アルカンフェル転生   作:ぶーく・ぶくぶく

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生態系導入計画・第三段階

 

/*/ 火星南部大陸 ヘラス内海沿岸・ノアキス生態回廊 /*/

 

 

 

 アレス・シラーは、例外だった。

 

 ボレアリス海の絶海に浮かぶ、常夏の孤島。

 

 サーモ・ノードの熱に守られ、雲の天蓋に覆われ、人魚やピクシー、古代調製生物たちが暮らす、クロノス最高機密の聖域。

 

 あの島は、野生生態系を広げるための起点ではない。

 

 隔離するための島だった。

 

 人間社会に混ざれないもの。

 

 地球に放てないもの。

 

 降臨者の遺構から拾い上げられた、美しく危うい調製生物たち。

 

 そうした存在を守るための場所であり、火星全土の生態系へ無制限に接続する場所ではない。

 

 だから、魚の大規模放流も、森の動物たちの導入も、アレス・シラーでは行われなかった。

 

 選ばれたのは、南部大陸だった。

 

 旧火星南半球高地。

 

 メガ・レイン後も海に沈まず、赤い大地を残した巨大な大陸。

 

 その東部、ヘラス盆地に水が満ちて生まれたヘラス内海と、ノアキス高原へ伸びる緑化回廊。

 

 ワフェルダノスの臣毛網が濃く走り、河川、湿地、森林、草原、内海沿岸が連続する、火星で最初に「野生」を試すための大規模生態区画である。

 

 その名を、ノアキス生態回廊と呼んだ。

 

 ヘラス内海の岸辺には、調整された森が広がっている。

 

 まだ若い。

 

 だが、ただの植栽地ではない。

 

 低い森林、湿地、草原、河口、湖沼、岩場、浅瀬。

 

 食物連鎖を組むために必要な地形が、意図的に残され、また作られていた。

 

 そこへ、アプトム便が降りてきた。

 

 生体輸送体の腹部が開き、厳密に管理された海洋コンテナが、ヘラス内海の浅瀬へ運び込まれる。

 

 コンテナの中には、魚の群れがいた。

 

 地球の魚そのものではない。

 

 火星の低重力、弱い日射、ヘラス内海の水温、鉱物濃度、クロノス調製プランクトンに合わせて調整された魚たち。

 

 小型回遊魚。

 

 藻食性魚類。

 

 底生甲殻類を食べる中型魚。

 

 そして、さらに後の段階で放たれる予定の大型捕食魚。

 

 最初に放たれるのは、食物連鎖の中ほどより下に位置する者たちだった。

 

 バルカスは、岸辺の仮設観測台で満足げに頷いていた。

 

「よいか。大きな魚をいきなり放っても意味はない。まずは小魚じゃ。小魚を支えるプランクトン、小魚に食われる小さな甲殻類、小魚を少しだけ捕る中型魚。海の秩序は、地味なものから組む」

 

 アプトムが、サングラス越しにコンテナを見下ろす。

 

「また地味だな」

 

「生態系とは、地味なものじゃ」

 

「人魚だのピクシーだの見た後だと、ミジンコと小魚は絵面が弱いぜ」

 

 ヴァルキュリアが即座に言った。

 

「絵面で生態系を作らないでください」

 

「はいはい」

 

「アレス・シラーと違い、ここは火星一般生態系の試験導入区画です。失敗すれば、ヘラス内海全域へ影響します」

 

 その言葉に、アプトムは少しだけ真面目な顔になった。

 

「分かってるよ。だから丁寧に運んだ」

 

「それは評価します」

 

「素直に褒められると気持ち悪いな」

 

「では記録だけにします」

 

「褒めろよ」

 

 そのやり取りを横目に、最初のコンテナが開いた。

 

 ヘラス内海の水へ、銀色の群れが流れ出す。

 

 小魚たちは最初、光に驚いたようにばらばらに散った。

 

 だがすぐに群れを組む。

 

 きらめく帯となって浅瀬を抜け、緑がかった水の奥へ消えていく。

 

 海洋研究者が息を呑んだ。

 

「第一次小型回遊魚群、放流確認」

 

「追跡タグ正常」

 

「摂餌行動、まだなし」

 

「群れ形成、安定」

 

 別のコンテナからは、底生甲殻類が放たれた。

 

 小さな甲羅を持つ生き物たちが、ヘラス内海の浅い砂泥底へ沈んでいく。

 

 彼らは泥を濾し、有機物を食べ、過剰に増えた藻類を処理し、海底をかき混ぜる。

 

 その動きは地味だった。

 

 だが、その地味さこそが重要だった。

 

 さらに小型貝類、藻類を食む魚、泥底を掃除する生物群が続く。

 

 ヘラス内海は、少しずつ「水のある場所」から「食われ、食い、分解される場所」へ変わり始めた。

 

 アルカンフェルは、岸辺でその様子を見ていた。

 

 遠く、ヘラス内海の水面には、薄い風波が立っている。

 

 背後にはノアキス高原へ続く森。

 

 ボレアリス海の熱帯孤島とは違う。

 

 ここは広い。

 

 人間都市とも繋がり、河川とも繋がり、草原とも繋がる。

 

 野生を試すには、ここでなければならない。

 

「ここから広げるのだな」

 

 村上征樹が言った。

 

「そうだ」

 

 アルカンフェルは答えた。

 

「アレス・シラーは守る島だ。ここは、広がる大地だ」

 

 

 

/*/

 

 

 

 魚の放流が始まると、森にも動物たちが入れられた。

 

 こちらも、いきなり大型獣を放つわけではない。

 

 最初は昆虫型調整体。

 

 花粉を運ぶ者。

 

 腐葉土を分解する者。

 

 菌類を食む者。

 

 土を耕す者。

 

 次に、小型草食獣。

 

 柔らかい草を食べ、低木の芽を選び、糞で種子を運ぶ。

 

 その後に、小型肉食獣。

 

 草食獣を少しだけ減らし、増えすぎを抑え、森に緊張を与える。

 

 さらに鳥類に近い飛翔調整体が、火星の軽い重力と厚くなった大気を利用して森の上を飛び始めた。

 

 それらはすべて、クロノスの管理下にある。

 

 追跡タグ。

 

 繁殖制御。

 

 病原体検査。

 

 遺伝子拡散防止。

 

 ワフェルダノス臣毛網との接続評価。

 

 ヴァルキュリアの監察項目は山のようにあった。

 

 だが、動物たちは書類のために生きているわけではない。

 

 森に入れば、彼らはすぐに自分の都合で動き始めた。

 

 小型草食獣が湿地の若草を食べる。

 

 昆虫型調整体が花から花へ移る。

 

 鳥型の群れが、火星の薄青い空を横切る。

 

 地中性の小獣が、臣毛網の間を掘り返し、土を柔らかくする。

 

 数週間が過ぎると、森の中に痕跡が増えた。

 

 足跡。

 

 食べ跡。

 

 巣穴。

 

 羽。

 

 糞。

 

 爪痕。

 

 死骸。

 

 ある日、観測班が最初の捕食を記録した。

 

 小型肉食獣が、草食獣の幼体を仕留めたのだ。

 

 研究者の一人が反射的に声を上げた。

 

「介入を――」

 

「しません」

 

 ヴァルキュリアが遮った。

 

 その声は冷たくはなかったが、揺るがなかった。

 

「導入個体群の範囲内での捕食です。異常行動ではありません」

 

「ですが」

 

 言いかけた研究者に、バルカスが言った。

 

「それを止めれば、ここは永遠に展示場のままじゃ」

 

 森の奥で、捕食者は獲物を引きずり、茂みの中へ消えていく。

 

 その後には血が残った。

 

 やがて、昆虫が来る。

 

 微生物が分解する。

 

 土へ戻る。

 

 草が吸う。

 

 草食獣が食う。

 

 また、誰かがそれを追う。

 

 ワフェルダノスの声が、低く響いた。

 

『よい』

 

 アルカンフェルが森を見る。

 

「よいのか」

 

『森が、森になった』

 

 ワフェルダノスは言った。

 

『植えられた緑ではなく、食い、食われ、腐り、芽吹く場所になった』

 

 村上は、その言葉を静かに聞いていた。

 

「少し残酷ですね」

 

「野生とはそういうものだ」

 

 アルカンフェルが答える。

 

「だが、残酷さを完全に除いた世界は、脆い」

 

 シンが頷いた。

 

「管理だけで回る系は、管理者が倒れた時に崩れる」

 

「だから、自分で回るようにする」

 

 アルカンフェルは言った。

 

 その視線の先で、鳥型調整体の群れが森の上を横切った。

 

 

 

/*/

 

 

 

 数年後。

 

 ヘラス内海には、魚群が増えていた。

 

 浅瀬には小魚の銀の帯が走る。

 

 水草に似た調整藻類の間を、甲殻類が這う。

 

 中型魚が群れを追い、さらにその影を大型捕食魚がゆっくりと横切る。

 

 まだ地球の海ほど複雑ではない。

 

 だが、もう単なる放流区画ではなかった。

 

 漁業は禁止されていた。

 

 観光も制限されていた。

 

 それでも、研究者たちは観測塔から、火星の海が自分で動き始めたことを理解していた。

 

 ノアキス生態回廊の森でも、同じことが起きていた。

 

 草食獣の群れが季節移動を始める。

 

 それを追う肉食獣がいる。

 

 鳥型調整体は種子を運び、ピクシーとは別系統の受粉昆虫が花を巡る。

 

 倒木には菌が生え、そこへ昆虫が集まり、小獣が掘り返し、土が厚くなっていく。

 

 すべては管理されている。

 

 だが、すべてが命令されているわけではない。

 

 むしろ、管理は少しずつ「手を出しすぎないための管理」へ変わっていた。

 

 ヴァルキュリアは観測ログを見ながら言った。

 

「ノアキス生態回廊、第三段階安定。捕食・繁殖・分解・種子散布、すべて自律循環へ移行しつつあります」

 

 バルカスが満足げに頷く。

 

「よい。火星の森が、ようやく箱庭を卒業し始めた」

 

 アプトムが、ヘラス内海の上空から通信を入れる。

 

『こっちの魚も増えてるぜ。誰かが全部数えるのか?』

 

「数えます」

 

 ヴァルキュリアが即答した。

 

『本気かよ』

 

「生態系管理です」

 

『火星の魚まで書類にする気か』

 

「必要な範囲で」

 

 アプトムは呆れたように笑った。

 

『必要な範囲が広すぎるんだよ』

 

 アルカンフェルは、南部大陸の投影を見ていた。

 

 ヘラス内海。

 

 ノアキス高原。

 

 緑の回廊。

 

 青黒い水。

 

 魚群。

 

 森の動物たち。

 

 そして、遠いボレアリス海の絶海には、隔離されたアレス・シラーがある。

 

 守る島。

 

 広がる大地。

 

 その二つは、火星における生命の別々の答えだった。

 

「よい」

 

 アルカンフェルは静かに言った。

 

「火星は、人間の星になっただけではない」

 

 ワフェルダノスの臣毛が、大地の下で揺れる。

 

『海も、森も、自分の足で立ち始めた』

 

「ああ」

 

 南部大陸の風が、森を揺らす。

 

 ヘラス内海の水面で、小魚が跳ねる。

 

 遠くで鳥が鳴き、茂みの奥で何かが走る。

 

 どこかで命が生まれ、どこかで命が食われ、どこかで死骸が土へ還る。

 

 クロノスが作った。

 

 ワフェルダノスが縫った。

 

 アプトムが運んだ。

 

 研究者たちが記録した。

 

 だが、いまそこで回り始めたものは、もう彼らだけの所有物ではなかった。

 

 管理されているようで、野生がある。

 

 火星の南部大陸に、初めて本物の食物連鎖が根を下ろした。

 

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