幾重にも絡み合う場所。
そこへ、アプトム便の軽巡洋艦級生体艦が沈められようとしていた。
艦、と言っても、金属船ではない。
外殻は黒灰色の生体装甲。
側面には海洋生物の鰓にも似た排熱器官が並び、下部からは根のような固定肢が伸びている。
もともとは火星海域と地球圏を往復する輸送用分体艦だった。
だが、今日からは違う。
この島の地下中枢になる。
アプトムは竪穴の縁に立ち、ものすごく嫌そうな顔をしていた。
「なあ、確認していいか」
彼はサングラスを指で押し上げた。
「俺はいつから、古代遺跡宇宙船の代用品になったんだ?」
バルカスは即座に笑った。
「代用品などではない。改善型じゃ」
「もっと嫌な言い方をするな」
「シラー島の遺跡宇宙船は、制御球を失った残骸が偶然にも保護フィールドを張り続けておった。あれは奇跡に近いが、欠点も多い。制御不能、出力粗雑、修復困難、島の外へ応用不能」
バルカスは嬉しそうに、竪穴底の生体艦を指した。
「だがこれは違う。軽巡洋艦級アプトム分体を基盤とし、ワフェルダノスの臣毛網、サーモ・ノード排熱、火星環境制御塔群と接続する。つまり、最初から島を守るために作るサイコ・フィールド中枢じゃ」
「だから俺が嫌そうな顔してるんだよ」
アプトムは竪穴の底を見た。
軽巡洋艦級分体は、自分であり、自分ではない。
アプトム全体から分離され、輸送艦として育てられ、今度はアレス・シラーの心臓として地下へ固定される。
死ぬわけではない。
むしろ生き続ける。
島と接続し、海と空と森と住人たちを守るために、半永久的に稼働し続ける。
それが嫌なのではない。
問題は、その扱いだった。
「つまり俺は、でかい守り神兼、地面に埋める発電機兼、島の屋根ってことか」
ヴァルキュリアが淡々と端末に入力しながら答えた。
「正確には、地下固定型生体保護中枢、環境調整補助体、サイコ・フィールド発生基盤です」
「言い換えが長い」
「公文書ですので」
「公文書にすると余計ひどく聞こえるな」
アルカンフェルは、竪穴の底を見下ろしていた。
火星の弱い陽光が、その白い横顔を照らす。
ゾア・クリスタルは露出していない。
だが、縦長の瞳孔は、地下の生体艦と島全体を一瞥しただけで、すべての接続系を読み取っているようだった。
「シラー島の遺跡船は、死に損ないだった」
アルカンフェルが言った。
バルカスも、アプトムも、ヴァルキュリアも黙った。
「あれは壊れたまま、私と島を守った。だが、火星で同じ偶然を待つ必要はない」
彼は竪穴の底へ視線を落とす。
「アレス・シラーの中枢は、生きていなければならん」
それが決定だった。
/*/
沈設は、儀式ではなく工事だった。
だが、その光景は儀式に見えた。
軽巡洋艦級分体の固定肢が、ゆっくりと竪穴の壁面へ伸びる。
赤い火星岩盤へ、黒い根が食い込む。
その周囲に、ワフェルダノスの臣毛が絡みついた。
植物とも菌糸とも神経ともつかない緑の繊維が、生体艦の外殻を覆い、サーモ・ノードから送られる熱流を受け渡していく。
地下深くで、温度が変わった。
水脈が動く。
海面がわずかに震える。
アレス・シラー全域の空気に、目に見えない圧が広がった。
ヴァルキュリアが数値を読み上げる。
「第一接続、安定。第二接続、安定。ワフェルダノス臣毛網との同調、許容範囲内。サーモ・ノード排熱の受領開始。生体艦外殻温度、上昇。フィールド発生器官、予備起動」
アプトムは腕を組んだまま、眉をひそめた。
「……変な感じだな」
「何がです」
「島の下に、俺の神経が広がっていくみたいだ」
ヴァルキュリアの手が一瞬止まった。
バルカスは、むしろ興味深そうに笑う。
「当然じゃ。軽巡洋艦級とはいえ、お主の分体を基盤にしておるからの。島の水温、風圧、根系振動、海中生体反応。それらが低位感覚として返ってくるはずじゃ」
「先に言え」
「言ったら拒否したじゃろう」
「当たり前だ」
アルカンフェルは短く言った。
「拒否するのか」
アプトムはしばらく黙った。
眼下の竪穴底では、軽巡洋艦級分体がゆっくりと地中に沈んでいく。
黒い外殻が赤い岩盤の中へ消え、その上を緑の臣毛が覆い、さらに人工的な石材骨格が組み上がっていく。
島の沖では、人魚たちが水面から顔を出していた。
上空ではピクシーたちが不安そうに旋回している。
調整体たちは、まだできてもいない神殿予定地の外で、じっと沈設を見守っていた。
ここで暮らす者たちがいる。
人間都市では居場所を持ちにくい者たち。
地球では秘匿されるしかなかった者たち。
降臨者の遺した系譜を、新しい惑星で生き直す者たち。
アプトムは、舌打ちした。
「……しねぇよ」
「そうか」
「ただし、博士。俺を変な神様扱いするなよ」
バルカスは笑った。
「安心せい。神ではなく設備として扱う」
「そっちの方が腹立つんだが」
/*/
軽巡洋艦級分体が完全に地下へ収まると、地表には巨大な環境露出部だけが残った。
それは本来、生体艦の外部環境調整器官だった。
大気を吸い、湿度を調整し、胞子や微生物を選別し、島全域の空気と水を監視する部分である。
形状は異様だった。
黒い肉質の柱。
脈打つ膜。
大きな花弁のように開閉する熱交換器官。
そのままでは、神殿どころか巨大な生体臓器である。
ヴァルキュリアは、無言で見上げた。
「これは……一般の入植者に見せられませんね」
アプトムが笑う。
「最高機密特区なんだろ? 別にいいじゃねぇか」
「住民の精神衛生の問題です」
バルカスは腕を組み、楽しげに言った。
「では、覆うか」
「覆う?」
「シラー島の神殿と同じじゃ。地上に露出した中枢器官を、石材外殻で包む。外から見れば古代神殿。内側では生体環境器官が稼働し続ける」
ヴァルキュリアは一瞬で理解した。
「神殿化、ですか」
「そうじゃ」
バルカスは嬉々として、設計図を展開した。
「外装は火星レゴリスを焼結した人工石。内部に生体艦の通気孔、熱交換孔、サイコ・フィールド導波管を隠す。柱は中空にし、臣毛を通す。壁面にはアレス・シラーの成立記録を刻めばよい」
「観光地ではありません」
「記録じゃ」
「博士の記録は、だいたい記念碑になります」
「悪いことではなかろう」
アルカンフェルは、露出した生体器官を見上げた。
それは不気味で、生々しく、そして確かにこの島の中枢だった。
「覆え」
短い命令だった。
「地上に出ているものは、石で包め。ここを神殿にする」
アプトムが肩をすくめた。
「結局、俺の内臓の上に神殿建てるのかよ」
アルカンフェルは平然と答えた。
「そうだ」
「もう少し言い方あるだろ」
「正確だ」
「正確ならいいってもんじゃねぇぞ」
/*/
神殿建設は速かった。
火星調整樹木の根が地盤を固定し、ワフェルダノスの臣毛が石材骨格を内側から縫い合わせる。
調整体たちは、赤い岩を切り出し、白い人工石を運び、柱を立てた。
ピクシーたちは細かな隙間に入り込み、導光管の接続を確認する。
人魚たちは環礁から石材船を引き、浅瀬の神殿基壇へ資材を運んだ。
アプトムの分体艦は地下から低く脈動し、島全体の微細な振動を整える。
やがて、剥き出しだった生体器官は、石に覆われていった。
外壁には、地球のシラー島を思わせる意匠が刻まれる。
だが、同じではない。
レリーフに刻まれたのは、火星の海だった。
ボレアリス海。
サーモ・ノード。
ワフェルダノスの緑。
アプトム軽巡洋艦級生体艦。
火星へ渡った人魚たち。
花粉を運ぶピクシーたち。
新しい島に住む調整体たち。
そして、その中央に立つアルカンフェル。
ヴァルキュリアはその壁面を見て、少しだけ眉を寄せた。
「総帥を中央に置く必要はありますか」
石工役の調整体が困った顔をした。
バルカスは笑った。
「当然じゃろう」
「このままでは信仰施設に見えます」
「神殿じゃからな」
「最高機密生態区画の環境制御施設です」
「神殿型環境制御施設じゃ」
「言い方で押し切らないでください」
アルカンフェルは、壁面の自分の姿を一瞥した。
「構わん」
「総帥」
「この島の住人が必要とするなら、形だけの神殿くらいあってもよい」
ヴァルキュリアは反論しかけたが、やめた。
アレス・シラーに住む者たちは、都市の市民とは違う。
彼らには、制度だけでなく象徴が必要なのかもしれない。
自分たちが捨てられた実験生物ではなく、この島に迎えられた住人であると示すもの。
そのための神殿ならば。
「……ただし、一般公開はしません」
「当然だ」
アルカンフェルは答えた。
「これは観光施設ではない」
/*/
最後に設置されたのは、神殿上部の人工太陽照明だった。
火星の太陽光は弱い。
大気改造が進んでも、地球の熱帯島と同じ光量には届かない。
アレス・シラーを常夏の特区として維持するには、サーモ・ノードの熱だけでは足りない。
植物には光が要る。
人魚たちの浅瀬にも、ピクシーたちの花にも、調整体たちの畑にも、他より強く制御された光が必要だった。
神殿の最上部に、巨大な環状照明が据えられた。
見た目は太陽円盤を模した石と金属の冠。
だが内部には、核融合電力網から供給される高効率光源と、ワフェルダノスが調整した光合成帯域制御器が組み込まれている。
点灯の時、島中の住民が集まった。
海面には人魚たち。
花の上にはピクシーたち。
砂浜には調整体たち。
岩場にはヴァルキュリア、バルカス、アプトム、そしてアルカンフェル。
ヴァルキュリアが最終確認を読み上げた。
「地下中枢、安定。サイコ・フィールド出力、島嶼範囲に収束。外海への漏出なし。ワフェルダノス臣毛網との同調、良好。環境露出部、神殿外装により保護完了。人工太陽照明、起動待機」
バルカスが満足そうに頷いた。
「よい。起動せい」
ヴァルキュリアはアルカンフェルを見た。
アルカンフェルが短く言う。
「灯せ」
次の瞬間、神殿の上に太陽が生まれた。
まばゆい光が、石の円冠から柔らかく広がる。
火星の空の下に、地球の熱帯に似た光が降り注いだ。
海が青く光る。
白い砂浜が輝く。
人魚たちの鱗が青銀にきらめく。
ピクシーたちの翅が、虹色の粒子を撒いた。
ワフェルダノスの植物群が、一斉に葉を開く。
地下では、アプトム軽巡洋艦級分体が低く脈動した。
その脈動に合わせるように、島を包むサイコ・フィールドが安定する。
目には見えない。
だが、そこにいるすべての者が分かった。
島が閉じた。
島が守られた。
アレス・シラーは、ただの温暖特区ではなくなった。
火星に作られた、第二のシラー島になった。
/*/
アプトムは、神殿を見上げた。
石に覆われた外装は、古代の遺跡に見える。
だが、その下で自分の分体が生きている。
神殿の柱は通気器官であり、床下は神経網であり、地下深くには軽巡洋艦級の生体艦が眠っている。
「……なあ」
アプトムが言った。
「これ、後世の連中が見たら、絶対に古代火星文明の神殿とか言い出すぞ」
ヴァルキュリアは即答した。
「この特区は最高機密です。後世の一般研究者が無断調査する状況は想定していません」
「そういう話じゃねぇよ」
バルカスが笑った。
「よいではないか。神殿とは、だいたい後の者が勝手に意味を盛るものじゃ」
「自分で作っておいて言うことかよ」
アルカンフェルは、人工太陽に照らされた神殿を見上げていた。
地球のシラー島。
壊れた遺跡宇宙船が、偶然にも島を守り続けた場所。
そこでは、過去が眠っていた。
火星のアレス・シラー。
地下に沈んだアプトム軽巡洋艦級が、意図して島を守る場所。
ここでは、未来が息をする。
「アプトム」
アルカンフェルが言った。
「何だよ」
「お前の分体は、よく働いている」
アプトムは一瞬、黙った。
それから、少しだけ視線をそらす。
「……そりゃどうも」
「この島は、お前の一部でもある」
「やめろ。重い」
「事実だ」
「だから、そういうところだぞ」
ヴァルキュリアは、そのやり取りを端末には記録しなかった。
報告書にはこう書けば足りる。
> アレス・シラー中枢神殿、完成。
> 地下軽巡洋艦級生体艦、稼働安定。
> サイコ・フィールドによる島嶼保護、正常。
> 人工太陽照明、点灯。
> 特区生態系、保護段階へ移行。
だが、報告書に残らないものもあった。
火星の海に響く人魚の歌。
人工太陽の光を浴びて舞うピクシーの群れ。
神殿の下で、島を抱えるように眠るアプトムの分体。
そして、その光景を見て、わずかに目を細めたアルカンフェル。
アレス・シラーは完成した。
遺跡宇宙船の残骸ではなく、生きた中枢を持つ島として。
過去を守るためではない。
未来に居場所を与えるために。