アルカンフェル転生   作:ぶーく・ぶくぶく

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ボレアリス海成立直後

 

/*/ 火星北部低地 /*/

 

 

 

 火星に海が生まれた。

 

 ボレアリス海。

 

 その名は、まだ仮称だった。

 

 だが、北部低地を黒く満たし始めた水面を見た者たちは、それを湖とは呼べなかった。

 

 濁っている。

 

 熱い。

 

 赤い土と鉄と粘土と熱水鉱物を含み、海面からは蒸気が立ち上っている。

 

 海というより、惑星の傷口に溜まった巨大な熱水盆地だった。

 

 だが、それでも海だった。

 

 問題は、その海がいつまで海でいられるかだった。

 

 メガ・レインが始まり、北部低地へ水が集まり、ボレアリス海が形成されたその直後から、バルカスは別の数字を見ていた。

 

 水量ではない。

 

 海岸線でもない。

 

 大気圧でもない。

 

 温度だった。

 

 クラウド・ゲートではなく、火星軌道上の臨時管制室で、バルカスは投影された火星全球熱収支図を睨んでいた。

 

「このままでは、海は凍る」

 

 その一言で、会議室の熱が少し下がった。

 

 投影図には、太陽光入射量、海面温度、夜間放射冷却、大気中水蒸気量、二酸化炭素温室効果、雲量、アルベドが重なっている。

 

 メガ・レインで水は満ちた。

 

 大気も厚くなった。

 

 だが、火星は太陽から遠い。

 

 地球ほどの光は届かない。

 

 水蒸気と二酸化炭素の温室効果があっても、海は放置すれば急速に熱を失う。

 

 生まれたばかりのボレアリス海は、数年で巨大な氷蓋に覆われる可能性があった。

 

 惑星学者の一人が、声を震わせた。

 

「せっかく海ができたのに……」

 

「海ができたからこそ、熱を入れる」

 

 バルカスは言った。

 

 その目はすでに研究者の目ではなく、工作機械を前にした開発者の目だった。

 

「空を温めるのは効率が悪い。大気は軽い。逃げる。混ざる。冷える。だが水は違う」

 

 バルカスは、ボレアリス海の断面図を拡大した。

 

「水は熱を抱え込む。海を温めれば、火星そのものに巨大な蓄熱器を埋め込むことになる。海が温まれば、蒸発する水蒸気が温室効果を支え、海岸線の気候が安定する。ワフェルダノスの緑も、凍えずに根を張れる」

 

 アプトムの通信投影が、嫌な予感を覚えた顔をした。

 

『おい博士。まさか、そのクソ重い炉を地球から運べって言うんじゃねぇだろうな』

 

 バルカスは、待っていたように笑った。

 

「フォッフォッフォ。何を言うか、アプトム。地球から運ぶなど非効率なことはせん」

 

『じゃあ何だよ』

 

「火星で造る」

 

 投影図が切り替わる。

 

 火星レゴリス処理工場。

 

 ウラヌス船体遺構から回収された耐熱素材。

 

 アプトム便が運び込んだ外縁天体由来の重水素資源。

 

 クロノス土木建築班。

 

 海底設置型巨大核融合炉群。

 

 名称。

 

 

『プロジェクト・プロメテウス』

 

 

 バルカスは、火星の海底に青白い光点を並べていった。

 

「ボレアリス海最深部に十二基。マリネリス内海の主要陥没孔に六基。タルシス周辺の沿岸熱交換帯に補助炉群。これらを総称して、サーモ・ノードと呼ぶ」

 

 アプトムが額を押さえた。

 

『海に核融合炉を沈めるのかよ』

 

「そうじゃ」

 

『海の底に、人工太陽を並べるってことか』

 

「雑に言えばな」

 

 ヴァルキュリアが即座に口を挟んだ。

 

「雑に言わないでください。海底核融合炉群は、惑星環境制御用の熱源です。兵器転用、暴走加熱、海洋生態系への過負荷、熱水化学バランス崩壊を防ぐ監査項目を設定します」

 

 バルカスは、露骨に面倒そうな顔をした。

 

「まだ炉も沈めておらぬのに」

 

「だから今設定します」

 

 アルカンフェルは、投影図を見ていた。

 

 ボレアリス海の底に並ぶ十二の青白い光。

 

 それは海底に沈められる炉であると同時に、火星へ与えられる人工の内臓のようにも見えた。

 

「海底炉を沈めれば、どの程度保つ」

 

 バルカスは即答した。

 

「ボレアリス海の平均水温を通年で十五度から十八度に維持できます。沿岸域はさらに安定し、海流によって熱が運ばれる。北半球の気候は、火星基準では劇的に穏やかになります」

 

 惑星学者が息を呑んだ。

 

「海が、惑星の暖房になる……」

 

「そうじゃ」

 

 バルカスは、さらに投影を重ねる。

 

「ただ温めるだけではない。サーモ・ノード周辺には、ワフェルダノスの臣毛網と耐熱微生物群を絡ませる。炉の排熱を直接海水に捨てるのではなく、生体熱交換組織を通して海流へ乗せる。熱水噴出口のように、海底生態系の核にもなる」

 

 ワフェルダノスの低い声が通信に入った。

 

『熱は、根に要る』

 

 バルカスが頷く。

 

「そうじゃ。海が温まれば、沿岸の臣毛網は冬を越せる。藻類も活動できる。酸素生産量も上がる」

 

 ヴァルキュリアが端末を操作する。

 

「試算を更新。サーモ・ノード十二基が段階稼働した場合、ボレアリス海沿岸の藻類圏活動効率は最大三百%に上昇。海岸森林帯の定着率も大幅に改善。ただし、過剰蒸発による局地豪雨と温暖海流由来の暴風が発生します」

 

「それはプルクシュタールに任せればよい」

 

 バルカスが言う。

 

 プルクシュタールの通信が短く入った。

 

『任されよう。ただし、最初の数年は荒れる』

 

 アルカンフェルが言った。

 

「荒れぬ惑星などない」

 

 その一言で、方針は決まった。

 

 

 

/*/

 

 

 

 最初のサーモ・ノードは、ボレアリス海がまだ濁った泥水の巨大盆地だった時期に沈められた。

 

 アプトム便が、巨大な炉心構造を抱えて火星の空を降下する。

 

 海面は黒く、蒸気を上げていた。

 

 メガ・レインの余韻がまだ空に残り、遠くでは雷が雲の中を横に走っている。

 

『こんなもんを海に沈める日が来るとはな』

 

 アプトムはぼやきながら、艦級分体の輸送肢を伸ばした。

 

 炉心は火星で造られた。

 

 地球から運んだものではない。

 

 火星レゴリスから精錬した構造材。

 

 ウラヌス船体遺構由来の耐熱制御素材。

 

 クロノス核融合炉技術。

 

 ワフェルダノス臣毛網に接続するための生体熱交換外殻。

 

 それらを組み合わせた、巨大な青白い心臓。

 

 海面が割れた。

 

 炉心がゆっくりと沈んでいく。

 

 黒い海水が沸き、白い蒸気が立ち上る。

 

 だが、暴走ではない。

 

 サーモ・ノードの周囲には、すでにワフェルダノスの臣毛が伸びていた。

 

 海底に張り巡らされた生体繊維が、炉心の外殻へ絡みつく。

 

 耐熱微生物がその表面に定着する。

 

 熱交換生体組織が開き、炉から出る熱を直接海水へ叩き込むのではなく、層流として海底へ広げていく。

 

 バルカスの声が、軌道上管制室に響いた。

 

『第一サーモ・ノード、点火』

 

 海底が青白く光った。

 

 最初は小さな光だった。

 

 だが、すぐに海底から立ち上がる熱流が見えた。

 

 濁った水の中に、ゆっくりと上昇する光の柱。

 

 それは火ではない。

 

 熱だった。

 

 人工太陽の排熱が、海底から水を温めている。

 

 ボレアリス海の冷えかけていた底層水が動き始めた。

 

 温まった水が上昇し、冷たい水が沈む。

 

 初めての大規模熱対流が、火星の海に生まれた。

 

 海面に変化が出たのは、数日後だった。

 

 夜。

 

 火星の薄青い空の下、ボレアリス海の一部から湯気が立ち上っていた。

 

 地平線の向こうまで続く黒い海。

 

 その上に、白い蒸気の帯が揺れる。

 

 極寒だったはずの火星の夜に、海だけが温かい。

 

 アプトムが軌道上からそれを見て、しばらく黙った。

 

『……本当に温泉みてぇな海になってやがる』

 

 ヴァルキュリアが答える。

 

『表現としては不正確ですが、観測印象としては近いです』

 

『たまには不正確なまま受け取れよ』

 

『海面温度は局地的に十六度。沿岸気温は夜間でも氷点下を上回っています』

 

『夢のねぇ返しだな』

 

 だが、アプトムの声は少し柔らかかった。

 

 彼も分かっていた。

 

 それは夢だった。

 

 火星の夜の海が凍らず、湯気を立てている。

 

 その海岸に、やがて人間が立てる。

 

 

 

/*/

 

 

 

 サーモ・ノードは、一基では終わらなかった。

 

 二基目。

 

 三基目。

 

 ボレアリス海の深部へ、青白い心臓が次々と沈められていく。

 

 海底に沈んだ炉群は、互いに熱流を重ねた。

 

 温かい海流が生まれる。

 

 冷たい高緯度水を押し戻し、沿岸を巡り、河口を温め、湿地を凍結から守る。

 

 ワフェルダノスの臣毛は、その熱を追うように海岸線を広げていった。

 

 海が温まる。

 

 岸が湿る。

 

 土が凍らない。

 

 菌糸が死なない。

 

 苔が冬を越す。

 

 草が根を残す。

 

 若木が次の季節に芽を出す。

 

 緑の王国は、火星の冷えた大地をただ覆ったのではない。

 

 サーモ・ノードの熱と噛み合いながら、火星の表面へ温もりを縫い込んでいった。

 

 バルカスは満足げに言った。

 

「これで、二十年計画に現実味が出る」

 

 ヴァルキュリアは冷静に訂正する。

 

「二十年計画は、熱源なしでも成立するよう試算されています。ただし、サーモ・ノードにより安定性が大幅に増します」

 

「つまり、儂の案は正しい」

 

「危険管理込みで、です」

 

「そこを強調せずとも」

 

「強調します」

 

 アルカンフェルは、二人のやり取りを聞きながら、ボレアリス海の熱分布を見ていた。

 

 黒い海の底に並ぶ青白い点。

 

 その点から広がる赤い熱流線。

 

 海岸線に沿って伸びる緑。

 

 白い雲。

 

 生まれたばかりの風。

 

 火星は、ただ水を得ただけではない。

 

 熱を得ていた。

 

 人工の熱。

 

 だが、それは火星を壊す熱ではない。

 

 生き延びさせるための熱だった。

 

 

 

/*/

 

 

 

 五年目。

 

 ボレアリス海沿岸では、冬でも海が全面凍結しなくなった。

 

 薄氷が張る場所はある。

 

 だが、海全体が白い死の蓋に覆われることはない。

 

 サーモ・ノード周辺から温かい深層流が湧き上がり、海面の氷を割る。

 

 その割れ目から水蒸気が立ち上り、低い雲となり、沿岸に湿った雪と雨をもたらす。

 

 それは、ワフェルダノスにとって重要だった。

 

『冬が、死ではなくなった』

 

 彼は言った。

 

 臣毛網の先端で、耐寒樹木の芽が守られている。

 

 凍らない海。

 

 湿った風。

 

 温かい海流。

 

 それらが、火星の冬を殺すものから、季節へ変え始めていた。

 

 十年目。

 

 ボレアリス海沿岸の一部では、夜間でも人間が厚手の防護服なしで歩ける日が出始めた。

 

 もちろん、まだ呼吸補助具は必要だった。

 

 酸素濃度は足りない。

 

 だが、寒さは以前ほどではない。

 

 海から吹く風は、冷たいだけではなく、湿り気と温もりを含んでいた。

 

 最初にその海岸を歩いた研究者は、火星に来た頃からの古参だった。

 

 彼女は手袋を外し、短い時間だけ、火星の風を素肌で受けた。

 

「冷たい」

 

 彼女は笑った。

 

「でも、痛くない」

 

 その映像は、火星中に流れた。

 

 そして地球にも流れた。

 

 火星の夜の海岸で、人間が素手を出して笑っている。

 

 それだけで、移民希望者はさらに増えた。

 

 ヴァルキュリアは即座に通達を出した。

 

 

> 現時点では観光地ではない。

> 防寒・呼吸・医療管理なしの沿岸立入は禁止。

> 映像を見て火星へ密航しようとする者は、アプトム便によって回収・送還される。

 

 

 アプトムは通信で叫んだ。

 

『また俺の仕事増やすな!』

 

 

 

/*/

 

 

 

 二十年目。

 

 火星の酸素濃度が二十%へ達した頃、プロジェクト・プロメテウスはすでに火星の気候の一部になっていた。

 

 ボレアリス海底には十二のサーモ・ノード。

 

 マリネリス内海には六の補助ノード。

 

 タルシス沿岸には小型熱交換ノード群。

 

 それらは、火星の人工的な海底火山帯として働いていた。

 

 炉心そのものは厳密に隔離され、制御され、監視されている。

 

 だが、その排熱は海へ渡され、海は大気へ渡し、大気は雲へ渡し、雲は雨へ渡し、雨は森へ渡す。

 

 熱の循環。

 

 水の循環。

 

 酸素の循環。

 

 ワフェルダノスの緑の王国は、その全てを束ねていた。

 

 ボレアリス海沿岸の第一都市予定地には、夜の遊歩道ができた。

 

 まだ小さな道だった。

 

 片側には若い樹木。

 

 片側には黒青い海。

 

 遠くの海面には、サーモ・ノード由来の温水域から立ち上る薄い湯気が見える。

 

 火星の空には、白い雲が流れていた。

 

 人々は、厚い宇宙服ではなく、軽い外套で歩いていた。

 

 子供が一人、海岸の柵に駆け寄る。

 

 母親が慌てて追いかける。

 

「走らない!」

 

「だって、海が湯気出してる!」

 

「それはサーモ・ノードの暖流よ」

 

「火星の海って温かいんだね」

 

 母親は少し笑った。

 

「最初は冷たかったのよ」

 

「ほんとに?」

 

「凍りそうだった」

 

「じゃあ、誰が温めたの?」

 

 母親は、遠くに見える緑の丘と、海の下に沈む見えない青白い炉を見た。

 

「たくさんの人と、森の王様と、海の底の太陽」

 

 子供は首をかしげた。

 

「海の底の太陽?」

 

「そう。火星の海には、小さな太陽が沈んでいるの」

 

 その言葉を、少し離れた場所でアプトムが聞いていた。

 

 人間形態の彼は、サングラスをかけ、外套を羽織り、海岸のベンチに座っていた。

 

「小さな太陽ねぇ」

 

 通信越しにバルカスが笑う。

 

『悪くない表現じゃ』

 

「博士が言うと炉心増やしそうで嫌なんだよ」

 

『増設計画はある』

 

「ほらな」

 

 ヴァルキュリアの声が割り込む。

 

『増設計画は審査中です。現行ノードの長期安定評価が終わるまで承認しません』

 

『厳しいのう』

 

『必要です』

 

 アプトムは海を見た。

 

 火星の海。

 

 かつて泥水だったもの。

 

 凍りかけたもの。

 

 いまは湯気を上げ、風を作り、雲を作り、街を温めているもの。

 

「まあ」

 

 彼は小さく言った。

 

「悪くねぇよ」

 

 クラウド・ゲート最上層で、アルカンフェルはその映像を見ていた。

 

 火星の夜の海岸。

 

 外套で歩く人々。

 

 湯気を立てる海。

 

 若い森。

 

 子供の声。

 

 バルカスが言った。

 

「閣下。海底核融合炉群、プロジェクト・プロメテウスは順調です」

 

「見えている」

 

「火星は冷えずに済みました」

 

「ああ」

 

 アルカンフェルは静かに頷いた。

 

「水だけでは足りなかった。緑だけでも足りなかった。熱が要った」

 

 村上征樹が言う。

 

「惑星を起こすだけではなく、温め続けなければならなかったんですね」

 

「そうだ」

 

 アルカンフェルは答えた。

 

「命は、一度作れば終わりではない。温め、支え、巡らせねばならん」

 

 映像の中で、火星の海に薄い湯気が揺れている。

 

 その向こうには、ワフェルダノスの緑の王国が広がっている。

 

 さらにその奥には、まだ若い都市の灯がある。

 

 火星は、人工の熱と生体の緑と人の手で、ようやく凍える死の星ではなくなった。

 

 ボレアリス海の底で、サーモ・ノードが青白く脈打っている。

 

 海の底の太陽。

 

 それは、火星が生き続けるための新しい心臓だった。

 

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