/*/ 火星第一都市《マーレ・ノヴァ》 /*/
火星は、地球の劣化版ではなかった。
少なくとも、火星で生まれた子供たちはそう思っていない。
彼らにとって火星は、暗く寒い辺境の星ではない。
一Gの重力があり、空気があり、海があり、森があり、天気が穏やかで、害虫がいない。
空は地球より少し淡い。
太陽は小さい。
だが、火星適応型の目には、その光は十分に明るい。
ボレアリス海は凍らず、夜には海底のサーモ・ノードが温める暖流から白い湯気が立つ。
ワフェルダノスの森は都市を囲み、花粉量も昆虫密度も管理され、人を刺す蚊も、家に潜む害虫も、原因不明の熱病を運ぶ野生生物もいない。
火星は、作られた星だった。
だからこそ、過ごしやすい。
地球の自然が偶然と暴力と進化の積み重ねであるなら、火星の自然は、クロノスと神将たちが人間の居住を前提に組み上げた、巨大な惑星規模の設計物だった。
それを最もよく示すのが、空だった。
マーレ・ノヴァの学校では、火星の空についての授業が行われていた。
窓の外には、薄青い空と、遠くに光るボレアリス海が見える。校庭では、ワフェルダノス由来の芝が柔らかく揺れ、鳥型調整体の群れがゆっくりと上空を横切っていた。
教師は、教室前面に地球と火星の磁場モデルを投影した。
「昔の火星には、ほとんど惑星磁場がありませんでした」
子供たちが画面を見る。
昔の火星の図では、太陽風が直接大気へ吹きつけ、大気が少しずつ剥ぎ取られている。
「太陽風や宇宙線が、ほとんどそのまま降り注いでいました。だから昔の火星は、ドームなしで暮らせる星ではありませんでした」
一人の子供が手を上げた。
「でも、今は違うんだよね」
「そうです」
教師は次の図を出した。
ホーキング星化した火星。
中心に沈む黒い心臓。
その周囲を巡る内部熱流。
そして、惑星全体を包む強力な磁場。
「火星の中心には、カー・ニューマン型の黒い心臓があります。これが内部熱を生み、磁場を生み、火星を守っています。いまの火星の磁場は、地球よりも安定していて強力です」
子供たちは、特に驚かなかった。
彼らにとって、空とは守られているものだった。
宇宙線が降り注がず、太陽風で大気が剥がれず、ドームなしで海岸を歩ける。
それが当たり前だった。
「だから、火星では放射線環境が非常に安定しています。空の下で遊べるのは、磁場があるからです」
別の子が言った。
「地球にも磁場あるんでしょ?」
「あります」
「でも、地球って台風があるんだよね」
教室が少しざわついた。
話題はすぐ地球へ移る。
火星生まれの子供たちにとって、地球は不思議な星だった。
母なる星。
生命の故郷。
だが同時に、理解しがたいほど荒っぽい星でもある。
「地球では、台風やハリケーンという巨大な嵐があります」
教師が言うと、子供たちは信じられないという顔をした。
「家が壊れるんでしょ?」
「地域によっては、そういう被害が出ます」
「なんで止めないの?」
教師は少し困った。
「地球の気候は、火星のようには管理されていません」
「管理されてないの?」
「完全には」
子供の一人が、本気で首をかしげた。
「危なくない?」
教師は苦笑した。
「危ないこともあります。でも、それが地球の自然です」
子供たちは顔を見合わせた。
火星にも自然はある。
ノアキス生態回廊では、草食獣が食われ、魚が魚を追い、森では倒木が腐り、菌が分解し、鳥が種を運ぶ。
だが、壊滅的な台風は来ない。
火星の気候はプルクシュタールの気象制御網とサーモ・ノードの熱収支管理下にある。
雨が足りなければ海面蒸発量を上げる。
乾燥が進めば森林帯へ湿った風を回す。
寒波が来る前に暖流を強める。
天気予報は外れない。
少なくとも、火星人が生活上困るほどは外れない。
子供たちにとって、天気とは読むものではなく、整えられるものだった。
「地球って、過ごしにくそう」
誰かが呟いた。
教師は否定しなかった。
彼女自身、地球生まれだった。
火星適応型調整を受けて、今では火星の光を自然に朝として感じる。
だが、地球で育った記憶はある。
蒸し暑い夏。
花粉で目が痒くなる春。
低気圧で頭が重くなる雨の日。
虫に刺された夜。
突然の豪雨。
火星には、それがない。
火星の一Gは地球と同じだ。
だが、調整された身体は血流と代謝をよく保ち、朝の弱い光でも脳が沈まない。
火星人たちは、地球人が地球で感じる慢性的な重だるさや天気痛を、ほとんど知らない。
重力は同じなのに、身体が軽い。
それが、火星適応型の子供たちの普通だった。
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その日の夕方、教師は校庭で子供たちを見守っていた。
火星の夕暮れは長く、美しい。
地球より小さな太陽が、ボレアリス海の向こうへ沈んでいく。
空は薄紫から深い青へ変わり、海面にはサーモ・ノード由来の暖流から立ち上る白い湯気が漂っている。
子供たちは、一Gの重力の下で走っていた。
だが、その走り方はどこか軽い。
低重力だからではない。
重力は地球と同じ一Gだ。
だが、彼らの身体は火星の光、火星の一ソル、火星の気候に合わせて調整されている。
朝に沈まず、夜に乱れず、骨も筋肉も一Gを当然のものとして受け止める。
火星で生まれた彼らにとって、火星は少しも過酷ではなかった。
そこへ、一人の少年が駆け寄ってきた。
「先生、地球にはゴキブリって虫がいるって本当?」
教師は一瞬、返答に詰まった。
「……います」
「家の中に?」
「場合によっては」
「なんで?」
「地球の生態系は、火星みたいに設計されたものではないから」
「ワフェルダノス様、いないの?」
「いません」
少年は本気で青ざめた。
「地球、怖い」
教師は笑ってしまった。
だが、少年の反応は火星生まれとしては自然だった。
火星の生態系は、害虫を最初から入れていない。
人間を刺す蚊もいない。
スギ花粉のような大規模アレルゲン樹種も導入されていない。
病原体を媒介する野生昆虫も、繁殖制御できない寄生虫も、クロノス生態統制局が徹底して排除した。
野生はある。
食物連鎖もある。
捕食も死もある。
だが、人間の生活圏を壊すものは入れていない。
それは自然ではない、という批判も地球にはある。
だが火星の人間からすれば、地球の自然の方が無責任だった。
なぜ、人間の家に害虫が侵入する環境を放置するのか。
なぜ、春ごとに人間を苦しめる花粉を撒く木を管理しないのか。
なぜ、病気を媒介する虫を野放しにするのか。
なぜ、家が飛ぶほどの嵐を防がないのか。
火星人にとって、それらは「自然」ではなく「管理不全」に見え始めていた。
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クラウド・ゲート最上層では、火星世代に関する報告が提出されていた。
ヴァルキュリアは、淡々と読み上げる。
「火星生まれ第一世代に、地球環境への心理的忌避傾向が出始めています」
アプトムが笑った。
「地球が怖いってか」
「はい」
「まあ、分からんでもないな。火星は虫も花粉も台風もねぇ。天気予報は当たる。海は温かい。そりゃ地球は野蛮に見えるだろ」
バルカスは満足げだった。
「つまり、火星は快適ということじゃな」
「博士」
ヴァルキュリアは冷たく見る。
「これは誇ってよい成果であると同時に、地球との心理的断絶の兆候でもあります」
「断絶ではない。個性じゃ」
「個性で済む段階ならよいのですが」
村上征樹が報告書を見る。
「アレス・プライド、ですか」
そこには、火星生まれ世代の間で使われ始めた言葉が記録されていた。
アレス・プライド。
火星は地球より劣る辺境ではない。
むしろ、地球の不便さや不快さや危険を取り除いた、人間に適した星である。
そういう意識。
それはまだ、幼い誇りだった。
だが、確かに芽生えていた。
アルカンフェルは、投影された火星を見ていた。
青黒い海。
緑の南部大陸。
白い雲。
都市の灯。
海底の人工太陽。
中心核の黒い心臓。
強力な磁場が、そのすべてを包んでいる。
「当然だろう」
アルカンフェルが言った。
ヴァルキュリアが目を向ける。
「当然、ですか」
「自分の星を誇らぬ者が、どうしてそこを守る」
アルカンフェルは静かに続けた。
「火星は地球の代用品ではない。地球生命が新しく得た星だ。そこに生まれた者が、地球を見て違和感を覚えるのは当然だ」
アプトムが口元を歪める。
「まあ、地球人だって火星を人工的すぎるって言うだろうしな」
「言うでしょう」
ヴァルキュリアは答えた。
「管理された気候、設計された生態系、害虫のいない森、調整された人間。地球側から見れば、火星は自然ではなく巨大なクロノス製人工環境です」
バルカスが胸を張る。
「最高の褒め言葉じゃな」
「批判として言われます」
「なおさら褒め言葉じゃ」
アプトムが笑った。
「博士はブレねぇな」
村上が少し真面目な顔で言う。
「でも、火星の子供たちにとっては、ここが自然なんですね」
アルカンフェルは頷いた。
「自然とは、最初に与えられた環境の名でもある」
地球生まれには、台風も虫も花粉も地球の自然だ。
火星生まれには、管理された海風も、害虫のいない森も、百%に近い天気予報も、サーモ・ノードの暖流も、火星の自然になる。
どちらが本物かではない。
どちらで生まれ、どちらを愛するかだった。
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その夜。
マーレ・ノヴァの海岸遊歩道には、人々が歩いていた。
外套一枚で十分な気温だった。
海からは暖かな風が吹き、夜の海面には白い湯気が淡く光っている。
空には星が見えた。
その星々の光を、火星の強い磁場が守る大気が柔らかく受け止めている。
遊歩道の片側には、ワフェルダノスの森がある。
花は咲くが、強いアレルゲンは出さない。
虫は飛ぶが、人を刺さない。
鳥は鳴き、魚は跳ね、森の奥では野生が回っている。
だが、人間の暮らしを脅かすようには設計されていない。
少年と少女が、ベンチに座って地球の映像を見ていた。
教材用の映像である。
地球の夏。
巨大な積乱雲。
台風の衛星画像。
花粉情報。
蚊の媒介する感染症の解説。
少女が顔をしかめる。
「地球、すごいね」
「うん」
「なんで地球人って火星のこと、人工的すぎるって言うんだろ」
少年は少し考えた。
「地球が自然すぎるからじゃない?」
「自然すぎるって、危なくない?」
「危ないと思う」
二人は顔を見合わせて、少し笑った。
その横を、地球生まれの老人がゆっくり歩いていた。
彼はその会話を聞き、足を止めた。
「地球も悪い星じゃないよ」
子供たちは慌てて振り返る。
老人は笑った。
「たしかに、虫もいるし、台風も来るし、花粉もひどい。天気予報も外れる。だが、あれはあれで美しい」
少女が首をかしげる。
「怖くない?」
「怖い」
老人は正直に答えた。
「だが、美しい」
「火星の方が住みやすいよ」
「ああ」
老人は、ボレアリス海を見た。
湯気を上げる夜の海。
人工の熱に守られた海。
ワフェルダノスの森。
薄い青の星空。
「火星は、本当に住みやすい」
その言葉に、子供たちは少し誇らしげな顔をした。
老人は続けた。
「だから、君たちは火星を大事にしなさい。住みやすい星は、勝手にできたものじゃない。誰かが作り、誰かが守り、誰かが管理している」
少年が言った。
「アルカンフェル総帥と、神将たちと、ワフェルダノス様?」
「それから、たくさんの技術者と研究者と作業員もだ」
「アプトム便も?」
老人は笑った。
「もちろん。あれがないと、何も届かない」
子供たちは納得したように頷いた。
海の向こうで、サーモ・ノードの暖流が作る霧がゆっくり流れている。
火星の夜は穏やかだった。
あまりに穏やかで、地球生まれの老人には少し不思議なくらいだった。
火星は、管理された星だ。
だが、だからこそ人は安心して眠れる。
だからこそ子供は夜の海岸を歩ける。
だからこそ火星人は、自分たちの星を誇る。
アレス・プライド。
それは、地球への敵意ではなかった。
少なくとも、まだそうではない。
それは、ようやく生まれた新しい故郷を、胸を張って美しいと言いたい心だった。
老人は、火星の空気を吸った。
地球より淡い光。
地球より穏やかな風。
地球より管理された自然。
そして、地球生命が初めて別の星に作った、住みやすい世界。
「いい星になったな」
彼が呟くと、少女がすぐに答えた。
「うん。火星はいい星だよ」
その声には、疑いがなかった。
火星人の声だった。