/*/ クラウド・ゲート最上層 /*/
火星は、もはや低重力の赤い荒野ではなかった。
ホーキング星化によって、火星の中心には黒い心臓が沈んでいる。
カー・ニューマン型ブラックホール核。
それが惑星内部に熱を与え、磁場を発生させ、表面重力を一Gへ引き上げた。
火星は地球と同じ重さで人を立たせる星になった。
磁場は太陽風から大気を守り、サーモ・ノードは海を温め、ワフェルダノスの緑の王国は大地を縫い、酸素濃度は二十%へ達している。
気圧も、重力も、磁場も、温度も、呼吸も。
それらは、もはや地球と大きく変わらない。
ただ一つだけ、どうしても変えられないものがあった。
太陽の遠さだ。
火星に届く太陽光は、地球の約四十三%。
大気を厚くしても、海を温めても、森を広げても、空の明るさそのものは地球より弱い。
火星は住める星になった。
だが、地球生まれの人間の身体は、火星の光をまだ「足りないもの」として扱っていた。
クラウド・ゲート最上層の会議室で、バルカスは火星居住者の健康報告を投影していた。
慢性的な睡眠障害。
気分低下。
火星型季節性感情障害。
朝の覚醒不良。
日中活動量の低下。
強光ライト依存。
肉体そのものは保てている。
一Gの表面重力があるため、かつて懸念された低重力性の骨量低下や筋萎縮は、火星改造後の主要問題ではなくなっていた。
問題は、光だった。
地球人の脳は、地球の太陽を基準にしている。
火星の朝は、地球人の脳には弱い。
明るくなっているはずなのに、身体が朝として受け取りきれない。
アプトムが腕を組み、ホログラムを見上げた。
「……つまり博士。火星はもう、重力も空気も温度もだいたい地球並みになった。けど、人間の目と脳が火星の暗さに文句を言ってるってことか」
バルカスは眼鏡の奥で目を光らせた。
「大雑把に言えばそうじゃ」
「大雑把すぎる気もするが」
「本質は外しておらん。火星はホーキング星となり、一Gの表面重力を得た。磁場もある。大気もある。海も森もある。じゃが、太陽は近づかぬ。火星の光は地球より弱い」
投影図に、人間の網膜、視交叉上核、セロトニン分泌、メラトニン周期が映る。
「地球人の身体は、強い太陽光で朝を知る。網膜から入る光刺激が体内時計を整え、脳内の分泌系を調律する。火星の光では、その刺激が弱い。結果として、朝が朝になりきらぬ。昼でも脳が曇天や冬と誤認する」
「だから、火星仕様にする」
「そうじゃ。火星適応型体質調整じゃ」
バルカスは、火星の風景を二つ表示した。
一つは、未調整の地球人の視覚で見た火星。
薄く、青白く、どこか夕暮れめいた世界。
もう一つは、火星適応型の視覚で見た火星。
同じ光量であるにもかかわらず、空は明るく、ボレアリス海は深い群青をたたえ、ワフェルダノスの森は鮮やかな緑を帯びていた。
「ローライト・ビジョン。火星大気を通る波長に合わせ、網膜の感度と視覚処理を最適化する。火星の光を暗さとしてではなく、十分な昼光として受け取れるようにする」
アプトムが片眉を上げる。
「俺には、そこまで差があるようには思えねぇな」
バルカスは頷いた。
「違うじゃろうな。地球人の体は、地球の光を基準にしておる。火星の光を、足りぬものとして処理してしまう。じゃが火星適応型にとっては違う。火星の光は、最初から十分な光なのじゃ……お主のような戦闘タイプは、もとから低光量でも夜間でも視覚が確保されとるから実感は薄いじゃろうな」
アプトムは納得したように鼻を鳴らした。
「なるほどな。俺が夜でも見えるから、普通の人間が暗いって言ってるのがピンと来ねぇわけか」
「そういうことじゃ。戦闘用調整体や獣化兵は、元から暗所視、夜間行動、感覚強化を備えておる場合が多い。だが一般移民は違う。彼らには、火星の光を故郷の光として受け取るための調整が要る」
バルカスは次の図を出す。
「第二。ホルモン分泌系の調整。少ない光刺激でも、朝を朝として認識し、セロトニンとメラトニンの周期を火星の一ソルに合わせる」
村上征樹が静かに言った。
「火星の一日は、地球とほとんど同じ。でも、光が弱いせいで身体がリセットされない」
「そうじゃ。火星の一ソルそのものは二十四時間三十九分。問題は時間ではない。朝の弱さじゃ」
ヴァルキュリアが端末に記録しながら口を開いた。
「この調整は戦闘用ではありません。低重力対策でもありません。火星の低照度環境に対する医療的適応です。ただし遺伝性を有するため、強制は認められません」
バルカスはやや不満そうに言った。
「そこまで慎重にせずとも、火星に住むなら受けた方が圧倒的に楽なのじゃがな」
「楽だからこそです」
ヴァルキュリアは即座に返した。
「火星で暮らす者にとって有利で、しかも子孫に伝わる。ならば制度として扱いを誤れば、医療ではなく選別になります」
アプトムが視線を動かす。
「遺伝するのか」
バルカスは当然のように頷いた。
「伝わる。どうせ遺伝するからの。拡散して広まるんだが」
「言い方が雑なんだよ」
「事実じゃ。火星で生まれ、火星で育ち、火星で子を成す者たちにとって有利な形質ならば、世代を経るごとに広がる。強制せずともな」
ヴァルキュリアは冷静に続けた。
「だからこそ、最初の導入段階では明確な説明と同意が必要です。火星適応型を受けた者と受けない者の差別を防ぐ制度も同時に設計します」
アルカンフェルは、しばらく火星の投影を見ていた。
ボレアリス海。
海底の人工太陽。
ワフェルダノスの緑。
一Gの重力の下で立つ都市。
そこに住み始めた人間たち。
「星を変えるだけでは、真の建国とは言えぬな」
アルカンフェルが言った。
全員が静まる。
「住まう者が、その星の光を恐れず、愛せるようになって初めて、そこは故郷となる」
バルカスが深く頭を垂れた。
「では」
「進めろ」
アルカンフェルは言った。
「ただし、ヴァルキュリアの言う通りだ。望まぬ者に施すな。火星で生きると決めた者が、火星の光に馴染むための道を用意せよ」
ヴァルキュリアが記録する。
「火星適応型体質調整計画、承認。強制は禁止。希望者へのオプトイン医療として開始。遺伝性を有するため、本人および家族への説明を必須とします」
アプトムが小さく笑った。
「火星人の始まりか」
村上が答える。
「かもしれないね」
アルカンフェルは、火星の映像を見続けていた。
「地球人を捨てるのではない」
その声は静かだった。
「地球生命が、別の星に根を張るのだ」
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第一都市《マーレ・ノヴァ》の医療調整棟で、説明会が開かれた。
窓の外には、ボレアリス海が見える。
海面には薄い湯気が立ち、若い森が風に揺れている。
人々は地球と同じ重さで椅子に座っていた。
かつての火星のような、低重力に身体が浮く感覚はない。
ホーキング星化した火星は、人間を一Gで地面へ引いている。
だからこそ、説明の中心は重力ではなかった。
光だった。
クロノス医療官が、静かに説明した。
「この調整は、戦闘用調整ではありません。獣化能力も、兵器器官も与えません。火星の低照度環境と、火星の一ソルに身体を合わせるためのものです」
画面に、三つの項目が表示される。
視覚適応。
概日リズム適応。
光刺激依存の内分泌調整。
「受けない選択も可能です。その場合は、従来通り補助ライト、睡眠管理、精神医療支援が提供されます」
参加者の一人が手を上げた。
「子供に遺伝しますか」
医療官は、隠さず答えた。
「遺伝しますが、地球に住めなくなるわけではありません」
ざわめきが起きた。
医療官は続ける。
「火星の低照度環境で、朝を朝として感じやすくなり、火星の光量で精神と体内時計を安定させやすくなる形質です。地球環境で生存できなくなるものではありません。ただし、光の感じ方や明るさの体感には差が出る可能性があります」
「それは、もう別の人類では?」
別の参加者が問う。
医療官は少し沈黙した。
「医学的には、火星長期居住適応者です」
会場の後方で、誰かが小さく言った。
「火星人、か」
誰も笑わなかった。
冗談のようでいて、重い言葉だった。
地球人ではなくなるのか。
それとも、地球人のまま火星へ広がるのか。
その境界は、まだ誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは、火星で生きるには、火星の光を十分なものとして受け取れる身体の方が楽だということだった。
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説明会の後、一人の海洋研究者が同意書に署名した。
彼女は地球生まれだった。
ボレアリス海に最初の魚を放した日から火星にいた。
火星の海を愛していた。
火星の森を愛していた。
地球と同じ重力の下で歩き、火星の空気を吸い、火星の食物を食べて暮らしている。
それでも毎朝、補助ライトがなければ目が重かった。
冬季には気分が落ち、眠りが浅くなる。
心は火星を選んでいるのに、身体は火星の光を足りないものとして扱う。
それが、彼女には悔しかった。
「私は火星に残ります」
彼女は医療官に言った。
「だから、火星の朝をちゃんと朝として感じたい」
調整は静かに始まった。
獣化兵のように肉体が膨れ上がるわけではない。
羽が生えるわけでも、爪が伸びるわけでもない。
目の奥で光を受け取る色素が増え、網膜から脳へ送られる朝の信号が強くなり、ホルモン周期が火星の一ソルへ馴染んでいく。
数週間後。
彼女は、補助ライトを使わずに目を覚ました。
窓の外には、火星の朝があった。
薄い青空。
小さな太陽。
ボレアリス海の上に漂う白い湯気。
海岸の若い森。
いつもなら、どこか物足りなく見えた光。
終わらない曇天のように感じていた朝。
だが、その日は違った。
世界が明るかった。
眩しいのではない。
痛くもない。
ただ、火星の光が、火星の光として満ちていた。
海の群青が深い。
森の緑が鮮やかだ。
空は薄く青く、雲は白く、遠くの浜辺を歩く人影まで柔らかく見える。
「……こんな色だったの」
彼女は呟いた。
涙が出た。
悲しいからではない。
初めて、火星の朝を朝として感じたからだった。
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アプトムは、その映像記録を見せられて、しばらく黙っていた。
「泣くほど違うのか」
バルカスが頷く。
「違うじゃろうな」
アプトムは、少しだけ気まずそうに鼻を鳴らした。
「俺には火星の朝も夜も普通に見えてるな」
「それが普通ではないのじゃ」
村上が言った。
「世界の側だけじゃなくて、受け取る側も変わる」
「そうじゃ」
ヴァルキュリアは記録を確認していた。
「第一期希望者の睡眠障害、気分低下は改善傾向。副作用は限定的。ただし遺伝性を有するため、家族計画に関する説明を継続します」
アプトムが苦笑する。
「火星に馴染むほど、火星人になるってわけか」
「通称としては、そう呼ばれるでしょう」
「公式名は?」
「火星適応型人類、または火星長期居住適応者です」
「長い。火星人でいいだろ」
「通称の制御は困難です」
「じゃあ諦めろ」
村上が少し笑った。
「でも、悪い言葉じゃないですね」
アルカンフェルは頷いた。
「悪くない」
火星の映像には、ボレアリス海沿岸の朝が映っている。
火星の光を美しいと感じ、火星の一ソルで眠り、火星の森の匂いを故郷として覚える者たち。
地球人をやめるのではない。
地球生命が、別の星に合わせて枝を伸ばすのだ。
アルカンフェルは静かに言った。
「これで火星は、ただ住める星ではなくなった」
会議室の誰もが、その続きを待った。
「愛せる星になった」